(第26回)


説教日:2005年8月7日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 今日も、主の祈りについてお話しするための前置きとして、私たちの祈りについてのお話をいたします。これまで、私たちがこの世で経験する苦しみの意味について、祈りとの関連で考えられることをいくつかお話ししました。そして、その一つのこととして、私たちの苦しみはローマ人への手紙8章18節〜25節に記されている被造物全体が神の子どもたちとともに回復されることを求めてうめいているということの中に位置づけられるということをお話ししています。
 ローマ人への手紙8章18節〜25節には、

今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。

と記されています。
 先々週と先週は、この部分の最初の18節は「なぜなら」、「というのは」という理由を表す接続詞(ガル)によって、その前の17節において、

もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。

と記されていることとつながっていることをお話ししました。17節とのつながりに注目しますと、18節で言われている「今の時のいろいろの苦しみ」は、17節で、

私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしている

と言われていることを受けていると考えられます。18節〜25節では、「被造物全体」が回復を求めてうめいている中で、私たち神の子どもたちも、「被造物全体」とともにうめいているということが記されています。そのような意味をもっている神の子どもたちの苦しみは、イエス・キリストと「苦難をともにしている」という意味での苦しみであるということです。


 この17節とのつながりという点では、もう一つのことが考えられます。17節には、

もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。

と記されていて「相続人」のテーマが出てきています。ここで突然「相続人」のことが出てきて、その後「相続人」の話はぱたっと止んでしまっているように見えます。確かに、これに先立つ部分では、私たちは、私たちの罪を贖うために十字架にかかって死んでくださり、死者の中からよみがえってくださった御子イエス・キリストを信じる信仰によって義と認められるということが論じられてきました。また、この後には「相続人」という言葉は出てきません。
 けれども、この8章17節に「相続人」のことが出てくるのは決して突然のことではありません。実は、ローマ人への手紙の流れの中では、「相続人」のことは4章に出てきていたのです。4章13節、14節には、

というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によったからです。もし律法による者が相続人であるとするなら、信仰はむなしくなり、約束は無効になってしまいます。

と記されています。
 13節では、

世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられた

と言われています。そしてそれが「律法によってではなく、信仰の義によった」と言われています。ギリシャ語原文では、「律法によってではなく」という言葉が13節のいちばん前に来て強調されています。そして、それが13節のいちばん最後にある「信仰の義によった」ということと対比されています。
 さらにここでは、アブラハムとその子孫に与えられたのは「世界の相続人となるという約束」であったと言われています。この場合の「世界」が何を意味するかが問題となります。このことに関しては、注解者たちも直ちにこれであるという答えは出していません。
 まず考えられるのは、創世記12章1節〜3節に記されているアブラハムへの召命の言葉です。そこには、

その後、主はアブラムに仰せられた。
 「あなたは、
 あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、
 わたしが示す地へ行きなさい。
 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、
 あなたを祝福し、
 あなたの名を大いなるものとしよう。
 あなたの名は祝福となる。
 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、
 あなたをのろう者をわたしはのろう。
 地上のすべての民族は、
 あなたによって祝福される。」

と記されています。3節で、

  地上のすべての民族は、
  あなたによって祝福される。

と言われていることは、世界全体におよぶ祝福を意味しています。それで、その「世界」は「地上のすべての民族」のことではないだろうかという思いがわいてきます。
 けれども、この祝福はローマ人への手紙4章13節の言葉に合わせて言いますと、「地上のすべての民族」が「相続人」になるという祝福です。そして、その「相続人」である「地上のすべての民族」が受け継ぐ相続財産が「世界」です。それで、「地上のすべての民族」が「世界」であると考えることはできません。そうしますと、「世界の相続人」が受け継ぐ「世界」は、創世記17章7節、8節に、

わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。

と記されている、神である主がアブラハムに与えてくださった契約に約束されている「カナンの地」が表しているものの本体であると考えたほうがいいと思われます。
 このローマ人への手紙4章では、そのカナンの地の本体が何であるかということは説明されないままに話が進んでいきます。4章での話は、

世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によったからです。

と言われているときの、

律法によってではなく、信仰の義によった

ということを中心としています。それは、3章21節から論じられてきていることですが、アブラハムに触れることとしては4章の初めから論じられていることです。4章1節〜5節には、

それでは、肉による私たちの先祖アブラハムのばあいは、どうでしょうか。もしアブラハムが行ないによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義と見なされた。」とあります。働く者のばあいに、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。

と記されています。ここでは、アブラハムが戒めに従う自分の行いによってではなく、主を信じる信仰によって義と認められたということが示されています。つまり、

律法によってではなく、信仰の義によった

ということが話題になっているわけです。このことが4章の論議の中心になっています。
 そして、9節〜12節には、契約のしるしとしての割礼を受けることと義と認められることの関係が記されています。そこには、

