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説教日:2005年9月4日 |
ローマ人への手紙8章18節〜25節の冒頭の18節には、 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。 と記されています。ここでは、「今の時のいろいろの苦しみ」が「将来私たちに啓示されようとしている栄光」と対比されています。 すでにお話ししましたように、「今の時のいろいろの苦しみ」の「今の時」は、イエス・キリストの初臨、すなわち、イエス・キリストが人の性質を取って来てくださって、ご自身の民のために贖いの御業を成し遂げてくださった時から、再臨までの時代を指しています。私たちの贖い主となってくださるために人の性質を取って来てくださったイエス・キリストは、十字架にかかって私たちのために罪の贖いを成し遂げてくださり、私たちを新しいいのちに生かしてくださるために死者の中からよみがえってくださいました。さらに、天に昇って父なる神さまの右の座に着座され、そこから、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業に基づいて私たちの間でお働きになる御霊を遣わしてくださいました。これがイエス・キリストが私たちのために今から2千年前に成し遂げてくださった贖いの御業です。 その時から、イエス・キリストが遣わしてくださった御霊が私たちをイエス・キリストに結び合わせてくださり、私たちをイエス・キリストが成し遂げてくださった贖いにあずからせてくださるお働きをしてくださっています。私たちはこの御霊のお働きによって、新しく生まれイエス・キリストの復活のいのちによって生かされています。 そして、世の終わりには、イエス・キリストが再び来てくださって、御霊によって私たちのうちに始めてくださっている救いを完成してくださいます。イエス・キリストはすべての者をご自身の義の尺度にしたがっておさばきになり、人間の罪を完全に清算されます。そして、贖われた者たちが住まうための新しい天と新しい地を再創造してくださいます。その時にイエス・キリストは「将来私たちに啓示されようとしている栄光」を私たちの現実としてくださいます。 ですから、「今の時のいろいろの苦しみ」は、イエス・キリストと一つに結ばれている者にとっては無意味な苦しみではなく、「将来私たちに啓示されようとしている栄光」につながっているのです。 今日は、このこととの関連で一つのことをお話ししたいと思います。それは、終わりの日に再臨されるイエス・キリストによって再創造される新しい天と新しい地は、今私たちが住んでいるこの世界、すなわち、最初の創造の御業によって造られた天と地と無関係に造られるものではないということです。 ローマ人への手紙8章21節において、 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。 と明言されていますように、終わりの日に再臨されるイエス・キリストは、今私たちの住んでいるこの世界を、ご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいて回復してくださいます。このことは、先週取り上げましたコロサイ人への手紙1章19節、20節において、 なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。 と記されていることにも示されています。ここで取り上げられている「万物」は最初の創造の御業によって造られたもののことです。神さまはこの「万物」を、御子イエス・キリストの十字架の血によってご自身と和解させてくださいました。ですから、終わりの日には、この「万物」が回復されるのです。 そればかりではありません。そのようにして再創造される新しい天と新しい地は、最初の創造の御業によって造られた天と地が元の状態に回復されるのではなく、栄光化された状態に造り出されるものです。 それは、最初の創造の御業によって造られたこの世界に欠けがあるから、その欠けを補ってよりよい世界にするということではありません。天地創造の御業の完成を記している、創世記1章31節には、 そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。 と記されています。 見よ。それは非常によかった。 と言われていますように、最初に造られた状態のこの世界は、造り主である神さまがご覧になっても「非常によかった」のです。そこには何の欠けもありません。そうではあっても、神さまはこの世界を、その後もずっと最初に造られた状態のままである世界としてお造りになったのではありません。 天地創造の御業それ自体が創造の御業の六つの日にわたって最初の状態から最後の完成にまで至る御業でした。もちろん、それは神さまの御力の限界によることではありません。知恵と力において無限、永遠、不変の神さまは、一瞬のうちに完成した宇宙をお造りになることがおできになります。そうではあっても、神さまは、天地創造の六つの日にわたって御業をなさいました。このことは、そのようにして造られた世界の特質を示しています。それは、この世界は本質的に時間的な世界、最初の状態から完成に至る歴史的な世界であるということです。 このように、神さまはこの世界を歴史的な世界としてお造りになりました。