(第30回)


説教日:2005年9月11日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 今日も、主の祈りについてお話しするための前置きとしてのお話を続けます。これまで、私たちがこの世で経験する苦しみについて、祈りとの関係でお話ししてきました。そして、その一つのこととして、私たちがこの世で経験する苦しみはローマ人への手紙8章18節〜25節に記されている、被造物全体が神の子どもたちとともに回復されることを求めてうめいているということの中に位置づけられるということをお話ししてきました。
 ローマ人への手紙8章18節〜25節の冒頭の18節には、

今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。

と記されています。
 ここでは、「今の時のいろいろの苦しみ」が「将来私たちに啓示されようとしている栄光」と対比されています。この場合の「今の時のいろいろの苦しみ」の「今の時」は、すでにお話ししましたように、イエス・キリストが人の性質を取って来てくださって、ご自身の民のために贖いの御業を成し遂げてくださった時から、その贖いの御業に基づいていっさいのものを回復し、新たに造り変えてくださるために再び来られる時までの期間を指しています。それで、「将来私たちに啓示されようとしている栄光」というのは、世の終りに再臨される栄光のキリストが、ご自身がすでに十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいて、新しい天と新しい地を再創造してくださることによって示されるようになる栄光です。その時、私たち主の民は、イエス・キリストの復活の栄光にあずかって、栄光あるものによみがえります。それによって、29節、30節で、

なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。

と言われていることが完全な形で実現します。


 言うまでもなく、

今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。

と言われているときの「今の時のいろいろの苦しみ」は、私たちがこの世で経験しているさまざまな苦しみのことです。そうしますと、「将来私たちに啓示されようとしている栄光」も「新しい時代」、「来たるべき時代」に私たちがあずかる栄光のことであると考えられます。それは、この18節の前の17節において、

もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。

と言われていて、18節は17節で言われていることを受けているという点からも支持されるように思われます。そうしますと、「将来私たちに啓示されようとしている栄光」とは、私たちがイエス・キリストの復活の栄光にあずかって栄光あるものに造りかえられることを意味しているということになります。
 この点はそのとおりであると考えられますが、ここには、それをどのように受け止めるかという問題があります。これにはいくつかの問題がありますが、その一つは、これを、今この世では苦しみが多いけれど、やがてイエス・キリストが再臨されて、ご自身が成し遂げてくださった贖いの御業に基づいて私たちの救いを完成してくださるようになると、もはやその苦しみもなくなるというように受け止めかねないということです。今日はこのことについてお話しします。
 イエス・キリストが再臨されて、ご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいてすべてを回復し、新しく造り変えてくださる時には、いま私たちがこの世で経験しているような苦しみはいっさいなくなるということ自体は確かなことです。ただ、問題は、このローマ人への手紙8章18節に、

今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。

と記されていることは、そのようなことを言っているのかということです。言い換えますと、ここで言われている「今の時のいろいろの苦しみ」は何の意味もない苦しみで、とにかくそれがなくなりさえすればいいというようなものなのだろうかということです。
 このことを考える前に、この18節で言われている「今の時のいろいろの苦しみ」の「苦しみ」について見ておきたいと思います。ここで言われている「苦しみ」(タ・パセーマタ)は一般的な苦しみです。イエス・キリストを信じて、イエス・キリストに従っているために受ける苦しみを含むことはもちろんですが、その苦しみだけを指すものではありません。この「苦しみ」は、最初の人アダムが神である主に対して罪を犯して御前に堕落してしまったことに対するさばきとしての意味をもっている「苦しみ」です。創世記3章17節〜19節には、最初の人アダムに対するさばきのことが、

  また、アダムに仰せられた。
  「あなたが、妻の声に聞き従い、
  食べてはならないと
  わたしが命じておいた木から食べたので、
  土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。
  あなたは、一生、
  苦しんで食を得なければならない。
  土地は、あなたのために、
  いばらとあざみを生えさせ、
  あなたは、野の草を食べなければならない。
  あなたは、顔に汗を流して糧を得、
  ついに、あなたは土に帰る。
  あなたはそこから取られたのだから。
  あなたはちりだから、
  ちりに帰らなければならない。」

と記されています。
 ここでは、まず、

  あなたが、妻の声に聞き従い、
  食べてはならないと
  わたしが命じておいた木から食べたので、
  土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。

と言われています。先週も触れましたが、神さまは天地創造の御業において人を神のかたちにお造りになりました。そして、創世記1章28節に、

神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されていますように、神さまは神のかたちに造られている人間に、ご自身がお造りになったこの世界とその中にあるものを、ご自身のみこころに従って治め、そのことをとおして歴史と文化を造る使命を委ねてくださいました。これによって、神さまがお造りになったこの世界のすべてのものが、神のかたちに造られている人間と一つに結ばれたのです。
 本来ですと、神のかたちに造られている人間が造り主である神さまから委ねられた歴史と文化を造る使命を、神さまのみこころに従って果たすことによって、そのことに対する報いとして栄光を受けるはずでした。そして、そのように栄光ある状態で、神である主とのより豊かないのちにある交わりのうちに生きるようになるはずでした。それはまた、神のかたちに造られている人間との結びつきにあるものとされたこの世界のすべてのものが、それぞれにふさわしい栄光にあずかることを意味していました。
 けれども実際には、神のかたちに造られている人間は造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまいました。そのために、人間は神である主のさばきによって死の力に服すもの、そして、神さまの御前に滅びるべきものとなってしまいました。先ほど引用しました創世記3章19節に、

