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説教日:2005年6月12日 |
これまで、このような父なる神さまの永遠の愛のうちにある神の子どもたちがこの世界で苦しみを味わうことをどのように受け止めたらいいのかということについて、祈りとの関係でいくつかのことをお話ししてきました。そして、その一つのことをお話しし始めた段階で止まってしまっていました。今日はそのことに戻ってお話を続けたいと思います。 お話が長引いてしまっていますので、先に「行き先」をお話ししておいた方がいいかと思います。お話ししようとしていることは、私たちがこの世で経験する苦しみはローマ人への手紙8章18節以下に記されている全被造物が回復を待ち望んでうめいていることの中に位置づけられるということです。そして、私たちの祈りは、そのような意味をもっているうめきをともなう祈りであるということです。このような見通しのもとにお話を続けます。 まず、復習になりますが、前に取り上げましたローマ人への手紙8章14節〜16節には、 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。 と記されています。 ここで、 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。 と言われているときの、「子としてくださる御霊」(プニューマ・フイオセシアス)は文字通りには「養子としてくださる御霊」です。つまり、ここでも、私たちは養子として迎え入れていただいて子とされていることが踏まえられています。そして、この「子としてくださる御霊」としての、 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。 と言われています。 前にお話ししましたように、新改訳で「人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊」と訳されている部分についてはいろいろ議論がありますが、ここでは、この「子としてくださる御霊」が、私たちを決して恐怖に陥れて奴隷化する御霊ではないことを述べていると考えられます。 これは、最近問題となってきていることですが、信徒を従わせるためのさまざまな方法が採用される結果、本人たちが気付かないうちに教会がカルト化してしまっているということと真っ向から対立することです。カルト化とまでは行かなくても、ただ指導者から言われたとおりに考え、「心得」などで決められたとおりに行動することが「よい信徒」の姿であるというように考えられたり、自らそのように感じてしまうことと対立することです。それは、そのように定められた、あるいは自らが定めた「筋道」から逸れるときに一種の「恐怖感が」生じてくるかどうかを見ることによって、ある程度判断することができます。 ここでは、「子としてくださる御霊」を受けた 私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。 と言われています。この「アバ、父。」と呼ぶことは、本来、御子イエス・キリストの特権でした。それがここでは、父なる神さまの養子として迎え入れられた私たちが、御子イエス・キリストと同じように、父なる神さまを「アバ、父。」と呼ぶことができるようになったと言われているのです。 「アバ」というのはアラム語で「お父さん」という意味の言葉です。これは小さな子供の頃から言いなれていて、大人になっても親しさと信頼を込めて用いられる言葉です。イエス・キリストが祈られたとき、父なる神さまに向かって「アバ、父。」と呼びかけられました。これは、成熟した大人が親しさと信頼を込めて呼びかけていることに当たります。また、先ほどの全被造物の回復を待ち望んでのうめきの中での祈りという点からいいますと、そのような宇宙大の回復を御言葉から理解して、その実現を祈り求める中で、父なる神さまに向かって「アバ、父。」と言うことも、成熟したものが親しさと信頼を込めて呼びかけることに当たります。 私たちが「子としてくださる御霊」を受けたというのと同じことを述べているガラテヤ人への手紙4章4節〜6節には、 しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。 と記されています。 ここで、 私たちが子としての身分を受けるようになるためです。 と訳されている中の「子としての身分」は、先程来の「養子とすること」という言葉(フイオセシア)で表されています。ここでも、私たちが父なる神さまの養子として迎え入れられたことが踏まえられています。 ここでは、ローマ人への手紙で言われている「子としてくださる御霊」が「『アバ、父。』と呼ぶ、御子の御霊」であると言われています。先ほどお話ししましたように、本来、父なる神さまに向かって「アバ、父。」と呼びかけることは御子イエス・キリストの特権であるのですが、御子イエス・キリストと一つに結ばれて父なる神さまの養子として迎え入れられた私たちも、その特権にあずかるようになり、実際に「『アバ、父。』と呼ぶ、御子の御霊」によって、父なる神さまに向かって「アバ、父。」と呼びかけることができるようになったのです。 これによって、エペソ人への手紙1章4節、5節で、 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。 と言われていることが、確かに私たちの現実となっていることを知ります。 ある人々は、かなり有名な聖書学者も含めてですが、旧約聖書においてイスラエルの民が「子」と呼ばれている事例がすでにあるので、私たちが父なる神さまに向かって「アバ、父。」と呼ぶことは、必ずしも、新しいことではないと主張しています。