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礼拝メッセージ(2021年7月25日)
                比嘉幹房師(糸満シーサイドチャペル) 

「パウロとピリピの教会との麗しい関係」
ピリピ書

マナソンは若い時から忠実にパウロに仕えてきました。パウロのために宿を提供したことしか聖書には記されていませんが、過酷な伝道の働きを続けていたパウロにとって、マナソンのもてなしが彼の疲れを癒し働きの大きな力となっていました。(使徒21:16)またパウロは自
身で開拓したピリピ教会のクリスチャンからも励ましと慰めを受けていました。パウロがピリピ教会に宛てたピリピ書には、罪や裁きについては書かれていません。パウロとピリピの教会には麗しい関係があったからです。その姿をピリピ書から学んでいきます。

1)愛に満ちた優しさが溢れている
…「そういうわけですから、私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び冠よ。どうか、このように主にあってしっかりと立ってください。私の愛する人たち」(4:1)
教会は愛を土台に建て上げられていきます。真実な愛が深まると教会に喜びが満ち溢れるのです。「愛することは互いに抱き合うことよりも、同じ目標に焦点を合わせること」と言います。
ピリピの教会の中には裁き合うこともなく、深い愛によって互いに愛し合い、皆同じ方向に向かってパウロの伝道の働きを支え福音宣教の業に励んでいたのです。

2)励まし合う教会
…「こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください」(2:1~2)
故・渡辺和子さんは著書の中で<「の」哲学>を推奨しています。人間関係を良好に築き上げるのに大事なのは「の」の言葉、例えば「そうだったの」と相手の思いをそのまま受け入れ励ますことを教えています。励ましは愛の別名だと言います。ピリピの教会はパウロの働き
を励ます群れでした。パウロは自分の愛弟子テモテに語っています。「私は、あなたの涙を覚えているので、あなたに会って、喜びに満たされたいと願っています」(Ⅱテモテ1:4)パウロのような偉大な伝道者で
あっても、自分の弟子に会うことで元気づけられ慰めと励ましを受けていたのです。鶴はⅤ字の形で空を飛びます。こうして群れで飛ぶことで力が70%ほど抑制されるそうです。そして、後ろに飛ぶ鶴の鳴き声は、先頭に飛ぶ鶴を励ましていると言います。教会の先頭に立つ牧師にも励ましの声は必要です。励まし合う関係の中で一つ群れとなって教会は建て上げられていくのです。

3)捧げる教会
…「テサロニケにいたときでさえ、あなたがたは一度ならず二度までも物を送って、私の乏しさを補ってくれました。私は贈り物を求めているのではありません。私のほしいのは、あなたがたの収支を償わせて余りある霊的祝福なのです」(4:16~17)
ピリピ教会はパウロの働きを物質的な面においても支援していました。日本の教会の弱点は教会が小さいからと、宣教の働きに積極的に捧げることをしないのです。しかし、現在の日本の教会の殆どが宣教師の働きによって、始められたことを私たちは忘れてはならないのです。

小坂先生ご夫妻の牧会30年を、こうして皆さまとお祝いできることを感謝いたします。ピリピの教会のように、皆さまが先生方を愛し励まし、麗しい関係の中でこれからの教会の働きが更に祝福されますように、お祈りいたします。 (文責:忠師)



        
 礼拝メッセージ(2021年7月18日)
                                小坂忠宣教牧師

「見つけた喜び」


イエス様はこの箇所で3つのたとえ話しをしています。ルカ15章
①100匹の羊を飼っていた羊飼いが、いなくなった1匹を探し出す。(4~7節)
②銀貨10枚持っていた婦人が、部屋の中でなくした1枚を探し出す。(8~10節)
③2人の息子を持つ父親が、いなくなった弟息子の帰りを待ち続け、戻ってきた息子を喜ぶ。 (11~32節)この3つのたとえに共通しているのが、失ったものを必死になって探して見つけ出した喜びです。

イエス様はこのたとえをパリサイ人や宗教家たちに話されました。彼らは取税人や罪人たちを見下し差別的な態度をとっていました。しかしイエス様は、見捨てられた人を探し、彼らの友となられたのです。これがイエス様と当時の宗教家たちの大きな差です。イエス様はいつも
失われている人に関心をもって、簡単には諦めずに彼らを探し見つけ出してくださるのです。

<見つけた時の喜び>
見失ったものを探し続けるか諦めるかは、そのものの価値によるかと思います。 価値を感じれば必死に探すでしょう。では神は失われている人にどのような価値を持っておられるのでしょうか。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ
43:4)全世界の宝より一人の存在に価値 があると神は言われるのです。

<失われたものとは>
私たち一人一人です。以前は神にとって見失われた者でしたが、けれど見捨てられていなかっ
たのです。神は私たちに価値を認め必死になって探し出してくださいました。ですから、あなたが救われた時には天国で大きな喜びが起こったのです。「 あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです」(10節)見つけ出された喜びを味わっているでしょうか。

<誰が探しにいくのか>
「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」(ルカ19:10)これがイエス様が地上に来られた目的でありイエス様のミッションです。そして、 私たちはイエス様のミッションの実なのです。
教会がキリストの体であるならば、イエス様のミッションを引き継いでいるはずです。必死になって迷い出た羊を探している羊飼いは、暗い部屋で失くした銀貨を探している婦人は、いなくなった息子を待つ父は今どこにいるのでしょうか。私たちはキリストの体です。キリストのミッションを受継いでいるならば、失われた魂に対する情熱がいつも溢れているはずです。福音を知らない人に関心がない、そんなキリストの体はありません。

