(第33回)


説教日:2005年10月2日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 マタイの福音書6章9節〜13節に記されている主の祈りに先だって、5節〜8節には、祈りについてのイエス・キリストの教えが記されています。これは、大きく5節、6節と7節、8節の二つに分けられます。これまで5節、6節に記されています、

また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

という戒めについてお話ししてきました。
 この箇所も、さらに二つに分けられます。5節では、偽善者たちの祈りの問題が示されて、そのようであってはならないと戒められています。そして、6節では、祈るときにはどのようにしたらいいかが示されています。


 すでにお話ししました5節には、

また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。

と記されています。これは、私たちが祈るときには、ただ神さまだけに心を向け、思いを集中して、神さまと語り合うようにすべきことが、「偽善者たち」の祈りと対比する形で教えられています。
 このことは、続く6節において、

あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

と言われていることによって、さらに徹底化されています。
 どういうことかと言いますと、先週も簡単に触れましたように、5節で、

また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。

と言われているときの「祈る」という動詞は、2人称複数形です。また、当然のことですが、主動詞の「あってはいけません」の「ある」も2人称複数形です。それを生かせば、

また、あなたがたが祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。

となります。この場合には特に主語が立てられているのではありません。「祈る」という動詞が2人称複数形ですので「あなたがたが祈るときには」となります。これはギリシャ語では一般的なことです。
 これに対しまして、6節では、その冒頭に「あなたは」という2人称単数の代名詞(主格・スゥ)が出てきます。このように、ここでは、「あなたは」(スゥ)という主語が立てられていることと、それが冒頭に置かれているということで、「あなたは」ということが二重に強調されています。
 さらに、6節で、

あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

と言われている中では、冒頭で「あなたは」ということが強調されていることと調和して、「あなたの」という言葉が繰り返し出てきます。ここで「自分の奥まった部屋」と訳されているのは「あなたの奥まった部屋」です。また、「戸をしめて」と言われているときの「」にも「あなたの」という言葉があります。これを生かして訳しますと、

あなたは、祈るときにはあなたの奥まった部屋にはいりなさい。そして、あなたの戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

となります。
 また、ここに出てくる「奥まった部屋」(タメイオン)は物を貯蔵しておくための部屋です。ここで、祈りのための部屋としてそこが選ばれているのは、その部屋が鍵がかけられる唯一の部屋であったからであると考えられます。これもこの6節での「あなたは」の強調と調和しています。この「奥まった部屋」(タメイオン)に入ることによって、祈る人が一人きりになることができます。
 このように、6節では、個人的な色彩がきわめて強くなっています。祈るときには、まさに一対一で神さまと向かい合い、神さまに心を向け、神さまだけに思いを集中して語りかけるということが教えられています。
 言うまでもなく、これは私たちが神さまと一対一で向かい合うべきことを印象深く教えてくださるためのものです。家の中に物置のような部屋がなくても、また、鍵のかけられる部屋がなくてもいいのです。実際、聖書の中には、イエス・キリストが父なる神さまと個人的に向き合われて祈られたことが記されています。たとえば、マルコの福音書1章35節には、

さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。

と記されています。これは外の静かな所であって、家の中の奥まった部屋ではありませんでした。
 このように、ここでは、私たちが祈るときには、ただ神さまだけに心を向け、思いを集中して、神さまと語り合うようにすることが教えられています。これは祈りを私たちの側から見たときのことですが、これを神さまの側から見ますと、私たちが祈るときには、神さまも私たちにお心を向けてくださり、私たちと語り合ってくださるということを意味しています。この点は、5節に記されていることとのかかわりで先週もお話ししたことですが、これが6節においてはさらに個人的な色彩が強くなっているわけです。つまり、私たちが祈るときに、私たちが神さまだけに心を向け、思いを集中して神さまに語りかけるだけではありません。神さまもそのようにして、祈る私たちの一人一人にお心を向けてくださり、一人一人に向き合ってくださって、祈りをお聞きくださるということです。
 私たちが、このように個人的に神さまだけに心を注ぎ、神さまに思いを向けて、神さまに語りかけることは、神さまが私たちを神のかたちにお造りになったことにそっています。そのことは先週お話ししたことですが、このこととのかかわりで、もう一つのことをお話ししておきたいと思います。
 神さまは、私たちがご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生きる者となるために、私たちを神のかたちにお造りになりました。けれども、私たち人間が神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまったことにより、私たちは神さまの聖なるご臨在の御前から退けられてしまっておりました。自らのうちに罪を宿し、実際に思いと言葉と行いにおいて罪を犯している人間が、そのままの状態で神さまのご臨在の御前に近づくなら、無限、永遠、不変の栄光の神さまの聖さを冒すことになります。それは、永遠の刑罰としての滅びをもって報いられることになります。
 今は、神さまの無限、永遠、不変の栄光は隠されています。しかし、終りの日には、栄光のキリストの再臨とともに、神さまの栄光のご臨在が、この造られた世界にあるようになります。マタイの福音書16章27節には、

