(第31回)


説教日:2005年9月18日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 これまで、主の祈りについてお話しするための前置きとして、私たちの祈りについてお話ししてきました。そして、その一つのこととして、私たちがこの世で経験する苦しみは、被造物全体が神の子どもたちとともに回復されることを求めてうめいていることの中に位置づけられるということをお話ししてきました。今日は、そのお話をまとめたいと思います。
 被造物全体が神の子どもたちとともに回復されるということは、ローマ人への手紙8章18節〜25節に記されていることです。その冒頭の18節には、

今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。

と記されています。
 ここで「今の時のいろいろの苦しみ」と言われているときの「今の時」は、永遠の神の御子であられるイエス・キリストが人の性質を取ってこの世に来てくださって、ご自身の民のために贖いの御業を成し遂げてくださった時から、その贖いの御業に基づいていっさいのものを回復し、新たに造り変えてくださるために再び来られる時までの期間を指しています。
 また、「今の時のいろいろの苦しみ」の「いろいろの苦しみ」は、イエス・キリストへの信仰のゆえに受ける迫害からくる苦しみというような特別な苦しみのことではなく、そのような特別な苦しみも含めて、さらに広い一般的な苦しみのことです。


 そのような苦しみは、天地創造の初めに神のかたちに造られた人が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまった時から始まっています。造り主である神さまに対して罪を犯した最初の人に対するさばきを記している創世記3章17節〜19節には、

 また、アダムに仰せられた。
  「あなたが、妻の声に聞き従い、
  食べてはならないと
  わたしが命じておいた木から食べたので、
  土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。
  あなたは、一生、
  苦しんで食を得なければならない。
  土地は、あなたのために、
  いばらとあざみを生えさせ、
  あなたは、野の草を食べなければならない。
  あなたは、顔に汗を流して糧を得、
  ついに、あなたは土に帰る。
  あなたはそこから取られたのだから。
  あなたはちりだから、
  ちりに帰らなければならない。」

と記されています。
 19節においては、

  あなたは、顔に汗を流して糧を得、
  ついに、あなたは土に帰る。
  あなたはそこから取られたのだから。
  あなたはちりだから、
  ちりに帰らなければならない。

と記されています。これは、これより前の2章7節に、

その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。

と記されていることを受けています。ここでは人は「土地のちり」で形造られたと言われています。そして、この「土地」と3章19節で、

  ついに、あなたは土に帰る。

と言われているときの「」は同じ言葉(アダーマー)です。そして、人が「土地のちり」で形造られたと言われているときの「ちり」と、

  あなたはちりだから、
  ちりに帰らなければならない。

と言われているときの「ちり」は同じ言葉(アーファール)です。これは非常に細かな粒子を表しています。そうしますと、3章19節に記されている、

  あなたは、顔に汗を流して糧を得、
  ついに、あなたは土に帰る。
  あなたはそこから取られたのだから。
  あなたはちりだから、
  ちりに帰らなければならない。

ということは、人が「土地のちり」で形造られたことから来ていることで、自然なことのような気がします。それが神である主のさばきの結果生じたことであるというのはおかしいような気がします。
 けれども、人は「土地のちり」で形造られたとしても、神のかたちに造られたときには、もはや「土地のちり」ではなくなっています。陶器はまさに「土地のちり」で作られています。でも、陶芸家によって作られた陶器は陶器であって「ちり」ではありません。それと同じことです。でも、その陶器も砕かれてしまえば陶器としての価値を失い、「ちり」に等しくなってしまいます。それと同じように、造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまった人間は、神のかたちとしての栄光と尊厳を失い、逆に、罪の暗やみと腐敗がそのうちに巣くうことになりました。そのようにして人間は「ちり」に等しくなってしまいました。
 それだけではありません。17節、18節において、

  土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。
  あなたは、一生、
  苦しんで食を得なければならない。
  土地は、あなたのために、
  いばらとあざみを生えさせ、
  あなたは、野の草を食べなければならない。

と言われていますように、人は労苦のうちに糧を得て生きる者となってしまいました。しかも、その労苦の生涯に何か報いがあるかというと、その生涯の行き着く先は死であるというのです。
 このように、最初の人アダムが神である主に対して罪を犯して御前に堕落してしまって以来、人間の神のかたちとしての栄光と尊厳性は大きく傷つけられ、罪の暗やみと腐敗が人のうちに巣くうことになりました。その罪の性質と罪責は子々孫々と受け継がれてきています。それで、人はすべて罪の性質を自らのうちに宿している者として生れてきます。そして、実際に思いと言葉と行いにおいて罪を犯します。この罪がもたらすものは、罪へのさばきとしての死であり滅びです。ローマ人への手紙6章23節に、

罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

と記されているとおりです。このように、すべての人が聖なる神である主のご臨在の御前から退けられている者として生れてきます。これが、堕落後の人の神である主の御前における実状です。
 ローマ人への手紙8章18節に記されている「今の時のいろいろの苦しみ」は、このような人間の罪に対するさばきから生じています。そうであれば、この世にある「いろいろの苦しみ」は決して訳の分からない理不尽な苦しみではありません。人間の罪に対する造り主である神さまの義に基づく聖なるさばきの結果として生じたものです。
 私たちがこの世で経験するさまざまな苦しみが訳の分からない理不尽な苦しみではないということを理解することは、とても大切なことです。それは、私たちが自らの罪を認めることによって初めて理解できることです。そして、先週お話ししたことですが、

  土地は、あなたのために、
  いばらとあざみを生えさせ、
  あなたは、野の草を食べなければならない。

という神である主のさばきの宣言の中の「あなたのために」という御言葉が示していますように、人間の罪による堕落によってもたらされた労苦そのものが、そのことを理解することを後押しする意味をもっています。
 この世にある「いろいろの苦しみ」が人間の罪に対する造り主である神さまの義に基づく聖なるさばきの結果として生じたものであり、決して訳の分からない理不尽な苦しみではないということは、この世界が初めからこのようにさまざまな苦しみに満ちている世界であったのではない、ということを意味しています。また、人は初めから、

  あなたは、顔に汗を流して糧を得、
  ついに、あなたは土に帰る。
  あなたはそこから取られたのだから。
  あなたはちりだから、
  ちりに帰らなければならない。

と言われるようなものに造られた訳ではないということを意味しています。言い換えますと、もし私たち人間が犯した罪が赦されることがあるなら、それによって積み上げられた負債が贖われることがあるなら、私たち人間は、

  あなたは、顔に汗を流して糧を得、
  ついに、あなたは土に帰る。
  あなたはそこから取られたのだから。
  あなたはちりだから、
  ちりに帰らなければならない。

と言われるようなものであり続ける必要はなくなります。
 とはいえ、私たち人間は自らのうちに罪の性質を宿していますから、思いと言葉と行いのすべてにおいて罪を犯します。そのために、自らの罪に対する神である主の聖なるさばきを積み上げてしまうものです。自分自身の力では罪を取り除くことも贖うこともできないばかりか、かえって、罪を犯し、さばきを積み上げてしまうものであるのです。このような状態にある私たち人間に対して、これをおさばきになるはずの神である主の方が、その一方的な恵みによって、私たちの罪を贖ってくださり、私たちを赦してくださると宣言してくださいました。それが、創世記3章15節に記されている、

  わたしは、おまえと女との間に、
  また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
  敵意を置く。
  彼は、おまえの頭を踏み砕き、
  おまえは、彼のかかとにかみつく。

という人類を罪へと誘った「蛇」の背後にあって働いていたサタンに対するさばきの宣言です。
 簡単にまとめますと、ここでは「」と呼ばれている贖い主が「おまえ」と呼ばれているサタンに対する最終的なさばきを執行すると言われています。同時に、この方との一体において「女の子孫」、すなわちこの方の民が、「おまえ」と呼ばれているサタンとその子孫に対立するようになることが記されています。神である主に敵対しているサタンとその子孫に対立するようになることは、神である主の側に立つようになることを意味しています。これが「最初の福音」と呼ばれます。これが福音であるのは、神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまっているために、自分の力では罪を取り除くことができないばかりか、かえって罪を犯し続けてさばきを積み上げてしまう状態になった人間に対して、神である主が一方的な恵みによって贖い主を約束してくださっているからです。
 このことは、先ほど引用しました最初の人に対するさばきの宣言の冒頭で、

  あなたが、妻の声に聞き従い、
  食べてはならないと
  わたしが命じておいた木から食べたので、
  土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。

と言われていることと深くかかわっています。
 神のかたちに造られている人間が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまったために、被造物も人間との一体においてのろいの下に置かれ、虚無に服してしまったということです。しかし、あの贖い主の約束は、被造物にも回復の望みがあるということを意味しています。あの「」と呼ばれている「女の子孫」のかしらであられる贖い主のお働きによって、「女の子孫」としての主の民が罪と死の力から贖い出されて、再び神のかたちの栄光と尊厳性を回復していただくことがあれば、それにともなって、被造物も回復されるようになるからです。
 これが、ローマ人への手紙8章19節〜21節に記されている、

被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。

という御言葉の背景となっています。
 被造物全体の回復は神のかたちに造られている人間が、贖い主が成し遂げてくださる贖いの御業にあずかって、本来の神のかたちとしての栄光と尊厳性を回復されることにともなって実現することです。このことは福音の御言葉において約束されている贖い主が成し遂げられた贖いの御業が宇宙大の意味をもっていることを示しています。
 すでに詳しくお話ししましたように、御子イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業が宇宙大の意味をもっていることは、コロサイ人への手紙1章19節、20節に、

なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。

と記されています。
 御子イエス・キリストは、すでにご自身の民のために十字架にかかって死んでくださり、贖いを成し遂げてくださいました。これによって、

被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。

と言われている、被造物の望みである神の子どもたちが出現しています。
 私たちはこのような「被造物の望み」としての意味をもっている存在であるのです。しかも、その「被造物の望み」としての意味をもっている私たちも、「今の時のいろいろの苦しみ」の中でうめきながら私たちの贖いが完全な形で実現することを待ち望んでいます。このように、私たちは「切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいる」被造物と一つになっているのです。
 エペソ人への手紙1章7節〜10節には、

私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。神はこの恵みを私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることであって、時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。

と記されています。
 気をつけていませんと、主の贖いの恵みは7節で、

私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。

と言われていることですべてであると考えてしまいます。それは、自分たちが救われることしか考えないためのことです。けれども、御言葉はさらなる恵みが注がれていると教えています。8節では、

神はこの恵みを私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。

と言われています。そして、その「みこころの奥義」については、9節、10節で、

それは、神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることであって、時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。

と言われています。
 父なる神さまがご自身の「みこころの奥義」を私たちに知らせてくださったのは、私たちをご自身の子としてくださっているからに他なりません。このエペソ人への手紙1章3節〜5節には、

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。

と記されています。ここでは、父なる神さまは、

私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられた

と言われています。そして、実際に、御子イエス・キリストの十字架の血によって私たちを罪と死の力から贖い出してくださり、「ご自分の子」としてくださいました。そのことの現れが、ご自身の「みこころの奥義」を私たちに知らせてくださったことにあるということです。
 事実、エペソ人への手紙は、このことを中心として展開しています。エペソ人への手紙の主題と考えられている教会論も、また、最後に出てくる霊的な戦いも、この神さまの「みこころの奥義」の実現とかかわっています。
 ただ、私はいろいろな経験から、私たちがこのことの大切さを悟ることは本当に難しいと感じています。さまざまな機会にいろいろな方々にこのことをお話しさせていただいてきましたが、このことに心を動かされたという応答は余り聞いたことがありません。確かに、このことから涙を流すような感動は得られないでしょう。しかし、そのような劇的な感動は一時的なもので直ぐにおさまってしまいます。けれども、父なる神さまがご自身の「みこころの奥義」を私たちに知らせてくださったということが私たちを神の子どもとしてくださっていることの現れであるということを悟りますと、静かで持続的な感動が私たちのうちにあるようになります。
 ここで言われている、

天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められること

とは、ローマ人への手紙8章19節〜21節で、

被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。

と言われていることが実現することに他なりません。
 言うまでもなく、それは、終りの日に栄光のキリストが再臨されて、ご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいてこの世界を再創造されることによって出現する新しい天と新しい地において完全な形で実現します。
 それは、私たちが主の祈りにおいて、

  御国が来ますように。
  みこころが天で行なわれるように
     地でも行なわれますように。

と祈り続けていることが実現することに他なりません。
 主の祈りの、

  御国が来ますように。
  みこころが天で行なわれるように
     地でも行なわれますように。

という願いは、これを、先ほど触れました、自分たちの救いのことしか考えない立場で理解しますと、自分たちが「今の時のいろいろの苦しみ」から解放されることを願うものとなってしまいます。もちろん、来たるべき「御国」において、私たちは「今の時のいろいろの苦しみ」からまったく解放されます。
 けれども、この、

  御国が来ますように。
  みこころが天で行なわれるように
     地でも行なわれますように。

という願いは、第一の祈りである、

  御名があがめられますように。

という願いに基づいています。父なる神さまの御名があがめられることが目的となっています。そして、このすべては、父なる神さまがご自身の子である私たちに示してくださった「みこころの奥義」が実現することと深くかかわっています。
 ですから、父なる神さまが、罪を贖われてご自身の子とされている者たちに、

天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められること

というご自身の「みこころの奥義」を示してくださっているので、私たちは、真の意味で、主の祈りを祈ることができるようになっているのです。
 さらに言いますと、父なる神さまのみこころは、私たちが、

  御名があがめられますように。
  御国が来ますように。
  みこころが天で行なわれるように
     地でも行なわれますように。

と祈る祈りにお応えになって、

天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められること

というご自身の「みこころの奥義」を実現してくださることにあります。
 終りの日には、栄光のキリストが再臨されて、ご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいて新しい天と新しい地を造り出してくださいます。父なる神さまはそのようにしてご自身の「みこころの奥義」を実現してくださいます。それは神さまの約束による確かなことです。父なる神さまのみこころは、それを「今の時のいろいろの苦しみ」の中にあってうめいている私たちの祈りにお応えになって実現してくださることにあります。
 終りの日には、栄光のキリストが来てくださり、私たちが祈り求めている被造物の回復を実現してくださり、新しい天と新しい地を造り出してくださいます。そして、私たちは、そこにご臨在される父なる神さまと御子イエス・キリストの御前でとこしえに生きるようになります。

 


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