今日も、主の祈りについてのお話と関連して、私たちの祈りについてのお話をいたします。これまで、私たちがこの世で経験する苦しみについて、祈りとの関係で考えられることをいくつかお話ししてきました。そして、その一つのこととして、私たちの苦しみはローマ人への手紙8章18節〜25節に記されている被造物全体が回復を求めてうめいている「うめき」の中に位置づけられるということをお話ししています。ローマ人への手紙8章18節〜25節には、
今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。
と記されています。
先週は、18節で、
今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。
と言われていることは、その初めに「なぜなら」とか「というのは」というような理由を表す接続詞(ガル)があって、その前の17節につながっているということをお話ししました。その17節には、
もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。
と記されています。
このような17節とのつながりに注目しますと、18節で言われている「今の時のいろいろの苦しみ」は、17節で、
私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしている
と言われていることを受けていると考えられます。つまり、この「今の時のいろいろの苦しみ」は、私たちがイエス・キリストと「苦難をともにしている」という意味での苦しみであるということです。もちろん、18節〜25節では、「被造物全体」が回復を求めてうめいている中で、神の子どもたちもともにうめいているということが記されています。そのような意味をもっている神の子どもたちの苦しみは、イエス・キリストと「苦難をともにしている」という意味での苦しみであるということです。
言うまでもないことですが、私たちがイエス・キリストと「苦難をともにしている」ということは、私たちがイエス・キリストと一つに結び合わされていることに基づいています。この場合に大切なことは、私たちがイエス・キリストと一つに結び合わされているということは、父なる神さまの愛に基づくみこころによっているということです。また、これと関連していることですが、私たちがイエス・キリストと一つに結び合わされているということは、イエス・キリストが私たちと一つとなってくださっていることによっているということです。私たちにはイエス・キリストと一つになる権利も力もありません。それどころか、私たちは造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまっている者の子孫であり、実際に自らのうちに罪の性質を宿しており、日々、罪を犯している者です。それで、本来、永遠の神の御子であられる方の御前から退けられるべき者です。御子イエス・キリストは、そのような私たちと一つとなってくださるために、父なる神さまのみこころにしたがって、人の性質を取って来てくださいました。今から2千年前のことです。
このこととの関連でいくつかのことが考えられます。
まず、天地創造の初めに神のかたちに造られた人が、造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまう前の状態ことを考えてみたいと思います。永遠の神の御子は、無限、永遠、不変の栄光の主であられます。そのような無限、永遠、不変の栄光の主が、そのままで、神のかたちに造られているとはいえ被造物である人間と一つとなられることはできません。というのは、造り主である神さまと神さまがお造りになったものの間の絶対的な区別を踏み越えること、つまり、神さまの聖さを損なうことはできないからです。それで、もしそのような栄光の主が人間と実質的に一つとなられることがあるとしたら、栄光の主が人の性質をお取りになって来られるほかはありません。人間が神の位置にまで上っていくという道はありません。永遠の神の御子であられるイエス・キリストが人の性質を取って来てくださったことのいちばん奥にあるのはこのようなことです。
これは神のかたちの栄光と尊厳性をもつ者として造られた状態の人間について言われることです。しかし、実際には、人間は造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまっています。それで、永遠の神の御子であられるイエス・キリストが、罪の性質を宿しており、実際に罪を犯している私たちと一つとなってくださるためには、それ以上のことが必要です。
一つには、私たちの罪がすべてしかも完全に清算されていなければなりません。もし私たちの罪が清算されていないままに、御子イエス・キリストと一つに結び合わされるとしたら、私たちは御子イエス・キリストの聖さを犯す者として、永遠の刑罰を受けて滅びるほかはありません。それで、御子イエス・キリストは私たちと一つになってくださるために、私たちと同じ人の性質を取って来てくださっただけではありません。その私たちと同じ人の性質において、私たちの罪の罪責をご自身の身に負ってくださり、私たちの身代わりとなって十字架にかかって死んでくださいました。
