(第15回)


説教日:2005年5月1日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 今日もマタイの福音書6章9節〜13節に記されている主の祈りについてのお話を続けます。主の祈りそのものについてお話しする前に、私たちの祈りについていくつかのことをお話ししてきました。これまでお話ししてきたことを踏まえて、さらにそのお話を続けます。
 エペソ人への手紙1章3節〜6節には、

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。

と記されています。
 ここには、父なる神さまが永遠の聖定において、私たちのことをどのように定めておられるかが記されています。
 4節前半には、

神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び

と記されています。ここでは私たちの選びのことが語られています。そして、それは「世界の基の置かれる前から」の者であると言われています。この「世界の基の置かれる前」というのは、実質的に、この世界が造られる前を意味しています。時間は神さまがお造りになったこの世界の時間ですから、この世界がなければ時間もありません。神さまがこの世界をお造りになったことによって、時間は始まっています。ですから、「世界の基の置かれる前」というのは、時間の流れの中でのことではなく、永遠にいます神さまのみこころの中でのことです。つまり、私たちの選びは神さまの永遠のみこころ、すなわち、永遠の聖定に根差しているのです。
 この選びはまた「キリストのうちに」と言われています。ここで「キリストのうちに」と訳されている言葉は、文字通りには「彼にあって」です。これは3節の「キリストにおいて」を受けていて、それと同じことを表しています。この「キリストのうちに選び」ということは、神さまが私たちを「キリストのうちに」ある者として、すなわち、キリストと結び合わされて一つとなる者としてお選びになったということです。
 これに続いて、4節後半で、

御前で聖く、傷のない者にしようとされました。

と言われています。これは、私たちがイエス・キリストと一つに結び合わされて一体となるように選ばれていることに基づいて、私たちに与えられている祝福です。「御前で聖く、傷のない者」という言葉は神さまとの関係のあり方を示すものです。「聖い」ということと「傷のない」ということは、ともに、それが神さまのものとして区別されていることを表しています。「傷のない」ということが欠けのないという消極的な面を表すとしますと、「聖い」ということは積極的な面を表しています。その意味でこの二つの言葉は一つのことの裏表のような関係にあります。この二つの言葉の組み合わせによって、神さまのものとして区別されているものとしてまったきものであることを示しています。
 これに続いて、5節では、

神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。

と言われています。
 この「愛をもって」という言葉は、ギリシャ語原文では4節の終りにあります。それで、この「愛をもって」という言葉は4節後半の「御前で聖く、傷のない者」とつながって、キリストにあって選ばれている者の特徴を表していると理解している方々がいます。つまり、私たちが「愛にあって、聖く、傷のない者」となるということです。これに対しまして、新改訳は、節の区切りは霊感されているものではありませんので、「愛をもって」という言葉を5節につなげて、神さまが私たちのことを「ご自分の子にしようと・・・あらかじめ定めておられた」ことを、それが愛によってのことであったと説明していると理解しています。
 この二つの理解のうちどちらを取るべきかはかなり難しい問題ですが、私は新改訳の理解を支持しています。先ほどお話ししましたように、4節後半では「聖い」という言葉と「傷のない」という言葉が組み合わされて、神さまのものとして区別されているものとして、まったきものであることが示されています。その意味で、これはこれとして完結していると考えられるからです。さらに、この3節〜6節の主題は神さまが一方的な恵みによって私たちを愛してくださっているということです。この「愛をもって」という言葉が、5節に言われていることの初めにあるとしますと、強調の位置にあることになります。これは、父なる神さまが私たちを「ご自分の子にしようと・・・あらかじめ定めておられた」という私たちの想像をはるかに越えた恵みの根底にあるのは父なる神さまの私たちへの愛であるということを表すことになり、これと調和します。ところが、この「愛をもって」という言葉が4節後半につながっていて、私たちが「愛にあって、聖く、傷のない者」となるということを表しているとしますと、先ほどお話ししましたように、ここ4節後半では、私たちと神さまとの関係のことを述べていますから、この「愛をもって」ということは、私たちの神さまに対する愛のことになってしまいます。
 このどちらの理解を取るとしましても、この「愛をもって」という言葉によって、イエス・キリストと一つに結ばれるように選ばれ、神さまのものとして区別され、神の子どもとされている私たちと、神さまの間に愛による交わりがあることが示されていることは確かなことです。仮にこの「愛をもって」という言葉が4節後半につながっていて、私たちが「愛にあって、聖く、傷のない者」となるということを表しているとしましても、4節後半では、私たちと神さまとの関係のことを述べていますから、これは神さまとの愛の関係であるということになります。また、神さまが私たちを「ご自分の子にしようと・・・あらかじめ定めておられた」ということは、仮にこの「愛をもって」という言葉がこれにかからないとしても、それが神さまの愛によることであることには変わりがありませんし、それが、私たちが父なる神さまとの愛の交わりに生きる者となるためのことであることも確かなことです。
 このように、私たちに関する神さまの永遠の聖定のことを述べているエペソ人への手紙1章4節、5節に記されていることから、父なる神さまが私たちをご自身との愛にある交わりのうちに生きる者としてくださるために、イエス・キリストにある者としてお選びくださったということを知ることができます。私たちの祈りは、父なる神さまと私たちの愛にある交わりの具体的な現れであり、このような父なる神さまの永遠の聖定において定められているみこころに根差しており、そのみこころにそっています。


