(第28回)


説教日:2005年8月28日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節~15節


 私が夏期休暇をいただいたために一週空いてしまいましたが、今日も、主の祈りについてお話しするための前置きとしてお話ししている、私たちの祈りについてのお話を続けます。これまで、その一つのこととして、私たちがこの世で経験する苦しみについて、祈りとの関係でお話ししてきました。そして、私たちがこの世で経験する苦しみはローマ人への手紙8章18節~25節に記されている、被造物が神の子どもたちとともに回復されることを求めてうめいているということの中に位置づけられるということをお話ししています。
 ローマ人への手紙8章18節~25節には、

今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。

と記されています。
 前回は、18節で、

今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。

と言われていることについて、二つのことをお話ししました。
 一つは、ギリシャ語原文で最初に出てくる「私は考えます」という言葉は、いろいろな考え方がある中で、パウロの個人的な考えを述べているということではないということです。これは栄光のキリストから使徒として召されたパウロが、啓示によって示された福音の御言葉に基づいて述べていることです。その意味で、これは、

今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないもの

である、ということを明らかにしているものです。
 同時に、これは、単なる客観的な事実を告げ知らせているというだけでなく、これを語っているパウロ自身が、次々と襲いくる試練と苦難を経験している中で、

今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないもの

であると言うことによって、希望のうちに生かされているということを示していると考えられます。
 もう一つのことは、「今の時のいろいろの苦しみ」と言われているときの「今の時」のことです。「今の時」は、イエス・キリストが十字架の死によって私たちのための罪の贖いを成し遂げてくださり、栄光をお受けになって死者の中からよみがえり、父なる神さまの右の座から御霊を注いでくださった時から始まって、終わりの日に栄光のキリストが再臨されるまで続く時を意味しています。終わりの日には、栄光のキリストが再臨されて、この時代のすべてをご自身の義の尺度にしたがっておさばきになり、罪を清算し、ご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられ贖いの御業に基づく再創造のお働きによって、すべてのものを新しくされます。これによって始まるのが「新しい時代」です。ですから、「新しい時代」は、栄光のキリストが再臨されて、ご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいて、この世界を新しく造り変えてくださることによって始まる歴史、新しい天と新しい地の歴史のことです。この「新しい時代」はまた「来たるべき時代」とも呼ばれます。「新しい時代」を今ここにいる私たちから見ますと「来たるべき時代」となるわけです。18節の「今の時」は、この「新しい時代」、「来たるべき時代」と対比されます。「今の時」はより一般的には「この時代」と呼ばれます。
 ですから、18節で言われている「今の時のいろいろの苦しみ」は、個人的な「私の地上の生涯において経験するさまざまな苦しみ」を含みますが、それを越える視野において捉えられているさまざまな苦しみです。それは、イエス・キリストがご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きになる御霊によって、栄光のキリストと一つに結び合わされている世々の聖徒たちが、栄光のキリストとの一体のゆえに、また栄光のキリストとの一体において、経験してきた苦しみです。その中に私たちそれぞれがこの世において経験するさまざまな苦しみがあるのです。この意味で、これは、17節で、

もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。

と言われているときの、

キリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしている

という意味をもっている苦しみです。


 この被造物全体が回復を求めてうめいていることとのかかわりで大切なことは、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業の意味の広がりです。イエス・キリストによって成し遂げられた贖いの御業には宇宙大の意味があります。このことにつきましてはいろいろな機会にお話ししましたが、今お話ししていることとのかかわりで、改めてまとめておきたいと思います。
 コロサイ人への手紙1章19節、20節には、

なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。

と記されています。
 ここには、イエス・キリストの十字架の死による贖いの御業がご自身の民だけでなく、「万物」の和解にとっても意味をもっていることが示されています。
 19節で、

