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説教日:2005年10月9日 |
ここでイエス・キリストは、父なる神さまのことを個人的な意味合いで「あなたの父」と呼んでおられます。これは特別なことです。マタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書を「共観福音書」と呼びますが、この共観福音書の中では、父なる神さまを「あなたの父」と呼ぶことは、このマタイの福音書6章の4節と6節と18節に出てくるだけです。それ以外の箇所では、「あなたがたの父」という言い方がなされています。もちろん、これはイエス・キリストが父なる神さまのことを「あなたがたの父」あるいは「あなたの父」とお呼びになっている事例に限ってのことです。イエス・キリストは父なる神さまのことを、たとえば「天におられるわたしの父」(マタイの福音書7章21節)というように、他の呼び方でも呼んでおられます。 この「あなたの父」という言葉が出てくる個所を見てみましょう。6章4節には、 あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。 と記されており、6節には、 あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。 と記されています。そして、18節には、 それは、断食していることが、人には見られないで、隠れた所におられるあなたの父に見られるためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が報いてくださいます。 と記されています。 これらの引用から分かりますように、イエス・キリストが父なる神さまのことを「あなたの父」と呼ばれたことは、父なる神さまが「隠れた所におられる」ということと「隠れた所で見ておられる」ということとかかわっています。イエス・キリストが父なる神さまのことを「あなたの父」とお呼びになるのは、父なる神さまが確かに「私の父」であられるからです。私たちは父なる神さまのことを個人的に「私の父」と呼ぶことができます。けれども、それができるのは、私たちが「隠れた所」において「隠れた所におられる」父なる神さまと出会い、父なる神さまに語りかけることによってです。父なる神さまは「隠れた所」において、私たちに個人的に親しく出会ってくださいます。いわば、この「隠れた所」が特別な意味で、父なる神さまが親しくご臨在される場となっているのです。 また、今引用しました三つの個所に共通しているのは、 そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。 という言葉です。この言葉に示されていますように、イエス・キリストが父なる神さまのことを「あなたの父」と呼んでくださることは、父なる神さまが私たちに「報いてくださる」こととかかわっています。 そうしますと、その「報い」は何なのかということが問題となります。これについては、すでにお話ししたとおりです。父なる神さまが「隠れた所」において、私たちに個人的に親しく出会ってくださること、私たちが父なる神さまに語りかけると父なる神さまがそれをお聞きくださること、このような父なる神さまとの愛にある交わりが、私たちが父なる神さまから受け取る「報い」の中心です。父なる神さまはこの「隠れた所」において、私たちをご自身の子として迎えてくださり、ご自身を私たちそれぞれに与えてくださいます。そのような時には、私たちの心はひたすら父なる神さまを慕い求めますので、本来、父なる神さま以外に私たちの心が向くことはないわけです。 先ほど少し触れましたが、父なる神さまが「隠れた所」において私たちに個人的に親しく出会ってくださることを明らかにしてくださったのは、イエス・キリストです。私たちはイエス・キリストの御言葉の保証のもとに、「隠れた所」において父なる神さまと出会い、父なる神さまとの個人的で親しい交わりをもつことができます。このことに関するイエス・キリストの御言葉の根底には、イエス・キリストがご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、私たちを罪と死の力から贖い出してくださって、父なる神さまの子としてくださったお働きがあります。そのイエス・キリストの贖いの御業という土台の上に立って初めて、私たちは「隠れた所」において父なる神さまと出会い、父なる神さまとの個人的で親しい交わりをもつことができます。ですから、「隠れた所」という場所が私たちと父なる神さまの交わりを生み出すのではありませんし、保証するわけでもありません。私たちはあくまでも、イエス・キリストの贖いの御業の土台の上に立って、「隠れた所」において父なる神さまと出会い、父なる神さまとの個人的で親しい交わりをもつのです。 このようにここでは、祈るときには父なる神さまと個人的に向き合い、ただ父なる神さまだけに心を向けて、父なる神さまと語り合うことが教えられています。