(第21回)


説教日:2005年7月3日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 今日も、主の祈りそのものについてお話しする前のこととして、私たちの祈りについてお話しします。これまで、イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業にあずかって、父なる神さまの子としていただいている私たちがこの世で味わう苦しみをどのように受け止めたらいいのかということについて、祈りとの関係でいくつかのことをお話ししてきました。そして、その一つのこととして、私たちがこの世で経験する苦しみはローマ人への手紙8章18節〜25節に記されている全被造物が回復を待ち望んでうめいていることの中に位置づけられるということをお話ししています。
 先週は、ローマ人への手紙8章17節に記されている、

もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。

という御言葉から、父なる神さまの子として迎え入れられている私たちが「相続人」であるということについてお話ししました。そして、ここで「神の相続人」と言われている私たちが受ける相続財産は神さまご自身であるということもお話ししました。
 この「相続人」のことは旧約聖書に記されているアブラハムへの契約の約束の中で示されていることです。今日は、このことについて、先週お話ししたことを補足するお話をしたいと思います。


 創世記12章1節〜3節には、

その後、主はアブラムに仰せられた。
  「あなたは、
  あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、
  わたしが示す地へ行きなさい。
  そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、
  あなたを祝福し、
  あなたの名を大いなるものとしよう。
  あなたの名は祝福となる。
  あなたを祝福する者をわたしは祝福し、
  あなたをのろう者をわたしはのろう。
  地上のすべての民族は、
  あなたによって祝福される。」

と記されています。ここには、主がアブラハムに召命を与えてくださったことが記されています。
 1節に記されている、

  あなたは、
  あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、
  わたしが示す地へ行きなさい。

という命令を受けて、2節、3節には七つの約束が記されています。それは「祝福」に関わる約束です。そして、その7番目の約束は、

  地上のすべての民族は、
  あなたによって祝福される。

というものです。これはアブラハムに与えられた約束がただ単にアブラハムとその子孫に関わるものではなく、「地上のすべての民族」の祝福に関わっていることを示しています。
 聖書に記されている限りのことですが、これはアブラハムに与えられた最初の約束です。これと同じような視野の広がりは、22章16節〜18節に記されている、アブラハムに与えられた最後の約束においても見られることです。22章16節〜18節には、

これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。

と記されています。
 これは、アブラハムが神である主の命令に従って自分の独り子であるイサクを主にささげたことを受けて与えられた約束です。ここでも、最後に、

あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。

と言われていますように、「地のすべての国々」への祝福が視野に入っています。
 12章に記されている約束に戻りますが、2節には、

  そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、
  あなたを祝福し、
  あなたの名を大いなるものとしよう。

という約束が記されています。
 この「大いなる国民」の「国民」と訳されている言葉(ゴーイ)は、英語のネイション(nation)に当たるもので、一つの領土にあって言語や文化や政府などを一つにする人々の全体を指しています。その意味で、これは政治的な集合体で、「国民」や「国家」を表しています。これに対して、「民」という言葉(アム)は、基本的に血縁や同族的なつながりを示しています。この二つの言葉には共通する面がありますが、このような意味合いの違いもあるということです。それで、

  そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、

という約束も、タダアブラハムとの血肉のつながりのある人々だけを視野に入れているわけではないと考えられます。
 そして、

  あなたの名を大いなるものとしよう。

という約束は、先ほどの、

  わたしはあなたを大いなる国民とし、

という約束とつながっています。政治的な集合体としての「国民」あるいは「国家」が大いなるものとなり、それにかかわるアブラハムの「」が大いなるものとなるということは、古代オリエントの発想では、アブラハムがその「国民」あるいは「国家」において王に当たる立場にあることを意味しています。主はこの約束を与えてくださる段階で、アブラハムを王的な存在として扱ってくださっているのです。
 このように、主がアブラハムに、

  あなたの名を大いなるものとしよう。

と約束してくださったことは、その前の11章1節〜9節に記されているバベルでの出来事において起こっていることと対比されます。11章1節〜9節には、

さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。

と記されています。
 3節で、

彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。

と言われていることは、彼らが手近にあって手に入る材料の代わりに自分たちが開発した建築材料によって建物を建てるようになったことを示しています。しかもそれは天日で乾燥させたレンガではなく、焼いて強度をましたレンガでした。このような「技術革新」によって都市が作られ、「頂が天に届く塔」を建てることが可能になり、それがまた、人間の高ぶりを助長するという循環が生まれました。
 ここで、人々がバベルに塔を建てようとした動機を記している4節には、

そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」

と記されています。ここで、

名をあげよう。

と訳されている言葉は、文字通りには、

われわれ自身のために名を成そう。

というような言い方です。これは、自分たちのために、そして、

頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。

という言葉に示されているように、神さまに対抗する形で、名を成そうという試みです。
 聖書の中では、ここに記されていることのほかは、自らその名を成すということは、主ご自身にのみ当てはめられています。一つの例として、イザヤ書63章12節には、

  その輝かしい御腕をモーセの右に進ませ、
  彼らの前で水を分け、永遠の名を成し、

と記されています。ここで、
  永遠の名を成し
と言われているときの「名を成し」という言い方は、創世記11章4節で、

名をあげよう。

と言われているときの言い方と同じです。
 このように、バベルの人々は神さまに対抗する形で自ら名を成そうとしました。これに対して、アブラハムの場合には、主の召命の御言葉に従うことによって、主の恵みによって、その名を大いなるものとしていただく約束を受け取っています。しかも、それは、

  地上のすべての民族は、
  あなたによって祝福される。

という約束につながっていくものです。
 このような対比から、私たちは、アブラハムに与えられた、

  地上のすべての民族は、
  あなたによって祝福される。

という約束がバベルで執行されたさばきに対比されるだけでなく、それに対する主の備えとしての意味をもっていることをくみ取ります。
 バベルにおいては、人間が主の御前に高ぶり、主のさばきを招いて地の面に散らされてしまいました。それによって、11章1節で、

さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。

と記されている人類の一体性は破壊されてしまいました。そこから、さまざまな、民族や国家が分かれて住むだけでなく、互いの間で覇権を競う戦いが生じるようになりました。
 けれども、これは神さまの備えでもあったのです。というのは、11章1節で言われている、

さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。

という状態にあっては、すべての人が一つの権力の下にあって統制されていました。それは、血肉の権力、すなわち武力をもってすべての人を従わせる権力によって治められているという状態でした。そのことは、10章8節〜10節に、

クシュはニムロデを生んだ。ニムロデは地上で最初の権力者となった。彼は主のおかげで、力ある猟師になったので、「主のおかげで、力ある猟師ニムロデのようだ。」と言われるようになった。彼の王国の初めは、バベル、エレク、アカデであって、みな、シヌアルの地にあった。

と記されていることからうかがわれます。
 10節において、

彼の王国の初めは、バベル、エレク、アカデであって、みな、シヌアルの地にあった。

と言われていることから、バベルで起こったことは、ニムロデの帝国のことであることが分かります。
 8節で、

ニムロデは地上で最初の権力者となった。

と言われていることは、文字通りには、

彼[ニムロデ]は、地における権力者の走りとなった。

というような言い方がなされています。
 この場合の「権力者」という言葉(ギボール)は、戦いにおける「強者」、「勇者」、「強い戦士」を表します。この言葉は、洪水前のノアの時代のことを記している6章4節に、

神の子らが、人の娘たちのところにはいり、彼らに子どもができたころ、またその後にも、ネフィリムが地上にいた。これらは、昔の勇士であり、名のある者たちであった。

と記されている中で「ネフィリム」を説明する「勇士」を表しています。この6章4節では、この「勇士」は「名のある者たちであった」と言われています。それは、11節で、

地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。

と言われているような状態の時代において「名のある者たちであった」のです。そのような「力こそすべて」というような発想の文化の中で「名のある者たちであった」のですから、彼らこそ、

地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。

と言われているような状態をもたらした「張本人」であったと考えられます。それで、ここで「名のある者たちであった」と言われているのは、バベルにおいて人々が、

われわれ自身のために名を成そう。

と言っていたことが、実現していたことを意味しています。バベルにおいては「名を成そう」というように、そのことがこれからなされようとしています。けれども、それが洪水前のノアの時代には、すでに現実となっていたのです。このことは、バベルにおいても洪水前のノアの時代と同じことが起ころうとしていたことを思わせます。
 バベルにおいては、そのような強大な権力によって統一されている帝国が神さまに対して高ぶって、神さまの御前に堕落の道を突き進んでしまったのです。それは、やがて洪水前のノアの時代のように、神さまの最終的なさばきを招くに至る道でした。神さまは、人類が再びそのような状態になって滅びることがないようにと、人々の言葉を混乱させ、人々を地の面に散らされたのです。
 全人類が一つとなって堕落の道を突き進んで、罪の升目を満たしてしまい、神である主の最終的なさばきを招くよりは、お互いに対立しながら牽制し合い、一つの国が腐敗をきわめて弱体化すると、別の国が興ってこれを倒し、新興の国としての規律を正して歩むようになるということを繰り返したほうが、罪の升目を満たして、神である主の最終的なさばきを招くに至る可能性が低くなるわけです。
 けれども、このこと自体は、真に問題を解決することにはなりません。これは、いわば神さまがお取りになった「非常手段」あるいは「暫定的な手段」でした。神さまは人類が地の面に散らされ、分裂したままに放置されたのではありません。アブラハムを召してくださって、