  あなたは、顔に汗を流して糧を得、
  ついに、あなたは土に帰る。
  あなたはそこから取られたのだから。
  あなたはちりだから、
  ちりに帰らなければならない。

と記されているとおりです。
 このように、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられた人間が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまったことによって、神のかたちに造られている人間と一つに結び合わされているこの世界にも虚無が入り込んできました。そのことが17節で、

  あなたが、妻の声に聞き従い、
  食べてはならないと
  わたしが命じておいた木から食べたので、
  土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。

と言われているわけです。
 そして、これに続く17節後半と18節には、

  あなたは、一生、
  苦しんで食を得なければならない。
  土地は、あなたのために、
  いばらとあざみを生えさせ、
  あなたは、野の草を食べなければならない。

と記されています。
 ここには、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられた人間が労苦のうちに食べ物を得なければならなくなった状況が記されています。これは、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられた人間の本来のあり方からなんとずれてしまっていることでしょう。
 2章15節に

神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。

と記されていますように、神のかたちに造られた人は、自分が置かれたエデンの園を耕すようになりました。それは、1章28節において、

生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。

と記されている歴史と文化を造る使命を果たすことの具体的な現れでした。そして、エデンの園は神である主がご臨在される場所で、そこには神である主のご臨在に伴う豊かさがあふれておりました。そこを耕すことは、神である主のご臨在の御前での働きであり、神である主との愛にあるいのちの交わりのうちにある者としての働きでした。その意味で、それは、まことに実り豊かな働きであったわけです。それが、神である主に罪を犯して御前に堕落してしまったことによって、食べるために労苦するという意味での働きになってしまいました。そして、

  土地は、あなたのために、
  いばらとあざみを生えさせ、
  あなたは、野の草を食べなければならない。

と記されていますように、「土地」は、

生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。

という造り主である神さまの祝福による使命を負っているはずの人間の労苦を増し加えるものとして立ち現れてくるようになりました。しかも、そのような状態になった人の労苦の行き着くところは、19節で、

  あなたは、顔に汗を流して糧を得、
  ついに、あなたは土に帰る。
  あなたはそこから取られたのだから。
  あなたはちりだから、
  ちりに帰らなければならない。

と言われていますように、死であり、さらには、最終的には霊的な死としての滅びであったのです。
 ローマ人への手紙8章18節で

今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。

と言われているときの「今の時のいろいろの苦しみ」は、これらのことから生れてきています。
 先ほどお話ししましたように、この場合の「苦しみ」は一般的な苦しみのことで、イエス・キリストを信じているために受ける迫害の苦しみに限られるものではありません。神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられた人間が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまったことによって、被造物も人間との一体においてのろいを受けることになりました。そのことから、さまざまな形の自然の災害とか、危害を加える生き物の存在などが生れてきています。さらに、人間自身が自らの罪の自己中心性のために互いに争い、自分たちに委ねられた自然を汚染し破壊したり、生き物たちを搾取して絶滅に追い込んだりしてきました。そして、その生涯をとおして造り主である神さまに背き続けて、さばきをその身に積み上げ、死と滅びの道を突き進んでしまっています。これらすべてが、「今の時のいろいろの苦しみ」を構成しています。
 ここには、今お話ししていることと関連している一つの問題があります。それは、もし「今の時のいろいろの苦しみ」がこのようなものであれば、それは、人類の堕落とともに始まったものです。ところが、すでにお話ししましたように、「今の時のいろいろの苦しみ」の「今の時」は、イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださり、死者の中からよみがえってくださって贖いの御業を成し遂げてくださって、父なる神さまの右の座に着座され、そこから御霊を遣わしてくださってから、ご自身の民の救いを完成してくださるために終わりの日に再び来られる時までの期間を指しています。この期間に神の子どもである私たちが経験する苦しみが、ここで言われている「今の時のいろいろの苦しみ」です。このことをどのように考えたらいいのでしょうか。
 結論的に言いますと、永遠の神の御子であられるイエス・キリストが十字架にかかって死んでくださり、栄光をお受けになって死者の中からよみがえってくださって贖いの御業を成し遂げてくださったことによって、主の民がこの世で経験する苦しみの意味がまったく変わってしまったのです。
 どういうことかと言いますと、人がこの世で経験するさまざまな苦しみは、死を映し出し、ついには死に至る苦しみです。それは、人が絶対的に聖く義であられる神さまのさばきの下にあることの現れに他なりません。先ほど引用しました創世記3章19節で、

  あなたは、顔に汗を流して糧を得、
  ついに、あなたは土に帰る。
  あなたはそこから取られたのだから。
  あなたはちりだから、
  ちりに帰らなければならない。

と言われているとおりです。
 これに対して、人がこの世で経験する苦しみには教育的な意味があると言われることでしょう。それは、そのとおりです。実際、創世記3章18節では、