このようにして、私たちの罪に対する神さまの刑罰は御子イエス・キリストの十字架において執行されています。その死によって、私たちの罪はすべて、また完全に清算されています。私たちの過去の罪も、今も犯してしまう罪も、これから犯すであろう罪も、すべてまた完全に清算されているのです。私たちの罪がすべて完全に清算されていなければ、永遠の神の御子であられるイエス・キリストは、私たちと一つになることはおできになりません。その聖さにおいて無限、永遠、不変の主であられるお方が、罪が清算されていない者と一つとなられるというようなことはあり得ません。しかし、御言葉は、私たちは御子イエス・キリストと一つに結び合わされていると教えています。
永遠の神の御子であられるイエス・キリストが私たちと一つとなってくださるためには、さらに必要なことがあります。それは、ただ私たちの罪が清算されているだけは十分ではありません。さらに、私たちが御子イエス・キリストと一つに結び合わされるのにふさわしい義と聖さをもつ者となることが必要です。けれども、私たちはそれにふさわしい義と聖さをもつどころか、自らのうちに罪の性質を宿し、実際に罪を犯す者です。そうではあっても、神さまの御言葉は一貫して御子イエス・キリストは私たちと一つとなってくださっている、そして、私たちは御子イエス・キリストと一つに結び合わされているとあかししています。
そうであるとしますと、その義と聖さはどこから生れてきたのでしょうか。もちろん、その義と聖さは私たちが生み出したものではありません。それは御子イエス・キリストが私たちのために生み出してくださったものです。イエス・キリストが十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおして確立してくださった義と聖さです。
コリント人への手紙第一・1章30節、31節には、
しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。まさしく、「誇る者は主にあって誇れ。」と書かれているとおりになるためです。
と記されています。
しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。
という言葉では「神によって」(エクス・アウトゥー)ということがいちばん最初に来て強調されています。その点を生かして訳しますと、
しかしあなたがたがキリスト・イエスのうちにあるのは、神によっているのです。
となります。この「神によって」という言葉は直訳では「彼から」ですが、この「彼」はその前の「神」を受けていますので「神から」となります。これに沿って訳しますと、
しかしあなたがたがキリスト・イエスのうちにあるのは、神から出たことです。
となります。これは、私たちが「キリスト・イエスのうちにある」のは、神さまから出たこと、すなわち、神さまのみこころによること、神さまのご計画によることであるということを伝えています。それとともに、それが神さまから出たことであれば、神さまによって実現していることも含まれるということから、新改訳は「神によって」と訳していると考えられます。いずれにしましても、私たちが「キリスト・イエスのうちにある」のは、神さまから出たことであり、神さまによって実現していることであるのです。
ここでは、続いて、
キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。
と言われています。この「私たちにとって」(ヘーミーン)という訳は少し分かりにくい気がします。これは、むしろ「私たちのために」(利益を表す与格)と理解したほうがいいでしょう。「神の知恵」(ソフィア・アポ・セウー)は「神さまから与えられた知恵」という意味での「神の知恵」です。これには二つの面があります。一つは、十字架につけられたイエス・キリストご自身のうちにこの「神の知恵」、「神からの知恵」があり、イエス・キリストはこの「神の知恵」、「神からの知恵」によって十字架への道を歩まれたということです。もう一つは、その「神の知恵」、「神からの知恵」は、イエス・キリストが私たちに与えてくださる知恵であるということです。それは、私たちにおいては、イエス・キリストがご自身の十字架の死によって生み出してくださった「義と聖めと、贖い」を信仰によって受け取ることに現れてくる知恵です。
今お話ししていることとの関わりで言いますと、永遠の神の御子であられるイエス・キリストが私たちと一つとなってくださるためには、私たちが御子イエス・キリストと一つに結び合わされるのにふさわしい義と聖さをもつ必要があります。しかし、私たち人間にはそのような義と聖さを生み出すことはできません。ところがこの世の知恵は、人間には神のようになるだけの力があると考えて、そのために力を蓄え、努力をします。そして、人よりすぐれたものがあると感じると、それは人を見下すだけでなく、神をも否定するに至るような誇りを生み出します。しかし、御子イエス・キリストが与えてくださる「神の知恵」、「神からの知恵」は、私たちに、罪の下にある者が神さまの御前に認められる義を立てることも聖さを生み出すこともできないことを認めさせてくれます。そして、イエス・キリストがご自身の十字架の死に至までの従順によって生み出してくださった「義と聖めと、贖い」を信仰によって受け取るように、そして、そのすべてをなしてくださった神さまを誇るようにと私たちを導きます。31節に、
