(第35回)


説教日:2005年10月16日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 マタイの福音書6章9節〜13節に記されています「主の祈り」に先だって、5節〜8節には、祈りに関する主の教えが記されています。この教えは、5節、6節と、7節、8節に分けることができます。
 これまで、5節、6節に記されている、

また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

という教えについてお話ししました。今日は、これに続く7節、8節に記されている、

また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。

という教えについてお話しします。


 7節前半には、

また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。

と記されています。.
 ここで「同じことばを、ただくり返してはいけません」と訳されているときの「同じことばを、ただくり返す」は、一つの言葉(バッタロゲオー)で表されています。この言葉は新約聖書の中ではここで用いられているだけです。また、新約聖書以外の今日まで知られているギリシャ語の文書においても、2箇所に出てくるだけであると言われています。しかも、そのうちの一つは確証されていないようです。
 この言葉は、基本的に、意味のない言葉を繰り返すことを表しています。バウアーのレキシコンでは、これとともに「考えないで話す」という意味を示しています。新改訳の訳は、「同じことばを、ただくり返す」こととしています。確かに、たとえば、おまじないや空念仏のように、ある一定の言葉を繰り返すことは、意味のない言葉の繰り返しになります。けれども、ここでイエス・キリストが問題としておられることをそのように限定してしまうことはできないのではないかと思われます。言葉は次々と変わっても、空しいことを言い続けるということはありえます。
 ここでは、無意味な言葉を繰り返すことは、異邦人がしていることであると言われています。しかし、そのことが取り上げられて、8節で、

だから、彼らのまねをしてはいけません。

と言われているのは、主の民にも同じ誤りに陥る危険があるからのことです。主の民は、決まり文句を繰り返すことはないから大丈夫であるということにはなりません。決まり文句を繰り返さないけれども、空しい言葉を繰り返すことはありえるわけです。
 マルコの福音書12章38節〜40節には、

イエスはその教えの中でこう言われた。「律法学者たちには気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ったり、広場であいさつされたりすることが大好きで、また会堂の上席や、宴会の上座が大好きです。また、やもめの家を食いつぶし、見えを飾るために長い祈りをします。こういう人たちは人一倍きびしい罰を受けるのです。」

と記されています。
 ここでは「律法学者たち」が「見えを飾るために長い祈りをします」と言われています。これは異邦人のことではありません。「律法学者たち」は、決まり文句を繰り返して祈ってはいませんでした。けれども、その祈りにおいて、何を祈っていたとしても、その言葉が巧みなものであっても、その根底にある動機が「見えを飾るため」であるとしたら、それは空しい言葉の羅列になってしまいます。このように、空しい言葉を繰り返すことは、同じ決まり文句をただ繰り返すことによって生れてくるだけではありません。
 すでにお話ししましたように、イエス・キリストは、これに先立って、5節、6節に記されていますように、私たちが祈るときには、父なる神さまと向き合い、父なる神さまだけに心を向けて、父なる神さまと語り合うようにと戒めておられます。そして、そのことを妨げることとして、自分が祈っていることを人に見られることを目的として祈ってしまうことを挙げておられます。
 これに続いて語られた、

また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。

という教えは、これとまったく別のことを語っておられるのではありません。というのは、もし私たちが父なる神さまと向き合い、父なる神さまだけに心を向けて、父なる神さまと語り合うときには、決して、空しい言葉を繰り返すようなことはないからです。逆に言いますと、

また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。

という戒めの根底には、その前に語られている、祈るときには父なる神さまと向き合い、父なる神さまだけに心を向けて、父なる神さまと語り合うようにという戒めがあるのです。
 7節後半では、

彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。

と言われています。異邦人が祈るときに意味のない言葉を繰り返してしまう理由は、彼らが「ことば数が多ければ聞かれる」と考えているからだというのです。
 これは、祈りの言葉を多くして、こちらの真剣さを神に知ってもらいたいということです。それは、祈りが答えられるのは、祈る者の姿勢によっているという考え方です。
 このこととの関連で思い出されるのは預言者エリヤが対決したバアルの預言者たちのことです。これは今お話ししていることに光を当てることですので、これを見てみたいと思います。
 預言者エリヤとバアルの預言者たちの対決のことは、列王記第一・18章に記されています。ご存知のように、イスラエルはソロモン王の死後に、北王国イスラエルと南王国ユダに分裂しました。北王国イスラエルの王アハブはシドン人の王の娘イゼベルを妻として、彼女が仕えていたバアルを礼拝し、首都サマリヤにバアルの神殿を建設しました。その一方で、イゼベルは主の預言者たちを殺害します。その後、エリヤはアハブに、カルメル山にバアルの預言者450人とアシェラの預言者400人を集めるように言います。それでアハブはカルメル山にその預言者たちを集めます。
 少し長くなりますが、列王記第一・18章20節〜39節を見てみましょう。そこには次のように記されています。

