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説教日:2005年7月24日 |
けれども、これには解決しなければならない問題があります。それは、新改訳では18節の「なぜなら」という接続詞が省略されているということです。これは、新共同訳でも、英語の新国際訳でも省略されています。このことは、一般には17節で、 もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。 と言われていることと、18節で、 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。 と言われていることのつながりが認められていないことを示しています。 確かに、この二つの節で言われていることを見ますと、18節で言われていることが、17節で言われていることの理由を示しているようには見えません。けれども、この場合には、18節だけでなく、18節〜25節に記されていることを含めて18節〜30節に記されていることの全体が、17節で、 もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。 と言われていることを受けて、それを説明しているというように理解することができます。 実は、これと同じ接続詞(ガル)は、19節、20節、22節、24節にもありますが、20節に訳し出されているだけで、後は省略されています。けれども、ここで省略されている接続詞(ガル)は、それぞれの議論の展開を示していると考えられます。 その構造としましては、まず、今お話ししましたように、18節〜30節全体に記されていることがひとまとまりとなって、17節に記されている、 もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。 ということを説明していると考えられます。これが全体的な大枠となっています。18節がその全体的なまとめとなる導入であると考えられます。そして、その大枠の中で、次に「なぜなら」という接続詞で導入される19節〜21節で話が展開していると考えられます。20節の「それは」(ガル)はこの中での展開です。そして次に「なぜなら」という接続詞で導入される22節、23節に記されていることへと展開し、それが、やはり「なぜなら」という接続詞で導入される24節、25節へと受け継がれていくという形になっていると考えられます。 けれども、これで問題が解決するわけではありません。いくつかの翻訳がこれらの接続詞(ガル)を省略していることに見られますように、一般にはこのように理解されてはいません。その理由は、おそらく、二つのことによっているのでしょう。一つは、18節〜25節に記されていることが、全被造物とともに栄光を求めてうめくことであって、17節に記されている「キリストとともに」ということが述べられていないということでしょう。そして、もう一つは、18節〜25節に記されていることに「相続人」のことが述べられていないように見えるということでしょう。 まず、「キリストとともに」栄光を受けるということについてですが、18節〜30節全体を見てみますと、その最後の部分に当たる28節〜30節には、 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。 と記されています。 この部分については先週詳しくお話ししましたが、ここでは、父なる神さまが永遠から私たちを「御子のかたちと同じ姿」に定めてくださっておられること、そして、そのことを実現してくださるために、「すべてのことを働かせて益としてくださる」ということが記されています。そして、このように、父なる神さまが「すべてのことを働かせて益としてくださる」というときの「すべてのことを働かせて」というのは、その前の18節〜25節に記されている被造物全体の「うめき」の中にあってともにうめいている私たちの苦しみも含めた「すべてのことを働かせて」くださるということであると考えられます。 言うまでもなく、父なる神さまが私たちを「御子のかたちと同じ姿」に造り変えてくださるのは、私たちを御子イエス・キリストと一つに結び合わせてくださってのことです。そうであるとしますと、29節、30節で、 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。 と言われていることは、まさに、17節で、 もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。 と言われていることに当たるわけです。 このように、18節〜30節に記されていることの結論部分に、17節に記されていることが、言い方を変えて出てくるということは、18節〜30節に述べられていることが、17節に述べられていることにつながっているという方向を示しています。 さらに、18節〜25節に記されていることに私たちが「相続人」であることが出てこないように見えるということですが、それは「相続人」という言葉が出てこないだけのことです。この点につきましては今日は詳しくお話しできませんので改めてお話ししますが、結論的に言いますと、18節〜25節に記されている、今に至るまで完全な回復を求めてうめいている被造物全体が私たち神の子どもたちが「相続人」として受け継ぐ「相続財産」であるのです。 このように、17節に記されている、 もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。 ということは、18節〜30節に記されていることにつながっていると考えられます。 そうしますと、18節で、 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。 と言われているときの「今の時のいろいろの苦しみ」は、初めにお話ししましたように、「私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしている」と言われている意味をもっている苦しみであると考えることができます。 