創造の御業によってこの世界は歴史的に発展するようになる世界として完成しています。それは歴史の出発点としての完成です。 どういうことか、一つのたとえによって考えてみましょう。マタイの福音書13章31節、32節には、 イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、からし種のようなものです。それを取って、畑に蒔くと、どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります。」 と記されています。これは、イエス・キリストが教えられた神の国のたとえの一つで「からし種のたとえ」として知られているものです。このたとえそのものの意味とは離れますが、この「からし種」の最初の状態は、文字通り小さな種です。けれども、これが蒔かれて芽を出し生長しますと、空の鳥が来て巣を作るほど大きな木となります。そのようにきちんと芽を出して生長する種は、とてもよい種です。それは種として見たときに何の欠けもないということです。けれども、種は種であって、まだ大きな木とはなっていません。種の状態と大きな木の状態の間には、生長という歴史があります。種の状態から始まって、蒔かれて芽を出し、生長して大きな木となるという歴史です。 これにたとえて言いますと、最初の創造の御業によって造り出された天と地は「種」にたとえられます。それはこの世界の歴史の出発点です。言い換えますと、この世界の歴史の出発点は、神さまの創造の御業によって備えられたのです。その種が生長して大きな木となった状態に当たるのが、歴史の終わりに再臨されるイエス・キリストが再創造される新しい天と新しい地です。もちろん、これは天地創造の御業によって造り出された世界が、放っておいても自然と発展するという意味ではありません。その歴史を造る使命は、神のかたちに造られて、創世記1章28節に、 神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」 と記されている祝福を与えられている人間に委ねられています。同時に、神さまはこの世界が歴史的に発展するために、この世界にさまざまな可能性を備えてくださっています。 このようにして、神さまの創造の御業によって始められたこの世界の歴史は、神のかたちに造られ、歴史と文化を造る使命を委ねられた人間が造るものです。 そして、そのような歴史を造るための時が、創世記2章1節〜3節において、 こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。 と記されている、創造の御業の第七日です。 神さまが創造の御業の第七日を祝福して聖別してくださったことは、創造の御業の第一日から第六日の間になされた祝福と少し違っています。創造の御業の第一日から第六日の間になされた祝福は二つあります。その最初のものは、創世記1章22節に、 神はまた、それらを祝福して仰せられた。「生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は、地にふえよ。」 と記されています。これは天地創造の第四日に、初めて「いのちあるもの」が造られたことを受けてなされた祝福です。それは、その後に造り出された動物たちを含むすべての生き物たちにも及ぶ祝福であると考えられます。もう一つの祝福は、先ほど引用しました1章28節に記されている、神のかたちに造られている人間への、 神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」 という祝福です。 これら二つの祝福は、神さまが創造の御業の中で造り出された「いのちあるもの」を祝福してくださったものです。もちろん、これは、最初に造り出されたものだけに与えられた祝福ではなく、生き物たちや神のかたちに造られている人間が、その後、生れて増え広がっていくことの全体に及ぶ祝福です。その意味では、この祝福によって、神のかたちに造られている人間に委ねられた歴史と文化を造る使命の遂行に関わるすべての活動が祝福されていると考えられます。 もし2章1節〜3節に記されている祝福がこれら二つの祝福と同じ性格のものであったのであれば、神さまが天地創造の御業によって最初に造り出された世界、すなわち1章31節で、 そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。 と言われている状態の世界を祝福してくださるということになります。その場合には、それは第六日になされていたはずです。けれども、実際には、神さまは創造の御業の第七日を祝福して聖別してくださいました。 この創造の御業の第七日は、 こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。 という御言葉から分かりますように、造り主である神さまの安息の日として祝福されており、聖別されています。 この創造の御業の第七日、神さまがご自身の安息の時として祝福して聖別してくださっている第七日が、今日に至るまでの時間となっています。先ほど触れましたように、この第七日が神のかたちに造られている人間が歴史を造る時となっています。ですから、神のかたちに造られている人間が自分たちに委ねられた歴史と文化を造る使命を果たすということは、神さまの安息の完成にかかわる使命を果たすということに他なりません。 