(第16回)


説教日:2005年5月8日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 これまで、マタイの福音書6章9節〜13節に記されている主の祈りについてのお話との関連で、私たちの祈りについていくつかのことをお話ししてきました。今日もそのお話を続けます。
 先週は、私たちの祈りがエペソ人への手紙1章4節、5節に記されている、

すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。

という父なる神さまの永遠の聖定におけるみこころと深くかかわっているということをお話ししました。
 父なる神さまはご自身の永遠の聖定において私たちを御子イエス・キリストと一つに結ばれているものとしてお選びになりました。その目的は、私たちが「聖く、傷のない者」として御前に立つようになるためです。その選びはさらに、

ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられた

と言われていることにつながっています。
 ここで「ご自分の子にしようと」と言われているときの「子にする」という言葉(フイオセシア)は、養子とすることを表す言葉です。また、「イエス・キリストによって」ということは、私たちが父なる神さまの子とされることが、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる贖いの御業によることを意味しています。実際に、私たちは御子イエス・キリストと一つに結び合わされ、イエス・キリストの贖いの御業にあずかって「聖く、傷のない者」としていただき、父なる神さまの子として迎え入れられています。その当時の社会においても、養子として迎え入れられた子は、子としてのすべての特権をもっていました。
 このように、父なる神さまが私たちを「ご自分の子」としてくださったのは、父なる神さまの愛によっています。人間の場合でも誰かを愛するときには、その愛している人自身を目的としています。その人がいることが喜びとなり、その人とともにあることが喜びとなります。父なる神さまが私たちを愛してくださり、「ご自分の子」としてくださったということは、神さまが私たちをお喜びくださり、私たちとともにあることをご自身の喜びとしてくださっているということを意味しています。
 しかも、それは神さまの永遠の聖定におけるみこころによることで、私たちが実際に存在するようになる前からのことです。ですから、それは私たちに力があるとか、私たちが神さまに奉仕をしたとかいうように、私たちの側の何らかの良さによっているのではありません。むしろ、5節において、

ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられた

と言われているときの「イエス・キリストによって」ということは、具体的には、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた罪の贖いをとおしてということを意味しています。父なる神さまは私たちがご自身に対して罪を犯して御前に堕落してしまうものであることをご存知であられるのです。その上で、

ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられた

のです。このことは、父なる神さまが私たちを愛してくださっているのは、私たちの何らかの良さによっているのではなく、もっぱら神さまの愛によっているということを、この上なく鮮明に示しています。神さまは永遠に変わることなく、私たちを愛してくださっており、私たちをご自身の喜びとしてくださっており、私たちとともにあることをご自身の喜びとしてくださっています。
 私たちがこの父なる神さまの愛にお応えするとしたら、それは、何よりもまず、この父なる神さまの愛を信じ、父なる神さまの愛のうちに留まることです。私たちの祈りは父なる神さまとの語り合いであり、その意味で、父なる神さまの愛のうちにとどまっていることの現れです。


 今日は、このこととのかかわりで、一つのことを考えてみたいと思います。
 私たちは地上の旅路において、しばしば、このことに関して試されます。さまざまな試練に直面して苦しむときに、父なる神さまは本当に私をとこしえに変わらない愛をもって愛していてくださるのであろうかと考えてしまうことがあります。あるいは、その苦しみの中で父なる神さまに祈ってもその苦しみがなかなか終らないときに、果たして、父なる神さまはとこしえに変わらない愛をもって私を愛していてくださるのであろうかと考えてしまうことがあります。その苦しみが過ぎ去ってしまうと、どうしてそのように考えてしまったのだろうかと思うのですが、その苦しみの中にあるときには、思いが乱れることがあります。
 私たちは、神さまが私たちを愛してくださっているのであれば、私たちが苦しむことはないのではないかと考えます。けれども、御言葉はそのように教えてはいません。
 そのことは、何よりも、人となって来られた御子イエス・キリストの地上の生涯を見ればよく分かります。イエス・キリストは、神としては、父なる神さまと無限、永遠、不変の愛の交わりのうちにいます御子です。そして、人としては、約束の贖い主として、私たちと同じ人の性質を取ってきてくださった方です。父なる神さまの愛は、イエス・キリストの地上の生涯を通して変わることなく、イエス・キリストに注がれていました。そして、イエス・キリストはそのことをご存知であられ、父なる神さまをまったく信頼しておられました。父なる神さまは、その愛において御子イエス・キリストとまったく一つとなられました。それで、御子イエス・キリストをとおして表された愛は、そのまま、父なる神さまの愛であるのです。私たちは御子イエス・キリストの愛によって、父なる神さまの愛を知ることができます。
 そのように、父なる神さまの完全な愛を限りなく受けて地上を歩まれたイエス・キリストは、地上の生涯において何の苦しみも味わわれなかったということはありませんでした。というより、イエス・キリストは、私たちの誰よりも深い苦しみと痛みと悲しみを味わわれました。それは、イエス・キリストが十字架の上で私たちの身代わりとなって、私たちの罪に対するさばきをお受けになったときに最もはっきりと示されたことです。けれども、それは、イエス・キリストが十字架におかかりになったときだけのことではありません。
 私たちは自らのうちに罪の性質を宿していますし、実際に、思いと言葉と行いにおいて罪を犯しています。それで、私たちには罪に馴れてしまっていて、罪に対する敏感性に欠けているという面があります。しかし、私たちの身代わりとなって罪のさばきを受けるために来られたイエス・キリストには罪の性質がありませんでしたし、イエス・キリストは十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされて、罪を犯されませんでした。そのようなイエス・キリストは、私たち人間の罪がどのようなものであるかを誰よりも鋭く、また心痛く感じ取られたのです。
 ヨハネの福音書1章9節〜11節には、イエス・キリストのことが、

すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。

と記されています。御子イエス・キリストはこの世界のすべてのものをお造りになり、真実な御手をもって支えておられる方です。けれども、その御手に支えられて存在している人々は、そのことを知りませんし、知ろうともしません。さらには、イエス・キリストは約束の贖い主として来られましたが、その約束を受けていたイスラエルの民から拒絶され、捨てられ、十字架につけられ、殺されてしまいました。
 永遠の神の御子であられるイエス・キリストは、罪人たちの罪を贖うために人となられてこの世に来られたのに、罪人たちはイエス・キリストを退け、十字架につけて殺してしまいました。このすべてのことを知っている者が見たら、何という理不尽さであろうかと驚き、あきれることでしょう。私たちは福音の御言葉をとおしてこのことの理不尽さを知るようになりました。しかし、この理不尽さを最もよくご存知の方は、イエス・キリストご自身です。イエス・キリストはこの世の理不尽さによって最も深く痛めつけられた方です。
 ルカの福音書13章34節、35節には、

ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者、わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。わたしはあなたがたに言います。「祝福あれ。主の御名によって来られる方に。」とあなたがたの言うときが来るまでは、あなたがたは決してわたしを見ることができません。

というイエス・キリストの御言葉が記されています。
 これは、いわば、イエス・キリストの警告の言葉です。それが、嘆きとともに語られています。このイエス・キリストの嘆きはご自身が拒絶された悔しさからの嘆きではありません。主に愛されて、救い主の約束を受け取っているはずのイスラエルの民が、まず自分たちがその救いを受け取って、諸国の民にその救い主をあかしすべき民が、その救い主を退けて、自らの罪へのさばきを負うことになってしまうことへの嘆きです。そのイエス・キリストの嘆きは一時的なものではありませんでした。いよいよイエス・キリストがイスラエルの民から捨てられて十字架につけられる時が近づいてきたときのことを記している、19章41節〜44節には、

エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、言われた。「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」

と記されています。イエス・キリストは、ご自身が十字架の死の苦しみをもって備えられる救いの道を受け取ろうとしないイスラエルの民のために、そして、そのゆえに自らが罪のさばきを負って滅びてしまう民のために、泣かれたのです。ここでは「泣いて、言われた」と訳されていますが、定動詞は「泣いて」で、「言われた」は分詞で表されています。ですから、ここでは、イエス・キリストがお泣きになったことが中心です。もし、節の区切りがなかったなら、

「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」と言いながら、その都のために泣かれた。

というように訳されていたことでしょう。
 しかも、この場合の「泣かれた」という言葉(クライオー)は声を上げて泣くことを表しています。イエス・キリストは人目をはばかられることなく、弟子たちの前で声を上げてお泣きになったのです。
 これは自分の民の滅びを警告として預言しながら泣いた預言者たちの嘆きを思い起こさせます。一つの例としてエレミヤ書9章1節には、

  ああ、私の頭が水であったなら、
  私の目が涙の泉であったなら、
  私は昼も夜も、
  私の娘、私の民の殺された者のために
  泣こうものを。

というエレミヤの言葉が記されています。言うまでもなく、このエレミヤの涙は、自分の同胞のための涙です。イエス・キリストがエルサレムのために声を上げて泣かれたのは、イエス・キリストがユダ王国の人々と一つになっておられたからに他なりません。
 このことを念頭において、先ほど引用しましたヨハネの福音書1章11節に、

