(第94回)


説教日:2007年3月4日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 主の祈りの第2の祈りである、

 御国が来ますように。

という祈りの中心主題である神の国は、贖い主であられるイエス・キリストが、ご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいて治めてくださっておられる御国のことです。
 この神の国は、創世記1章27節、28節に記されている、天地創造の初めに神さまが人を神のかたちに創造されて、

生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

という歴史と文化を造る使命を委ねてくださったことと深くかかわっています。この歴史と文化を造る使命は、本来は、神の国の歴史と文化を造る使命であるのです。
 どういうことかと言いますと、神のかたちの本質は愛を特性とする人格的な存在であることにあります。神のかたちに造られている人は、歴史と文化を造る使命を果たすことの中で、礼拝を中心とする造り主である神さまへの愛とお互いへの愛を現します。そればかりでなく、自分たちに委ねられた生き物たちをも愛して、それらに仕えることを通して、愛を中心とした神のかたちの本質的な特性を現すようになります。それによって、造り主である神さまの聖なる属性を映し出す神の国の歴史と文化を造るのです。
 しかし、人が神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって、このような意味をもっている歴史と文化を造る使命の遂行は変質していまいました。人は歴史と文化を造ることを通して、罪によって腐敗した本性の自己中心的な特質を映し出すものになってしまいました。
 これに対して、神である主は人間の堕落の直後に贖い主を約束してくださいました。そして、実際に、ご自身の御子を贖い主として遣わしてくださいました。御子イエス・キリストはご自身の民の罪を負って十字架死にかかって死んでくださり、私たちの民の罪を贖ってくださいました。また、その十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通されたことへの報いとして栄光をお受けになり、死者の中からよみがえられました。そして、父なる神さまの右の座に着座され、そこから御霊を注いでくださいました。イエス・キリストは、この御霊によって、私たちをご自身の復活のいのちにあずからせてくださり、新しく生まれさせてくださいました。これによって、私たちは神のかたちの本来の姿に回復されています。そして、神さまを礼拝することを中心として、神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きる者、また、愛をもって互いに仕え合う者とされています。今お話ししていることとのかかわりで言いますと、私たちは愛を中心とする神さまの聖なる属性を映し出す神の国の歴史と文化を造る使命を遂行する者に回復していただいているということです。


 これまで、イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業によって本来の意味を回復された歴史と文化を造る使命と、イエス・キリストが弟子たちに委ねられた「大宣教命令」の関係についてお話ししてきました。そして、栄光を受けてよみがえられ、父なる神さまの右の座に着座されたイエス・キリストが歴史と文化を造る使命を原理的に成就されたことをお話ししました。そして、先週は、そのイエス・キリストが弟子たちに委ねられた「大宣教命令」は、天地創造の初めに神のかたちに造られた人に委ねられた歴史と文化を造る使命の言葉を繰り返すものではないことの意味についてお話ししました。
 簡単にまとめておきますと、永遠の神の御子イエス・キリストが贖い主として来てくださったとき、神のかたちに造られた最初の人アダム、神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまう前のアダムと同じ人の性質、つまり、最初に造られた本来の人の性質を取って来られました。そして、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通され、ご自身の民のために罪の贖いを成し遂げてくださいました。イエス・キリストはそのことに対する報いとして栄光をお受けになり、死者の中からよみがえられました。これは、最初の人アダムが歴史と文化を造る使命を果たすことにおいて完全に父なる神さまのみこころに従い通していたなら、その報いとして与えられていたであろう栄光でもあります。私たちはこのイエス・キリストのよみがえりにあずかっています。ですから、私たちは最初の人アダムが罪を犯す前の状態に回復されているのではありません。アダムが神さまのみこころに従い通していたなら受けていたであろう栄光の状態に回復されているのです。
 もちろん、この回復は原理的なものです。「原理的」ということは、それが実現するための条件はすべて整っており、すでに実現し始めているということ、そして、必ず完成に至るということを意味しています。私たちがイエス・キリストの栄光にあずかるために必要なことはすべてイエス・キリストご自身が成し遂げてくださいました。そして、そのことはすでに私たちのうちで実現し始めています。コリント人への手紙第2・3章18節に、

