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説教日:2005年9月25日 |
5節、6節には、 1 と記されています。この部分も二つに分けることができます。5節では、祈るときの問題点が示されており、それに対してどうすべきかということが6節に記されています。 5節前半では、 また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。 と言われています。 この「祈るときには」の「祈る」は2人称複数形で表されています。それで、これは「あなた方が祈るときには」ということです。このことは、6節の冒頭で「あなたは、祈るときには」と言われているときに「あなたは」が強調されていることを際立たせることになります。この点につきましては、今日ではありませんが、後ほどお話しします。 ここで、 祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。 と言われているときには、「偽善者たち」が誰であるということは問題になってはいません。私たちは、この「偽善者たち」はパリサイ人たちだと自動的に考えやすいのですが、これは危険なことです。そのように考えたとたんに、自分はパリサイ人とは違うというような感覚が生まれてきてしまいます。けれども、この、 祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。 というイエス・キリストの教えは、私たち自身の中に、ここに示されている問題に陥る危険があるからこそ語られたものです。ここで、イエス・キリストはパリサイ人を糾弾しておられるのではありません。むしろ、ご自身の民を教えてくださり、導いてくださっているのです。 これに続く、 彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。 というイエス・キリストの教えは、新改訳では理由を示していると解釈しています。その場合には、この教えを聞いている人々が、すでに「偽善者たち」と呼ばれている人々は「人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだ」ということを知っているし、それはよくないことだと思っているということになります。そうしますと、そもそも、イエス・キリストがこのことを教えられる必要はなかったのではないかという気がします。 むしろ、ここでは、祈ることには、この教えを聞いている人々も気づいていない、その意味で人の目に隠れた問題があって、それをイエス・キリストが明らかにしつつ、戒めてくださっているのだと思われます。ここでイエス・キリストが問題としておられるのは、「偽善者たち」と呼ばれている人々が「人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだ」ということです。この「人に見られたくて」という言葉は、目的を示しています。この場合、「人に見られたくて」の「人に」は複数形です。また、「会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだ」というときの「通り」(プラテイア)は広い大通りを意味しています。「会堂」も「通りの四つ角」も人々がいる所です。このように、「偽善者たち」と呼ばれている人々は、人々に見られることを目的として祈っています。そのために、「会堂や通りの四つ角に立って祈る」ことを好んでいるのです。それは、その人々の心の姿勢であって、神さまには明らかなことですが、人の目からは隠されています。 その当時のユダヤの社会においては、午前9時と正午と午後3時の祈りが定められていたようです。そして、エルサレムとその近くの町の人々は、祈るために主の神殿に行くことがありました。神殿に行くことができない人々は、それぞれの町にある会堂に行くことがあったようです。また、遠くから主の神殿のあるエルサレムに向かって祈るということもありました。主の神殿や会堂に行がない人々も、定められた時になると、自分のいる所で祈ったようです。また、立って祈ることも、その当時の社会では決して不自然な祈りの姿勢ではありませんでした。ですから、ある人が「会堂や通りの四つ角に立って」祈っているからといって、直ちに、それが偽善的な祈りであるということにはなりません。また、イエス・キリストもそのこと自体を問題としてはおられません。イエス・キリストが問題としておられるのは祈るときの、その人の目的や動機です。 また、イエス・キリストが、 祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。 と言われるときの「報い」は、言うまでもなく、人々に見られるということです。それによって、人々からの称賛を得ることもあるでしょうし、それほどの称賛はないかもしれません。いずれであっても、その人は、人々から見られていることで満足することでしょう。 ここで、 彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。 というときの「受け取っている」という言葉(アペコー)は商業上の取り引きにおいて、代金をすべて受け取って、その領収書を渡すことを表す専門用語であるようです。ですから、これは、もはやそれ以上受け取るべきものは何もないということを意味しています。人々から見られることを目的として祈っている人は、自分が祈っていることを人々から見られることで「報い」をすべて受け取っているのです。 