この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。

と記されていることを振り返ってみますと、ここで言われていることがもう少し見えてきます。イエス・キリストはただ場所的に「ご自分のくにに来られた」だけではないのです。ここで、

ご自分の民は受け入れなかった。

と言われている「ご自分の民」を文字通り「ご自分の民」としておられて、その民と一つとなられたのです。けれども、「ご自分の民」はイエス・キリストを贖い主として受け入れませんでした。そこにイエス・キリストの深い悲しみがあり、嘆きがありました。
 このように、父なる神さまの無限、永遠、不変の愛を受けておられ、この地上の生涯において、父なる神さまのみこころのうちを歩まれたイエス・キリストは、苦しみや痛みや悲しみを経験されなかったのではなく、むしろ、誰よりも大きな苦しみと、激しい痛みと、深い悲しみを経験されました。
 このことは、御子イエス・キリストにあって神の子どもとされている者にとっては、この世で経験する苦しみや痛みや悲しみは、神さまの愛が失われたことの現れではないことを、何よりもよく物語っています。
 確かに、それらの苦しみや痛みや悲しみの原因を突き詰めていきますと、そのいちばん奥には、私たち人間が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまっているという事実があります。けれども、イエス・キリストはご自身の十字架の死をもって、その罪に対する刑罰としての父なる神さまの聖なる御怒りを、すべて取り去ってくださいました。ですから、御子イエス・キリストにある者に対しては、罪に対する刑罰としての御怒りは、決して注がれることはありません。身体の痛みで苦しんでいる方々も、愛する者をなくして悲しんでいる方々も、人から理不尽な扱いを受けてうめいている方々も、その他の痛みや苦しみを身をもって味わっておられる方々も、しっかりと心に刻んでください。それは、決して、私たちの罪に対する刑罰としての父なる神さまの御怒りの現れではありません。
 さらには、罪を犯してしまって、そのことを深い痛みとともに悲しんでいる方も、父なる神さまは永遠の前から私たちが罪人であることをご存知であられたので、御子イエス・キリストをとおして、私たちを「ご自分の子にしようと」定めてくださっていることを思い起こしてください。そして、イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いを信じて、罪の赦しを受け取ってください。そして、イエス・キリストの御名によって大胆に父なる神さまに近づいてください。
 それでは、これらの苦しみ、痛み、悲しみは、イエス・キリストにある私たちにとってはどのような意味をもっているのでしょうか。それには、さまざまな答えがあることでしょうが、ここでは、今お話ししている祈りとの関係で考えられることの、しかも一つだけをお話しします。
 確かなことは、今お話ししましたように、それらは決して私たちの罪に対する刑罰としての父なる神さまの御怒りの現れではないということです。また、それらはすべて、御子イエス・キリストご自身がこの世にあって味わわれた苦しみであり、痛みであり、悲しみであるということです。そして、イエス・キリストは、ご自身が味わわれた苦しみや痛みや悲しみをとおして、より一層、父なる神さまにお近づきになりました。イエス・キリストは常に父なる神さまと一つであられましたが、その苦しみ、痛み、悲しみをとおしてさらに父なる神さまにお近づきになったのです。
 ヘブル人への手紙5章7節には、

キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。

と記されています。
 イエス・キリストは、父なる神さまのこの上ない確かな愛をお受けになっておられ、そのことを誰よりもよくご存知であられ、父なる神さまをまったく信頼しておられました。そのイエス・キリストが、

自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ

ておられたというのです。このことは、私たちには意外なことではないでしょうか。父なる神さまの確かな愛を受けておられ、それを十分ご存知であられたイエス・キリストが、どうして父なる神さまに向かって「大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ」られたのでしょうか。この世の宗教の発想で言えば、すべてを父なる神さまにお委ねして悠然と構えておられれば、それこそが「大人物」というものではないでしょうか。
 しかし、それはイエス・キリストが取られた道ではないのです。そして、ここに私たちの祈りの特徴があります。イエス・キリストは、ご自身の苦しみのとき、痛みのとき、悲しみのときに、父なる神さまがご自身を愛していてくださることを知っておられましたし、父なる神さまを信頼しきっておられました。そうであるからこそ、イエス・キリストは、父なる神さまに「大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ」られました。言い換えますと、イエス・キリストは苦しみや痛みや悲しを経験されたとき、父なる神さまにもっと近づかれたのです。
 そればかりではありません、その時に、父なる神さまもイエス・キリストにさらに近づいてくださっています。そのことは、ヤコブの手紙4章8節に、