このようなことを踏まえて、18節〜25節に記されていることをお話ししたいのですが、その前に、17節に記されている私たちがイエス・キリストと苦しみをともしているということについて、お話ししておきたいと思います。 もちろん、これは私たちの罪を贖うためにイエス・キリストとともに苦しむことではありません。私たちの罪は、すでに2千年前のイエス・キリストの十字架の死によってまったく贖われています。それで私たちの罪を贖うための苦しみは必要ありませんし、そのような意味をもつ苦しみはありえません。ヘブル人への手紙10章12節〜14節に、 しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。 と記されているとおりです。 私たちがこの世で経験する苦しみは、私たちがイエス・キリストと一つに結ばれていることによる苦しみです。 ヨハネの福音書15章18節〜20節には、 もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。しもべはその主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します。もし彼らがわたしのことばを守ったなら、あなたがたのことばをも守ります。 というイエス・キリストの教えが記されています。これは、主であるイエス・キリストと一つに結び合わされて新しく生れている神の子どもたちがこの世で受ける迫害の苦しみの最も基本的な意味を明らかにしています。それは、何よりもまず、主であられるイエス・キリストに向けられた迫害であると言われています。 実際に、主の民を迫害していたパウロ、その頃はサウロと呼ばれていましたが、そのパウロに栄光のキリストがご自身を現してくださった時のことを記している使徒の働き9章1節〜5節には、 さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司のところに行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。それは、この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞いた。彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」 と記されています。これは、栄光のキリストご自身が、ご自身の民と一つであられることを明らかにしてくださったものです。それは、その当時の人々だけでなく、今日の私たちにもそのまま当てはまることです。大切なことは、これは主がご自身の主権的な意志でご自身の民と一つとなってくださっているということです。その場合に、必ずしもそのことを主の民が自覚しているとは限りません。 さらに、ペテロの手紙第一・2章19節〜25節には、 人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。 と記されています。 ここでは、私たちはこの世でイエス・キリストの御足の跡を踏み行くようにと召されていると言われています。そして、そのようにする時に不当な苦しみを受けることがあること、さらに、その不当な苦しみを忍ばなければならないことがある、ということが示されています。 これは、不正に目をつぶるようにというようなことではありません。何よりも、ここで述べられているイエス・キリストの歩みにおいて、 正しくさばかれる方にお任せになりました。 と言われています。 さらに、ヨハネの福音書18章19節〜24節には、十字架につけられる前の夜に大祭司の尋問にお答えになったイエス・キリストのことが記されています。その中の22節、23節には、 イエスがこう言われたとき、そばに立っていた役人のひとりが、「大祭司にそのような答え方をするのか。」と言って、平手でイエスを打った。イエスは彼に答えられた。「もしわたしの言ったことが悪いなら、その悪い証拠を示しなさい。しかし、もし正しいなら、なぜ、わたしを打つのか。」 と記されています。ここでイエス・キリストは、公的な立場にある大祭司から尋問を受けています。もっとも、この裁判のために招集された議会の招集の仕方には疑義がありますが、イエス・キリストはそのこと自体は問題にしてはおられません。イエス・キリストは大祭司の尋問に対してきちんとお答えになりました。それに対する役人の仕打ちをイエス・キリストがとがめられたのは、個人的な恨みをはらそうとしてのことではありません。そうではなく、これが曲がりなりにも主の御名による正式な裁判であって、リンチのようなことがなされてはならないことを示してのことでしょう。また、その理由によって、ご自身のあかしもきちんとなさっておられるのです。そのようにして、イエス・キリストはご自身のあかしをあかしとして守っておられます。 ペテロが言うのは、もう少し個人的なことです。自分が受け止めればすむというような場合です。先ほど引用した御言葉は主人から不当な仕打ちを受けているしもべ、すなわち奴隷に対する勧めです。主を信じているしもべが主の御名によって真実を尽くしても、不当な仕打ちを受けることがありました。それに対して、個人的な怒りや憎しみを心秘かに燃やすということが一般的なことでしょう。けれども、そのような時に、主人の人間としての弱さを受け止め、そのために祈る道もあるのです。マタイの福音書5章44節に記されていますように、主イエス・キリストが、 自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。 と教えておられるとおりです。ローマ人への手紙12章19節〜21節にも、 愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。 と記されています。 * これらのことは、私たちがこの世から不当な迫害を受けて苦しむときのことを記しています。けれども、私たちとイエス・キリストが一つに結ばれていることは迫害において現れてくるだけではありません。イエス・キリストはどのような時にも私たちと一つでいてくださいます。