それでは、この幸いは、割礼のある者にだけ与えられるのでしょうか。それとも、割礼のない者にも与えられるのでしょうか。私たちは、「アブラハムには、その信仰が義とみなされた。」と言っていますが、どのようにして、その信仰が義とみなされたのでしょうか。割礼を受けてからでしょうか。まだ割礼を受けていないときにでしょうか。割礼を受けてからではなく、割礼を受けていないときにです。彼は、割礼を受けていないとき信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。それは、彼が、割礼を受けないままで信じて義と認められるすべての人の父となり、また割礼のある者の父となるためです。すなわち、割礼を受けているだけではなく、私たちの父アブラハムが無割礼のときに持った信仰の足跡に従って歩む者の父となるためです。

と記されています。
 ここで、

それは、彼が、割礼を受けないままで信じて義と認められるすべての人の父となり、また割礼のある者の父となるためです。すなわち、割礼を受けているだけではなく、私たちの父アブラハムが無割礼のときに持った信仰の足跡に従って歩む者の父となるためです。

と言われていることは、アブラハムに与えられた、

  地上のすべての民族は、
  あなたによって祝福される。

という約束の実現を述べたものですね。
 新約聖書の中では、異邦人が割礼を受けることはモーセ律法を守ることへの「入口」としての意味をもつこととして取り上げられています。それは割礼が、古い契約共同体に加えられるための礼典としての意味をもっていたからです。たとえばガラテヤ人への手紙5章3節、4節には、

割礼を受けるすべての人に、私は再びあかしします。その人は律法の全体を行なう義務があります。律法によって義と認められようとしているあなたがたは、キリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。

と記されています。
 実際、使徒の働き15章1節に、

さて、ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない。」と教えていた。

と記されていますように、いわゆる「ユダヤ主義者」が、異邦人の信徒たちに、救われるためには「割礼を受けなければ」ならないと教えていました。これは、救われるためには古い契約の共同体であるユダヤ人共同体に加わらなければならないという主張です。その古い契約の共同体は、やがて来たるべき新しい契約の共同体としての教会の地上的なひな型です。新しい契約の共同体に加えられていることを表す礼典は「洗礼」です。
 このような「ユダヤ主義者」の主張に対してパウロは、アブラハムが義と認められたのは、アブラハムが割礼を受ける前のことであるということを指摘しています。これも、先ほどの、

律法によってではなく、信仰の義によった

ということに関わっています。
 アブラハムが義と認められたのは、アブラハムが割礼を受ける前のことであるということはアブラハムの生涯のことを記している創世記の記事に記されています。
 創世記15章1節〜6節には、

これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」そこでアブラムは申し上げた。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私にはまだ子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう。」と申し上げた。すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

と記されています。
 この個所につきましてはすでにこのお話のシリーズの中でもお話ししました。引用の最後の6節に、

彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

と記されていますように、アブラハムは主を信じて、その信仰によって義と認められています。ここで注意しておいていただきたいのは、

彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

ということは、その前の1節〜5節に記されていることを受けているということです。1節〜5節ではアブラハムの相続人のことが話題になっています。そこでは、アブラハムの相続人は、その時すでに75歳を過ぎていて子がなかったアブラハムの子孫のことであるという約束が与えられたということ、そして、アブラハムはその約束を与えてくださった主を信じて義と認められたということが記されています。
 アブラハムが父テラの死後カランを出て主が示される地へ向かって旅立ったのは75歳の時でした。アブラハムがカナンの地に来てからいろいろなことがありましたが、それから何年経ってこの約束が与えられたかは分かりません。ただ、主がアブラハムに約束を与えてくださったことを記している15章に続く16章3節に、

アブラムの妻サライは、アブラムがカナンの土地に住んでから十年後に、彼女の女奴隷のエジプト人ハガルを連れて来て、夫アブラムに妻として与えた。

と記されています。それはアブラハムの85歳の時のことです。それで、アブラハムが信仰によって義と認められたのは、アブラハムが85歳になる前のことであることであることは確かです。さらに、サラがハガルをアブラハムに与えたのは、15章に記されているアブラハムの相続人としての子孫に関する約束を受けて間もなくというようなことは考えられません。ある程度待ち続けたけれども子どもが生まれなかったということで、そのような対処をしたと考えられます。その場合には、アブラハムが信仰によって義と認められたのは、少なくともアブラハムが85歳となる数年前のことであったということになります。
 パウロはこれに基づいてローマ人への手紙4章3節で、

聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義と見なされた。」とあります。

と述べています。ですから、アブラハムが信仰によって義と認められたことには、アブラハムの相続人としての子孫のことが深く関わっています。このことから、パウロはガラテヤ人への手紙3章6節、7節に、

アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。それと同じことです。ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。

と記されている主張を展開しているわけです。
 このようにアブラハムが信仰によって義と認められたことは創世記15章に記されています。これに対しまして、アブラハムが割礼を受けたことは主がアブラハムに契約を与えてくださったことを記している創世記17章に記されています。先ほど主がアブラハムに与えてくださった契約のことを記している7節、8節を引用しましたが、続く9節〜11節には、