確かに、たとえば、出エジプト記4章22節には、主がモーセをエジプトの王パロのもとにお遣わしになって、パロが奴隷としているイスラエルの民をエジプトの地から去らせるよう要求するに当たって、まず、 イスラエルはわたしの子、わたしの初子である。 と宣言するように命じられたことが記されています。また、イザヤ書63章16節には、 まことに、あなたは私たちの父です。 たとい、アブラハムが私たちを知らず、 イスラエルが私たちを認めなくても、 主よ、あなたは、私たちの父です。 あなたの御名は、とこしえから 私たちの贖い主です。 という主への告白が記されています。 けれども、これは、私たちが父なる神さまに向かって「アバ、父。」と呼ぶことが「子としてくださる御霊」によることであると言われていること、そして、その御霊は、御子イエス・キリストがご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになるということを過小評価しています。字面の上で同じように「神の子」であると言われているとしても、そして、神さまを「私たちの父」と呼んでいるとしても、一方は地上的なひな型としてのことであり、もう一方は、そのひな型が指し示している本体であるという関係にあります。この違いは大きいのです。古い契約の下にあった聖徒たちが、地上を歩んでいたときには、今私たちがここで、 私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。 とあかしされているような意味で、父なる神さまに向かって、自由に、また親しく、「アバ、父。」と呼びかけることはできませんでした。もちろん、古い契約のもとで地上を歩んだ聖徒たちも、今は天において、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業にあずかって、父なる神さまに向かって、自由に、また親しく、「アバ、父。」と呼びかけているはずです。 ローマ人への手紙8章では、続く16節で、 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。 と言われています。 ここでは、「御霊ご自身が」という言葉(アウト・ト・プニューマ)は「ご自身」(アウト)があることによって強調されているのですが、ギリシャ語の原文では、これが最初に出てきていることによって、さらに強調されています。 この場合には、「私たちの霊とともに」という言葉の意味をめぐって意見が分かれています。これは「私たちの霊」も「私たちが神の子どもであること」をあかしするのか、それとも、「御霊ご自身が」「私たちの霊」にあかしをしてくださるということなのかということです。ここに用いられているのは、基本的には「ともにあかしする」という意味(スムマルチュレオー)の言葉ですので、新改訳は、 御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。 と訳しています。けれども、この「ともにあかしする」という言葉には「確証する」という意味もあります。ある人の考えや意見を「そのとおりである」と確証することです。 先ほどお話ししましたように、ここでは、「御霊ご自身が」ということが強調されています。ですから、これが「私たちの霊とともに」ということであっても、御霊のあかしと「私たちの霊」のあかしが同列にあると考えることはできません。その意味で、これは、決定的に「御霊ご自身」のあかしであり、それが「私たちの霊」のうちにある「私たちが神の子どもである」というあかし、あるいは自覚を「確証し」支えてくださっているということだと考えられます。 この「御霊ご自身が」「私たちが神の子どもであること」をあかししてくださることは現在形で表されていて、御霊が常に変わることなく、どのような場合にもなしてくださることであることを示しています。 これは、これに先立って、 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。 と言われていることとのつながりで理解すべきことです。 まず、 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。 と言われています。私たちが「神の子ども」であれば、必ず「神の御霊に導かれ」ています。 そして、これを受けて、 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。 と言われています。 先ほど、指導者から言われたとおりに考え、「心得」などに定められたとおりに行動することが「よい信徒」の姿だと自ら感じて、そのようにしている人が、何らかのことで、そのとおりにできなくなったときに、「恐怖心」をもつことがあると言いました。それは、その人が、自分がそれらのことを守っていることを支えとして生きていることの現れです。それは一種の律法主義です。それは、御霊に導かれていることの現れではありません。なぜなら、御霊は「人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊」ではないからです。 その御霊の導きは、 私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。 と言われているとおり、何よりもまず、私たちが父なる神さまに向かって「アバ、父。」と呼びかけるようになることにあります。父なる神さまに向かって「アバ、父。」と呼びかけることが、神の子どもたちを導いてくださる御霊のお働きの中心です。 そして、このように、私たちが父なる神さまに向かって「アバ、父。」と呼びかけるようになるように導いてくださる「御霊ご自身が」「私たちが神の子どもであること」を常に変わることなくあかししてくださると言われています。 