どうしたら私たちはイエス様の思いと一つになれるのでしょうか。「主イエス・ キリストを着なさい」(ローマ13:14)救われてキリストにあって新しくされたはずですが、依然愛のない自分を見せられる時があります。不完全な者ですから、イエス様を着、覆ってもらうのです。
一人の人に関心を持ち救いのために愛を注ぐ、そのような教会となりましょう。( 文責: 忠師)



          礼拝メッセージ
(2021年7月11日)
                                小坂忠宣教牧師

「プラスアルファで広がる未来」

プラスアルファとは、求められているものに何かを加えることです。プラスアルファによって開かれる新しい世界を、みことばから学んでいきます。

1)プラスアルファは手を取って 使徒3章1~10節
生まれつき歩けない男は、宮にはいる人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」の前に置いてもらっていましたが誰も見向きもしません。しかしペテロとヨハネは彼を見て「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナ ザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と信仰の宣言をします。彼 らは更に「彼の右手を取って立たせた」というプラスアルファの行動をしました。「するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした」神の奇蹟の御業が現されたのです。

2)プラスアルファはリスクをともなう マタイ25章14~30節
主人は僕に財産を与えたのではなく預けたのです。ところが5タラント預かった僕は主人に黙って商売をして10タラントにしたのです。1タラントの僕は隠ししまって、主人にそのまま返すと怠け者と言われ叱責されてしまいます。どちらが忠実なのでしょうか。10タラントにした僕は損をするかもしれないリスクがあっても、求められた以上のプラスアルファをし儲けて主人に褒められたのです。

3)プラスアルファによって繋がったアブラハム契約 創世記24章1~27節
イサクの嫁とり物語です。リベカは頼みもしないのに、ラクダにも水を飲ませました。私たちの常識では、1を求められたら1応える。これで充分なはずです。 しかし、リベカはプラスアルファにして応えました。その結果リベカはイサクの嫁に選ばれ、二人は結婚し神様が約束されたアブラハム契約(アブラハムから一つの民族・国家が誕生するようになる)に繋がっていくのです。

4)プラスアルファは神の性質 神の性質にあずかる Ⅱペテロ1章4~8節
私たちは信仰によって救いという素晴らしい恵みを受けましたが、それで満足してはならないのです。なぜなら、みことばは信仰生活に努力してプラスアルファしなさいと教えている
からです。「あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬 虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい」
今までに人類が経験したことがないコロナや異常気象などが頻繁に起こっています。常識が通じない時代だから、常識を越える新しい思考が必要なのです。そ れがプラスアルファです。
私たちの人生を新しい段階に導くために、是非プラスアルファを努力して積み重ねてくださ
い。これは信仰の世界だけではなく、日常の社会生活において適応されます。私たちは新しい時代に進もうとしています。 プラスアルファが私たちの未来を切り開くのです。 (文責:忠師)



         礼拝メッセージ(2021年7月4日)
                             小坂叡華主任牧師 

「神の時と機会」

時間の経過とともに世の中のものは変わっていきます。しかし、決して変わらないもの、それは聖書のみことばです。「私は知った。神のなさることはみな永遠に変わらないことを。それに何かをつけ加えることも、それから何かを取り去ることもできない。神がこのことをされたのだ。人は神を恐れなければならない」(伝道者の書3:14)人は神のなさる事を畏敬の念をもって謙遜に受けとめなければなりません。

私自身の45年間の信仰生活を振り返ってみると、数々の力強い働きを進められたのはその時代、その時代にするべき事が示され神からのメッセージがあったからです。又、時を悟るという事も重要でした。その時々にすべき事を悟り今日まで導かれてきました。「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある」(3:1)神の時を知るのには、神との深い交わりがなければ得る事はできないのです。

<わきまえる>
聖書が教える「わきまえる」人とは、自分自身を理解し自分の置かれた立場から、自分がすべき事とすべきでない事を心得て実行する人です。そのような人は、諦めたり惰性で物事を行ったりする事はなく、また無気力で無関心でもない常に新しいチャレンジと工夫が湧き上がって事に向き合う人です。

ダビデは詩篇71:17で「 神よ。あなたは、私の若いころから、私を教えてくださいました。私は今もなお、あなたの奇しいわざを告げ知らせています。71:18 年老いて、しらがになっていても、神よ、私を捨てないでください。私はなおも、あなたの力を次の世代に、あなたの大能のわざを、後に来るすべての者に告げ知らせます。」と自分のなすべきことをわきまえていました。幾度も辛く苦しみの道を通りましたが「私は多くの人にとっては奇蹟と思われました。あなたが、私の力強い避け所だからです」と、この主を次の世代に語り伝える事でした

<神の時と機会に出会う>
ソロモンは次のように告白をしました。「私は再び、日の下を見たが、競走は足の早い人のものではなく、戦いは勇士のものではなく、またパンは知恵ある人のものではなく、また富は悟りのある人のものではなく、愛顧は知識のある人のものではないことがわかった。すべての人が時と機会に出会うからだ」(伝道者の書9:11)神の時」と「機会」が「人の思い」とひとつになった時に神の奇蹟の御業が起こるのです。私たちには神の「時」と「機会」が与えられますが、それが神のご介入であるかどうかを見分け、わきまえる事が必要なのです。「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます」(詩編119:130)今はあなたにとってどんな「時」でしょうか。どんな時代を生きて来られたでしょうか?あなたは次の世代に何を語るのでしょうか?ソロモンが悟った世の勝利や成功は人のものではないと知ったなら、ダビデのように神の奇蹟を生み出す偉大な力と大能の業をもたらす方を次世代に伝えるべきなのです。「世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます」(Ⅰヨハネ2:17)「こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです」(Ⅰペテロ4:2)神からのチャレンジを受け取りましょう