 そこで、アハブはイスラエルのすべての人に使いをやり、預言者たちをカルメル山に集めた。エリヤはみなの前に進み出て言った。「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか。もし、主が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、それに従え。」しかし、民は一言も彼に答えなかった。そこで、エリヤは民に向かって言った。「私ひとりが主の預言者として残っている。しかし、バアルの預言者は四百五十人だ。彼らは、私たちのために、二頭の雄牛を用意せよ。彼らは自分たちで一頭の雄牛を選び、それを切り裂き、たきぎの上に載せよ。彼らは火をつけてはならない。私は、もう一頭の雄牛を同じようにして、たきぎの上に載せ、火をつけないでおく。あなたがたは自分たちの神の名を呼べ。私は主の名を呼ぼう。そのとき、火をもって答える神、その方が神である。」民はみな答えて、「それがよい。」と言った。
 エリヤはバアルの預言者たちに言った。「あなたがたで一頭の雄牛を選び、あなたがたのほうからまず始めよ。人数が多いのだから。あなたがたの神の名を呼べ。ただし、火をつけてはならない。」そこで、彼らは与えられた雄牛を取ってそれを整え、朝から真昼までバアルの名を呼んで言った。「バアルよ。私たちに答えてください。」しかし、何の声もなく、答える者もなかった。そこで彼らは、自分たちの造った祭壇のあたりを、踊り回った。真昼になると、エリヤは彼らをあざけって言った。「もっと大きな声で呼んでみよ。彼は神なのだから。きっと何かに没頭しているか、席をはずしているか、旅に出ているのだろう。もしかすると、寝ているのかもしれないから、起こしたらよかろう。」彼らはますます大きな声で呼ばわり、彼らのならわしに従って、剣や槍で血を流すまで自分たちの身を傷つけた。このようにして、昼も過ぎ、ささげ物をささげる時まで騒ぎ立てたが、何の声もなく、答える者もなく、注意を払う者もなかった。
 エリヤが民全体に、「私のそばに近寄りなさい。」と言ったので、民はみな彼に近寄った。それから、彼はこわれていた主の祭壇を建て直した。エリヤは、主がかつて、「あなたの名はイスラエルとなる。」と言われたヤコブの子らの部族の数にしたがって十二の石を取った。その石で彼は主の名によって一つの祭壇を築き、その祭壇の回りに、二セアの種を入れるほどのみぞを掘った。ついで彼は、たきぎを並べ、一頭の雄牛を切り裂き、それをたきぎの上に載せ、「四つのかめに水を満たし、この全焼のいけにえと、このたきぎの上に注げ。」と命じた。ついで「それを二度せよ。」と言ったので、彼らは二度そうした。そのうえに、彼は、「三度せよ。」と言ったので、彼らは三度そうした。水は祭壇の回りに流れ出した。彼はみぞにも水を満たした。ささげ物をささげるころになると、預言者エリヤは進み出て言った。「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ。あなたがイスラエルにおいて神であり、私があなたのしもべであり、あなたのみことばによって私がこれらのすべての事を行なったということが、きょう、明らかになりますように。私に答えてください。主よ。私に答えてください。この民が、あなたこそ、主よ、神であり、あなたが彼らの心を翻してくださることを知るようにしてください。」すると、主の火が降って来て、全焼のいけにえと、たきぎと、石と、ちりとを焼き尽くし、みぞの水もなめ尽くしてしまった。民はみな、これを見て、ひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です。」と言った。

 ここには二つの祈りが出てきます。
 バアルの預言者たちは450人の集団です。しかも、彼らは26節に「朝から真昼までバアルの名を呼んで言った」と記されていますように、朝から祈り始め真昼に至ります。そして、午後にはさらに熱狂的に祈ります。それは29節に「ささげ物をささげる時まで」続いたと言われています。これは、新改訳の欄外別訳にありますように、「夕暮れのささげ物をささげる時まで」ということであると考えられます。というのは、その時になってエリヤが主の祭壇にささげものをささげているからです。そして、ついにバアルの預言者たちは自分たちの身を傷つけるまでになります。このように、バアルの預言者たちは朝から夕方まで祈り続けました。そして、その熱狂的な祈りの姿勢はエスカレートしていきました。
 これに対して、エリヤの祈りは何と簡潔なものでしょうか。バアルの預言者たちの祈りに比べて何と静かであることでしょうか。しかし、答えがあったのは、バアルの預言者たちの祈りではなく、エリヤの祈りの方でした。
 ここで、これが古い契約の下における地上的なひな型であるイスラエルで起こったことであるということを思い起こしたいと思います。古い契約の下では、主はさまざまな地上的な現象をもって、ご自身を示してくださっています。いけにえも地上的なひな型としての動物のいけにえでした。主の祭壇も人の手によって作られたものでした。そして、そのいけにえを祭壇に置いて、火で焼くということも、古い契約の下でのこととして、主によって定められたことでした。ここで、主が天から火を下してすべてを焼き尽くしてしまわれたことは、このことと関連しています。
 今日では、動物のいけにえを、人の手で作った祭壇に置いてささげることがないように、天から火が下されて何かを焼き尽くすというようなことはありません。このような現象が起これば、信じやすいのにと私たちは考えたくなります。けれども、これには限界があります。列王記第一・18章39節には、