マタイの福音書18章5節には、 また、だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。 というイエス・キリストの教えが記されています。また、世の終わりの日のさばきについてのイエス・キリストの教えを記しているマタイの福音書25章34節〜40節には、 そうして、王は、その右にいる者たちに言います。「さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。」すると、その正しい人たちは、答えて言います。「主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。」すると、王は彼らに答えて言います。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」 と記されています。 ここでは、世の終りに再臨される栄光のキリストが「王」にたとえられています。その栄光のキリストが、 まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。 と言っておられます。そのように、栄光のキリストは私たちと一つとなっていてくださることが示されています。ここでは、主の民がこの世で味わうさまざまな苦しみのことが出てきます。飢えたり、渇いたり、旅の途上で難儀をしたり、裸であったり、病気であったり、投獄されたりすることが出てきます。投獄されることは迫害によることでしょうが、それ以外のことは必ずしも迫害によることとは限りません。これは、まさに、パウロが言うところの「今の時のいろいろの苦しみ」に当たります。そのすべての苦しみのとき、私たちの主イエス・キリストは私たちと一つであられると言われています。 そして、イエス・キリストが、 まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。 と言われることには、そのような「今の時のいろいろの苦しみ」の中で、イエス・キリストを中心とする神の家族の交わりがあることも示されています。それは、イエス・キリストが「これらのわたしの兄弟たち」と呼んでおられる者たちの交わりです。そういえば、先ほど引用しました、ヨハネの福音書15節18節には、 もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。 というイエス・キリストの教えが記されていましたが、その前の17節には、 あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。 というイエス・キリストの戒めが記されています。 ローマ人への手紙8章17節で、 もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。 と言われていますように、私たちはこの世でキリストと「苦難をともにして」います。そこには、イエス・キリストが「これらのわたしの兄弟たち」と呼ばれる神の家族の交わりもあるのです。それは、すでにお話ししましたように、私たちが「神の相続人」として神さまご自身を相続財産として受け継いでいることの現れにほかなりません。父なる神さまご自身を相続財産として受け継ぐということは、私たちが父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きることを意味しています。 これは、先ほど、私たちの相続財産は、今は完全な回復を求めてうめいている被造物全体であると言ったことと合わないと思われるかもしれません。しかし、すでにお話ししましたように、アブラハムへの契約に示されている相続財産には二つの面があります。一つはカナンの地を地上的なひな型として示されている主のご臨在される場所です。もう一つは、そこにご臨在してくださる主ご自身です。 カナンの地を地上的なひな型として示されている主のご臨在の場所は、今は完全な回復を求めてうめいている被造物全体です。神さまがお造りになったこの世界全体が、神さまがご臨在される場所として聖別されています。そして、主ご自身が相続財産であることは、私たちがこの世界にご臨在してくださる父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるようになることにあります。 17節で、 私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、 と言われていますように、私たちがキリストと「苦難をともにして」いるのは、キリストと「栄光をともに受けるため」のことです。そして、先週お話ししましたように、このことはすでに御霊のお働きによって、私たちの間ですでに始まっています。コリント人への手紙第二・3章18節に、 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。 と記されているとおりです。 そうであるとしますと、私たちがキリストと「栄光をともに受ける」ことは、「今の時のいろいろの苦しみ」の中で現実となっているだけでなく、イエス・キリストを中心とする神の家族の交わりの中で私たちの現実となっているわけです。私たちは「今の時のいろいろの苦しみ」の中で具体的な形でお互いの愛を表しいくことの中で「御子のかたちと同じ姿」に造り変えられていくのです。 私たちはこのような神の家族の交わりの中で、ともに心を合わせて、父なる神さまに向かって、 天にいます私たちの父よ。 御名があがめられますように。 御国が来ますように。 みこころが天で行なわれるように 地でも行なわれますように。 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。 私たちの負いめをお赦しください。 私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。 と祈ります。 |
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