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

と記されているとおりです。また、このように私たちをイエス・キリストの栄光にあずからせてくださる御霊のお働きは必ず完成に至ります。ヨハネの手紙第1・3章2節に、

愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

と記されているとおりです。
 ですから、私たちは天地創造の初めにさかのぼって歴史と文化を新たに造り直すのではありません。イエス・キリストは、ご自身の民のために十字架にかかって罪の贖いを成し遂げられ、栄光を受けてよみがえられ、父なる神さまの右の座に着座されました。これによって、歴史と文化を造る使命を原理的に成就しておられます。
 私たちはこのイエス・キリストの栄光にあずかっています。そして、私たちは御霊によって栄光のキリストと一つに結び合わされて、イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれさせていただいています。それによって、私たちはキリストのからだとしての意味をもっている教会を形成しています。それを別の面から見ますと、かしらであられる栄光のキリストが治めておられる神の国のうちにある者とされているということになります。ニコデモとイエス・キリストの対話を記しているヨハネの福音書3章3節には、

まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。

というイエス・キリストの教えが記されています。また、5節には、

まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。

という教えが記されています。私たちは御霊のお働きによって、イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生れて、神の国の民とされています。
 このように、天地創造の初めに神のかたちに造られた人に委ねられた歴史と文化を造る使命は、イエス・キリストが十字架の死をもってご自身の民の罪を贖ってくださり、栄光を受けてよみがえられ、父なる神さまの右の座に着座され、御霊を注いでくださったことによって、新しい意味をもつようになりました。御霊のお働きによってイエス・キリストと一つに結び合わされ、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業にあずかって罪を贖っていただき、イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生れている者たちが、御霊に導かれて、神の国の歴史と文化を造るようになっているのです。このことを踏まえて、イエス・キリストは「大宣教命令」を与えてくださっています。
 「大宣教命令」のことを記しているマタイの福音書28章18節〜20節には、

イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

と記されています。
 これまで、イエス・キリストが最初に言われた、

わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。

という御言葉についてお話ししました。イエス・キリストはこれに続いて、、

それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。

とお命じになっておられます。
 ここでの中心の命令は「弟子としなさい」という動詞(マセーテウオー)で表されています。これに「行って」、「バプテスマを授け」、「教え」と訳されている三つの分詞がかかっています。ギリシャ語文法の上では、分詞は命令としての意味をもつことがありますので、最初の「行って」は(不定過去時制の分詞で、同じ不定過去時制の命令法の)「弟子としなさい」という命令と同じく、命令としての意味をもっていると考えることができます。新改訳の、

あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。

という訳はこのことを反映しています。
 新改訳は、これに続いて、

また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。

というように、「バプテスマを授け」と「教え」を独立した命令として訳し出しています。これも、分詞が命令としての意味をもつことがあることによっていると思われます。けれども、この二つの分詞は「弟子としなさい」という命令を具体的にどのようにして果たすのかを示していると考えられます。これらは現在分詞で、それが継続してなされることを意味しています。もちろん、ある一人の人に洗礼を授けることは、その生涯において1回限りのことです。けれども、弟子となる人々が世の終わりまでいるわけですから、その人々に洗礼を授けることは世の終わりまで継続的になされることです。
 このように、「大宣教命令」の中心は「弟子としなさい」という命令にあります。誰を弟子とするのかということについては「あらゆる国の人々を」と言われています。この命令の背後には神さまがアブラハムに与えてくださった契約の約束があります。神さまがアブラハムを召してくださったことを記している創世記12章1節〜3節には、

その後、主はアブラムに仰せられた。
 「あなたは、
 あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、
 わたしが示す地へ行きなさい。
 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、
 あなたを祝福し、
 あなたの名を大いなるものとしよう。
 あなたの名は祝福となる。
 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、
 あなたをのろう者をわたしはのろう。
 地上のすべての民族は、
 あなたによって祝福される。」

と記されています。
 そして、アブラハムがその子イサクをささげた後のことを記している創世記22章15節〜18節には、

それから主の使いは、再び天からアブラハムを呼んで、仰せられた。「これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」

と記されています。ここでは、アブラハムの「子孫」によって「地のすべての国々は祝福を受けるようになる」と言われています。この「すべての国々」が「大宣教命令」においてイエス・キリストが、

 あらゆる国の人々を弟子としなさい。

と言われたときの「あらゆる国の人々」に当たります。新改訳の「あらゆる国の人々」は文字通りには「あらゆる国々」で「人々」は補足です[旧約聖書のギリシャ語訳である70人訳とギリシャ語新約聖書では同じ言葉(パンタ・タ・エスネー)が用いられています]。
 ですから、「大宣教命令」は、神さまがアブラハムに、