 このことを踏まえて、マタイの福音書において、主の祈りの前の5節〜8節に記されている、祈りについてのイエス・キリストの教えを見てみたいと思います。そこには、

また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。

と記されています。
 この祈りについての教えは、大きく、5節、6節に記されていることと、7節、8節に記されていることの二つに分けられます。そして、この二つの教えに共通しているのは、まず、よく見られる誤りを指摘し、その上で、ではどのようにしたらいいのかということ、あるいはどのように考えるべきであるかということを示してくださっています。
 5節では、

また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。

と言われています。
 その当時のユダヤの社会においては、午前9時と正午と午後3時の祈りが定められていたと言われています。詩篇55篇16節、17節には、

  私が、神に呼ばわると、
  主は私を救ってくださる。
  夕、朝、真昼、私は嘆き、うめく。
  すると、主は私の声を聞いてくださる。

と記されています。また、ダニエル書6章10節には、

ダニエルは、その文書の署名がされたことを知って自分の家に帰った。―― 彼の屋上の部屋の窓はエルサレムに向かってあいていた。―― 彼は、いつものように、日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していた。

と記されています。これは、ダニエルに敵対する者たちが、ダリヨス王をそそのかして、30日間ダリヨス王以外のものに祈ることを禁止し、それを破る者は獅子の穴に投げ込まれるという勅令を出させた時のことを記しています。さらに、使徒の働き3章1節には、

ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。

と記されています。
 これらのことから分かりますように、エルサレムとその近くの町の人々は、祈るために主の神殿に行くことがありました。神殿に行くことができない人々は、それぞれの町にある会堂に行くことがあったようです。また、遠くから主の神殿のあるエルサレムに向かって祈るということもありました。主の神殿や会堂に行がない人々も、定められた時になると、自分のいる所で祈ったのです。
 このイエス・キリストの教えでは、このように時を定めて祈ること自体は問題とされてはいません。
 イエス・キリストは、

偽善者たちのようであってはいけません。

と言われました。ここで「偽善者たち」と呼ばれているのは、基本的には、律法学者とその教えを守っているパリサイ人たちのことです。これに続いて、

彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。

と言われていることを聞いた人々には、「会堂や通りの四つ角に立って祈る」人々が誰であるか、すぐに分かったことです。けれども、イエス・キリストは、

律法学者、パリサイ人たちのようであってはいけません。

と言われないで、

偽善者たちのようであってはいけません。

と言っておられます。これは、律法学者やパリサイ人の祈りが偽善的なものであることを強調するためのことであると考えられます。けれども、それだけではないようです。それと同時に、イエス・キリストが問題としておられること、つまり、人に見られることを目的として祈ることが、律法学者やパリサイ人に限られたことではないことを示していると考えられます。このイエス・キリストの教えを聞いて、それは律法学者やパリサイ人の問題であって、自分のことではない、自分は律法学者やパリサイ人のようにならないように気をつけていればよいと考えてしまってはならないわけです。すでに、それは自分の中にある問題ではないかと自らを省みなければならないのです。
 イエス・キリストは、

祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。

と教えられた後に、

彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。

と言われました。この

彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。

という新改訳の理解は、これが理由を示しているというものです。その場合には、この教えを聞いている人々がすでに、「人に見られたくて」祈ってはならないということをよく分かっているということになります。けれども、ここで、イエス・キリストはまさにそのことを教えておられるのです。ですから、この部分は理由を表すのではなく、その「偽善者たち」の祈りの仕方のどこが問題であるか、すなわち、彼らは「人に見られたくて」祈っているということを説明していると考えたほうがいいと思われます。
 人々は「会堂や通りの四つ角に立って祈る」人々が律法学者やパリサイ人であることはすぐに分かりました。しかし、イエス・キリストは「会堂や通りの四つ角に立って祈る」こと自体を問題にしてはおられません。「立って祈る」ことは普通の祈りの姿勢でした。もちろん、そのほかに、ひざまずいたり、身を投げ出してひれ伏して祈ることもありました。ここでイエス・キリストは、それらのことの奥にある「人に見られたくて」という動機を問題としておられます。この「人に見られたくて」の「たくて」と訳されている言葉は(ホポースと仮定法の組み合わせで)、目的や動機を表しています。また、この場合の「」は複数形(アンスローポイ)です。ですから、「偽善者たち」の祈りの問題は、人々に見られるようになることを動機とし、目的としていることにあるのです。
 この、

彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好き・・・です。

と言われているときの「通りの四つ角に立って祈る」ことはたまたま祈りのために定められた時にそこにいたことを表しているという見方もあります。けれども、ここでは彼らが「会堂や通りの四つ角に立って祈るのが」「好き」だと言われています。この「好き」だということは、それを選んでいることを示しています。それで、その人々の動機が「人に見られたくて」ということにあるために、わざわざその目的にそった所に行って祈ったのであると考えられます。このことはまた、「通りの四つ角」と言われているときの「通り」(プラテイア)が「広い大通り」を意味していることからもくみ取ることができます。そのような大通りの角と言いますと、大通りの交差している所で、人通りが多いところであるわけです。
 先ほど、

祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。

というイエス・キリストの教えを聞いたときに、それは律法学者とパリサイ人のことであって自分のことではない、だらから、自分はそうならないように気をつけていればいいのだ、というような考え方をしてはいけないということをお話ししました。そして、その「偽善者たち」の祈りの問題は、「人に見られたくて」という動機と目的で祈ることにあります。では、どうして祈るときに「人に見られたくて」という動機が働いてしまうのでしょうか。それは、言うまでもなく、祈りが父なる神さまとの愛の交わりの現れであり、神の子どもたちの特権であり、とても大切なものであるからです。祈ることは神さまに近づくことです。ですから、いつも、人々の前で祈ることによって、自分がいつも神さまに近づいている者であることが知られるようになるわけです。律法学者とパリサイ人たちはそのために「会堂や通りの四つ角に立って祈ることが好き」になってなっていました。
 私たちは会堂において人々の前に立って祈ることはないかもしれません。また、大通りの角に立って祈るということは、まずないと言っていいでしょう。けれども、問題はどこで、どのような姿勢で祈るかということにはありません。「人に見られたくて」という動機と目的で祈ってしまうということが問題なのです。そのような危険は、私たちのうちにもあります。「人に見られたくて」という動機と目的が働いて、上手な祈りをするというようなこともあります。同じ動機と目的で、長い祈りをするということもあります。もちろん、きちんと祈るために準備をするということに問題はありません。特に、公的な祈りの場合には、何の準備もなく祈ることの方がとがめられるべきことです。また、祈るべき課題が多くあれば、それだけ祈りも長くなります。ですから、よく準備された祈りや長い祈りが直ちに「人に見られたくて」という動機の祈りであるということにはなりません。
 さらに、人前で祈らなくとも、自己満足で終る祈りもあります。よく祈ったとか、しっかり祈ったということで、満足してしまうのです。また、毎日決まった時間に忠実に祈っていることや、何時間も祈ったことなどを「あかし」という形で人に伝えることもあります。微妙なことですが、考えればさまざまなことに心当たりがあります。
 このことには、もっと大切なことがあります。それは、これに続いてイエス・キリストが、

まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。

と教えておられることとの関連で考えてみましょう。
 ここで「受け取っている」と訳されている言葉(アペコー)は商業上の取り引きにおいて、代金をすべて受け取って、その領収書を渡すことを表す専門用語であると言われています。ですから、この場合、

彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。

ということは、もはやそれ以上受け取るべきものは何もないということを意味しています。「人に見られたくて」祈ったことの「報い」はすでに受け取っているが、それ以外にも、神さまに祈ったことに対する「報い」があるというようなことではないのです。
 そのようにすべて支払われた「報い」は、この場合には、人々から見られて、人々から「あの人は常に神さまに近づいている人だ」とか「祈りの人だ」とかいう評価を得ているということです。
 ここで考えたいことは、それでは、ここで想定されている本来の「報い」は何なのかということです。これが先ほど言いました「もっと大切なこと」です。
 続く6節には、

あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

というイエス・キリストの教えが記されています。ここでも、

そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

と言われています。ここで父なる神さまが「あなたに報いてくださいます」と言われているときの「報い」は何なのでしょうか。
 普通ですと、祈りに対する「報い」は、祈りが答えられて願いがかなうことだと考えられることでしょう。しかし、そうであるとしますと、祈ったことが実現しなかったときには「報い」がなかったということになります。けれども、イエス・キリストは、

そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

と教えておられます。これは、「報い」がないこともあるというような教えではありません。
 このことは、私たちの祈りの目的とかかわっています。私たちの祈りの目的を突き詰めていきますと、それは、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに行き着きます。それは、最初にお話ししました、エペソ人への手紙1章4節、5節に、

神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。

と記されている御言葉に示されている父なる神さまの永遠の聖定におけるみこころに根差していることです。
 もう詳しい説明はいりませんね。私たちの祈りの動機も目的も、そして「報い」も、ただ一つなのです。それは、御子イエス・キリストにあって父なる神さまに出会うことであり、父なる神さまと語り合うことであり、父なる神さまをより親しく知ることであり、父なる神さまの愛に浸り、父なる神さまを愛し、父なる神さまの愛と恵みをほめたたえるようになることです。一言で言えば、父なる神さまご自身が「報い」なのです。ですから、祈りにおいては、父なる神さまのみに思いを向けなければなりません。そして、父なる神さまのみを求めなければならないのです。
 もちろん、私たちがとりなしの祈りをするときには、私たちが心にかけている人々のことが思いに浮かんできます。その人々のことを取り上げて祈ります。その場合にも、その人々のことを父なる神さまの御前で思い、父なる神さまとの語り合いの中で取り上げるのです。
 このことに照して見ますと、イエス・キリストが、

また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。

と教えておられるのは、ただ「人に見られたくて」という動機や目的で祈ってはいけないというだけのことではないことが分かります。なぜそのような祈りをしてはいけないのかというと、それが、御子イエス・キリストにあって父なる神さまに出会うこと、父なる神さまと語り合うこと、父なる神さまをより親しく知ること、父なる神さまの愛に浸ること、そして、父なる神さまを愛することを妨げてしまうからです。
 さらに、続く6節で、

あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

と教えてくださっているのも、私たちが、御子イエス・キリストにあって父なる神さまのみに思いを向け、父なる神さまと語り合うようになり、父なる神さまをより親しく知るようになり、父なる神さまの愛に浸るようになり、父なる神さまを愛するようになるためであることが分かります。

 


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