ついで、神はアブラハムに仰せられた。「あなたは、あなたの後のあなたの子孫とともに、代々にわたり、わたしの契約を守らなければならない。次のことが、わたしとあなたがたと、またあなたの後のあなたの子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中のすべての男子は割礼を受けなさい。あなたがたは、あなたがたの包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたの間の契約のしるしである。

と記されています。
 この記事の初めである1節には、

アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現われ、こう仰せられた。

と記されています。先ほどお話ししましたように、アブラハムが信仰によって義と認められたのは少なくともアブラハムが85歳になる数年前のことであったと考えられますから、アブラハムが割礼を受ける15年以上前のことであると考えられます。これが先ほど引用しましたローマ人への手紙4章9節〜12節で、パウロが、アブラハムが義と認められたのは、アブラハムが割礼を受ける前のことであると述べていることの根拠になっています。
 アブラハムが割礼を受けた時は99歳、その妻サラは10歳年下の89歳でしたが、その時に、アブラハムとサラに子どもが生まれるという約束が与えられました。17章15節、16節には、

また、神はアブラハムに仰せられた。「あなたの妻サライのことだが、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る。」

と記されています。そのようにして生れたのが約束の子であるイサクです。
 割礼は古代オリエントではアブラハムの時代より以前にも行われていた儀式ですが、アブラハムに命じられた割礼は主の契約のしるしとしての意味をもっています。そして、割礼は男性の「包皮の肉を切り捨て」ることによってなされるものですから、子孫の誕生に関わっています。その意味で、アブラハムに与えられた割礼はアブラハムに与えられた「相続人」としてのアブラハムの子孫の約束に関わっています。
 申命記10章16節には、

あなたがたは、心の包皮を切り捨てなさい。もううなじのこわい者であってはならない。

と記されています。これは、割礼において大切なことは、からだに傷を付けることではなく、主の民の心が新しくされることであるということを示しています。このような比喩が用いられていることは、割礼にきよめの意味があるということを示しています。それは、アブラハムへの約束によって生れてくる「相続人」としてのアブラハムの子孫が、主の恵みによってきよめられるということです。このような意味をもっている割礼が与えられてから、アブラハムの約束の子であり「相続人」であるイサクの誕生のことが示されたことには意味があると考えられます。
 このように、「相続人」のテーマは8章17節で突然現れてきたのではなく、4章13節、14節において、

というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によったからです。もし律法による者が相続人であるとするなら、信仰はむなしくなり、約束は無効になってしまいます。

と記されている中に出てきていました。けれども、4章での論議の中心は、

律法によってではなく、信仰の義によった

ということにありました。そしてこのことは、さらに4節以下8章にまで展開されていきます。
 そうではあっても、「世界の相続人となるという約束」のことが忘れられているわけではありません。すでにお話ししましたように、アブラハムが信仰によって義と認められたこと自体が「相続人」としてのアブラハムの子孫に関する主の約束を信じる信仰であったからです。
 ガラテヤ人への手紙3章6節〜9節には、

アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。それと同じことです。ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される。」と前もって福音を告げたのです。そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。

と記されています。また、13節、14節には、

キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。

と記されています。さらに、26節には、

あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。

と記されており、29節には、

もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。

と記されています。このガラテヤ人への手紙3章でも、イエス・キリストに対する信仰によって義と認められ神の子どもとされている者が、「相続人」としての「アブラハムの子孫」であるということが述べられています。
 このように、私たちが信仰によって義と認められることはアブラハムへの契約の成就としての意味をもっています。そして、それは「相続人」であることと密接につながっています。このことを踏まえますと、ローマ人への手紙4章13節で、

というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によったからです。

と言われた後、8章に至るまで信仰によって義と認められることの意味を論じてきて、議論が一段落した8章17節で、

もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。

と言われていることに「相続人」のことが出てくるのは決して唐突なことではないのです。
 そして、4章13節で「世界の相続人」と言われているときの「世界」が何であるかということの説明はなかったのですが、それは、8章17節を受けて語られている18節〜25節に記されていることから、それは「被造物全体」、やがて「滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられ」ると言われている「被造物全体」のことであると考えられます。言い換えますと、世の終わりに再臨される栄光のキリストによって再創造される新しい天と新しい地のことです。それは、「カナンの地」が地上的なひな型として指し示していたものの本体です。もちろん、カナンの地は地上の一地域です。それがひな型として新しい天と新しい地を指し示すということはおかしなことと感じられるかもしれません。けれども、地上的なひな型においては、イスラエルも地上の諸民族の一つでしかありませんでした。それが、指し示していたのは、民族や時代の隔たりを越えた主の民の全体です。その主に贖われた民が住まう所が新しい天と新しい地です。
 イエス・キリストを信じる信仰によって義と認められ、神の子どもとしての身分と特権を与えられている私たちは、主の恵みによって約束された相続財産である「被造物全体」とともにうめきつつ、そのの完全な回復を求めて祈り続けます。
 主の祈りはまさにそのような宇宙大の視野において祈るべき祈りです。

 


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