民はみな、これを見て、ひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です。」と言った。

と記されていました。しかし、それは一時的なことであったのです。民は心から自らの罪を認めて悔い改め、主に立ち返ることはありませんでした。もちろん、これを目撃したアハブも主に立ち返ることはありませんでした。彼の妻イゼベルは主を恐れるどころか、エリヤの殺害を誓います。このように、あれだけのことが起こったのに、イスラエルの体制は基本的に変わることはありませんでした。
 これが地上的なひな型の限界です。そこでどんなに目を見張るようなことが起こっても、それで、人が自らの罪を悔い改めて、主に立ち返るようにはなりません。マルコの福音書8章11節、12節には、

パリサイ人たちがやって来て、イエスに議論をしかけ、天からのしるしを求めた。イエスをためそうとしたのである。イエスは、心の中で深く嘆息して、こう言われた。「なぜ、今の時代はしるしを求めるのか。まことに、あなたがたに告げます。今の時代には、しるしは絶対に与えられません。」

と記されています。
 福音の御言葉にあかしされている御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって、罪を贖われ、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって、新しく生れることがなければ、自らの罪を認めて悔い改め、神さまに立ち返ることはありません。そこで、どんなに目を見張るほどの現象が起こっても、人はそれを自分たちの尺度で理解するだけです。
 このようなことを念頭において考えたいのですが、バアルの預言者たちの祈りとエリヤの祈りの違いの本質はどこにあるのでしょうか。それを、天から火が下ってきたか、来なかったかにあるとすることは、その違いの本質を見極めることになりません。また、バアルの預言者たちの祈りは騒がしく、エリヤの祈りは静かであったということも、本質的なことではありません。このどちらも、本質的な違いから生じた結果であって、本質的な違いはこれらのことの奥にあります。この点につきましても、これまでお話ししてきたとおりです。祈りにとって決定的に大切なことは、私たちの姿勢ではなく、私たちがどなたに祈っているかということです。私たちに当てはめて言いますと、私たちは御子イエス・キリストの御名によって父なる神さまに祈っているということです。
 しばしば、祈りは信仰による祈りでなければならないと言われます。ヤコブの手紙5章13節〜18節にも、

あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように祈ると、三年六か月の間、地に雨が降りませんでした。そして、再び祈ると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。

と記されています。
 話が逸れてしまいますが、ここにエリヤの祈りのことが出てきますが、エリヤが雨が降らないように祈ったということは、旧約聖書の本文からは分かりませんが、エリヤの祈りによって再び雨が降るようになったことは列王記第一・18章42節〜45節に記されています。それで、雨が降らなくなることもエリヤが祈った結果であるということは推察されます。いずれにしましても、エリヤがアハブに雨が降らなくなることを告げたのは、カルメル山でバアルの預言者たちと対決するようになる3年半ほど前のことです。そして、再び雨が降るようになったのは、その対決の直後にカルメル山においてのことです。
 このように、信仰による祈りは大切なことです。そして、それは私たちの姿勢の問題です。しかし、なぜ信仰による祈りが大切であるかというと、私たちの祈りが御子イエス・キリストの御名による父なる神さまへの祈りであるからです。ヘブル人への手紙11章6節には、

信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。

と記されています。私たちが信じて祈るというときの信仰は、御子イエス・キリストにあって父なる神さまを信じる信仰です。ですから、祈りにおいて最も大切なことは、どなたに祈るということなのです。
 バアルの預言者たちが、長いことバアルの名を呼び続けたことは、さらには、自分たちの身を傷つけるようなことをしたのは、彼らがバアルを信じていたからに他なりません。彼らも真剣に信じて祈っていたのです。けれども、バアルは人間が考え出した神であって、この世界とその中のすべてのものをお造りになって、これを支えておられる、生けるまことの神ではありませんでした。それで、バアルの預言者たちは、何時間もかけて、ついには、自分たちの身を傷つけてまで祈るようになってしまいました。
 ここには生きておられる神ではない偶像に向かって祈ることによって、祈る者の側がより熱狂的になっていくという、ある種の皮肉があります。それは、物言わぬ偶像への祈りであるのですが、人の目に見える現象としては生き生きとした祈りのように写るのです。
 これに対して、エリヤは「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ。」と、契約の神である主の御名を呼び求めて祈りました。それは簡潔な祈りでしたが、それをお聞きくださる主、ヤハウェは、天と地とその中にあるすべてのものをお造りになっって、すべてを支えておられる主です。
 何よりも、列王記第一・18章1節に、

それから、かなりたって、三年目に、次のような主のことばがエリヤにあった。「アハブに会いに行け。わたしはこの地に雨を降らせよう。」

と記されていますように、エリヤがアハブに会って、バアルの預言者たちと対決するようになることは、主のみこころにそって行われたことです。ヨハネの手紙第一・5章14節には、

何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。

と記されています。
 このように、イエス・キリストが、

また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。

と戒めておられることの根底には、私たちはほかならぬ父なる神さまに祈っているという、祈りにおいて最も大切なことがあります。

 


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