神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。

と記されていることから分かります。
 また、イザヤ書63章8節後半と9節には、

  こうして、主は彼らの救い主になられた。
  彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、
  ご自身の使いが彼らを救った。
  その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、
  昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。

と記されています。これも、神さまの方からご自身の民に近づいてくださったことの現れです。
 先ほど引用しましたヘブル人への手紙5章7節に続く8節〜10節には、

キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。

と記されています。ここに記されている、

キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、

ということは、その前の7節で「人としてこの世におられたとき」(直訳「彼の肉の日々において」)と言われているように、地上の生涯におけることを記しています。
 それにしましても、永遠の神の「御子であられる」方が「お受けになった多くの苦しみによって従順を学」ばれたということは、いったいどういうことなのでしょうか。それは、イエス・キリストの十字架の死のことを考えると、分かりやすくなると思います。「御子であられる」方は、永遠の神としては死ぬことはあり得ないので、死ぬことをご自身のこととして経験することはありません。けれども、その御子が人の性質を取って来られたことにより、そして、私たちの罪の罪責をその身に負ってくださったことにより、罪への刑罰としての死を経験されたのです。それは、人としての経験です。しかし、それを経験された方は「御子であられる」方です。
 それと同じです。この世においては、人間が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまっているためにもたらされた、さまざまな苦しみと痛みと悲しみがあります。それを私たちは身をもって経験しています。けれども、「御子であられる」方は、永遠の神としては、それをご自身のこととしては経験されません。しかし、その「御子であられる」方が人の性質を取って来られたことによって、それをご自身のこととして経験されました。この方は、暗やみの力が神さまに逆らって働いており、人間の罪が生み出す理不尽さが渦巻いていて、苦しみや痛みや悲しみが絶えることのないこの世界において、その苦しみや痛みや悲しみを、ご自身のこととして経験されました。そればかりではありません、イエス・キリストは、この世にあって父なる神さまのみこころに従って生きること、すなわち父なる神さまに「従順」であることがどんなに厳しいことであるかを、ご自身のこととして経験されたのです。
 ここでは、このことのゆえに、イエス・キリストは私たちの大祭司となられたと言われています。私たちであれば、苦しみや痛みや悲しみの経験は、時とともに薄れていきます。しかし、「御子であられる」方は、まさに「御子であられる」ので、ご自身の経験を決してお忘れになられません。その経験が曖昧になってしまうということもありません。ヘブル人への手紙では、これに先立って、4章15節、16節に、

私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

と記されています。
 まさに、イザヤが、

  こうして、主は彼らの救い主になられた。
  彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、
  ご自身の使いが彼らを救った。
  その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、
  昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。

と述べていたことが、御子イエス・キリストにおいて、私たちの現実になっているのです。
 私たちは、私たちがこの世で経験する苦しみや痛みや悲しみの意味がすべて分かるわけではありません。けれども、かつては、それは、私たちの罪に対する刑罰としての意味をもっていましたが、今は、イエス・キリストにある者にとっては、刑罰としての意味はなくなりました。そればかりか、その苦しみや痛みや悲しみを味わうときに、私たちは御子イエス・キリストにあって、父なる神さまに近づくように導かれています。そこに私たちの祈りが生れます。それは、まさに、「大きな叫び声と涙とをもって」の祈りと願いであることでしょう。その時、御子イエス・キリストにあって、父なる神さまが私たちとともにいてくださいます。そして、御子イエス・キリストにあって、私たちの苦しみや痛みや悲しみを、深いあわれみをもってくみ取ってくださいます。
 実は、そのことこそが私たちの祈りへの父なる神さまのお答えの中心です。初めにお話ししましたように、父なる神さまが私たちを愛してくださり、「ご自分の子」としてくださったということは、神さまが私たちをお喜びくださり、私たちとともにあることをご自身の喜びとしてくださっているということを意味しています。そして、私たちも神さまを喜びとし、神さまとともにあることを喜びとするようになります。そのことは、物事がうまくいっているときだけのことではなく、私たちがこの世にあって苦しみや痛みや悲しみを味わっているときにも変わることがないのです。
 私たちは、苦しみや痛みや悲しみの中から、御子イエス・キリストの御名によって、父なる神さまに向かって「大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ」るときに、このことを実際に経験することができます。それは、私たちが御子イエス・キリストによって父なる神さまの子どもとされていることの現れです。

 


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