このようなつながりから言いますと、「御霊ご自身が」「私たちが神の子どもであること」をあかししてくださることは、私たちが御霊によって父なる神さまに向かって「アバ、父。」と呼びかけることをとおしてのことであると考えられます。私たちが御霊に導かれて父なる神さまに向かって「アバ、父。」と呼びかけることの中で、私たちは「私たちが神の子どもであること」をあかししてくださる「御霊ご自身」のお働きにあずかります。 これに対して、「私たちが神の子どもであること」をあかししてくださる「御霊ご自身」のお働きは、御言葉をとおして、あるいは御言葉とともになされるのではないかという疑問が出されることでしょう。それは、そのとおりです。御霊は御言葉をとおして、あるいは御言葉とともに働いてくださって、「私たちが神の子どもであること」をあかししてくださいます。このことと、その御霊のあかしが、私たちが御霊に導かれて父なる神さまに向かって「アバ、父。」と呼びかける祈りの中でなされるということは矛盾しません。むしろ、その二つは密接に結びついています。なぜなら、私たちは、御霊に導かれて父なる神さまに向かって「アバ、父。」と呼びかける祈りとともに御言葉に聞き、御言葉を理解し悟るものであるからです。 さらに、このように「御霊ご自身が」「私たちが神の子どもであること」をあかししてくださることは、当然、私たちに父なる神さまがどのような方であるかをあかししてくださることを前提としています。この「御霊ご自身」によって、私たちは父なる神さまをよりよく、またより親しく知るようになります。そのことが「私たちが神の子どもであること」の確信を深めてくれるのです。 実際、正体不明の「神」と呼ばれるものの子どもであると言われても、自分がその子どもであるという確信をもつようにはなれません。父なる神さまは、私たちを永遠から御子イエス・キリストにあって選んでくださった方です。私たちがご自身に対して罪を犯すことをご存知であられて、なお、御前に聖く、傷のない者としてくださり、ご自身の子としてくださるように定めてくださった方です。そして、そのとおりに天地創造の御業を遂行され、御子を贖い主として遣わしてくださり、私たちの贖いを成し遂げてくださった方です。私たちは御言葉をとおして、また御言葉とともにお働きになる御霊のお働きによって、父なる神さまがそのような方であることを知るようになったので、「私たちが神の子どもであること」の確信をもつことができるのです。 そのように、私たちが父なる神さまをよりよく、またより親しく知るようになることは、そして、「私たちが神の子どもであること」の確信をもつようになることは、私たちが「御霊によって」父なる神さまに向かって「アバ、父。」と呼びかける祈りの中で現実となります。 そして、このように「私たちが神の子どもであること」をあかししてくださる御霊のお働きに支えられて、私たちは全被造物が回復を待ち望んでうめいている中にあって、ともに苦しみつつ、父なる神さまに向かって「アバ、父。」と呼びかけて祈るのです。 言うまでもないことですが、御霊によって、父なる神さまに向かって「アバ、父。」と呼びかけることが、私たち御子イエス・キリストと一つに結び合わされて神の子どもとされている者のの祈りの中心です。 かつて、私たちが御子イエス・キリストの十字架の死による贖いの御業にあずかって罪を贖われ、イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生れて、神の子どもとして迎え入れられる前には、いや、そのようにして救われた後でも、私たちは祈りとは自分の要求を「神」に伝えることであると考えていました。その時の私たちの心は、自分たちの「願いごとに」向けられており、祈りはそれを実現するための手段でした。ある意味において、「神」は私たちの「願い事」を叶えてくれさえすればよかったのです。それを叶えてくれれば感謝をするし、讃美もするというような状態でした。 けれども、「御霊ご自身が」御言葉をとおして、あるいは御言葉とともに働いてくださり、「私たちが神の子どもであること」をあかししてくださるにしたがって、私たちは、自分が御子イエス・キリストと一つに結ばれて、父なる神さまの子として迎え入れられていることこそが、父なる神さまが永遠から私たちに与えてくださっている「天にあるすべての霊的祝福」の中心であることを知るようになりました。 人間同士の場合でもそうです。子どもは欲しいものがあるとそのことに心が奪われて、毎日のように、親にそれを買ってくれるように頼みます。それも、親が自分のことを愛していてくれると信じていればこそのことです。けれども、親が物を与えることで愛が示されていると錯覚するようになったとき、子どもも同じ錯覚に陥ったとき、親子関係がおかしくなってしまいます。かつての私たちの祈りはこれと同じで歪んでいました。 父なる神さまは永遠の聖定において、私たちを愛してくださって、私たちをご自身の子として迎え入れてくださることを定めてくださいました。それは、私たちをご自身の子としてくださること、したがって、私たちがご自身との愛にあるいのちの交わりに生きるようになること自体を目的としています。ですから、 私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。 ということは、私たちの祈りの中心であるのです。そのことが私たちの祈りの土台となり、私たちの祈りの全体を包んでいるのです。それは、私たちが父なる神さまご自身を喜びとし、父なる神さまの子どもであることを喜びとすることの現れです。 |
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