(第23回)


説教日:2005年7月17日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 今日も、主の祈りそのものについてのお話の前置きとして、私たちの祈りについてのお話をいたします。これまで、私たちがこの世で経験する苦しみについて、祈りとの関係で考えてきました。そして、そのことの一つとして、私たちの苦しみはローマ人への手紙8章18節〜25節に記されている全被造物の「うめき」の中に位置づけられるということをお話ししています。ローマ人への手紙8章18節〜25節には、

今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。

と記されています。
 ここに記されていることは、私たちがこの世で味わう苦しみの意味に関わっています。私たちが経験する苦しみの最も大きな問題は苦しみそのものにではなく、自分が味わっている苦しみにどのような意味があるかということにあります。この世において人が味わった苦しみの中で最も深く大きな苦しみは御子イエス・キリストの十字架の苦しみです。イエス・キリストは十字架の死の苦しみそのものを喜ばれたわけではありません。むしろ、できるものであればそれは避けたいと願われました。けれども、イエス・キリストがそのような苦しみをお受けになったのは、それがご自身の民を罪と罪の結果である死と滅びから贖い出して、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きる者としてくださるために必要なことであると理解しておられたからです。イエス・キリストにとっていちばん大きな問題は十字架の死の苦しみそのものではなく、その意味でした。それは私たちが味わう苦しみにも当てはまります。私たちはこの世でさまざまな苦しみを味わうとき、その苦しみに意味があるのかという疑問でさらに苦しみが深くなります。そして、しばしば、この苦しみは神さまが自分に背を向けておられることのしるしなのではないかという思いに苦しめられることがあります。


 このような問題意識とともに、私たちがこの世で味わう苦しみのことを考えるために、まず、エペソ人への手紙1章4節、5節に、

すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。

と記されていることに基づいて一つのことを確かめました。父なる神さまは、永遠からのご計画、すなわち永遠の聖定において、私たちを御子イエス・キリストと一つに結び合わせてくださり、御前に聖く傷のない者となるように定めてくださいました。そして、ご自身の愛によって、私たちをご自身の子どもとしてくださることを定めてくださいました。そのように、私たちが神の子どもとしていただいているのは、私たちが父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きるためです。
 このようなことを確認することは私たちの存在の拠り所を確認することになります。私たちも含めてこの世界のすべてのものは神さまの永遠のご計画にしたがって造られたものです。そして、造られた後には、神さまの御手によって支えられています。この世界のすべてのものは造り主である神さまとの関係を離れては存在することができないものです。それは、私たち人間も例外ではありません。人間は被造物の中にあって神のかたちに造られており、造り主である神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きる者として、神さまに向けて造られています。人は初めから造り主である神さまに対するわきまえを与えられています。神さまがおられることばかりでなく、神さまが自分たちとこの世界をお造りになったことや、自分たちが神さまの愛に包まれていることをわきまえるわきまえを自らのうちにもっている者として造られています。さらに、神さまの愛を受け止めるために、また、神さまを愛するために必要な自由な意志を与えられている人格的な存在です。これが天地創造の初めに人が神のかたちに造られたときの状態であり、私たちの本来の姿です。
 このように、私たちは無限、永遠、不変の神さまの永遠からのご計画、すなわち永遠の聖定に私たちの存在と在り方の根拠をもっています。そして、神さまの永遠の聖定は神さまご自身の無限、永遠、不変の知恵と力と、無限、永遠、不変の愛と真実に支えられている最も確かなご計画です。私たちは神さまの永遠の聖定をのぞき見ることさえできませんが、神さまはその永遠の聖定において、私たちを御前に聖く傷のない者として立たせてくださり、ご自分の子にしようと定めてくださっていることを啓示し知らせてくださっています。これによって神さまは、どのようなことがあろうとも、このこと、すなわち、父なる神さまが私たちを御前に聖く傷のない者としてくださることと、ご自身の子として迎え入れてくださることは必ず実現する、ということを私たちに示し、保証してくださっているのです。
 これは永遠の聖定という、神さまの視点からのことです。これと同じことを、今この世にあってうめいている私たちの現実に即して記しているのが、ローマ人への手紙8章28節〜30節です。そこには、

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。

と記されています。
 28節で、

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

と言われているときの「」は、見かけの姿に関わらず、本質的に「善いこと」を表す言葉、アガソスという形容詞の中性形で、名詞に相当するものとして用いられている言葉で表されています。この「」がどのようなことかは、いろいろな機会にお話ししてきましたが、これに続く29節、30節に記されていることによって示されています。その中心は、29節の、

なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。

という言葉に示されています。これは、エペソ人への手紙1章4節、5節で、

すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。

と言われていることに当たります。
 ローマ人への手紙8章29節では、父なる神さまが「あらかじめ知っておられる人々」のことが出てきます。言うまでもなく、ここでは、その「人々」が「御子のかたちと同じ姿」に定められていると言われていますから、この「人々」は特定の人々のことです。人間的な言い方ですが、神さまの知識は無限、永遠、不変です。ですから、神さまは永遠からすべての人のことを完全に知っておられます。29節で言われているのはそのようなことではありません。ですから、この場合の「知る」ということは、旧約聖書に見られる人格的な交わりにおいて知るということに当たる意味で理解されます。その意味ではこれは「愛する」ということに近いものです。さらに、この場合、神さまが「あらかじめ知っておられる」ということは、神さまがすでにあるものを知るようになるということではありません。その意味では、これはその「人々」をあらしめるような意味での、主権的な神さまのご意志をともなうことです。父なる神さまは、永遠から私たちを愛してくださり、その愛のうちにあるものとして知ってくださっています。それで、私たちはそのように神さまの愛のうちにあるものとして存在するようになったのです。
 神さまはこのような意味で、

あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められた

と言われています。これは、まさに、エペソ人への手紙1章5節で、

神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです

と言われている事に当たります。エペソ人への手紙1章5節で言われていることは、私たちが父なる神さまの養子として迎え入れていただくということで、私たちが父なる神さまの子としての身分と特権を受けるようになることに力点があります。これに対して、ローマ人への手紙8章29節で、

なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。

と言われていることは、父なる神さまの子どもとしていただいている私たちの実質を示しています。私たちはただ神の子どもとしての身分を受けているだけでなく、私たち自身の実質が「御子のかたちと同じ姿」になるように永遠から定めていただいているのです。
 ですからローマ人への手紙8章28節で、

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

と言われているときの「」、「善いこと」とは、私たちが「御子のかたちと同じ姿」になることを意味しています。
 そして、このことを受けて、30節では、

神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。

と言われています。これは、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業が、御霊のお働きによって私たちに適用されることを示しています。その最後に至るところは、私たちが栄光を受けることにあると言われています。その栄光ある状態になることが、私たちが「御子のかたちと同じ姿」になることにほかなりません。
 このことを逆に見ますと、私たちが「御子のかたちと同じ姿」になることは、私たちが御霊のお働きによって栄光ある状態に造り変えられることを意味しています。ということは、「御子のかたちと同じ姿」というのは、十字架にかかって死んでくださった後、栄光をお受けになって死者の中からよみがえられた栄光のキリスト「のかたちと同じ姿」のことです。私たちは御子イエス・キリストの栄光のかたちに似た者に造り変えられるのです。
 ですから、御子イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって私たちのために贖いの御業を成し遂げてくださったのは、私たちが父なる神さまの子としての身分を受けるようになるためであるとともに、神の子どもとしての実質を持つようになるためであったのです。
 このように、エペソ人への手紙1章4節、5節では、父なる神さまの私たちについての永遠からのご計画のことが、

すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。

と言われています。そして、同じことが、ローマ人への手紙8章28節〜30節では、この世界にあってさまざまな試練で苦しみながらうめいている私たちの現実に則して、

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。

と言われています。
 先ほどお話ししましたように、父なる神さまがご自身の永遠の聖定において定めてくださったことは、神さまの無限、永遠、不変の知恵と力、無限、永遠、不変の愛と真実に支えられているという意味で確かなことです。しかし、それは、今この世にあって目の前の試練中でうめいている私たちにとっては、少し遠いことに感じられるかもしれません。そのような私たちには、もう一つ別の方向から、同じことを映し出す光が与えられているわけです。
 このことは、今は地上にあってさまざまな苦しみを味わいつつうめいている私たちが常に心に刻んでおかなければならないことです。というのは、私たちの中には、さまざまな苦しみは神さまからの刑罰ではないかという、この世において一般的な考え方の陰があって、苦しみの時にそれが頭をもたげてくるからです。
 福音の御言葉は私たちのさばきはすでに御子イエス・キリストの十字架において終っていると告げています。ですから、この世で私たちが味わう苦しみがどのようなものであっても、それは父なる神さまが私たちをお見捨てになったことのしるしではありません。それは、災害や病気のように、私たちでは如何ともしがたい力による苦しみだけでなく、私たち自身の罪がもたらした、私たちからすれば「当然の報い」と思える苦しみであっても変わりません。父なる神さまはそのような罪をうちに宿し、実際に罪を犯す私たちをご自身の子にしようとあらかじめ定めてくださいましたし、私たちの実質を「御子のかたちと同じ姿」となるように定めてくださっていました。そうであるからこそ、御子イエス・キリストを私たちの贖い主として立ててくださり、その十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、私たちのための贖いを成し遂げてくださったのです。ですから、私たちは父なる神さまに対して罪を犯したときでさえ、その罪を認め、御子イエス・キリストの贖いを信頼して、父なる神さまに近づくことができます。
 このこととの関連で、もう一つのことに注目しておきたいと思います。これまでは、ローマ人への手紙8章28節で、