 地上のすべての民族は、
 あなたによって祝福される。

と約束してくださったこと、より具体的には、

あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。

と約束してくださったことの成就としての意味をもっています。もちろん、その祝福の土台は、アブラハムの子孫として来られたイエス・キリストが十字架にかかって死んでくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださったこと、そして、父なる神さまの右の座から御霊を注いでくださったことにあります。
 ガラテヤ人への手紙3章13節、14節には、

キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。

と記されています。ここで、

このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり

と言われているときの「異邦人」と訳されている言葉は「大宣教命令」で「あらゆる国々」と言われているときの「国々」と同じ言葉(タ・エスネー)です。ここでは、さらに、

その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。

と言われています。
 私たちが御霊を受けているということには、いろいろな意味があります。今お話ししていることとのかかわりで言いますと、私たちがこの御霊によって栄光のキリストと一つに結び合わされて、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業にあずかり、罪を贖っていただき、イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生れているということを意味しています。これによって、私たちはキリストのからだである教会と神の国の民に加えられており、御霊に導かれて、神の国の歴史と文化を造る者とされているのです。
 先ほどお話ししましたように、「大宣教命令」において、「あらゆる国の人々」を弟子とすることは、「父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授ける」ことによって、また、イエス・キリストが命じておられるすべてのことを「教える」ことによってなされます。(今日は、「父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授ける」ことについてしかお話しできません。)
 「父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授ける」の「御名によって」ということは、文字通りには「御名の中へ」ということです。これは、「あらゆる国の人々」が御父、御子、御霊のものとなり、御父、御子、御霊との関係において生きる者となるように、その人々を御父、御子、御霊の御名に結びつけることを意味しています。言うまでもなく、そのことを私たちの現実としてくださるのは御霊です。御霊は、御子イエス・キリストが父なる神さまのみこころにしたがって成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになり、私たちの罪をきよめてくださり、私たちをイエス・キリストの復活のいのちによって生かしてくださいます。このイエス・キリストの復活のいのちこそ、永遠のいのちであり、その本質は神さまとの愛にあるいのちの交わりと、お互いに愛をもって仕え合うことにあります。ヨハネの手紙第1・1章3節には、

私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。

と記されています。「父、子、聖霊の御名によって」洗礼を受けた私たちは、御霊によって、「御父および御子イエス・キリストとの交わり」のうちに生きるようになります。
 洗礼は、イエス・キリストが十字架の上で流された血による新しい契約の礼典であり、栄光のキリストが父なる神さまの右の座から注いでくださった御霊を受けていることを礼典的(サクラメンタル)に表すものです。「礼典的に表す」というのは、単なる象徴ということではなく、贖いの恵みによって生み出された見えない現実を、見える形で表示するもので、信仰によってそれにあずかる者たちに、栄光のキリストが、それが表している贖いの恵みを、御霊によって伝えてくださるということです。栄光のキリストが御霊を注いでくださった最初の日(ペンテコステの日)の出来事の意味を説明しているペテロの説教を記している、使徒の働き2章33節には、

ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。

と記されています。この少し後の37節で、ペテロは人々に、

悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。

と述べています。ここには洗礼と栄光のキリストが注いでくださった聖霊を受けることとのつながりが示されています。
 ちなみに、ここでは、洗礼のことが「イエス・キリストの名によって」(文字通りには、「イエス・キリストの御名に基づいて」)と言われています。もちろん、新しい契約の礼典である洗礼は一つであり、「大宣教命令」における「父、子、聖霊の御名によって」の洗礼と同じ洗礼です。
 「大宣教命令」において、「父、子、聖霊の御名によって」洗礼を授けるように命じられているのは弟子たちです。それで、洗礼は弟子たちが授けます。しかし、その洗礼が表示していることを実現してくださるのは栄光のキリストご自身です。栄光のキリストが、御霊によって、私たちをご自身と一体になるように結び合わせてくださり、ご自身の復活のいのちによって生かしてくださり、神の国の歴史と文化を造るように導いてくださるのです。ですから、「大宣教命令」は。栄光のキリストが、御霊によって、ご自身の民を通して遂行して下り、実現してくださり、完成へと至らせてくださるものです。

 


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