(第22回)


説教日:2005年7月10日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 今日も、主の祈りについてのお話の前置きとして、私たちの祈りについてお話しします。これまで、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業にあずかって、父なる神さまの子としていただいている私たちがこの世で経験する苦しみをどのように受け止めるかということについて、祈りとの関係でいくつかのことをお話ししてきました。そして、その一つのこととして、私たちがこの世で経験する苦しみはローマ人への手紙8章18節〜25節に記されている全被造物が回復を待ち望んでうめいていることの中に位置づけられるということをお話ししています。
 先週と先々週は、これに先立つ17節に記されている、

もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。

という御言葉から、父なる神さまの子として迎え入れられている私たちが「相続人」であるということについてお話ししました。ここでは、私たちが「神の相続人」であると言われています。この「神の相続人」という言葉は、私たちが受ける相続財産が神さまご自身であるということを意味していると考えられます。


 すでにお話ししましたように、神さまご自身を相続財産として受け継ぐということは、私たちが神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きるようになることによって実現します。それは、天地創造の初めに人が神のかたちに造られたときに実現していたことです。神のかたちに造られた人は神さまのご臨在の場であるエデンの園に置かれ、そこにご臨在される神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きていました。これは決して実現しえない理想ではなく、神のかたちに造られている人間の最初の状態でした。その意味でこれは、神のかたちに造られている人間の本来の姿です。
 けれども、人が神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまったことによって、人は神さまのご臨在の御前に立つことができなくなりました。神さまは罪を犯した人をご自身のご臨在の御前から退け、ご臨在の場であるエデンの園から追い出されました。それは、人の罪に対するさばきですが、同時に、神さまの備えでもありました。というのは、自らのうちに罪を宿したままで神さまのご臨在の御許に近づくなら、神さまの聖さを犯すことになり、直ちにさばきを受けて滅ぼされてしまうほかはないからです。つまり、人が神さまのご臨在の御許から追い払われたのは、さばきではありますが、永遠の滅びという最終的なさばきを回避するための、一時的な手段だったのです。
 もちろん、この「追放」という一時的な手段は、最終的な解決をもたらしません。むしろ、人は自らのうちに罪を宿していますので、常に罪を犯します。それで、追放されても、追放された所で罪を犯し続けるほかはありません。それは、さらなるさばきを招くに至るだけであり、滅びが確実なものとなるだけです。神さまが「追放」という一時的な手段をお取りになったことは、それに先だって、創世記3章15節に記されている、

  わたしは、おまえと女との間に、
  また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
  敵意を置く。
  彼は、おまえの頭を踏み砕き、
  おまえは、彼のかかとにかみつく。

という福音を示してくださっておられたことと合わせて理解しなければなりません。
 この3章15節に記されている御言葉は、人を罪へと誘った「」の背後にいて働いている人格的な存在であるサタンへのさばきを宣言する神さまの御言葉です。神さまは、人が神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった時、また、サタンが人を誘ってご自身に罪を犯すように導いた時、サタンと人を直ちに最終的にさばくことをなさいませんでした。直ちに罪の徹底的な清算をなさらなかったのです。その時、神さまが直ちに最終的なさばきを執行されたなら、サタンばかりでなく、罪によってサタンと一つになって神さまに逆らうようになった人をも最終的にさばくことになったでしょう。それは、人の滅びを意味していました。神さまは、その最終的なさばきを直ちに執行なさらないで、「女の子孫」として来られる方をとおして執行なさると宣言されました。

  彼は、おまえの頭を踏み砕き、
  おまえは、彼のかかとにかみつく。

と言われているとおりです。
 ここで、

  わたしは、おまえと女との間に、
  また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
  敵意を置く。

と言われているときの「おまえの子孫」と「女の子孫」は集合名詞として二つの群れを指しています。それと同時に、その群れには「かしら」に当たる存在がいます。「おまえの子孫」のかしらは、言うまでもなく、「おまえ」と言われているサタンです。そして、「女の子孫」のかしらは、