けれども、このことは、信仰の家族の兄弟姉妹たちとともに、心を合わせて祈ることを否定するものではありません。先週触れましたように、祈りにおいて父なる神さまと個人的に向き合い、ただ父なる神さまだけに心を向けて、父なる神さまと語り合っている者たちがともに集って、心を合わせて父なる神さまに祈ることは、父なる神さまのみこころでもあります。 そのこととの関連でイエス・キリストの別の教えを見てみましょう。同じマタイの福音書の18章19節、20節には、 まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。 というイエス・キリストの教えが記されています。ここには、イエス・キリストの御名によってともに集って祈ることへの励ましが記されています。 19節では「あなたがたのうちふたりが」と言われていますが、これは私たちの間で考えうる最も小さな集まりのことです。その二人があることについての理解や考え方や願いが一致しているので、一つ所に集まって「心を一つにして祈る」ということです。ここで「祈る」と訳されている言葉(アイテオー)は「願う」とか「求める」という意味の言葉です。これはイエス・キリストが「天におられるわたしの父」と呼ばれる父なる神さまに願い求めることですから、実質的に祈ることになります。 ここでは、このような最も小さな主の民の集まりにおいて心を合わせて祈るときに父なる神さまがお聞きくださることが示されています。そして、その根拠が20節において、 ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。 と説明されています。 「わたしの名において」の「名」は、その人自身を代表的に表しています。この場合には、イエス・キリストご自身です。私たちにとっては栄光のキリスト、父なる神さまの右の座に着座しておられるイエス・キリストご自身です。また、「わたしの名において」の「において」(エイス)は「の中に」という意味合いです。つまり、ここでは、栄光のキリストを愛して、栄光のキリストとともにあることを願い、栄光のキリストの示してくださるみこころに従おうとして、二人または三人が集っているという状況が示されています。そして、それがこのように考えうる最も小さな集いであったとしても、栄光のキリストは確かにそこにご臨在してくださるということが示されています。これは約束というよりは、事実を述べています。それは、イエス・キリストが生み出してくださっている事実に他なりません。 このイエス・キリストの教えは、これに先立つ15節〜18節に、 また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。 と記されていることを受けています。 これは、罪を犯して主に背いている兄弟がいた場合に、その兄弟を主の恵みによって主の御許へと回復するためにどのような手順を踏むべきかを、主イエス・キリストが示してくださったものです。 その場合に、17節後半と18節において、 教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。 と言われていることから分かりますように、兄弟が罪を犯している状態のままに放置されるなら、その兄弟が滅びに至るような罪のことを述べています。 もしその兄弟の罪が私に対する罪で、私が赦せばすむことであれば、私が赦せばいいわけです。主の祈りにおいて私たちは、 私たちの負いめをお赦しください。 私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。 と祈っていますし、主ご自身も主の祈りに続いて、 もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。 と教えておられます。さらに、ペテロの手紙第一・4章8節には、 何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。 と記されています。 ところが、罪の中にはそのように処理できないものもあります。罪を犯している兄弟自身がその罪を悔い改めてそれを離れなければ滅びに至ってしまうような場合には、その兄弟の回復を図る必要があります。そのためにいくつかの段階を踏むようにと主は教えておられます。それは、罪を犯している兄弟の名誉と尊厳が守られるためのことです。兄弟が罪を犯しているからということで、兄弟を見下したり、はずかしめたりしてはならないのです。私たち自身、同じ罪の性質を宿しており、常に罪を犯している者です。ただ主の恵みとあわれみによって支えられている者です。 それで、まずはその兄弟と二人だけのところから始めます。それも愛と忍耐をもって必要であれば何度でもなされることです。そして、その兄弟が悔い改めて罪を離れたら、兄弟が福音に示されている主の贖いの恵みによって回復されていることを確認します。