神がすべてのことを働かせて益としてくださる

と言われているときの「」、「善いこと」に注目してきました。ここでは、「すべてのことを働かせて」と言われていることに注目したいと思います。結論的に言いますと、この「すべてのこと」(パンタ)は、まさに「すべてのこと」です。
 ここでは、二つのことに触れておきたいと思います。一つは、この「すべてのこと」は、これに先立つ18節〜25節に記されていることとのつながりで見ますと、私たちすでに神の子どもとしていただいている者を中心として、全被造物がうめいている状況の中で起こる「すべてのこと」です。このような全被造物がうめいている状況にあって、

神がすべてのことを働かせて益としてくださる

ということは、私たちが「御子のかたちと同じ姿」になることを意味していますが、それは全被造物が回復されることと密接につながっていることです。そのことは、19節〜21節に、

被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。

と記されています。
 28節の「すべてのこと」に関するもう一つのことは、この「すべてのこと」には、私たちが罪を犯して苦しむことも含まれているということです。私たちは罪を犯してしまった時にさえ、御子イエス・キリストの贖いの恵みを信じて父なる神さまに近づくことができます。それによって、私たちは御子イエス・キリストにある父なる神さまの愛と恵みの豊かさを知るようになります。
 先ほどお話ししましたように、8章30節で、

神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。

と言われているときの「栄光」は、私たちが「御子のかたちと同じ姿」になることを意味しています。それは、御子イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりをとおして成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きになる御霊のお働きによることです。
 この意味での御霊のお働き、私たちを「御子のかたちと同じ姿」に造り変えてくださるお働きはすでに始まっています。コリント人への手紙第二・3章18節に、

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

と記されているとおりです。
 コリント人への手紙第二・3章では、古い契約の下での地上的なひな型、本物の模型に仕えていた人々と違って、私たちは新しい契約の下で、その本体、本物に仕えていることが示されています。そして、それに仕えている私たち自身がすでにその恵みにあずかって、御霊によって内側から実質を造り変えられていることが示されています。今引用しました18節に記されていることは、その結論に当たります。
 これは、今すでに私たちのうちで起こっていることを記しています。ということは、これを別の面から見ますと、先ほど引用しましたローマ人への手紙8章28節で、

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

と言われていることを、御霊のお働きに焦点を合わせて述べているわけです。言い換えますと、私たちが御霊のお働きにあずかって「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて」いくということは、父なる神さまが「すべてのことを働かせて益としてくださること」に当たることです。
 先ほどお話ししましたように、これは、ローマ人への手紙8章の文脈では、全被造物が切実な思いで神の子どもたちの出現を待ち望んでうめいている状況で、私たちが「御子のかたちと同じ姿」に造り変えられていくということを意味しています。コリント人への手紙第二・3章18節の文脈でも同じようなことが見て取れます。3章18節は3章で述べられていることの結論に当たります。これを受けて、4章では、使徒パウロを初めとして、新しい契約の下にある者たちの働きのことが述べられています。そして、4章16節〜5章5節には、

ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は、その保証として御霊を下さいました。

と記されています。
 やはり、ここでも、終りの日に栄光のキリストが再臨されて、私たちの救いを完成してくださることを待ち望む望みの中でうめきながら、今の時の試練を受け止める姿勢を見て取ることができます。
 このように、御霊は、全被造物が完全な回復を待ち望んでうめいている状況の中で、私たちを御子イエス・キリストの栄光のかたちに似た者に造り変えてくださるお働きを進めてくださっています。そして、この御霊のお働きは、世の終りに栄光のキリストご自身が再臨される時に完成します。その時、栄光のキリストは、ご自身が十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業に基づいて、また御霊のお働きによって、すべてのものを新しく造り変えてくださいます。ヨハネの手紙第一・3章2節には、その日のことが、

愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

と記されています。
 私たちはこの世にある間、さまざまな試練の中で苦しみつつうめいています。しかしそれは、この確かな望みの中にあってのうめきです。それで、私たちは終りの日の救いの完成を待ち望みながら、

  御国が来ますように。

と祈ります。

 


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