  地上のすべての民族は、
  あなたによって祝福される。

と約束してくださったのです。
 アブラハムに与えられた約束には、このような歴史的な背景と「地上のすべての民族」の祝福に関わるという視野の広がりがあります。
 ガラテヤ人への手紙3章6節〜9節には、

アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。それと同じことです。ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される。」と前もって福音を告げたのです。そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。

と記されています。
 6節で、

アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。

と言われていることは、先週お話ししました創世記15章6節に記されていることです。5節、6節には、

そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

と記されています。この場合、アブラハムが主を信じたということは、「アブラハムの子孫」に関する主の約束を信じたということです。そして、アブラハムはこの信仰によって義と認められています。
 ガラテヤ人への手紙3章7節では、

ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。

と言われています。この「信仰による人々」というのは、文字通りには「信仰からの人々」というような言い方です。これは、その基本的な在り方や姿勢が信仰によって特徴づけられている人々のことを指します。この場合には、アブラハムの生涯を特徴づけている信仰による人ということです。このような人のことが、ローマ人への手紙4章16節では「アブラハムの信仰にならう人々」と言われています。これはガラテヤ人への手紙3章7節の「信仰からの人々」と同じ言い方で、文字通りには「アブラハムの信仰からの人」というような言い方です。これは、何か事があった時になって神を信じるというようなことではなく、いつも主に対する信仰と信頼のうちに歩むことです。それは罪を犯さないということではありません。罪を犯したときにも、主の御言葉の約束にしたがって、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの恵みに信頼するというような姿勢です。
 ガラテヤ人への手紙3章8節では、

聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される。」と前もって福音を告げたのです。

と言われています。
 これは先ほど引用しました創世記12章3節に記されている、

  地上のすべての民族は、
  あなたによって祝福される。

というアブラハムへの約束に触れるものです。
 続く9節では、

そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。

と言われています。そして、これを受けて、13節、14節では、

キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。

と言われています。
 これはここでは直接的には触れられていませんが、やはり先ほど引用しました、アブラハムに与えられた最後の約束で、

あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。

と約束されていたことの成就です。ここでは、私たちが「アブラハムへの祝福」にあずかることは、「私たちが信仰によって約束の御霊を受ける」ことにあることが示されています。
 ガラテヤ人への手紙では、この後モーセ律法の役割のことが論じられた後、3章29節において、

もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。

と記されています。そして、4章4節〜7節には、

しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。

と記されています。
 このように、ガラテヤ人への手紙3章〜4章の初めにかけては、私たちが「アブラハムへの祝福」にあずかることは、「約束の御霊」を受けることであり、それは「『アバ、父。』と呼ぶ、御子の御霊」を受けることであるということが示されています。これは、私たちがイエス・キリストを信じる信仰によるアブラハムの子孫として受け取る相続財産が契約の神である主ご自身であり、私たちが御霊によって父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きることであるということにほかなりません。
 このことを、神である主の贖いの御業の歴史の流れの中で見ますと、私たち主の民が御霊を受けたことには歴史的な始まりがあります。それは、十字架の死と死者の中からのよみがえりによって私たちのための贖いを成し遂げてくださったイエス・キリストが、父なる神さまの右の座から御霊を注いでくださったペンテコステ(「五旬節」)の日のことです。これまでお話ししてきたことから分かりますまように、栄光のキリストが御霊を注いでくださったこと、それによって、主の民が御霊を受けるようになったことは、「アブラハムへの祝福」が成就したことを意味することです。ペンテコステの日のことを記している使徒の働き2章1節〜11節には、

五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいたが、この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、驚きあきれてしまった。彼らは驚き怪しんで言った。「どうでしょう。いま話しているこの人たちは、みなガリラヤの人ではありませんか。それなのに、私たちめいめいの国の国語で話すのを聞くとは、いったいどうしたことでしょう。私たちは、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人、またメソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者たち、また滞在中のローマ人たちで、ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレテ人とアラビヤ人なのに、あの人たちが、私たちのいろいろな国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは。」

と記されています。
 この時人々は、驚きとともに、

私たちのいろいろな国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは。

と言いました。これは、バベルにおいて神である主が人々の言葉を乱して、人々を地の面に散らされたことに対比される出来事です。さまざまな言葉を話す国々に散らされていた人々が、神さまの恵みの御言葉を聞くようになったのです。そして、信じた人々は「アブラハムへの祝福」にあずかって、御霊を受け、神の子どもとして神の家族に迎え入れられ、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きる者とされました。そして、このことが今日私たちの間でも実現しています。まさに、主がアブラハムに、

  地上のすべての民族は、
  あなたによって祝福される。

と約束してくださったことが私たちの間で実現しているのです。

 


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