(第17回)


説教日:2005年5月15日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 今日も「主の祈り」そのものについてお話しする前のこととして、私たちの祈りについてお話しします。
 先週と先々週は、私たちの祈りが、エペソ人への手紙1章4節、5節に、

すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。

と記されている、父なる神さまの永遠の聖定におけるみこころと深くかかわっているということをお話ししました。
 父なる神さまは永遠から、私たちを「キリストのうちに」ある者、すなわち、イエス・キリストと一つに結び合わされている者としてお選びになり、私たちが父なる神さまの「御前で聖く、傷のない者」となるようにしてくださいました。それは、私たちが父なる神さまの御前に立って、父なる神さまとの交わりのうちに生きることができるようになるためのことです。そればかりではなく、父なる神さまは、私たちを御子イエス・キリストの贖いの御業にあずからせてくださって「ご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めて」くださったのです。
 ここで「子にする」という言葉(フイオセシア)は「養子にすること」を意味しています。永遠の神の御子であられ、今から2千年前に人の性質を取ってこられたイエス・キリストは、初めから神の御子であられます。私たちはその御子イエス・キリストと一つに結び合わされ、イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業にあずかって、「御前で聖く、傷のない者」となり、「ご自分の子」として迎え入れられるのです。
 父なる神さまの「御前で聖く、傷のない者」としては、このようにして神の子どもとされている私たちだけでなく、御使いたちも、それに含まれます。けれども、御使いたちは御子イエス・キリストと一つに結び合わされて、父なる神さまの子とされることはありません。私たちが御子イエス・キリストと一つに結び合わされるのは、御子イエス・キリストが私たちと同じ人の性質を取って来ててくださり、私たちの贖い主となってくださり、実際に、贖いの御業を成し遂げてくださったからに他なりません。ヘブル人への手紙2章14節〜16節には、

そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。主は御使いたちを助けるのではなく、確かに、アブラハムの子孫を助けてくださるのです。

と記されています。
 確かに、御使いたちは聖書の中ではしばしば「神の子たち」と呼ばれています。けれども、御使いたちは御子イエス・キリストと一つに結び合わされることはありません。ここにはその意味における区別があります。コリント人への手紙第一・6章3節には、

私たちは御使いをもさばくべき者だ、ということを、知らないのですか。

と記されています。
 すでにお話ししましたように、エペソ人への手紙1章4節、5節に記されている父なる神さまの永遠の聖定においては、私たちが父なる神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまうことが踏まえられています。その上で、私たちをイエス・キリストと一つに結び合わせてくださり、イエス・キリストによって、「ご自分の子」としてくださるよう定めてくださったのです。
 御使いたちは、神さまに対して罪を犯したことはなく、常に忠実に神さまにお仕えしている存在です。その意味で、常に「御前で聖く、傷のない者」です。これに対して、私たちは神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった存在です。けれども、神さまは御使いたちではなく、この私たちを御子イエス・キリストと一つに結び合わせてくださり、御子イエス・キリストがご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いにあずからせてくださって、罪を赦してくださり、イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生かしてくださり、「ご自分の子」として迎え入れてくださったのです。
 私たちは自分たちのことでありながら、このようなことがあるのだろうか、このようなことがあっていいのだろうかと、驚くほかはありません。それは、もっぱら、私たちに対する父なる神さまの愛によっているとあかしされています。そして、私達はその愛による恵みを信仰によって受け取るだけであるとあかしされています。私たちは驚きとともに、この父なる神さまの愛を受け止めます。そして、それが、私たちが御子イエス・キリストにあって父なる神さまとの愛の交わりに生きるようになるためのことであることをわきまえます。私たちの祈りは、このような父なる神さまの愛を驚きをもってわきまえることから生まれてくるものです。
 ついでに申しますと、御使いたちは、自分たちではなく、私たちが御子イエス・キリストと一つに結ばれて神の子どもとされることを知っています。そして、私たちがそのような父なる神さまの愛と恵みを受けることをねたむのではなく、喜びとしています。ルカの福音書15節10節には、

あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。

というイエス・キリストの御言葉が記されています。


 先週は、このような父なる神さまの愛を受けている私たちが地上でしばしば経験する苦しみや痛みや悲しみを、私たちの祈りとの関係でどのように受け止めるかということについて、一つのことをお話ししました。今日はそのことについてもう少し別の観点からお話ししたいと思います。今日はその前半のお話しかできませんが、くしくも、今日が聖霊降臨節(ペンテコステ)であることにそったお話となります。
 ローマ人への手紙8章14節、15節には、

神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。

と記されています。
 ここでは、私たちがイエス・キリストの贖いの恵みにあずかって神の子どもとされていることが記されています。14節には「というのは」という意味の接続詞(ガル)があって、その前の部分とつながっています。9節には、

けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。

と記されていて、人が「キリストのもの」であるなら、その人は必ず「キリストの御霊」をもっていることが示されています。この「キリストの御霊」は、その前で、

けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。

と言われているときの「神の御霊」です。この「神の御霊」がイエス・キリストの成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きをなすときに「キリストの御霊」として私たちのうちに宿ってくださるのです。
 14節で、