そして、この第七日は世の終わりにイエス・キリストが再臨されて、すべての罪を清算し、ご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいて、新しい天と新しい地を再創造される時まで続きます。言い換えますと、世の終わりにイエス・キリストが再臨されて、ご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいて、新しい天と新しい地を再創造されることによって、神さまの安息が完成するのです。そして、それによって歴史に区切りがつけられ「新しい時代」が始まります。その意味で、この「新しい時代」は、神さまの安息の完成としての意味をもっている時代でもあります。 それにしても、神さまの安息とは一体でのようなことなのでしょうか。そのことをもう少し考えてみたいと思います。 旧約聖書を見ますと、安息日に関する戒めは、基本的に十戒の第四戒として与えられています。そして、主の民が安息日を覚えて聖なる日とすべきことの根拠として二つのことが挙げられています。 出エジプト記20章8節〜11節には、 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。 と記されています。 ここでは11節で、 それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。 と言われていますように、主の民が安息日を覚えて聖なる日とすべきことは、神さまが創造の御業の第七日に創造の御業からお休みになり、その日を祝福して聖別してくださったことによっています。 これは、主の民が神さまがなさることにならうということではありますが、それはただ真似をするということではありません。それ以上に、この安息の日に主の民が神である主のご臨在の御前に出でて、主を神としてあがめて礼拝することが大切な意味をもっています。 言うまでもなく、神さまが創造の御業の第七日にお休みになったのは、神さまがお疲れになったからではありません。知恵と力において無限、永遠、不変の神さまがお疲れになるというようなことは決してありません。また、あらゆることにおいて無限、永遠、不変の豊かさに満ちておられる神さまには、何かが欠けていて満たされていないので心が落ち着かず、休みが必要であるということもありません。そうであるのに、神さまは創造の御業の第七日に創造の御業からお休みになって、この日をご自身の安息の日として祝福し、聖別されました。 これは一体どういうことでしょうか。これは、あらゆる点において無限、永遠、不変の豊かさに満ちておられる神さまご自身のうちに何らかの必要があって、それが原因でお休みになったということではありません。そうではなくて、これは、神さまが天地創造の御業によってご自身の愛をご自身の外に向けて表されたということと関わっていると考えられます。エペソ人への手紙1章3節〜5節には、 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。 と記されています。 ここでは、神さまが永遠から私たちをイエス・キリストのうちにあるものとしてお選びくださり、ご自身の御前に聖く傷のない者として立たせてくださり、愛のうちに、ご自身の子として定めてくださったと言われています。創造の御業はこのことを実現してくださるための御業でした。その意味において、ご自身の民に対する神さまの愛がまっとうされることなくして、創造の御業における神さまの安息がまっとうされることはありません。そして、愛は一方通行のものではありません。永遠からの神さまの私たちへの愛が実現するということは、神さまと私たちの間に愛の交わりが実現するということです。 神さまが創造の御業の第七日を祝福して聖別してくださったことは、このことに関わっていると考えられます。創造の御業の第七日は造り主である神さまと神のかたちに造られている人間の間に愛の交わりが通わされる時として祝福され、聖別されているということです。このように考えますと、主の民である私たちが安息日を覚えて、これを聖なる日とするように求められていること、そして、この日に神である主のご臨在の御前に出でて、主を神としてあがめて礼拝することの意味を理解することができます。それは、神さまの永遠からの私たちへの愛が私たちを包んでくださるためのことです。そして、私たちも神さまとの愛のうちに生きる者であることを最も豊かに表すためのことです。 このことを、先ほどお話ししました、創世記1章28節に記されています、 神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」 という祝福との関連で考えてみましょう。この祝福は造り主である神さまが神のかたちに造られている人間に歴史と文化を造る使命を委ねてくださったことに関わっています。そして、これは、神のかたちに造られている人間が歴史の終わりの完成の時までその使命を果たし続けることの全体を覆っている祝福です。その意味で、これは歴史全体を覆っている祝福です。そうしますと、これと創造の御業の第七日を祝福し聖別してくださったことがどのように関わっているかが問題となります。というのは、創造の御業の第七日は神のかたちに造られている人間が委ねられた使命を果たして歴史を造るための時であるからです。 