  土地は、あなたのために、
  いばらとあざみを生えさせ、
  あなたは、野の草を食べなければならない。

と言われていました。「土地」が「いばらとあざみを生えさせ」ることは、人間の労苦を増し加えることです。その意味で、これは「土地」へののろいの結果が人間に降りかかってくることを意味しています。ところが、ここで神である主は、そのことが「あなたのために」と言われました。人はその労苦の中で自らが犯してしまった罪の現実と向き合うことになるのです。それは、自らの罪の現実から目を背けてしまうことよりは幸いなことです。
 けれども、そのことから自らの罪の現実に目を向けて、神である主が約束してくださっている贖い主を信じ、その贖い主が成し遂げてくださる贖いにあずかることがなければ、それは空しいことになってしまいます。
 このように、人がこの世で経験するさまざまな苦しみは、死を映し出し、ついには死に至る苦しみです。それは、人が絶対的に聖く義であられる神さまのさばきの下にあることの現れに他なりません。けれども、イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださり、栄光をお受けになって死者の中からよみがえってくださって贖いの御業を成し遂げてくださったことによって、その贖いの御業にあずかって罪を赦されている者たちにとっては、この世で経験するさまざまな苦しみは、死を映し出し、ついには死に至る苦しみではなくなったのです。それは、絶対的に聖く義であられる神さまのさばきの下にあることの現れではなくなったのです。ローマ人への手紙8章23節に、

そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。

と記されていますように、神の子どもたちがこの世で経験するさまざまな苦しみは、いまだ「私たちのからだの贖われること」が実現していないことの現れとなっているのです。言い換えますと、まさにここで、

御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。

と言われていますように、神の子どもである私たちは、この世で経験するさまざまな苦しみの中で、「からだの贖われること」すなわち終りの日に栄光のキリストが再び来てくださって、私たちのからだを復活のからだに造り変えてくださることを待ち望んでいるのです。コリント人への手紙第・5章4節では、今のこの肉体を幕屋にたとえて、

確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。

と言われています。
 このように、人間がこの世で経験するさまざまな苦しみは、もともと、人間の罪による堕落の結果としての死を映し出し、ついには死と滅びに至るものであり、人間が絶対的に聖く義であられる神さまのさばきの下にあることの現れです。それは、いまだ最終的なさばきは執行されていないことを表すものです。それが、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる罪の贖いにあずかって神の子どもとされている私たちにとっては、いまだ、イエス・キリストの復活にあずかってからだが栄光のからだに造り変えられていないことの現れとしての意味をもつようになりました。それは、やがて私たちが霊魂ばかりでなく肉体も栄光化されるという希望にあって経験する苦しみとなりました。この変化は、御子イエス・キリストがご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりによって私たちのために贖いの御業を成し遂げてくださったことによっています。
 そうであるからといって、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業にあずかって罪を赦していただいており、その復活のいのちにあずかって新しく生れている神の子どもたちの苦しみが少なくなるということはありません。私たちも人間との一体においてのろいを受けて、虚無に服しているこの世界に住んでいます。そのことから来るさまざまな苦しみを経験します。そればかりではありません。私たちは御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業にあずかって罪をまったく贖われ神の子どもとしていただいているからこその苦しみを経験します。それは、イエス・キリストを主として従うために受ける迫害の苦しみだけではありません。それ以上に、今なお罪の性質を内に宿している者として、実際に罪を犯して神さまを悲しませます。神さまに信頼すると言いながら、己の力を頼みとします。愛すべき時に冷淡であり、しばしば怒りや憎しみを抱き、聖くあるべき者が汚れに身を委ね、福音の真理の追究に熱心ではなく、全被造物のうめきを聞きながらも、心が痛まず、そのために熱心に祈ることもしません。これらの自らの現実が大きな痛みをともなう苦しみとなってきます。神の子どもたちにとっては、「今の時のいろいろの苦しみ」はよりいっそう大きなものであるのです。そして、そうであるからこそ、私たちはよりいっそう切なる思いで、完全に贖われること、すなわち、からだのよみがえりの時を待ち望んでいます。
 このように、ローマ人への手紙8章18節で「今の時のいろいろの苦しみ」と言われているのは、そのようにイエス・キリストの贖いの御業の成就とともに、まったく新しい意味をもつようになった苦しみのことを指しています。その意味で、「今の時のいろいろの苦しみ」の「今の時」は、御子イエス・キリストがご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりによって私たちのために贖いの御業を成し遂げてくださった時から、終りの日に私たちの救いを完成してくださるために再び来てくださる時までの期間を指しているのです。
 そして、そのような意味をもっている「今の時のいろいろの苦しみ」は、決して無意味な苦しみではありません。それは、私たちの目を覚まさせ、終りの日に栄光のキリストが来てくださって救いを完成してくださることを切に待ち望むように、私たちを導く役割を果たしています。私たちはこのような意味をもっている苦しみの中でうめきながら、

  御国が来ますように。
  みこころが天で行なわれるように
     地でも行なわれますように。

と、切なる思いをもって祈っています。

 


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