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説教日:2005年6月5日 |
その神さまの永遠のご計画におけるみこころの中心は、 神は私たちを・・・キリストのうちに選び、 ということにあります。これは、私たちが「キリストのうちに」あるもの、すなわち、御子イエス・キリストと一つに結ばれているものとなることを意味しています。そして、父なる神さまは、私たちが御子イエス・キリストと一つに結ばれていることによってもたらされる霊的な祝福にあずかるようにしてくださいました。3節で、 神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。 と言われている「天にあるすべての霊的祝福」にあずかるようにしてくださったのです。 私たちがイエス・キリストと一つに結び合わされることによって、私たちは「御前で聖く、傷のない者」されると言われています。私たちが「御前で聖く、傷のない者」となるということは、私たちが神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまうことを踏まえてのことです。そのようになってしまう私たちを、ご自身の聖なる御前において「聖く、傷のない者」としてくださるということです。それは、御子イエス・キリストの十字架の死によって私たちの罪を完全に贖ってくださり、私たちをイエス・キリストの復活のいのちによって新しく生かしてくださるということを意味しています。 それが、父なる神さまの「御前で」のことであるというのは、父なる神さまの聖なるご臨在の御前に立つことができるものとしてくださるということを意味しています。これが、私たちと父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりの出発点となっています。その土台は、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いと、御子イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあります。 さらに、父なる神さまは、私たちへの愛によって、私たちを御子イエス・キリストにあってご自身の子としての身分を与えてくださるように定めてくださいました。この場合の「子とすること」(フイオセシア)は養子として迎え入れることを表しています。その当時の社会では、養子として迎え入れられた子は、血のつながりのある子と同じ権利を与えられていました。 神さまが、ご自身のお造りになったこの世界のすべてのことを永遠に定めておられる永遠の聖定について、私たちはそれがあることは知らされていますが、それが具体的にどのようなことであるかは殆ど知らされていません。それは、私たちの被造物としての限界のために、また、私たちがなおも罪を宿しているために、神さまの永遠の聖定を運命的なもののように誤解することを避けるためにも、意味があることであると考えられます。 けれども、父なる神さまは、このエペソ人への手紙1章4節、5節に記されていることを、私たちに啓示してくださいました。これによって、私たちは、自分たちが御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかって、罪を完全に贖っていただき、イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生かされ、父なる神さまの子としての身分を与えられ、実際に、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きるものとされていることが、自分たちから出たことではなく、父なる神さまの永遠からのみこころによっていることを信じることができるようになったのです。また、これによって、私たちは、父なる神さまが私たちの罪の現実もすべてご存知であられて、なお、私たちが父なる神さまの子とされ、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きるものとなるように永遠から定めてくださっており、そのために必要なすべてのことを、御子イエス・キリストによって成し遂げてくださったことを知るのです。 実際の私たちは、御子イエス・キリストを、父なる神さまが遣わしてくださった私たちの贖い主として信じて、その十字架の死と死者の中からのよみがえりによる救いにあずかっています。そうであっても、私たちのうちにはなおも罪の性質があり、私たちは罪を犯します。そのために、しばしば、自分が分からなくなってしまうほどです。そのような私たちにとって、父なる神さまがそのような私たちをすべてご存知であられて、その私たちのためにご自身の御子を贖い主として遣わしてくださり、私たちをその贖い主であられる御子と一つに結び合わせてくださるように、永遠に定めておられるということを知ることは、深い慰めであり、この上ない確かな支えとなるのです。神さまは、このような私たちの罪深さとそのゆえの弱さをご存知であられるので、あえて、ご自身の永遠の聖定におけるみこころを私たちに啓示して知らせてくださったのです。 それで、私たちはこれらのことをわきまえて、父なる神さまが御子イエス・キリストをとおして示してくださった一方的な愛と恵みに信頼して、大胆に御前に近づいて、父なる神さまの恵みに満ちたご栄光を讚えつつ、父なる神さまを礼拝します。3節〜6節は、 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。 という讃美で始まり、 それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。 という讃美で終っています。私たちの祈りは、このようにして、父なる神さまの永遠の聖定において定められているみこころに基づくものです。 父なる神さまは、ご自身の永遠の聖定において定められたみこころを実現してくださるために、御子によって、天地創造の御業と贖いの御業を遂行されました。 天地創造の御業においては、私たち人間を神のかたちにお造りになり、ご自身との愛の交わりのうちに生きるものとしてくださいました。 そして、人がご自身に対して罪を犯して御前に堕落してしまった時にも、直ちに贖い主を約束してくださいました。そして、実際に、今から2千年前に、ご自身の御子を私たちの贖い主として遣わしてくださいました。御子イエス・キリストは私たちの罪の罪責をご自身の身に負って十字架にかかって死んでくださいました。そして、私たちを新しく生かしてくださるために、栄光あるいのちをお受けになって、死者の中からよみがえってくださいました。 