(第20回)


説教日:2005年6月26日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 今日も、私たちの主イエス・キリストが教えてくださった祈りである「主の祈り」についてのお話を続けます。今は、主の祈りそのものについてお話しする前のこととして、私たちの祈りについていくつかのことをお話ししています。
 エペソ人への手紙1章4節、5節には、

すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。

と記されています。
 父なる神さまは天地創造の御業を始める前から、すなわちご自身の永遠の聖定において、私たちをイエス・キリストと一つに結び合わせてくださり、イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださる贖いの御業にあずからせてくださって、ご自身の「御前で聖く、傷のない者」となるように定めてくださいました。さらに、私たちを「イエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておら」ました。父なる神さまは、イエス・キリストにあって、私たちを永遠の愛をもって愛してくださり、「ご自分の子」として迎え入れてくださり、ご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生きるものとしてくださるように定めてくださったのです。そして、このような永遠の聖定におけるみこころを実現してくださるために、創造の御業と贖いの御業を遂行されました。
 これまで、父なる神さまの永遠の愛のうちにある神の子どもたちがこの世界で苦しみを味わうことをどのように受け止めたらいいのかということについて、祈りとの関係でいくつかのことをお話ししてきました。そして、その一つのこととして、私たちがこの世で経験する苦しみはローマ人への手紙8章18節〜25節に記されている全被造物が回復を待ち望んでうめいていることの中に位置づけられるということをお話ししています。
 先週は北四日市キリスト教会で伝道集会の講師としてのご奉仕をさせていただきましたために、お話としては一週空いてしまいましたので、まず、これまでお話ししたことを、簡単に復習をしておきます。
 ローマ人への手紙8章では、18節〜25節に先立って、私たちがイエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって神の子どもとされていることが記されています。14節〜16節には、

神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。

と記されています。
 ここでは、私たちはイエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって神の子どもとされているので「子としてくださる御霊」を受けていると言われています。そして、この「子としてくださる御霊」が私たちを神の子どもとして導いてくださっていることが示されています。そして、この「子としてくださる御霊」の導きは何よりも、

私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。

と言われていること、すなわち、祈りによる父なる神さまとの交わりとして現れてくることが示されています。
 「アバ」というのはアラム語で「お父さん」という意味の言葉です。これは小さな子供によっても大人によっても用いられる言葉です。子供の頃に父親を信頼して呼んでいた言葉をそのまま大人になっても用いているわけです。
 これに続く16節には、

私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。

と記されています。
 原文のギリシャ語では「御霊ご自身が」という強調された言い方が、しかも最初に出てきていることによって二重に強調されています。これによって、「私たちが神の子どもであること」は、御霊があかししてくださることであることが示されています。御霊が「私たちの霊」のうちにある「私たちが神の子どもである」というあかし、あるいは自覚を「確証し」支えてくださっているということです。そして、この「御霊ご自身が」「私たちが神の子どもであること」をあかししてくださることは、私たちが御霊によって、父なる神さまに向かって「アバ、父。」と呼ぶことの中で、すなわち、祈りにおける父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりの中でなされるものであると考えられます。


 これに続いて17節には、

もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。

と記されています。
 ここには「相続人」という主題が出てきます。そして、

もし子どもであるなら、相続人でもあります。

と言われていますように、「相続人」であることは、「子ども」であることと結びついています。しかも、ここでは、私たちは「キリストとの共同相続人」であると言われています。この「キリストとの共同相続人」ということは、私たちが「相続人」であることは、私たちが御子イエス・キリストと一つに結び合わされていることによっている、ということを示しています。
 繰り返しお話ししてきましたように、エペソ人への手紙1章5節で、父なる神さまが永遠の聖定において私たちを「ご自分の子にしようと」定めてくださったと言われているときの「子とすること」という言葉(フイオセシア)は「養子とすること」を表す言葉です。そして、この言葉はローマ人への手紙8章15節で「子としてくださる御霊」と言われているときにも用いられています。「子としてくださる御霊」は、文字通りには「養子としてくださる御霊」です。私たちは御子イエス・キリストと一つに結び合わされ、御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業にあずかって罪を贖っていただいて、父なる神さまの養子として迎え入れられました。そして、その当時の文化では、養子とされた子も実子と同じ権利を与えられていました。私たちが「キリストとの共同相続人」であるということは、これらすべてのことを踏まえています。
 ここでは、また、私たちは「神の相続人」であると言われています。この「神の相続人」という言い方は不思議な言い方です。実際、この「神の相続人」という言葉は新約聖書ではここだけに出てきます。普通「誰々の相続人」と言いますと、その「誰々」が死んで世を去ったときに、その人が残した遺産を受け継ぐ人を意味しています。けれども、「神の相続人」の場合には、神さまは永遠にいます方であられ、いのちそのものであられますから、決して死ぬことはありません。そうしますと、「神の相続人」は、いつ、何を受け継ぐのかという問題が出てきます。
 これについては、この「神の相続人」という言葉は、ただ単に神さまが私たちに約束してくださっているものを受け継ぐというだけでなく、神さまご自身が私たちが受け継ぐ相続財産であるということを表していると考えられます。
 すでに、旧約聖書において、契約の神である主ご自身が主の民が受け継ぐ相続財産であるということが示されています。
 旧約聖書において「相続人」のことが問題になっているのはイスラエルの民の父祖であるアブラハムの生涯においてです。ご存知のように、アブラハムにはなかなか子どもが与えられませんでした。創世記15章1節〜7節には、

これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」そこでアブラムは申し上げた。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私にはまだ子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう。」と申し上げた。すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。また彼に仰せられた。「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデヤ人のウルからあなたを連れ出した主である。」

と記されています。6節に記されている、

彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

という言葉は、アブラハムが主を信じる信仰によって義と認められたことを記しています。これは、パウロが人は自分の行ないによらないで主を信じる信仰によって義と認められるということを旧約聖書に基づいて示すときに用いていることの一つです。そのような重大なことも、それに先立つ部分に記されていますように、アブラハムの「相続人」のことが問題となっているのです。それはアブラハムに与えられた祝福を相続する「相続人」です。
 さらに、創世記17章7節、8節には、

わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。

と記されています。
 ここには主がアブラハムにご自身の契約を与えてくださったことが記されています。そして、その契約の祝福は「カナンの全土」をアブラハムとアブラハムの子孫に「永遠の所有として」与えてくださることにあるかのように見えます。けれども、それは主の祝福の中心ではありません。主の祝福の中心は、7節で、

わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。

と言われていることにあります。8節でも、カナンの地のことが語られた後で、

わたしは、彼らの神となる。

と言われています。
 カナンの地が相続地であるのは、そこに地上的なひな型としてではありますが、主がご臨在される聖所が建てられ、イスラエルの民がその主のご臨在の御前で生きるようになるからです。主の民が受けるべき相続地の本質的な意味は、そこで主ご自身との愛にあるいのちの交わりがあるということにあります。先ほどの、

わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。

という主の御言葉や、

わたしは、彼らの神となる。

という主の御言葉は、主ご自身がアブラハムとその子孫の相続財産であられるということを意味しています。
 主の契約の民が相続する相続財産の中心は主ご自身であり、それ以外のものは、主の民が主ご自身を相続することに付随するものとして備えられています。
 アブラハムはこの主の契約の祝福を理解したうえで信じましたので、地上のカナンの地に定住することはありませんでした。そのことについてヘブル人への手紙11章8節〜10節には、

信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。

と記されています。アブラハムは、カナンの地が自分の受け取るべき「相続財産」の地上的なひな型に過ぎないことを理解していました。そして、「堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいた」のです。それは、

同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。

と言われていますように、アブラハムの子であるイサクと、その子であるヤコブにも受け継がれていきました。
 このことを受けて、13節〜16節には、

これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。

と記されています。
 16節で、

それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。

と言われていることは、たとえば出エジプト記3章6節に記されていますように、神さまがモーセに、

わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。

と言われてご自身のことを啓示されたことに具体的に現れています。神さまがご自身のことを「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と呼ばれたということは、アブラハム、イサク、ヤコブは、神さまを自分の神として受け取っているということを意味しています。さらに、それは、アブラハムへの契約において、

わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。

と言われたことが実現していることを意味しています。
 このように、神さまご自身が私たち主の民の受け継ぐべき相続財産であるのです。そして、主を相続財産として受け取っていることは、主のご臨在の御前において主との愛にあるいのちの交わりに生きるようになることに現れてきます。
 これらのことに基づいて、旧約聖書においては、神である主ご自身が自分の受け取るべき相続財産であるという告白が記されています。
 詩篇73篇25節、26節には、

  天では、あなたのほかに、
  だれを持つことができましょう。
  地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。
  この身とこの心とは尽き果てましょう。
  しかし神はとこしえに私の心の岩、
  私の分の土地です。

と記されています。ここで「分の土地」と訳されている言葉(ヘーレク)は、イスラエルの民が主から割り当てられた相続地を表しています。これは、イスラエルの民は約束の地をそれぞれの部族にしたがって割り当てられて所有するようになりました。
 また詩篇119篇57節には、

