江上波夫さんがこの間(2002 年 11 月 11 日)亡くなつた。『騎馬民族は来た !? 来ない !?』(小学館ライブラリー)を讀んだだけの、ささやかな一讀者であつたので、これといつて何かを言ふでもない。たゞ、この本の中でとても面白く膝を打つ逸話があつたので、それを紹介しておきたくなつた。
これは江上波夫さんの師匠である、浜田耕作先生の話である。當時浜田先生は、英國に留學してペトリーとセイスといふ先生から考古學を學んでゐた。
浜田先生は、ある夏セイス先生から、自分はこれから島の別荘に行くが、いっしょに来ないかといわれた。夏は勉強するよりも、すこしは自分のところに来て、英国人は夏休みにどんな生活をしているか見るのも勉強になるから来い、と誘われたんですね。
そうしたら、朝起きて食事するんですが、英国の朝食というのはわりあいたっぷり食べるんですね。その後、十時ごろにはお茶が出て、昼飯を食べて、三時ごろにはまたお茶が出て、夜食の後にもまたお茶が出る。とにかく毎日食ったり飲んだりの連続だというんだね。そしてあとは散歩に行こうとか、釣りに行こうとか言って出かけたり。
浜田先生も、二十日間くらいは付き合っていられたけれども、やっぱりもうそろそろ勉強したくなってロンドンに帰ろうと、少しそわそわされたら、セイス先生に聞かれた。君はいったいどのくらい勉強するんだって。ずいぶん勉強するようだけれどもって。で、二時間くらいはしますと答えた。そうしたらね、それは一日かそれとも一週間かって聞かれたというんですよね。先生は一日だと言われた。
そうしたらね、一日に二時間も勉強したら、君、四十までに勉強がいやになっちゃうだろう(笑い)、俺はそう思うよと。俺は八十だけれどもまだ研究を続けて本を書いている。勉強するのはいいけれども、四十でいやになったり、五十前後で死んじゃったり、君はそれじゃあいかん。
なぜかというと、君は日本に科学としての考古学をエスタブリッシュしようと思ってペトリーや私のところに来たのだから、そのためには長生きしてもらわないといけない(笑い)。そして、学者というものは、二十代の学者はどんな天才だってやはり二十代の学者なんだ。五十や六十の学者とはちがうんだ。五十や六十の学者はやはり七十や八十の学者とはちがうんだと。
国家がちゃんとした学者を育てていく場合には、そうしたいろいろなタイプの、いろいろな年齢の学者が必要なんだ。とくに一国の学界を育てていくには長老が必要なのだ。君の国にはそのような学界の長老はまだいないのだから、望むらくは君自身が七十、八十まで生きて、俺と同じくらいの年まで考古学をやってもらいたいと。
そのためには、一日に二時間勉強するなんて、そんな学生みたいなことはするな、勉強は一週間に二時間でも三時間でもいい。それよりも、学問の基礎となること、そのために必要な文化的・社会的なことをちゃんとやってほしいと。こう言われて、浜田先生は日本へ帰ってこられたそうです。
(略)私にこの話をされたとき、(先生は)もう五十を過ぎておられたけれども、セイス博士がいうことはほんとうだと思う、自分はまだ六十になっていないけれども、何よりもやはり長生きしなくてはなんらんような気がしてきたと言っておられた。(略)
けっきょくセイスが言わんとしていることは、学問は成長するものだということで、それに対応する学者が必要だということでしょう。
けっして学問は天才にまかされるもんではないんだと。世の中の学問全体が成長していくということと自分とが、パラレルにいかなくてはだめだと。君たちはこれからそういうものを背負っていく任務を持っている。(略)だからそういう気持ちでやってくれというお話だったようですね。
『騎馬民族は来た !? 来ない !?;pp.49--52』
流石にギボンやトインビーをうみだした國は違ふ。歴史家といふのは、年齡を重ねるといふことを實に深く考へてゐる。勿論、これは英國の歴史家だけのお家藝ではなく、日本でも昔からよく知られてゐるものではないか。つまり、子曰く、吾十有五にして學に志す
、と。
江上さんは九十になりどのやうな歴史を見たのか。私も長生きしてみたくなつた。
2002/11/17