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説教日:2005年8月14日 |
もう一つのことは、そのようにイエス・キリストと「苦難をともにして」、「被造物全体」が回復を求めてうめいている中で、神の子どもとしてともにうめいている私たちは、アブラハムへの契約において約束されている「相続人」であるということです。 先週お話ししましたように、この「相続人」のテーマは突然この17節に出てきたのではなく、すでに、4章13節、14節において、 というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によったからです。もし律法による者が相続人であるとするなら、信仰はむなしくなり、約束は無効になってしまいます。 と記されている中に出てきたことです。ここでは、アブラハムとその子孫に「世界の相続人」となる約束が与えられたということ、そして、それは「律法によってではなく、信仰の義によった」ということが記されています。 ローマ人への手紙の論述の流れの中では、3章19節から、人が神さまの御前に義と認められるのは、律法に従うその人の行いによるのではなく、神さまの恵みのゆえであり、神さまが遣わしてくださった贖い主であるイエス・キリストを信じる信仰によるということが述べられています。3章20節〜24節には、 なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。 と記されています。 これ以後、このことの意味が8章まで説明されていきます。そのことの中で4章においては、信仰の父と呼ばれるアブラハムのことが取り上げられています。そこでは、信仰の父であるアブラハムが義と認められたのは、アブラハムが割礼を受けるようになる前のことであるということを示しています。そして、このことを根拠として、人が義と認められるのは律法の行いによるのではなく、契約の神である主を信じる信仰によるということを論じています。その論述の中で、 というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によったからです。 と言われているのです。 それで、8章に至るまで、人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、恵みのゆえであり、イエス・キリストを信じる信仰によるということの意味が論じられていきます。その間に「世界の相続人となる」ということについては触れられていません。そして、それが一段落した8章17節において、「世界の相続人となる」ということが取り上げられていると考えられます。 この「世界の相続人」の「世界」のことは、4章にも8章にも説明がありません。けれども、これは8章18節〜25節において、回復の時を待ち望んでともにうめいていると言われている「被造物全体」のことであると考えられます。この回復の時を待ち望んでともにうめいている「被造物全体」が回復されるのは、世の終わりに栄光のキリストが再臨されて、ご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づく再創造のお働きによって、いっさいのものを新しくされる時のことです。 8章18節では、 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。 と言われています。 原文のギリシャ語では、この節は「私は考えます」という言葉(ロギゾマイ)から始まっています。最初に触れました、理由を表す接続詞(ガル)はこの次に出てきます。この「私は考えます」という言葉は個人的な意見を述べているように見えますが、そういうことではありません。栄光のキリストから使徒として任命されたパウロが使徒としての権威をもって述べていることです。その意味で、ここでは、 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないもの である、ということが明らかにされています。それは神さまの啓示に基づく確かなことであって、根拠のない希望的な観測ではありません。 そのことをはっきりとさせたうえでのことですが、ここでパウロが「私は考えます」と述べていることには、それとしての意味があると思われます。これは、今お話しましたように、いろいろな考え方がある中の一つの意見であるということではありません。この「私は考えます」という言葉によって、ここで述べられていることが客観的な傍観者の報告ではなく、パウロ自身がこの理解によって生かされているということが示されています。 パウロ自身の経験に触れているコリント人への手紙第二・11章21節〜30節には、 言うのも恥ずかしいことですが、言わなければなりません。私たちは弱かったのです。しかし、人があえて誇ろうとすることなら、 と記されています。 これは、パウロが経験している苦しみの一端を記すものですが、これだけでも、パウロがどんなにか厳しい試練にあっていたかが分かります。年代的にはっきりしないところがあるのですが、一般には、ローマ人への手紙はコリント人への手紙第二とほぼ同じ時期(57年頃)か、少し後に記されたと考えられています。それで、パウロがローマ人への手紙を記した時には、すでに、ここに記されている苦難を経験していたと考えられます。それはまさに、 私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしている ということがそのまま当てはまるようなことでした。 イエス・キリストと苦難をともにしているからといって、それで苦しみが少なくなったわけではありません。その苦しみはとても大きなものであったと言うほかはありません。そのようなパウロを支えていたものがありました。それにはいくつかのものがあったと思われます。 パウロが迫害を受けたことの大きな理由は、パウロがかたくななまでに、人が救われるのはただ神さまの恵みのゆえであり、イエス・キリストを信じる信仰によるということを主張し続けたからです。ガラテヤ人への手紙2章21節には、 私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。 