  わたしは、おまえと女との間に、
  ・・・・
  敵意を置く。

と言われているときの「」ではなく、先ほどの「」と言われている方です。この「女の子孫」のかしらとして来られる方は、サタンに最終的なさばきを執行される方であり、その意味で神さまの側に立っておられます。そればかりか、被造物の罪に対して最終的なさばきを執行される方であれば、その方は栄光の主にほかなりません。
 このこととのつながりで見ますと、神さまがご自身に対して罪を犯した人をご自身のご臨在されるエデンの園から追放されたことの意味が分かります。人が罪あるままで神さまのご臨在の御前に近づいて、神さまの聖さを犯し最終的なさばきを受けて滅びることがないようにと、神さまのご臨在の御前から遠ざけられたことは、やがて「女の子孫」のかしらとして来られる贖い主のお働きによって、再び神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きることへと回復されるために必要なことであったのです。
 神のかたちに造られている人間は、初めから、神さまご自身を「相続財産」、受け取るべき「分の土地」として与えられていました。そして、実際に、神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きていました。そのような状態にあった人が神さまに対して罪を犯し、御前に堕落してしまったことによって、神さまとの愛にあるいのちの交わりを喪失してしまいました。その直後に神さまが与えてくださった福音は、神さまとの愛にあるいのちの交わりを失ってしまった人間に、贖い主を通してその交わりを回復してくださることを約束してくださるものでした。
 今日私たちが聞いている福音はこれと同じ福音ですが、神さまが約束してくださったことを実現してくださったことを伝えるものです。神さまは確かにご自身の御子を「女の子孫」のかしらとしてお遣わしになりました。そして、その十字架の死によって私たちの罪を贖ってくださり、死者の中からのよみがえりにあずからせてくださって私たちを新しく生れさせ、ご自身の子としての身分を与えてくださり、ご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生きる者としてくださいました。ガラテヤ人への手紙4章4章4節〜7節に、

しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。

と記されているとおりです。
 このように、「女の子孫」として約束された贖い主として来てくださった御子イエス・キリストは、ご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、私たちを神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きる者として回復してくださいました。これを「相続財産」という点から言いますと、御子イエス・キリストが私たちの「相続財産」を回復してくださったということになります。
 それにしても、一つの疑問が残ります。それは、どうして神さまご自身が「相続財産」あるいは「分の土地」というように表されているのかということです。
 これまで「相続人」と「相続財産」に関する約束はアブラハムに与えられた契約の中で示されていたということをお話ししました。アブラハムに与えられた契約を記している創世記17章7節、8節には、

わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。

という契約の神である主の御言葉が記されています。
 ここでは、7節に、

わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。

と記されていますように、主がアブラハムに契約を与えてくださった目的が記されています。それは、主がアブラハムとその子孫の神となってくださるということです。それは、アブラハムとその子孫が主とのの愛にあるいのちの交わりに生きるようになることを意味しています。
 ところがそれで終らないで、それに続く7節には、

わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。

と約束されています。そして、さらにその目的も、

わたしは、彼らの神となる。

ということであると言われています。
 このように、契約の神である主がアブラハムとその子孫の神となってくださることと、「カナンの地」を相続財産として与えてくださるということが結び合っているのです。これが、契約の神である主ご自身が主の民の「相続財産」であるということの意味を解く鍵です。これについては、少し前にお話ししましたが、ここで約束されている「カナンの地」は後にそこに主の神殿が建てられ、その聖所に主がご臨在されることによって、主と主の民との交わりが実現する場所としての意味をもっていました。けれども、この「カナンの地」も、そこに建設された主の神殿も地上的なひな型であって、やがて来る本物の模型でしかありませんでした。それで、アブラハムは地上の「カナンの地」に定着することはありませんでしたし、そこに自分の国を建設することもありませんでした。ヘブル人への手紙11章8節〜10節に、

信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。

と記されているとおりです。
 いずれにしましても、人間は神さまがお造りになったこの世界において生きる者です。人間はこの世界において、見えない神さまを現しあかしするものとして神のかたちに造られています。そのような人間が主との愛にあるいのちの交わりのうちに生きるためには、神さまがこの世界にご臨在してくださらなければなりません。そして、実際に、この世界の最初の状態を記している、創世記1章2節には、

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。

と記されています。いまだ、

地は形がなく、何もなかった。

という状態の時に、すでに、

神の霊は水の上を動いていた。

と言われていますように、神さまが御霊によってそこにご臨在してくださっていました。この世界は、何よりもまず、神さまがご臨在される場所としての意味をもっているのです。それは今も変わっていません。そして、人が神のかたちに造られたときには、特別な意味で神さまがご臨在される場所として聖別されていたエデンの園に置かれました。
 このようにして、この地は、人が神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるために、神さまがご臨在してくださる場所として造られています。このことから、神さまご自身が「相続財産」あるいは「分の土地」として示されていることの意味をくみ取ることができます。「相続財産」あるいは「分の土地」を受け取るということは、単なる土地を相続して受け取るということではないのです。そこに神である主がご臨在してくださる土地を受け継ぐということです。そして、そこで主との愛にあるいのちの交わりのうちに生きるようになるということなのです。
 このように、私たちが「相続財産」あるいは「分の土地」を受け取るということには、神さまご自身を「相続財産」として受け取ることと、神さまがご臨在してくださる「土地」を受け取り、そこで、神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きるようになることという、二つの面があることが分かります。
 これらのことを踏まえて、ローマ人への手紙に戻ってみますと、先ほど引用しました8章17節に、

もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。

と言われていました。
 繰り返しになりますが、この「神の相続人」ということは、私たちが神さまご自身を「相続財産」として受け取ることを意味しており、それは、私たちが神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるようになることに具体的に現れてくると考えられます。そして、そのことは、これに先立つ14節、15節において、

神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。

と言われていることにおいて、実際に実現していることが示されています。
 そうしますと、古い契約をとおして一貫して示されてきました「相続財産」のもう一つの面である、神である主がご臨在してくださる「土地」はどうなるのかということが問題となります。すでにお話ししましたように、「カナンの地」はやがて来る本体を指し示す地上的なひな型であり、本物の模型でしかありませんでした。そうであれば、その本体は何かということになります。一見しますと、17節で、

もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。

と言われた後、その説明はないように見えます。けれども、これに続く18節〜25節には、

今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。

と記されています。
 ここでは、すべての被造物が「滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられ」ることを待ち望んで「今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしている」と言われています。そして、このように、すべての被造物が「滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられ」るようになることは、私たちすでに神の子どもとされている者たちが、イエス・キリストの復活にあずかって栄光あるものとされることとつながっていることが示されています。
 そのようにして、私たちがイエス・キリストの復活にあずかって栄光あるものとされることと、すべての被造物が「滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられ」るようになることは、言うまでもなく、世の終りに栄光のキリストが再臨される時に、栄光のキリストの新しい創造の御業によって実現することです。
 そのことの実現を預言的に記している黙示録21章1節〜4節には、

また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」

と記されています。
 ここに記されている「新しい天と新しい地」は、ローマ人への手紙8章21節、22節の言葉で言いますと、全被造物が「滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられ」るようになった状態にあることを示しています。もちろん、これは、終わりの日に再臨される栄光のキリストの再創造の御業によって実現することです。そして、黙示録21章3節で、

そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。」

と言われていることは、その「新しい天と新しい地」において、私たち神の子どもたちが神さまのご臨在の御前にあり、神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きるようになることを示しています。
 このように見ますと、この「新しい天と新しい地」こそは、私たち神の子どもである「相続人」が受け継ぐ「相続財産」としての神さまがご臨在される「土地」であることが分かります。黙示録では、これに続いて、5節〜7節に、

すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」また言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。

と記されています。最後の7節で、

勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。

と言われていることは、まさに、ここに述べられている祝福の中心が、

わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。

ということにあること、そして、それが「これらのものを相続する」ことによって実現するということを示しています。
 これらのことから、ローマ人への手紙8章18節〜25節に記されている、

今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。

ということの意味も見えてきます。それは、「女の子孫」のかしらとして来てくださり、私たちの罪を贖ってくださるために十字架におかかりになり、私たちを新しく生れさせてくださるためによみがえってくださった御子イエス・キリストの恵みによって「神の相続人」となった私たちが受け継ぐ「相続財産」のことを述べているということです。そして、私たちがこの世で味わうさまざまな苦しみは、この全被造物のうめきの中に位置づけられます。
  これは、終わりの日に私たちの贖いが完成することと、それに伴って全被造物が回復され栄光に満ちたものとされることの約束のうえに立って、その実現を待ち望むからこそのうめきです。それは、被造物全体が人間の罪による堕落がもたらした虚無のうちにあることを、やむを得ないこととして受け止めることとは違います。全被造物がこの望みの中にあってうめいているといっても、全被造物がそれを自覚しているわけではありません。それを自覚しているのは、人格的な存在である人間だけです。私たちは、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる贖いの御業にあずかって、すでに神のかたちとして回復していただいています。そのようなものとして、私たちは全被造物のうめきを聞き取り、それが私たちも含めた全被造物の完全な回復と栄光化を待ち望んでのものであることをわきまえます。そして、そのわきまえをもって、望みとともに、

  御国が来ますように。

と祈ります。

 


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