そして、その件を決して他人に口外してはならないわけです。 ところが、二人だけのところでは兄弟が罪を悔い改めないこともあります。そうしますと、他に一人か二人を証人として兄弟のもとに行きます。これによって、このことにかかわるのは二人または三人になります。そして、この場合も、愛と忍耐をもって説得をします。それも、相当の期間続けられることです。 それでも、兄弟が悔い改めない場合には、教会に告げます。それは、主が教会を治めるように立てられた長老たちの会議、私たちの間では「小会」と呼ばれている会議に告げるということであって、皆の前で報告するということではありません。もちろん、兄弟の罪がスキャンダルのようになって知れ渡ってしまっている場合などには、小会がその問題に対処しているということを皆に告げなければならなくなります。 そのような段階を踏むときに、二人または三人が主イエス・キリストの御名によって集って、その兄弟の回復を父なる神さまに願い求めるようになります。そのような場合に、それが二人または三人の小さな集まりだからといって、父なる神さまが省みてくださらないということは決してないということが示されています。 もちろん、19節で、 まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。 と言われている中の「どんな事でも」(ペリ・パントス・プラグマトス)という言葉は一般的なことを指していますから、これは罪を犯している兄弟の回復のために心を合わせて願い求めることに限りません。また、20節で、 ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。 と言われていることも、イエス・キリストにある者たちの間での一般的な事実を示してくださったものです。 イエス・キリストがこのような一般的なことを、罪を犯している兄弟の回復について教えてくださる中で語ってくださったということをどのように考えたらいいのでしょうか。それは、そのような一般的な事実があるので、罪を犯している兄弟が主の恵みによって回復されることを求めて労する者たちが、二人または三人であっても、心を合わせて願うときには、父なる神さまはその願いをお聞きくださるということを示してくださっているわけです。 またこれは、ある人々が考えているように、集まって祈るのは小さなグループであることが望ましいというようなことではありません。そういうことではなく、罪を犯している兄弟の回復を求める場合には、イエス・キリストが示してくださっているように、兄弟の名誉や尊厳を守るために、二人だけのところから始めなければなりません。そして二人だけのところで愛をもって忍耐深く働きかけても聞き入れられなかった場合に、他に一人または二人の証人を立ててその兄弟のもとに行くという手順がとられます。その段階においても、愛をもっての忍耐深い説得が行われます。 その場合、その二人または三人は、イエス・キリストの教えに沿って罪を犯している兄弟のもとに行っていますし、イエス・キリストの恵みをあかしするために兄弟のもとに行っています。その意味で、その二人または三人の人はイエス・キリストの御名によって集っています。そのような二人または三人がイエス・キリストの御名によって集い、父なる神さまに兄弟の回復を祈り求めるのです。兄弟の名誉と尊厳を守るために、そこに他の人を加えることはできませんから、それは、二人または三人の集まりでしかあり得ないわけです。そのような事情があるので、ここでは、二人または三人の集まりのことが取り上げられていると考えられます。そして、父なる神さまは地上で心を合わせて、父なる神さまのみこころのなることを祈り求める集いが、二人または三人の集いであったとしても、それを無視されるどころか、その祈りを聞いてくださると教えられています。また、その二人または三人がイエス・キリストの御名によって集うところには、イエス・キリストもそこにご臨在してくださっているということが示されています。 これらのことには、父なる神さまが「隠れた所」にいてくださり「隠れた所で見ておられる」方であられるということに通じる面があります。先ほど、イエス・キリストの贖いの上に立って「隠れた所」で父なる神さまと一対一で向き合って語り合うときには、その「隠れた所」が父なる神さまのご臨在する場所となっていると言いました。ここでは、二人または三人がイエス・キリストの御名によって集うところが父なる神さまのご臨在する場所となっています。父なる神さまは御子イエス・キリストにあって私たち一人一人をお心にかけてくださる方であり、私たちの隠れたことをもご覧になっていてくださる方です。そのように小さな者をお心にかけてくださる父なる神さまは、イエス・キリストの御名によって集う集いとして最も小さな二人または三人の集いに御顔を向けてくださり、その祈りをお聞きくださる方なのです。 |
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