神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。

と言われていることにも例外がありません。これは複数形で記されていて、直訳調に訳しますと、

すべて神の御霊に導かれている人々、その人々は神の子どもたちです。

というようになります。ここで「すべて」と訳した言葉(ホソス)は「すべて」を表す一般的な言葉ではありませんが、「そのような者はすべて」というような意味合いを伝えています。このように、「神の子ども」であれば一人の例外もなく、その人のうちには「神の御霊」が宿っていてくださって、その人を導いてくださっています。
 そして、続く15節では、

あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。

と言われています。新改訳では、「奴隷の霊」の「」と「子としてくださる御霊」の「御霊」を区別しています。これは一つの理解です。この場合の「」と「御霊」は同じ言葉(プニューマ)が用いられています。それで、このほかに、どちらも私たちの「」と理解して、

あなたがたは、再び恐怖に至らせる奴隷の霊を受けたのではなく、子どもの霊を受けたのです。

とする人々や、どちらも「御霊」と理解して、

あなたがたは、再び恐怖に至らせる奴隷の御霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。

とする人々もいます。
 この場合には、文脈から、私たちが御霊を受けていることが語られていますので、少なくとも「子とするプニューマ」は、私たちの「」ではなく「御霊」のことであると考えられます。さらに、ここでは、どちらも私たちが「受けたもの」であるということですから、どちらも「御霊」であると理解したほうがいいのではないかと思われます。その場合は、私たちが受けている御霊は、私たちを「再び恐怖に至らせる奴隷の御霊」ではなく、「子としてくださる御霊」であるということを述べているわけです。これによって、私たちのうちに宿っていてくださる御霊は、決して私たちを、かつて私たちがそうであった罪と罪がもたらす恐怖の奴隷の状態に陥らせるような方ではないばかりか、私たちを子としてくださる方であるということを述べていることになります。これによって、消極的には、御霊が私たちを罪と罪がもたらす恐怖の奴隷状態に陥ることから守ってくださる方であることが示されていることになります。そして、積極的には、御霊は私たちを「子としてくださる」方であることが示されているということになります。
 いずれにしましても、ここでは、私たちは「子としてくださる御霊を受けた」と言われています。この場合の「子としてくださる」という言葉(フイオセシア)は、エペソ人への手紙1章5節で、

神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。

と言われているときの、「子にしよう」と訳されている言葉と同じ言葉です。どちらも「養子とすること」を表しています。つまり、エペソ人への手紙1章5節に記されている、神さまが永遠の聖定において定められたことが、実現していることがローマ人への手紙8章14節、15節において、

神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。

と記されているわけです。
 15節の最後には、

私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。

と記されています。この「アバ」という言葉はアラム語を音訳したもので、子どもが、幼いときから始まって成人になっても、自分の父親を親しく、また信頼と尊敬の念を込めて呼ぶときの言葉です。この場合には、私たちが御霊に導かれて父なる神さまに向かって「アバ、父。」と呼びかけることです。言うまでもなく、これは、祈りにおけることです。
 マルコの福音書14章36節には、

アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。

という、ゲツセマネにおけるイエス・キリストの祈りが記されています。
 ローマ人への手紙8章15節の「アバ、父。」は呼格で、イエス・キリストの「アバ、父よ。」という呼びかけと同じです。この呼びかけは、もともとイエス・キリストが父なる神さまに祈られるときに用いられた言葉です。先ほどお話ししましたように、永遠の神の御子であられるイエス・キリストは、人の性質を取って来てくださったときにも、常に、父なる神さまに向かって「アバ、父よ。」と呼びかける立場にありました。これに対して、私たちはイエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業にあずかって、イエス・キリストと一つに結び合わされたことによって、父なる神さまの養子として迎え入れられたので、父なる神さまに向かって、イエス・キリストと同じように「アバ、父よ。」と呼びかけることができるようになったのです。
 これと同じことは、ガラテヤ人への手紙4章4節〜6節において、

しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。

と記されています。ここでは、父なる神さまは、私たちのうちに「御子の御霊」を遣わしてくださったと言われています。この「御子の御霊」には「彼の」という言葉(アウトゥー)がありますので、これは「ご自身の御子の御霊」となります。ですから、ここでは、私たちが父なる神さまに向かって「アバ、父よ。」と呼びかけることができるのは、もともと、父なる神さまに向かって「アバ、父よ。」と呼びかけておられた御子イエス・キリストの御霊に導かれてのことである、ということが示されています。
 初めにお話ししたことと関連しますが、御使いたちは「神の子たち」と呼ばれることはありますが、人となってこられ、十字架の死によってご自身の民の贖いを成し遂げられ、栄光を受けてよみがえられたイエス・キリストと一つに結ばれてはいません。それで、御使いたちのうちには「御子の御霊」が宿られることはなく、御使いたちは父なる神さまに向かって「アバ、父よ。」と呼びかけることはありません。父なる神さまに向かって「アバ、父よ。」と呼びかけることは、イエス・キリストと一つに結ばれている神の子どもたちの特権です。
 注意すべきことは、このように私たちが父なる神さまに向かって「アバ、父よ。」と呼びかけることは、ローマ人への手紙8章14節で、