先ほど言いましたように、この、 祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。 というイエス・キリストの戒めは、決して、パリサイ人を糾弾するために語られたものではありません。あくまでもご自身の民である私たちを教えてくださり、私たちのうちに本来の祈りを回復してくださるためのものです。もし、イエス・キリストが私たちを教えながら、パリサイ人を糾弾しておられるのであれば、この教えを聞く私たちもそれに同意するという形で、パリサイ人の糾弾に加わることになるでしょう。けれども、このイエス・キリストの戒めには、そのような意味はありません。むしろ、これは、この戒めを聞いている私たち自身のうちに「偽善者たち」と呼ばれている人々のうちにあるのと同じものがあることを明らかにするものです。そして、私たち自身の祈りを点検することを迫るものです。 このように、イエス・キリストの教えは、本来、ただ神さまだけに向けてなされる祈りが歪められて、実際には、人々に見られることが隠れた目的となってしまうことがあるという、私たちの現実を明らかにしています。そして、私たちの祈りがそのような形で歪められてはならないということを教えてくださっています。 さらに言いますと、このイエス・キリストの教えは、私たちのうちから偽善を取り除くための教えであると言うこともできません。私たちのうちから偽善を取り除くことを目的として、その一例として祈りにおける偽善を問題として取り上げているということではないのです。イエス・キリストの教えは、あくまでも、私たちの祈りが本来の祈りであるための教えです。 その意味で、このイエス・キリストの教えでは、私たちの祈りそのものがこの上なく大切なものであることが踏まえられています。実際、本来は、ただ神さまだけに向けてなされるはずの祈りが歪められて人々に見られることが隠れた目的となってしまうことがあるのはどうしてでしょうか。それは、祈りが大切なものであるからです。もし、祈りがどうでもいいのもであれば、人々に見られたくて祈るという誘惑も起こってきません。また、それ以上に、もし祈りがどうでもいいものであれば、イエス・キリストが、このように私たちの祈りが本来の祈りであるために戒めを与えてくださることもなかったはずです。 このように、イエス・キリストが、 祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。 と戒められていることは、私たちの祈りがとても大切なものであることを踏まえており、それがただ神さまだけに向けられるものとなるためのことです。このイエス・キリストの戒めにはより深い目的がありますが、これを、私たちのうちから偽善を取り除くためのことであるというように理解してしまいますと、それが見えなくなってしまいます。このイエス・キリストの戒めのより深い目的は、父なる神さまは、私たちの心がご自身だけに向くようになることを求めておられるということを示してくださることにあります。それで、イエス・キリストは、私たちがただ父なる神さまだけに思いを向けて祈るようにと戒めておられるのです。また、私たちの祈りの大切さは、このこと、父なる神さまは、私たちの心がご自身だけに向くようになることを求めておられるということにあります。祈りにおいて私たちの偽善が問題となるのは、それが、私たちの心が父なる神さまだけに向くようになることを妨げるからです。 神さまが、私たちの心がご自身だけに向くようになることを求めておられる、それで、私たちがただ神さまだけに思いを向けて祈ることを求めておられるということについては、これまでお話ししてきたことからお分かりのことと思います。念のために、このことについて、これまでお話ししてきたことの要点をまとめておきましょう。 神さまの永遠の聖定におけるみこころを記している、エペソ人への手紙1章3節〜5節には、 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。 と記されています。父なる神さまは、ご自身の永遠の聖定において、私たちを御子イエス・キリストのうちにある者としてお選びになり、イエス・キリストによって御前に聖く傷のない者となるように定めてくださいました。さらに、愛によってご自身の子となるように定めてくださいました。それは、私たちが御子イエス・キリストによって父なる神さまの子どもとなり、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるようになるためです。私たちの祈りは、このことが私たちのうちに実現していることの具体的な現れです。この祈りにおいて、父なる神さまは私たちが父なる神さまご自身に心を向けることを求めておられます。それは、父なる神さまが、御子イエス・キリストにある愛によって、私たち自身に御思いを向けてくださっておられるからです。 同じことは、ヨハネの福音書1章1節〜3節において、 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。 と記されていることからも言うことができます。詳しい説明は省きますが、ここでは、まず、永遠の「ことば」であられる御子イエス・キリストが、父なる神さまとの無限、永遠、不変の愛の交わりのうちにいますことが示されています。そして、天地創造の御業が、父なる神さまとの無限、永遠、不変の愛の交わりのうちに充足しておられる御子イエス・キリストによって遂行されたことが示されています。それで、天地創造の御業は、無限、永遠、不変の愛の交わりのうちにいます神さまが、ご自身の愛をご自身の外に向けて注いでくださるための御業でした。