と記されています。パウロは父なる神さまの愛と御子イエス・キリストの恵みに突き動かされて、人が救われるのはただ神さまの恵みのゆえであり、イエス・キリストを信じる信仰によるということを主張し続けたのです。そのために、それとは違う教えを説く者たちから迫害を受けました。 パウロが味わった苦しみはそれだけではありません。先ほど引用しましたコリント人への手紙第二・11章の御言葉に示されていますように、パウロは人々に福音を宣べ伝え、兄弟姉妹たちを励ますために、伝道旅行をいたしました。その途上において、さまざまなことがあって試練と迫害を経験しました。 難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。 と言われていますように、時には自然の災害に巻き込まれるようなこともありました。被造物が虚無に服していることの現れである災害に遭遇して苦しんだのです。 そのように苦難の連続の中にあったパウロを動かしていたのは、栄光のキリストが自分を召して遣わしてくださったという召命感です。その召命につて、ガラテヤ人への手紙1章1節には、 使徒となったパウロ と記されています。また10節〜12節には、 いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。兄弟たちよ。私はあなたがたに知らせましょう。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。 と記されています。先ほど、パウロは父なる神さまの愛と御子イエス・キリストの恵みに突き動かされていたと言いましたが、それは、この召命感の上に立ってのことでした。 そのようなパウロは、さらに、栄光のキリストが啓示によって示してくださった福音の御言葉に示されている望みによって支えられていたのです。ローマ人への手紙8章24節、25節には、 私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。 と記されていました。その根底にあるのが、 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。 というパウロの判断です。それは、すでにお話ししましたように、単なる希望的観測ではなく、パウロが栄光のキリストから啓示によって受けた福音の御言葉において示されていることに基づく確かな判断です。そうであるからこそ、試練の連続であるとも思われるパウロを望みのうちに生きるように支えていたのだと考えられます。 ですから、 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。 ということは神さまが啓示してくださった福音の御言葉に基づく客観的で確かなことを述べているのですが、それは同時にパウロが望みのうちに生きることを支えるという実存的な意味をもっていたと考えられます。 このように、 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。 ということは、栄光のキリストが啓示してくださった福音の御言葉に基づく確かなことであると同時に、そのようなパウロの経験に裏打ちされたものとして、今地上にあって試練と苦しみを経験している私たちをも望みのうちに生きるように支えてくれます。 ここで「今の時のいろいろの苦しみ」と言われているときの「今の時」(ホ・ヌン・カイロス)が何を意味しているかということですが、これは個人主義的に理解しますと、「私が生きている間」ということになります。今この世で生きている間は苦しみが多いけれども、肉体の死とともにこの世を去れば主とともにある幸いの中に入るようになるということです。このこと自体は間違っていません。実際、パウロはピリピ人への手紙1章20節〜24節において、 それは、私がどういうばあいにも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める私の切なる願いと望みにかなっているのです。私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。しかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、私にはわかりません。私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためには、もっと必要です。 と述べています。 けれども、ローマ人への手紙8章18節で「今の時のいろいろの苦しみ」と言われているときの「今の時」は、そのように個人主義的に理解すべきではありません。これは、栄光のキリストの再臨とともに始まる「来たるべき時代」と対比されるものと理解すべきです。それは、この言葉自体がそのようなことを表すためのいわば「専門用語」のようなものであるからですが、それとともに、この18節〜25節に述べられていることが「被造物全体」が回復を求めてうめいているということを問題としているからです。その回復は栄光のキリストの再臨の日に実現し、完成します。ですから、「今の時」は、栄光のキリストの再臨の日までの時を示しています。それは、栄光のキリストの新しい創造の御業によって造り出される新しい天と新しい地の歴史としての「来たるべき時代」と対比されます。 ですから、 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。 ということは、自分が生きている間の苦しみや、自分が将来どうなるかということではなく、「被造物全体」が回復されることを求めて、今に至るまでうめき続けているということに心を注いでいます。そして、その「被造物全体」のうめきの中に自分の苦しみもあり、その苦しみの中で自分も「被造物全体」が回復されることを求めてうめいているという理解があるわけです。 これには、もう一つの問題があります。それは、ここで言われている「今の時」の始まりはいつかということです。これには二つの候補があります。 一つは、最初の人アダムが造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまってからということです。この理解は、20節〜22節で、 それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。 と言われていることと調和します。 すでにお話ししましたように、 被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、 と言われていることは、神のかたちに造られている人間が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまったことの結果を示しています。ここで言われている「被造物」は、天地創造の初めに神のかたちに造られて、創世記1章28節に記されている、 生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 という使命を委ねられた人と一つに結び合わされています。そして、人が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまった時に、人との一体においてのろいの下に置かれてしまったのです。それで、もし人が回復されることがあるなら、「被造物」も人との一体において回復されるようになります。そしてそれは、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業によって実現することです。ローマ人への手紙8章21節に、 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。 と記されているとおりです。 このことを考えますと、18節で「今の時のいろいろの苦しみ」と言われているときの「今の時」は、最初の人が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまった時から始まっていると考えられるのではないかという気がします。 けれども、最初にお話ししましたように、18節で言われている「今の時のいろいろの苦しみ」は、17節で、 私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしている と言われていることを受けていると考えられます。つまり、「今の時のいろいろの苦しみ」は「キリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしている」という意味での苦しみです。そうであるとしますと、このような意味での苦しみは、イエス・キリストが私たちの罪を贖うために十字架にかかって死んでくださり、私たちを復活のいのちで生かしてくださるために死者の中からよみがえってくださった後に始まっています。その意味では、「今の時のいろいろの苦しみ」と言われているときの「今の時」は、イエス・キリストが栄光をお受けになって死者の中からよみがえられた時に始まっていると考えられます。 とはいえ、この二つの理解は矛盾するものではなく、二つはつながっています。 「今の時のいろいろの苦しみ」そのものは、最初の人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって始まっています。その時以来、「被造物」は回復を求めてうめいています。それが回復を求めてのうめきであることは、人類の堕落の直後に、堕落した人へのさばきに先だって、神さまが一方的な愛と恵みによって贖い主を約束してくださったことに基づいています。それが、人を造り主である神さまに逆らって罪を犯すように誘った「蛇」の背後にいる存在に対するさばきを記している3章15節に、 わたしは、おまえと女との間に、 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、 敵意を置く。 彼は、おまえの頭を踏み砕き、 おまえは、彼のかかとにかみつく。 と記されている「最初の福音」です。これがなぜ福音であるかにつきましては、いろいろな機会にお話ししましたので、ここでは省略いたします。この福音がなければ、「被造物」はただうめくだけで終ります。そこに回復への望みはなくなります。 ですから、「被造物」が回復を求めてうめいていることは、神さまが人に与えてくださった福音に基づいています。それは、福音のうちに約束されていた贖い主であられるイエス・キリストが来られて、ご自身の民のために贖いの御業を成し遂げてくださったことによって、より現実的なものとなりました。また、それだけに、そのうめきも切なるものとなってきているわけです。 このように、私たちにとっては「今の時のいろいろの苦しみ」と言われているときの「今の時」は、イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださって贖いの御業を成し遂げてくださり、栄光をお受けになって死者の中からよみがえってくださってから、世の終わりに再び来てくださるまでの時を指しています。けれども、それは最初の人が造り主である神さまに対して罪を犯してしまって以来の時の流れの中にあるものとして位置づけられます。 私たちが経験する「今の時のいろいろの苦しみ」は、形としてはこの世に生きている誰もが経験する苦しみと同じです。けれども、福音の御言葉の光の下で見ますと、それは、 私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしている という意味をもっていますし、回復を求めてうめいている「被造物」とうめきをともにするものであるという意味をもっています。私たちはこのことにおいて、贖い主であるイエス・キリストと、終わりの日に回復されるべき「被造物」の間に立っています。私たちは、そのような祭司的な立場に立つ者として、「今の時」は空しく終ることなく、必ず、栄光のキリストの再臨に至るということと、「被造物」は再臨される栄光のキリストによって回復され、完成に至るということをわきまえています。そして、そのわきまえをもって、主の祈りを中心とした祈りを祈りつつ、そのことの実現と完成を待ち望んでいます。 |
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