  主は私の受ける分です。
  私は、あなたのことばを守ると申しました。

と記されています。この「受ける分」と訳されている言葉は73篇26節で「分の土地」と訳されているのと同じ言葉(ヘーレク)です。同じことは、142篇5節に、

  主よ。私はあなたに叫んで、言いました。
  「あなたは私の避け所、
  生ける者の地で、私の分の土地です。」

と記されています。
 さらに、エルサレムがバビロンによって破壊されたことへの嘆きを記している哀歌3章22節〜24節には、

  私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。
  主のあわれみは尽きないからだ。
  それは朝ごとに新しい。
  「あなたの真実は力強い。
  主こそ、私の受ける分です。」と
  私のたましいは言う。
  それゆえ、私は主を待ち望む。

と記されています。
 先ほどお話ししましたように、この「分の土地」(「受ける分」)は、イスラエルの民が約束の地であるカナンの地を相続したときに、部族ごとに割り当てられた割り当て地を意味していますが、これらの御言葉では、自分が受けるべき「分の土地」(「受ける分」)は契約の神である主ご自身であると告白されています。
 実は、主ご自身が「分の土地」(「受ける分」)であるということは、イスラエルの祭司において示されていました。民数記18章20節には、

主はまたアロンに仰せられた。「あなたは彼らの国で相続地を持ってはならない。彼らのうちで何の割り当て地をも所有してはならない。イスラエル人の中にあって、わたしがあなたの割り当ての地であり、あなたの相続地である。」

と記されています。
 ここに出てくるアロンはモーセの兄で、最初の大祭司となった人物です。そして、このアロンの子孫たちが祭司として、主のご臨在される聖所で仕えました。祭司たちはそのような主との特別な関係にありましたので、カナンの土地を「相続地」あるいは「割り当ての地」として所有してはならないと言われています。この「割り当ての地」が先ほどの「分の土地」です。祭司たちは、ひたすら主の御前において主を礼拝し、主に祈ることにおいて、主に仕えることが求められたわけです。それで主は、

わたしがあなたの割り当ての地であり、あなたの相続地である。

と言われました。
 これは、主のご臨在される聖所の地上的なひな型としての地上の建物としての聖所において主に仕える祭司のことを述べています。これに対して、私たちは御子イエス・キリストを大祭司としていただく祭司として召されています。イエス・キリストは地上的なひな型である建物としての聖所ではなく、その本体である天にある聖所において父なる神さまの御前に出でてくださる方です。ヘブル人への手紙7章23節〜8章2節には、

また、彼らのばあいは、死ということがあるため、務めにいつまでもとどまることができず、大ぜいの者が祭司となりました。しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。また、このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。律法は弱さを持つ人間を大祭司に立てますが、律法のあとから来た誓いのみことばは、永遠に全うされた御子を立てるのです。以上述べたことの要点はこうです。すなわち、私たちの大祭司は天におられる大能者の御座の右に着座された方であり、人間が設けたのではなくて、主が設けられた真実の幕屋である聖所で仕えておられる方です。

と記されています。
 同様のことは、9章24節〜26節にも、

キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所にはいられたのではなく、天そのものにはいられたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現われてくださるのです。それも、年ごとに自分の血でない血を携えて聖所にはいる大祭司とは違って、キリストは、ご自分を幾度もささげることはなさいません。もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。

と記されています。
 このように、イエス・キリストは天にあるまことの聖所、すなわち父なる神さまの右の座に着座されて、そこで、私たちの大祭司としてお働きになっておられます。イエス・キリストは父なる神さまの右の座に着座されて、私のために王、祭司、預言者としてお働きになっておられます。大祭司としてのお働きはその一つです。
 このことを受けて、10章19節〜22節には、

こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。

と記されています。
 改めて述べるまでもないことですが、ここに述べられている「聖所にはいる」ということは祭司の特権に関わることです。しかもこれは、古い契約の下では、年に一度、大贖罪の日に、大祭司が動物のいけにえの血を携えて聖所の奥の至聖所に入ることが許されたということを受けています。古い契約の下では大祭司たちは動物のいけにえの血によって儀式的にきよめられて、地上的なひな型である聖所の奥にある至聖所入りました。しかし、

私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。

と言われています。
 さらに、

私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。

と言われています。私たちは御子イエス・キリストを大祭司としていただいて、天にある「まことの聖所」において仕える祭司です。私たちの礼拝も、私たちの祈りも、イエス・キリストを大祭司としていただく祭司としてなすものです。
 古い契約の下でアロンに語られた、

わたしがあなたの割り当ての地であり、あなたの相続地である。

という主の御言葉は、御子イエス・キリストを大祭司としていただく私たちにおいて成就しています。
 このように、私たちは神さまご自身を「相続財産」として受け取っています。それは、まことのアブラハムの子孫であられるイエス・キリストと一つに結び合わされていることからあふれ出ている祝福です。そして、ローマ人への手紙8章17節で、私たちが「神の相続人」であり、父なる神さまを「相続財産」として受け取っていることは、15節で、

私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。

と言われている、私たちの祈りによる父なる神さまとの交わりに現れています。

 


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