人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行ないに応じて報いをします。

というイエス・キリストの御言葉が記されています。ここで、終りの日に、イエス・キリストは父なる神さまの栄光を帯びて再臨されると言われています。御子イエス・キリストにおいて父なる神さまの栄光のご臨在があり、その時に地上にいる人々だけでなく、すでに世を去った人々もよみがえって、すべての人がその栄光のご臨在の御前に立つようになります。ヨハネの福音書5章27節〜30節に、

また、父はさばきを行なう権を子に与えられました。子は人の子だからです。このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです。

と記されているとおりです。
 このことから分かりますが、終りの日に再臨される栄光のキリストによって造り出される新しい天と新しい地は、栄光のキリストにある父なる神さまの栄光が充満している世界であるのです。その世界のどこかに行ったからといって、栄光のキリストにある父なる神さまの充満な栄光のご臨在の御前から離れることはできません。
 これは、詩篇139篇7節〜10節に、

  私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。
  私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。
  たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、
  私がよみに床を設けても、
  そこにあなたはおられます。
  私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、
  そこでも、あなたの御手が私を導き、
  あなたの右の手が私を捕えます。

と記されていることと似ていますが、まったく同じことではありません。
 この詩篇139篇7節〜10節においては、主の民は、神さまがお造りになったこの世界のどこにいたとしても、神さまの御霊によるご臨在の御前にあり、その御手のお支えのうちにあることが示されています。けれども、この世界にいるすべての者が、これと同じ意味で、神さまの御霊のご臨在の御前にあって生きているわけではありません。確かに、この世界のすべてのものは神さまの御手のうちにあり、神さまの真実な御手によって支えられています。それは、神さまを信じていない人々だけでなく、常に神さまに逆らっているサタンであっても例外ではありません。サタンも神さまによって造られたものとして、神さまの御手の支えがなければ、一瞬たりとも存在することはできません。
 けれども、今は、最初の人が造り主である神さまに対して罪を犯した後のことを記している創世記3章24節に、

こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。

と記されている状況があります。自らのうちに罪の性質を宿しており、思いと言葉と行いにおいて神さまに対して罪を犯し続けている人は、神さまのご臨在の御前から退けられ、神さまとの愛にあるいのちの交わりから断たれています。罪ある人間が神さまのご臨在の御前から退けられているのは、人が罪あるままで神さまのご臨在の御前に立つなら、無限、永遠、不変の栄光の神さまの聖さを冒して、永遠の刑罰へと滅ぼされてしまうことになるからです。
 そのような状況の中で、神さまが備えてくださった贖いの恵みにあずかっている者が、その贖いのゆえに、神さまのご臨在の御前に近づいて、神さまとの愛にあるいのちの交わり、すなわち、永遠のいのちのうちに生きることができるようにされています。その場合に、その人がこの世界のどこにいたとしても、その人は神さまのご臨在の御前に立つことができるし、神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きることができるということです。言い換えますと、今は、神さまのご臨在は常に、主の民とともにあるということです。人となって来られた永遠の神の御子の誕生にかかわる「インマヌエル」という御名が意味している、神さまが私たちとともにいてくださるということは、御子の十字架の死と死者の中からのよみがえりによる罪の贖いにあずかっている私たちにとって、常にまたどこにおいても現実となっています。
 とはいえ、先ほどお話ししましたように、それは、すべての人の現実ではありません。自らのうちに罪を宿していて、思いと言葉と行いにおいて神さまに対して罪を犯している状態にある人々は、神さまのご臨在の御前から退けられており、神さまとの交わりを断たれています。そして、それは、罪ある人が神さまの聖さを冒して滅ぼされることがないようにしてくださっている神さまの備えでもあります。けれども、終わりの日には、父なる神さまの栄光を帯びて再臨される栄光のキリストにあって、神さまの充満な栄光に満ちたご臨在がこの世界を満たすようになります。すべてのものが、その御前にあるようになるのです。それで、罪あるものは神さまの栄光に触れ、その聖さを冒すものとして永遠の刑罰による滅びを経験することになります。
 私たちはこれらのことに恐れを抱きます。それは自然なことですし、正当なことです。主とその御言葉のあかしを信じない人々は、このような御言葉の教えをあざ笑うことでしょう。しかし、私たちはそれを恐れの思いをもって聞きます。けれども、それで終ってはなりません。また、それで終ってしまうことが、神さまがこのことを私たちに啓示してくださっていることの目的でもありません。私たちは、このことが福音の御言葉の中であかしされていることを心に留めなければなりません。
 主の御言葉にあかしされていることはすべて実現してきましたし、実現します。それは、終りの日に関する御言葉のあかしも例外ではありません。それが実現すべきことであるので、父なる神さまはご自身の御子による贖い、その十字架の死と死者の中からのよみがえりによる贖いを備えてくださったのです。そして、そのことを福音の御言葉によってあかししてくださったのです。この福音の御言葉のあかしの光の下で見ますと、終りの日に栄光のキリストが父なる神さまのご栄光を帯びてご臨在されることは、私たちが父なる神さまとの愛にあるいのちの交わり、すなわち、永遠のいのちのうちに生きることを完成してくださるためであることが分かります。ですから、私たちは終りの日のことを考えるときには、「警告主義者」(アラーミスト)の言葉によって惑わされて恐れたり、あわてふためいたりしてはならないのです。
 創造の御業と贖いの御業を一貫して貫いている私たちに対する父なる神さまのみこころは、私たちが御子イエス・キリストにあってご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生きるようになることです。しかもご自身の栄光のご臨在により近く近づいて生きるようになることです。私たちが御子イエス・キリストにあって父なる神さまの栄光のご臨在の至近にまで至ることができるためには、父なる神さまが充満な栄光において私たちの住んでいるこの世界にご臨在してくださらなければなりません。終わりの日に、栄光のキリストが父なる神さまの栄光を帯びて再臨されることは、このことを実現し、完成してくださるためです。
 これを今お話ししている祈りとの関連で見ますと、父なる神さまは私たちそれぞれにご自身のお心を注いでくださり、私たちが父なる神さまに思いを向け、心を注いで語り合うことをご自身の喜びとしてくださっているので、これらすべてのことを、御子イエス・キリストによって、私たちのために成し遂げてくださるのです。終りの日の栄光のキリストの再臨によって、父なる神さまとの語り合いとしての私たちの祈りも豊かな栄光に満ちた、まったきものとなります。このことを離れて、終りの日に関する御言葉のあかしを理解することは、それが福音の御言葉のあかしであることの主旨に反します。
 このこととの関連で、一つの疑問が湧いてきます。私たちは、祈るときにはただ神さまだけに心を向け、思いを集中して、神さまと語り合うようにするように戒められています。けれども、その時、父なる神さまも私たちと個人的に向き合ってくださり、ご自身のお心を注いでくださるということをどう考えたらいいのでしょうか。具体的に言いますと、神さまはご自身が造られたこの世界のすべてのものを真実な御手をもって支えてくださっています。神さまが一瞬たりともその御手を止められたとしたら、この世界は存在できなくなります。そのような神さまが私たちに個人的に、一対一で向き合ってくださり、お心を注いでくださるということをどう考えたらいいのでしょうか。私たちが祈るときは他のことをすべて忘れて、ただ神さまだけに心を注いで祈ります。その時、神さまも私たちに個人的に向き合ってくださいますが、同時に、神さまはご自身がお造りになったすべてのものに心を注いでおられ、それらを支えてくださっておられます。そうしますと、私たちが祈るときに、神さまは私たちだけにお心を注いでくださるわけではないのではないでしょうか。
 これをどう考えたらいいかということについては、改めて説明する必要はありません。私たちが祈るときに、神さまはもっぱら私たちに心を注いでくださって、私たちの祈りに耳を傾けてくださいます。私たちの方は神さまに向かって祈り始めても、思いが千々に乱れ、神さまだけに思いを集中することができなくなることがしばしばです。それは私たち自身の限界と弱さによることです。それは、サタンの誘惑であるわけではありません。というのは、被造物であるサタンは有限な存在であって、今この時もどこか一つの場所にしか存在できませんし、ある特定のことにしかかかわることはできません。知恵に長けたサタンは、自分が最も効果的と判断している所に行って、そこで働いているはずです。それがどこかということは、私たちには想像することもできませんが、一度にすべての主の民に働き掛けて誘惑することができるわけではないことは確かなことです。
 いずれにしましても、私たちの方はそのように思いが乱れてしまうものですが、神さまはそのような方ではありません。神さまが私たちに向き合ってくださる時には、本当に、私たちだけに向き合ってくださり、私たちだけにお心を注いでくださるのです。そして、それは主の民すべてに、その一人一人に、当てはまることなのです。この点で、先ほどお話ししましたサタンの働きと主のお働きはまったく違います。主は、同じ時に、ご自身がお造りになったすべてのもの一つ一つに対してお働きになっておられます。
 どうしてそのようなことがあり得るのかと言いますと、神さまが存在と知恵と力において無限、永遠、不変の方であるからです。
 私たちは、存在において無限であられる神さまと神さまがお造りになった有限なこの世界の関係を十分に知ることはできません。それで、私たちは私たちの限界の中でそれを考え、言葉にするほかはありません。そのことを踏まえたうえで言うのですが、この宇宙は私たちにとっては無限とも思える広大なものですが、存在において無限であられる神さまは、針の先も宇宙全体も同時にご覧になっておられますし、そのすべてを知っておられます。当然、神さまは針の先と宇宙全体の違いを完全に知っておられます。その神さまは、ご自身の民がどんなに多くても、今この時に、その一人一人に、その一人一人にだけお心を注ぐ形で向き合ってくださることがおできになります。そして、一人一人の祈りをつぶさにお聞きくださるのです。
 私たちは父なる神さまと個人的な交わりをもつようにと招かれています。それは、父なる神さまが私たちに親しく御顔を向けてくださって、私たちの祈りをお聞きくださるからです。私たちは、それぞれがこのような父なる神さまとの個人的な交わりのうちにあって歩んでいることを土台として、父なる神さまの御前でともに心を合わせて祈ることができるようになります。礼拝や祈祷会などにおけるともなる祈りの奥には、父なる神さまとの個人的な語り合いとしての祈りがあります。

 


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