なにゆゑ私は正假名遣ひを使用するのか?

この「一膳」では、あへて全ての文章を正字正假名で綴つてゐます。レトロ趣味の一言で片附けてもあながち間違ひではないのですが(少なくとも anachronism ではない心算)、幾つか考へられる理由を擧げてみませう。


さてそれでは、逆に問ひませう。私たちの書いてゐる言葉とは一體どのやうな言葉なのでせうか? 普段、私たちが用ゐてゐるあの日本語とは一體何なのでせう? なにゆゑか、私たちは日本語について何も知らなくとも、疑ひもなく自然に言葉を操り用ゐることが出來ますが、それは實に不可解な(そして當り前な)出來事なのではないでせうか。例へば外國語を習得することと比べれば、一つの言語を身に附けることが、いかに困難な事態かが想像できると思ひます。それならば、たとへ自國の言葉であらうとも、容易に言葉を身に附けてゐると言へるものでせうか?言葉を遣ふといつたことは如何なる事態なのでせうか?

何故私は正統表記を用ゐることが出來るのか、それをとても不思議に思つてゐます。そして日々日本語を正統表記で記し使ひ續けることによつて、日本語に對し自覺的かつ意識的にならうとしてゐるのです。

でもやつぱり、理由なんてすべて後附けなのです。この歴史的假名遣ひを使用する、または言葉に遣はれること。それは私にとつて大きな喜びであるのは確かなのです。何と言ふか、時間をかけるごとに言葉がスツと胸のなかへおちるやうな感覺、言葉はたゞ最初からそこにゐる。

福田恆存氏はかう言つてゐます [1]。

「獨力で生きてゐる一大組織」としての言葉は、私達がこの世に生まれ來る以前から存在し、神代、古代から絶え間なしに働き續けて來た時空に亙る一個の巨大な生き物なのである。それなら、言葉學ぶと言ふよりは、言葉學ぶと言つた方がいい。

言葉は、それを使ふのは自分だからといつて、自分の思ひのままにどうにでも使へるやうな私物ではなく、逆に言葉の方が私達に向つて、その生理に隨つて使へと命じてくる、言換れば、言葉に使はれるやうに心を用ゐよと命じて來る。

(小林秀雄の「本居宣長」より)

引用文獻

[1]『福田恆存語録:日本への遺言』谷田貝常夫、中村保男(編)、文藝春秋、1998。

2001/11/20記す