神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。

と言われている「神の子ども」が御霊に導かれていることの第一の現れであるということです。私たちを導いてくださる御霊は、何よりもまず、私たちを父なる神さまの御許に導いてくださいます。そして、父なる神さまに向かって、親しく、また信頼と尊敬の念を込めて、「アバ、父よ。」と呼びかけるように導いてくださり、促してくださるのです。
 先ほどガラテヤ人への手紙4章4節〜6節に記されている、

しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。

という御言葉を引用しました。この少し後の5章16節には、

私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

と記されています。また、25節にも、

もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。

と記されています。
 この、御霊によって歩むことも、御霊に導かれて進むことも、私たちの地上の生涯の在り方、毎日の歩み方について述べています。それは、16節で、

私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

と言われていることに先立って、15節において、

もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。

と言われていることや、25節で、

もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。

と言われていることに続いて26節で、

互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。

と言われていることに見られるように、特に主にある家族の兄弟姉妹の関係の在り方が問題となっています。実際、13節〜15節において、

兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という一語をもって全うされるのです。もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。

と言われてから、16節で、

私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

と言われています。
 この場合も、御霊に導かれて歩むことの出発点であり、中心にあることは、御子イエス・キリストと一つにされているものとして、御霊によって父なる神さまに向かって親しく、また信頼と尊敬の念をもって「アバ、父よ。」と呼びかけることです。父なる神さまに向かって「アバ、父よ。」と呼びかけることは、御霊に導かれていることの第一の現れです。ガラテヤ人への手紙では、このことは、これに先立つ4章6節に、

そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。

と記されていました。
 そのように、御霊に導かれて父なる神さまに向かって「アバ、父よ。」と呼びかけている者たちが、「互いにかみ合ったり、食い合ったりしている」としたら、また「互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして」いるとしたら、それは一体どういうことなのでしょうか。
 先ほどお話ししましたように、父なる神さまはご自身の御前において常に「御前で聖く、傷のない者」であり、忠実にご自身に仕えている御使いたちを「ご自分の子」として迎え入れられたのではなく、ご自身に対して罪を犯し、御前に堕落してしまった私たちを「ご自分の子」として迎え入れてくださいました。そして、そのために、ご自身の御子を十字架の死にお渡しになられました。私たちはこのようにして、父なる神さまに向かって「アバ、父よ。」と呼びかけることができるようになりました。このことへの驚きと深い感謝があるなら、「互いにかみ合ったり、食い合ったり」するとか、「互いにいどみ合ったり、そねみ合ったり」することはできません。
 それでは、どうしてガラテヤにある諸教会で、このようなことが起こってしまったのでしょうか。それは、まさにこのガラテヤ人への手紙でパウロが問題としている「ほかの福音」(1章6節)が伝えられたためです。ガラテヤの諸教会の人々が、自分がなすよい行ないによって義と認められ、救われ、神の子どもとされるというような教えを信じてしまったからです。もちろん、救われた後にも自らのうちに罪の性質を宿しており、実際に罪を犯し続ける私たちの思いと言葉と行ないのすべてに、罪の陰があります。私たちが神さまの御前にそれ自体で義と認められる土台となる「よい行ない」を行うことはできません。けれども、ガラテヤにある諸教会の人々は「ほかの福音」を信じてしまいました。
 このことから、真の福音、特に、人は、父なる神さまの恵みのゆえに、イエス・キリストを信じる信仰によって義と認められるという教えが、いかに私たちの生き方と深くかかわっているかということが見て取れます。
 義と認められることも、救われることも、子とされることも、自分がなした「よい行ない」に対する報いであるというのであれば、自分の「よさ」を誇りとし、頼みとする道が目の前に開けてきます。そこでは、あの父なる神さまが御使いたちではなく、ご自身に対して罪を犯し、御前に堕落してしまった私たちを「ご自分の子」として迎え入れてくださったということ、しかもそれは、ご自身の御子を死に渡されてのことであったということへの驚きは失われていきます。そのようにして、自分の「よさ」を誇りとし、頼みとするところから、信仰によってイエス・キリストを仰ぐよりは、自分を見るようになっていきます。そして、自分たちを比べ合うようになり、ついには、「互いにかみ合ったり、食い合ったり」、「互いにいどみ合ったり、そねみ合ったり」するようになってしまったのです。
 私たちは週ごとに信仰の家族として一つ所に集まって、心を合わせて、

天にいます私たちの父よ。

と、父なる神さまに向かって呼びかけます。これは、まさに、私たちが御霊に導かれていることの第一にして、中心にある現れに他なりません。そして、この祈りこそ、私たちが信仰の家族としてお互いに愛し合うことの出発点です。

 


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