そして、被造物としての限界にありながら、そのような神さまの愛を受け止める存在として、人が神のかたちに造られたのです。ですから、人は初めから、神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きるものとして造られています。 実際、神さまは神のかたちに造られた人とともにあるために、この世界にご臨在してくださり、人がご自身との愛にあるいのちの交わりに生きるようにしてくださいました。けれども、実際には、そのような神のかたちとしての栄光と尊厳性を与えられた人は、神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまいました。それによって、神さまの聖なるご臨在の御前から退けられ、神さまとの愛にあるいのちの交わりを失ってしまいました。そればかりか、自らの罪に対する神さまの聖さと義に基づくさばきによって、御前に滅びるべきものとなってしまいました。 御子イエス・キリストはそのような私たちを死と滅びの中から贖い出してくださるために、十字架にかかって私たちの罪に対する神さまのさばきを受けてくださいました。そして、私たちが父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるようになるために、すなわち、新しい栄光あるいのちに生きるようになるために、死者の中からよみがえってくださいました。私たちは、このイエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかって、罪を贖っていただき、イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれ、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるものとしていただいています。私たちの祈りは、このことの具体的な現れです。先ほどいいましたことの繰り返しですが、この祈りにおいて、父なる神さまは私たちが父なる神さまご自身に心を向けることを求めておられます。それは、父なる神さまが、御子イエス・キリストにある愛によって、私たち自身に御思いを向けてくださっておられるからです。 このように、御子イエス・キリストは、 祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。 と、祈りにおいて私たちがただ神さまだけに心を向けるように戒めてくださっただけではありません。そのことを私たちの間に実現してくださるために、ご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、私たちを父なる神さまの子どもとしてくださり、私たちが父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるようにしてくださったのです。 このことを踏まえますと、イエス・キリストが、 あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。 と言われるときの「報い」が何であるかが理解できます。 結論的に言いますと、私たちの祈りに対する「報い」は、父なる神さまご自身です。御子イエス・キリストにあって、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるということ自体が、私たちが祈りにおいて受け取る「報い」です。すでにお話ししましたように、人々に見られたくて祈る「偽善者たち」が受け取っている「報い」は、人々に見られたということ自体です。同じように、私たちが父なる神さまご自身に心を向けて祈る祈りに対する「報い」は父なる神さまご自身です。 もちろん、私たちは祈りにおいて、具体的なことを祈ります。それに対する神さまのお答えもあります。けれども、それは、祈りにおいて、父なる神さまがご自身を私たちに与えてくださっていることと深く結びついています。 これもいろいろな機会にお話ししたことですが、私の父は、私が小学校の5年生の時に亡くなりました。それまでは、学校から帰って来ると「お母ちゃ。何か。」と言って家の戸を開けていました。それは「お母さん。おやつをください。」という意味です。けれども、母が外で働くようになりますと、おやつは戸棚に入れておいてくれるようになりました。家に帰って来ても、黙って戸を開けて家に入るようになりました。ある時、いつものように家に帰って、直ぐに戸棚を明けておやつに手を伸ばしたときに、何とも言えない寂しさが込み上げてきました。ここに、母がいないということを実感したのです。それは、今の私の言葉で言いますと、おやつは付録で、母がいるということが一番大切なことであるということを実感したということです。 これと同じようなことでしょう。私たちが祈りにおいて受け取る「報い」は父なる神さまご自身です。祈りにおいて私たちが願ったことへの父なる神さまのお答えは、父なる神さまがご自身を私たちに与えてくださっていることと切り離して受け止めることはできません。私たちの祈りの目的は、私たちが御子イエス・キリストにあって父なる神さまに出会うこと、父なる神さまと語り合うこと、父なる神さまをより親しく知ること、父なる神さまの愛に浸ること、父なる神さまを愛することにあります。そして、それが祈りにおいて私たちが受け取る「報い」でもあります。 |
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