正法眼藏隨聞記を讀む

私は宗教的な人間ではない。だからと云ふか興味本位で、佛教の本をやたら讀むことがある。そして道元のこんな言葉を目にしたりすると、とてもわくわくする。

『前後ありといへども前後裁斷せり』

かういふ言葉に私は弱い。しびれて了ふ。信仰やら宗教心云々からと云ふよりも、言葉によつて興味をひかれ、そこから道元を少し意識してゐたのだ。そこで入門書代はりに「正法眼藏隨聞記」を讀んでみた。永平寺の開祖道元のお弟子さんである弧雲懷奘が、道元師匠の日々の言葉を記録したものである。

讀み進むうち修學旅行で京都へ行つたときに、お寺へ出向ひてお坊さんの説法を正座して聽いてゐたことを思ひ出した。こんな風にかういふ問答を讀むと身近なことに感じられる。

或る時、奘問て云く、衲子行履舊損衲衣等を綴り補ふてすてざれば、ものを貪惜するに似たり。亦奮きをすてゝ新しきを隨て用れば、新しきを貪求する心あり。兩ながら咎あり。畢竟じていかんが用心すべき。

(道元)答て云く、貪惜貪求の二つをだにも離れなば、兩頭ともになからん。たゞし、破れたるを綴て久からしめて、新きをむさぼらずんば、可ならんか。

決して佛教と自分が全く關はりがない筈はないのだけど、あまり佛教に關心を持つたことはそれほどない。近所にはお寺があるし、葬式や法事の時は坊さんの姿を缺かさず目にしてゐる。讀經やら寫經も何度かしてはみたこともある。たゞ改めて日々佛教と觸れ合ふ機會を思ひ浮かべると本當何もないやうな氣がする。でも單に無知なだけかもしれないし、あまりに當たり前のやうに私達の文化や歴史に身に附いてゐるので、意識出來ないだけなのかもしれない。

改めて佛教とは何か?と問うてみるが何も答へられない。でも「これは何か?」なんて問ふこと自體が、佛教とは全然關係のないことだ。勉強して知識を身に附けたり、考へ方を知るなんてことは、宗教でも信仰でもなんでもない。宗教はココロの問題ではないのだから。

引用文獻

『正法眼藏隨聞記』懷 奘編、和辻哲朗校訂、岩波書店。

2001/11/12記す