御子イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださり、死者の中からよみがえってくださったのは、今から2千年前のことです。これによって成し遂げられた私たちの罪の贖いの御業はすでに終っています。しかし、御子イエス・キリストは過去の人ではありません。今は、復活の栄光のうちにあって生きておられ、父なる神さまの右の座に着座して、私たちのために働いておられます。ヘブル人への手紙7章24節、25節には、 しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。 と記されています。 けれども、ここに一つの問題があります。それは、私たちはどのようにして、イエス・キリストと一つに結び合わされているのかという問題です。イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださり、栄光をお受けになって死者の中からよみがえってくださったのは、今から2千年前のことです。そして、今、御子イエス・キリストは天において、父なる神さまの右の座に着座しておられます。そのイエス・キリストと、今ここにいる私たちが、一体どのようにして、一つに結び合わされているというのでしょうか。御子イエス・キリストが2千年前に十字架にかかって死んでくださったことによって、法的に私たちの罪は赦されているということは分かります。けれども、これは、私たちが、2千年前に私たちのために十字架にかかって死んでくださり、栄光をお受けになって死者の中からよみがえってくださり、今は、父なる神さまの右の座に着座しておられるイエス・キリストと、実際に、一つに結ばれているということです。これは、どのようにして成り立っているのでしょうか。それは、ただ私たちがそのつもりになるというだけのことなのでしょうか。それでは、私たちがイエス・キリストと一つであるということは気持ちの問題というような空しいことになってしまいます。 このこととの関連で、まず「天」について簡単にお話ししておきましょう。 実は、聖書の中では、「天」という言葉は、いろいろな意味に用いられています。いちばん身近なのは、この地上と区別される天です。それは、天の大空というように、物理的で空間的に広がっている天です。けれども、御子イエス・キリストが天において父なる神さまの右の座に着座しておられるというときの「天」は、そのような造られたこの世界のどこかにある「天」ではありません。 その栄光のキリストが「天において」父なる神さまの右の座に着座しておられるというときの「天」は、一言で言いますと、この世界をお造りになった神さまの栄光のご臨在のある所であり、この造られた世界を越えています。私たちは、神さまがご臨在しておられるところを「天」と呼んでいるのであって、どこかに「天」という所が神さまと関係なくあって、そこに神さまがおられるということではありません。 神さまはこの世界をお造りになった方であり、この世界とは絶対的に区別される方です。神さまは造られた世界の一部ではありませんので、この造られた世界のどこかに住んでおられる方ではありません。ですから、「天」はこの造られた世界のどこかにあるのではありません。 また、神さまはその存在において無限、永遠、不変の方です。その意味で、神さまがおられない所がどこかにあるわけではありません。けれども、神さまは生きておられ明確なご意志をもっておられます。ですから、神さまはご自身のみこころに従って、どこにでもご臨在することがおできになりますし、ある所にご臨在されないこともおできになります。 神さまのご臨在は、ヘブル語では「顔」を意味する言葉(パーニーム)で表されます。神さまのご臨在は、神さまがそこに御顔を向けられて、特別な意味で深くかかわってくださるためのものです。これは、神さまのことを人になぞらえて理解しているのですが、たとえば、仲たがいしている二人の人が、何らかの理由で同じ部屋に居合わせたとしても、二人はお互いを無視しますので、そこに交わりはありません。無限、永遠、不変の存在であられる神さまはどこにでもおられますが、神さまは、ご自身に対して罪を犯して、ご自身に背を向けている人々と交わりをすることはおできになりません。その人々の心をマインドコントロールのように操作して、ご自身に向かせることはなさらないのです。その場合、神さまはそのようにご自身に背いている人々を支えてくださってはいますが、そこには愛による交わりはありません。神さまのご臨在はその人々とともにはないわけです。 このように、生きておられる神さまが特別な意味で深く人格的にかかわってくださるために、そこにおられることを神さまのご臨在と呼びます。それは、おもに、神さまが贖いの恵みをもって私たちとともにいてくださることを指していますが、人の罪をおさばきになるためにご臨在されることもあります。「天」はその神さまのご臨在でも、さらに特別な意味で神さまがご臨在しておられるところを表します。神さまは、存在においても、一つ一つの属性においても、またそれらの輝きである栄光においても無限、永遠、不変の方です。その意味で、神さまはご自身がお造りになったすべてのものと絶対的に区別される方です。テモテへの手紙第一・6章15節、16節には、 神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。アーメン。 と記されています。 御子イエス・キリストが天において父なる神さまの右の座に着座しておられるというときの「天」は、このようにあかしされている神さまがその無限、永遠、不変の栄光のうちにご臨在されるところを指しています。この意味での「天」は、神さまがご自身がお造りになったすべてのものと絶対的に区別される方としてご臨在しておられることを表示するものです。 私たちが主の祈りにおいて、神さまに向かって、 天にいます私たちの父よ。 と呼びかけるときには、神さまを「私たちの父」と呼ぶと同時に、神さまがこのような意味での「天にいます」方であることを告白しています。私たちの中では、この二つのことは本当に調和するのだろうかというような戸惑いともつかない驚きが生れてきます。このことにつきましてはいろいろなことが考えられますが、それは、主の祈りそのものを取り上げるときにお話ししたいと思います。ここでは、先ほど触れた問題とのかかわりで、その一つのことに触れておきたいと思います。 御子イエス・キリストが私たちの罪を贖うために十字架にかかって死んでくださり、私たちを新しいいのちに生かしてくださるために死者の中からよみがえってくださったのは、今から2千年前のことです。私たちはそれから2千年後の世界に生きています。