まさしく、「誇る者は主にあって誇れ。」と書かれているとおりになるためです。
と記されているとおりです。
このように、私たちが御子イエス・キリストと一つに結ばれているのは、父なる神さまから出たことであり、父なる神さまが実現してくださったことです。そのために、父なる神さまは御子イエス・キリストの十字架の死によって、私たちのための「義と聖めと、贖い」を生み出し、確立してくださいました。私たちは、父なる神さまが私たちのための「神の知恵」、「神からの知恵」としてくださった御子イエス・キリストを信じて、その「義と聖めと、贖い」を受け取っています。
このことをもう少し別の角度から見てみましょう。ローマ人への手紙4章25節には、
主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。
と記されています。
ここで、
主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、
と言われているときの「死に」という言葉は原文にない補足です。ここで「渡された」と言われていることの意味は「死に渡された」ということですので、その点をはっきりとさせるための補足です。同じことは、8章32節で、
私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。
と言われているときの「死に渡された」という訳文にも当てはまります。それはそれとしまして、この、
私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方
とは、言うまでもなく、父なる神さまです。それで、4章25節で、
主イエスは、私たちの罪のために死に渡された
と言われているときに、御子イエス・キリストを死にお渡しになったのは父なる神さまです。
また、これに続いて、
私たちが義と認められるために、よみがえられた
と言われているときの「よみがえられた」は、その前の「死に渡された」と同じように受け身です。この部分を直訳しますと、
私たちの義認のためによみがえらされた
となります。「義と認められる」と訳されている言葉(ディカイオーシス)は名詞で「義認」を表しています。このように見ますと、ここで、イエス・キリストが、
私たちの罪のために死に渡された
と言われていることと、
私たちの義認のためによみがえらされた
と言われていることは、「私たちの何々のために、何々された」というように、並行法で表されていることが分かります。
ここで「よみがえらされた」と訳した言葉(エーゲルセー)は、能動の意味で用いられることもあり得ます。また、日本語では「よみがえらされた」というように受け身で表しますと、何か被害を受けたかのような感じを与えますので、新改訳は「よみがえられた」と訳しているのでしょう。けれども、このローマ人への手紙4章25節の場合は、
私たちの罪のために死に渡された
と並行する形で表されていますので、
私たちの義認のためによみがえらされた
というように受け身の意味合いがあると考えられます。
聖書では、これを父なる神さまの側から見て、父なる神さまが御子イエス・キリストを死者の中からよみがえらせたともあかしされています。たとえば、使徒の働き2章32節に記されていますように、ペテロは、ペンテコステ(聖霊降臨節)の日の説教において、
神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。
と述べています。また、コリント人への手紙第一・6章14節には、
神は主をよみがえらせましたが、その御力によって私たちをもよみがえらせてくださいます。
と記されています。さらに、ピリピ人への手紙2章6節〜11節には、
キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。
と記されています。
これらのことから、ローマ人への手紙4章25節で、イエス・キリストがよみがえられたことが受け身の形で表されていることは、イエス・キリストのよみがえりが、イエス・キリストの十字架の死に至るまでの従順な歩みが父なる神さまによって受け入れられ、その従順に対する報いとして栄光を与えられて、死者の中からよみがえられたということを踏まえてのことであると考えられます。そして、それが私たちの義認のためであったと言われています。
イエス・キリストの十字架の死について、ローマ人への手紙4章25節では、
主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、
と言われていました。これは、今お話ししましたように、父なる神さまが御子イエス・キリストを「私たちの罪のために死に渡され」たという意味合いを伝えています。
これに対しまして、ヨハネの手紙第一・3章16節には、
キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。
と記されています。ここでは、御子イエス・キリストが「私たちのために」ご自身の意志でいのちをお捨てになったことがあかしされています。
ですから、父なる神さまが御子イエス・キリストを死にお渡しになったのは御子イエス・キリストのご意志に反してのことではありませんでした。この点において、父なる神さまと御子イエス・キリストのみこころはまったく一致していました。実際には、御子イエス・キリストがご自身の意志で、父なる神さまのみこころに従って、「私たちのために」十字架におかかりになったのです。
ヨハネの福音書10章18節には、
だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父ら受けたのです。
というイエス・キリストの教えが記されています。
わたしはこの命令をわたしの父ら受けたのです。
と言われていますように、御子イエス・キリストは父なる神さまのみこころに従っておられます。ですから、イエス・キリストは父なる神さまから主権者として立てられた方として、その主権、権威を行使される方です。イエス・キリストはそのような主権者として、私たちのための贖いの御業を遂行されました。実際にどのようにその主権、権威を行使されたのかと言いますと、ご自身の権威によって、すなわち、ご自身の主権者としての意志によって十字架におかかかりになり、ご自身の権威によって死者の中からよみがえられたのです。これが、イエス・キリストが私たちの主であられるということの中心にあることです。
これらのことを念頭において、ローマ人への手紙8章17節で、
もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。
と言われていることを受けて、18節〜25節で、私たち神の子どもたちも被造物全体のうめきの中でうめいているということを考えますと、一つのことが見えてきます。
御子イエス・キリストは、私たちと一つとなってくださり、私たちを父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに回復してくださるために、主権者としてのご自身の意志で、父なる神さまのみこころにしたがって、いのちを捨ててくださいました。それによって、私たちは御子イエス・キリストと一つに結び合わされて、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりの祝福にあずかっています。私たちの主であられるイエス・キリストは、このように、父なる神さまから委ねられた権威を働かせて、ご自身の民である私たちのためにいのちを捨ててくださった方です。私たちはこの主と一つに結び合わされています。
創世記1章27節、28節に、
神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」
と記されていますように、造り主である神さまは、神のかたちに造られている人間に、ご自身がお造りになったこの世界とその中に生きる者たちを治めるように命じられました。それは、神のかたちに造られている人間にそのような「権威」を委ねてくださったということを意味しています。
そればかりではありません。そのような立場に置かれた人間が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまったために、被造物が虚無に服してしまいました。最初の人が神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまった直後に宣言された神さまのさばきの言葉を記している創世記3章17節に、
また、アダムに仰せられた。
「あなたが、妻の声に聞き従い、
食べてはならないと
わたしが命じておいた木から食べたので、
土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。
あなたは、一生、
苦しんで食を得なければならない。」
と記されているとおりです。
また、そうであるからこそ、そのような立場に置かれた人間が神の子どもとして回復されるなら、被造物も神の子どもたちとの一体において回復されるようになるのです。ローマ人への手紙8章19節〜21節に、
被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。
と記されているとおりです。
そうであれば、主イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかって神の子どもとしての栄光と尊厳性を回復されている私たちはどうするのでしょうか。御子イエス・キリストと一つに結び合わされている私たちも、神の子どもとしての栄光と特権をイエス・キリストにならって働かせるように召されています。それで、私たちは、被造物全体と一つとなってともにうめきながら、その回復を待ち望みつつ祈り求めているわけです。
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