神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ

と言われているときの「神の本質」という言葉はギリシャ語原文にはない補足です。この「満ち満ちた神の本質」と訳された部分(パン・ト・プレーローマ)は、文字通りには「すべての充満」です。これは「充満」という、それ自体で満ちていることを表す言葉(ト・プレーローマ)に、さらに「すべての」という言葉(パン)を加えて強調されています。「まったき充満」ということになりましょうか。
 ところが、ここでは、これがいったい何の充満なのかが示されていません。それで、このことについていろいろと論じられてきました。これにはかなり複雑なことがかかわっていますが、結論的なことだけを言いますと、一般には、これは2章9節で、

キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。

と言われていることにそって理解されています。そして、そのように理解することには根拠があります。というのは、この二つの個所には同じ言葉が三つほど用いられているからです。第一に、1章19節の「御子のうちに」と2章9節の「キリストのうちにこそ」は、どちらも文字通りには「彼のうちに」(エン・アウトー)で同じ言葉です。それが文脈の上から「御子のうちに」と「キリストのうちに」と訳しているわけです。第二に、どちらにも、先ほどの「すべての充満」という言葉(パン・ト・プレーローマ)が用いられています。第三に、どちらにも「宿る」という動詞(カトイケオー)が用いられています。そして、これは「すべての充満」がイエス・キリストのうちに宿っていることを表しています。
 このようなわけで、1章19節で、

神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ

と言われていること(実際には、ここには「神の本質」という言葉はありませんが、これ)と、2章9節で、

キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。

と言われていることは実質的に同じことに触れていると考えられます。それで、1章19節の「すべての充満」が何の充満であるかということについては、2章9節で、

キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。

と言われていることに合わせて理解することができると考えられます。
 今お話ししましたように、1章19節には「すべての充満」(パン・ト・プレーローマ)としか言われていませんが、2章9節では、この「すべての充満」(パン・ト・プレーローマ)に、新改訳の訳文を用いますと、「神のご性質の」という言葉(テース・セオテートス)がついています。
 新改訳が「神のご性質」と訳している言葉(セオテース)は、新約聖書の中ではここだけに出てくる言葉です。また、旧約聖書のギリシャ語訳である七十人訳にも出てこないようです。この言葉は、私たちになじみがあるセオスという「神」を表す言葉の抽象名詞です。この言葉は、日本語では「神格」とか「神性」と訳されています。
 といっても、これでは何だか分かりませんね。これが分かりにくいのは、この言葉のその他の用例が新約聖書や七十人訳に見当たらないからだけではありません。これが分かりにくいのは、私たち日本の文化では、人も動物も自然現象も「神」となりうるという発想があって、「神であること」とはどういうことであるかとか、「神」をして「神」たらしめているものは何かということを、ほとんど問題としてこなかったし、考えてこなかったためです。セオテースは、何が神をして神たらしめているのかというような問題意識を背景として考えられる「神であること」を表す言葉です。これを新改訳(コロサイ人への手紙2章9節で)は「神のご性質」と訳しています。けれども、「神のご性質」といいますと、セオテースよりは、むしろセイオテースという言葉(ローマ人への手紙1章20節に出てくる「神性」)に近いのではないかという気がします。セオテースが表しているのはそれ以上のもので、神をして神たらしめているもののことです。その意味では、これは1章19節において補足されている「神の本質」に近いものです。
 ですから、2章9節で「神の満ち満ちたご性質」と言われているのは、「神であることのまったき充満」、「神をして神たらしめているもののまったき充満」、その意味での「神の本質のまったき充満」のことです。それがイエス・キリストのうちに宿っているというのです。
 2章9節の、

キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質[本質]が形をとって宿っています。

という言葉にはもう一つ難しいことがあります。それは、「形をとって宿っています」というときの「形をとって」ということです。
 これは「からだ」を表す言葉(ソーマ)と関連がある副詞(ソーマティコース)で表されています。日本語で言えば「身体的に」という感じです。それで、これはイエス・キリストの受肉、永遠の神の御子であられるイエス・キリストが私たちの贖い主となってくださるために人の性質を取って来てくださったことを指しているという見方があります。けれども、それですと「形をとって宿っています」は過去形で表されなければなりませんが、これは現在形で表されています。
 その一方で、これは人となって来てくださったイエス・キリストに関することです。そして、これが現在形で表されているのは、ずっと変わることがない事実を表しているからです。それで、これは、イエス・キリストが人の性質を取って来てくださったことに関するだけでなく、十字架にかかって死んでくださり、栄光をお受けになって死者の中からよみがえってくださり、父なる神さまの右の座に着座してくださったイエス・キリスト、今も、また、とこしえに生きておらるイエス・キリストに関することでもある、ということを意味しています。
 永遠の神の御子は真の神であられますから、御子のうちには神であられることのすべてがあります。この場合には、永遠の神の御子に関することですから「形をとって」ということは当てはまりません。この永遠の神の御子であられる方が、私たちの贖い主となってくださるために、今から2千年前に人の性質を取って来てくださいました。この人となって来てくださった方は、ヨハネの手紙第一・1章1節、3節において、

初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、―― このいのちが現われ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現わされた永遠のいのちです。――

とあかしされている方です。
 コロサイ人への手紙2章9節で、

キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質[本質]が形をとって宿っています。

と言われているのは、そのように人の性質を取って来てくださったイエス・キリストのうちに、神であられることのまったき充満が「一人の人格に集約される形で、しかも私たちが具体的に見て知ることができる形で」宿っているということでしょう。
 そうであるからこそ、ヨハネはその福音書の1章14節において、御父とともにおられる「永遠のことば」について、

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

とあかししていますし、1章18節においては、

いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

とあかししています。また、ヨハネの福音書14章9節に記されていますように、イエス・キリストご自身も、

わたしを見た者は、父を見たのです。

と述べておられます。
 そして、イエス・キリストが、そのうちに、神であられることのまったき充満が集約される形で、しかも私たちが具体的に見て知ることができる形で宿っている方であられることは、イエス・キリストが地上におられた時だけのことではなく、今も、また、とこしえに変わらないことであるのです。
 コロサイ人への手紙では、このことが私たちのあり方に深くかかわっていることが示されています。2章9節では、

キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質[本質]が形をとって宿っています。

と言われていました。これに続いて10節では、

そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。

と言われています。
 この「キリストにあって」(エン・アウトー)ということは、私たちが御霊のお働きによってイエス・キリストと一つに結び合わされていることを意味しています。そして、私たちが一つに結び合わされているイエス・キリストは、9節において、

キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質[本質]が形をとって宿っています。

とあかしされている方であるということです。私たちはこのような方と御霊によって一つに結び合わされているので、私たちも「満ち満ちている」と言われています。
 この「満ち満ちている」と訳されている言葉は、単純に「満たされている」です。新改訳がこれを「満ち満ちている」と強調の形に訳しているのは、おそらく、この節の初め(接続詞の次)に、エステという(英語のビー動詞に当たるエイミ動詞の2人称複数形)があることによっていると思われます。そうであるとしますと、それは、むしろ「あなたがたは」の方を強調していると考えられます。前の9節でイエス・キリストのうちに「神の本質の充満が宿っている」と言われていることを受けて、ここでは、そのイエス・キリストのうちにある「あなたがたは」「満たされている」のだ、ということを伝えているわけです。
 この「満たされている」ということは完了形で表されていて、過去になされたことの結果が今に至るまで続いていることを示しています。私たちは御霊によって栄光のキリストと一つに結び合わされたことによって、今日に至るまで、またこの後も変わることなく満たされ続けています。
 このことは、9節と10節に先立つ8節で、

あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。そのようなものは、人の言い伝えによるものであり、この世に属する幼稚な教えによるものであって、キリストに基づくものではありません。

と言われていることとかかわっています。その当時、人が満たされるようになるための道ということで、さまざまな教えがありました。それはこのコロサイ人への手紙に記されていることからうかがうことができます。人が満たされるようになるためのさまざまな教えは、今日の日本の社会にもあふれています。このコロサイ人への手紙2章9節、10節では、真に私たちを満たしてくれるのは、

キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質[本質]が形をとって宿っています。

とあかしされているお方であり、この方と一つに結ばれて、この方のうちにあることによっているということが示されているのです。
 これは私たちそれぞれに当てはまることですが、基本的には、個人的なことというよりは、新しい契約の共同体としてのキリストのからだである教会に当てはまることです。それは、これに続く11節、12節に、

キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。

と記されていることから分かります。
 その意味で、10節で、

そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。

と言われていることは、エペソ人への手紙1章20節~23節において、

神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

と言われていることと響き合っています。
 少し込み入ったお話になってしまいましたが、このような意味をもっている2章9節の、

キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質[本質]が形をとって宿っています。

ということと実質的に同じことに触れていると考えられる1章19節では、

神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、

と言われています。ここには、主語が何かという問題がありますが、私は新改訳の理解でいいのではないかと考えています。それで、このまま話を進めますが、ここでは、父なる神さまが、御子のうちに神であられることのまったき充満が宿ることを「よしとされた」(直訳、あるいは「定められた」)ということが示されています。
 これに続く20節では、

その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。

と言われています。この新改訳の訳文はかなりていねいな訳です。また、これには本文上の問題もかかわっています。いちばん最後の、

ただ御子によって和解させてくださったのです。

という言葉は補足です。ただし、「御子によって」という言葉(ディ・アウトゥー)は本文に含まれている可能性があります。20節をギリシャ語の順序で直訳調に訳しますと、

また、彼によって万物をご自身と和解させてくださることを(一九節の「よしとされた」につながる)。彼の十字架の血によって平和を造ることによって。[彼によって]地にあるものも天にあるものも。

となります。
 今お話ししていることとの関係で大切なことは、イエス・キリストがご自身の十字架の死によって成し遂げてくださった贖いの御業には宇宙大の意味があるということです。父なる神さまは、イエス・キリストの十字架の血によって平和を造ることによって、「地にあるものも天にあるものも」すべてのものをご自身と和解させることをよしとして定めてくださいました。そして、19節では、このような宇宙大の贖いを実現してくださるために、「満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ」ることをよしとして定められたと言われているのです。
 先ほどお話ししました2章9節、10節では、イエス・キリストが神であられることのまったき充満を宿しておられる方であられるので、御霊によってイエス・キリストと一つに結び合わされている私たちは、イエス・キリストによって満たされているということが示されていました。これに対して、この1章19節、20節では、イエス・キリストが神であられることのまったき充満を宿しておられる方であられるので、そのような方の十字架の血によって、「地にあるものも天にあるものも」すべてのものが父なる神さまと和解させられ、神さまとの本来の関係の中に回復されるようになると言われています。
 この二つは同心円的につながっている一つのことです。その中心には、言うまでもなく、人となって来られた永遠の神の御子イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださって私たちの罪を贖ってくださったこと、私たちを新しいいのちに生かしてくださるために、栄光をお受けになって死者の中からよみがえってくださったことがあります。これは、波紋の広がりにたとえますと、池に石を投げたことに当たります。その石を投げなければ波紋は起こりません。その中心から、まず、主の契約の民が贖われて回復されるということが起こります。そして、さらに、「地にあるものも天にあるものも」すべてのものが神さまと和解させられ、本来の姿に回復されることへと広がっていきます。
 先ほど引用しましたエペソ人への手紙1章20節~23節に記されている、

神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

という御言葉は、この二つのことをともに含んでいます。
 ここで改めて、このすべてが父なる神さまのみこころから出ているということを心に留めたいと思います。私たちは主の祈りにおいて、

  みこころが天で行なわれるように
     地でも行なわれますように。

と祈ります。これは、コロサイ人への手紙1章20節で、父なる神さまが、イエス・キリストの十字架の血によって平和を造ることによって、「地にあるものも天にあるものも」すべてのものをご自身と和解させられるようになることをよしとして定めてくださったということにそった祈りです。

 


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