そうしますと、その2千年の時の隔たりがある過去の出来事が、どうして今ここに生きている私たちの罪を贖うだけでなく、私たちを新しいいのちに生かすことになるのでしょうか。確かに、ご自身の十字架の死をもって私たちの罪の贖いを成し遂げられて、栄光を受けて死者の中からよみがえられたイエス・キリストは、今も生きておられます。けれども、そのイエス・キリストは神さまの栄光のご臨在の中心である「天」におられます。私たちがそのイエス・キリストと一つに結び合わされており、イエス・キリストの復活のいのちが、今ここに生きている私たちを生かしているということはどういうことなのでしょうか。 これにつきましては、いろいろな機会にお話ししましたとおりです。そのすべては、三位一体の第三位格であられる御霊のお働きによるのです。御霊は、ご自身が無限、永遠、不変の栄光の神であられます。この御霊が、私たちを御子イエス・キリストと一つに結び合わせてくださっているのです。エペソ人への手紙1章3節には、 神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。 と記されていますが、この「霊的祝福」というのは、御霊のお働きによってもたらされる祝福ということです。 これに続く4節には、 神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び と記されています。ここでは、神さまは私たちを御子イエス・キリストのうちにあるもの、御子イエス・キリストと一つに結び合わされているものとなるようにお選びくださったと言われています。このことを私たちの現実としてくださるのが御霊のお働きです。御霊は、私たちを御子イエス・キリストと結び合わせてくださって、2千年前にイエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業を私たちに当てはめてくださいますし、天において父なる神さまの右の座に着座しておられる御子イエス・キリストと私たちを結び合わせてくださり、そのイエス・キリストの復活のいのち、栄光のいのちをもって私たちを新しく生れさせてくださり、私たちをその復活のいのちによって生きるものとして導いてくださっています。 今私たちは地上にあって生きています。けれども、エペソ人への手紙2章4節〜6節には、 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、 と記されています。これは、御霊のお働きによって、私たちが御子イエス・キリストと一つに結ばれていることによっています。 ここで、 キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。 と言われているときの「天の所に」と訳されている言葉(エン・トイス・エプウーラニオイス)は、1章3節で、 神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。 と言われているときの「天にある」と訳されている言葉と同じ言葉です。 ただし、このように言われているからといって、私たちと御子イエス・キリストの区別が曖昧にされてはなりません。御子イエス・キリストについては、1章20節〜23節において、 神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。 と言われています。 ここに記されていますように、御子イエス・キリストは栄光をお受けになって父なる神さまの右の座に着座された方です。古代の社会において、王の「右の座」に着座することは、王の名によってその主権の下にある臣民を治める立場に立つことを意味していました。ですから、イエス・キリストは父なる神さまのみこころをこの世界において実現するための権威の御座に着いておられます。それは、すべてのものを牛耳るためではなく、むしろ、ご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいて、神のかたちに造られている人間が犯した罪ののろいの下にあってうめいている万物を回復してくださるお働きを遂行してくださるためのことです。 そして、そのことの中心に、 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。 とあかしされている、キリストのからだである教会の回復があります。この「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方」とは栄光のキリストのことです。教会がこの栄光のキリストのからだであるということは、教会が御霊によって栄光のキリストと一つに結び合わされていることを意味しています。そして、このキリストのからだである教会に「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方」が満ちておられるということは、栄光のキリストが御霊によってキリストのからだである教会にご臨在しておられることを意味しています。 これらのことは、御霊のお働きによって私たちが御子イエス・キリストと一つに結ばれているというときに見失われてはならない、イエス・キリストが主であられ、かしらであられるという面を示しています。それをしっかりと踏まえたうえで、先ほど引用しました2章4節〜6節には、 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、 と記されているわけです。 私たちは御霊のお働きによって栄光のキリストと一つに結び合わされて、神の子どもとされ、イエス・キリストと「ともに天の所にすわらせて」いただいているものとして、御霊のお導きによって、父なる神さまを礼拝し、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きているのです。このことの中で、私たちは父なる神さまのみこころが実現するように祈ります。栄光のキリストが、ご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいて、神のかたちに造られている人間が犯した罪ののろいの下にあってうめいている万物を回復してくださるお働きが実現し、完成に至るように祈るのです。そのような意味をもっている祈りが、 天にいます私たちの父よ。 御名があがめられますように。 御国が来ますように。 みこころが天で行なわれるように 地でも行なわれますように。 という祈りから始まる主の祈りに他なりません。 |
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