齋藤 孝氏の「声に出して読みたい日本語」[1] を讀みとても嬉しくなつた。實に畫期的な本だ。この喜びは、昔の國語の教科書を讀み直したときのやうな心持ちに似てゐる。 普段目にしない、知る由もなかつた言葉の數々に觸れる新鮮さ。何と日本語とは豐かなものであらうかと云ふ驚き。大きな文字や總ての漢字にルビが振られてゐるのも、まさしく讀むことを前提としてゐる教科書みたいで好感が持てる。最近歴史の教科書に就いて世間が侃々諤々してゐたが、それよりも先にかういふ本を國語の教科書や副讀本に是非使用して欲しい。
齋藤氏は身體感覺とことばの關係に就いて、とても興味深い考察を繰り廣げてゐる方だ。現代の日本が失つた型、傳統や文化などを「腰肚文化」や「息の文化」といつた視點でとらへ直してゐる。私もからだとことばにはすごく興味をもつてゐるから、とても面白く讀んだ。
ことばとからだと云ふことでこんな本のことを思ひ浮かべた。高橋源一郎氏がイヴァン・イリイチの『テクストのぶどう畑で』を引用してゐる本 [2] を讀んだことがあり、そのなかで高橋さんはかう云ふ引用をしてゐた。
この本の中でイリイチは「読書」という行為が、ある時代に生まれた特殊な行為だという。 (畧)「読書」はある瞬間に「発見」されたのだ。
イリイチは中世の神学者ユーグの『学習論』を引用しながら、まずかつて読書はなにより「身体運動」と「朗読」であったことを説明する。つまり、最初の読書人たちは修道士だったのだ。本とは羊皮紙に書かれた聖書であり、読書とはそれを朗読することだった。
ところが、ユーグが語りかける修道士にとつては、讀書は走馬燈のやうなものではなく、肉體的な活動の一つなのである。修道士は、一行一行を心拍に合はせて動きながら理解し、そのリズムにのつて記憶する。そしてそれを口に含み、かみしめながら思索する。
ユーグのもう一つの貢獻は、特に默讀といふ讀書形式が存在することを初めて公に文章に記したことにある。無論、古代においても時折默讀は試みられてゐた。しかしそれは、一種の離れ業と考へられてゐた。アウグスティヌスは、師であるアンプロシウスが時折唇を動かすことなく書物を讀むことを不思議がつてゐる。
ユーグの説く冥想は、肉體と精神の高度な集中を要する讀書活動であつて、單なる無爲の人の受け身の感情移入とは違ふ。この活動は、肉體の動きにたとへて表現される。たとへば、行から行へ大股に歩くとか、すでに精通してゐるペイジを調べる時は翼をバタバタさせるなどと表現されてゐる。ユーグは讀書を身體運動として體驗するのだつた。
『テクストのぶどう畑で』(イヴァン・イリイチ著、岡部佳世譯)より
高橋源一郎『いざとなりゃ本ぐらい読むわよ』より
默讀が一種の特殊技能であつたとは私も驚きであつた。聲を出し體で讀むと云ふのは、まさしく始原の讀書に近いと云ふことを教へてくれる。そしてこれこそが最良の讀書法であると改めて納得した。たゞことばとからだがどのやうに關連してゐるのかは、まだまだ知識が不足してゐるから、これからもつと勉強してみたい。
最後に氣になる點を二つ。讀みながら氣が附いたのだが、たとへば假名遣ひは古典や詩、短歌などに就いては、何故か正假名遣ひのまゝでそれにルビで讀みを振つてゐる。たとへば、
男おとこもすなる日記にきといふうものを、女おんなもしてみむんとてするなり。
紀貫之『土佐日記』より
と云ふふうに。それなのに近代の小説は悉く現代假名遣ひに改められてゐた。これは著者の所爲と云ふより、出典がさうだつたからなのだらう。
二つ目に表記を改めた理由がこれまた案の定と云ふか、子どもでも声に出して読めるようにしたい
、と云ふことなのだが、こゝでは福田恆存氏の言葉を引いてみます [3]。
たくさん漢字を知つてゐる人間が、その苦勞を一般人から解除してやらうといふ善意は、金持ちが貧乏人に向つて、金ゆゑの不幸を説いて聽かせるのに似てゐはしませんか。たとへ古典は讀めなくとも、また讀みつこないにしても、そのつながりをつけ、道を通じておく教育は必要なのです。原則はむづかしく、正しいかなづかひはできなくとも、一向さしつかへありますまい。古典からの距離は個人個人によつて無數のちがひがある。その無數の段階の差によつて、文化といふものの健全な階層性が生じる。それを、專門家と大衆、支配階級と被支配階級、(そして大人と子供)*といふふうに強ひて二大陣營に分けてしまひ、兩者間のはしごを取りはづさうとするのは、おほげさにいへば、文化的危險思想であります。*(括弧内は舩木の插入)
「國語改良論に再考をうながす」より
もうそろそろ私たちは子供を甘やかす教育觀から足を洗つたはうがいい。言葉と文字において子供を甘やかすことは、言葉そのもの、文字そのものを甘やかし、「イッチャッタッテッテ」式に崩してしまふことになるのです。
「私の國語教室」より
正漢字にしろ、正假名遣ひにしろ、總てルビを振つてゐるのだから讀めないと云ふ危惧は不要ではないだらうか。子供に媚びてゐるやうでいたゞけない。その點に關しては、まだ々々肚が据はつてゐないと思ひました。
2001/12/10記す。