特に、今日の私たちの目から見ますとそのように見えることなのですが、 生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 という祝福だけを見ますと、それは常に、また限りなくその使命を果たすことに生きるということを意味しているように見えます。歴史と文化を造る使命は大切な使命です。それは、創造の御業が大切な御業であることに比べられます。けれども、創造の御業において神さまはお疲れになったからではなく、もっと積極的な意味で、創造の御業の第七日をご自身の安息の日として祝福し聖別してくださいました。そして、神のかたちに造られている人間にも、歴史と文化を造る使命を果たすための働きから休んで、安息の日を聖なる日とするようにという戒めを与えてくださいました。 創造の御業の第七日は造り主である神さまが神のかたちに造られている人間に愛を注いでくださり、人間との愛の交わりをもってくださるために祝福してくださり、聖別してくださった時です。そして、この第七日は終わりの日の歴史の完成の時まで続きます。ですから、神のかたちに造られている人間は、このような基本的な性格をもっている創造の御業の第七日に生きています。その中で、歴史と文化を造る使命を果たす働きをします。けれども、その働きがどんなに大切なものであっても、安息の日にはその手を止めて造り主である神さまのご臨在の御前に出でて、親しく神さまの愛に包んでいただき、神さまを愛し、神さまをあがめて礼拝することが、この第七日に生きることの中心にあります。 このように、造り主である神さまの安息の時として祝福され、聖別されている創造の御業の第七日に生きることは、神さまから委ねられた歴史と文化を造る使命という大切な使命を果たすことの中でのことです。そうではあっても、その使命を果たすことの中心には、その手を止めて、直接的に造り主である神さまに心を向け、神さまを礼拝し、その恵みとまことに満ちた栄光を讚えることがあります。 そのことの大切さは、人類が罪を犯して神さまの御前に堕落してしまった後に、絶えず働き続け、ついには仕事の奴隷のようになってしまう現実がある中で意味をもってきます。そして、そのことは、安息日に関する戒めのもう一つの根拠として示されています。 その戒めは、申命記5章12節〜15節に記されています十戒の第四戒の戒めに見られます。その根拠に当たる部分を記している15節には、 あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、主は、安息日を守るよう、あなたに命じられたのである。 と記されています。 ここでは、創造の御業ではなく、神である主が出エジプトの贖いの御業をなしてくださったことが、主の民が安息の日を覚えてこれを聖別することの根拠となっています。エジプトの奴隷の状態にあったイスラエルの民は、文字通り、仕事の奴隷となっていました。神である主はそのようなイスラエルの民を贖い出してくださり、奴隷の状態から解放してくださいました。そればかりでなく、神である主はこの贖いの御業によって、主の民をご自身との愛の交わりのうちに回復してくださいました。 神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられた人間が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまった結果、人は神さまのご臨在の御前から退けられてしまい、神さまと人との愛の交わりは損なわれてしまいました。それは、神さまが創造の御業の第七日をご自身の安息の日として祝福し聖別してくださったみこころを損なうことであったのです。けれども、神さまは贖いの御業によって、ご自身の民を再びご自身との愛の交わりのうちに回復してくださいました。それは、創造の御業の第七日の祝福と聖別の意味を回復してくださることでもあるのです。 そればかりではありません。神さまは私たちを御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いにあずからせてくださって、私たちを栄光あるもの、神の子どもとしての栄光と尊厳をもつ者としてくださいました。ローマ人への手紙8章29節、30節に、 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。 と記されているとおりです。終わりの日にはこのことがまったきものとして完成します。 私たちが栄光あるものとなるというときの栄光は、この世の発想で考えられた栄華、栄光ではありません。私たちが栄光あるものとなることの本質は「御子のかたちと同じ姿」に造り変えられることにあります。そして、その結果、私たちが父なる神さまの子どもとして、父なる神さまのご臨在の御前で、被造物として許されうる最も近くに近づいて、御霊による、父なる神さまと御子イエス・キリストのとの愛にある交わりに生きるようになるためのことです。すでにお話ししたことから分かりますように、これは、神さまの安息が完成することに他なりません。 私たちが主の祈りにおいて、 御国が来ますように。 みこころが天で行なわれるように 地でも行なわれますように。 と祈ることは、この神さまの安息の完成を祈り求めることでもあります。 |
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