イースター礼拝メッセージ 2025年8月17日/小坂叡華主牧師
「臨在の主」
荒野で空しく過ごしていたモーセは、ある日神の山ホレブで燃え尽きない柴の炎の中の神の臨在に出会いました。すると神は「わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ」と使命をお与えになりました。しかしモーセは「私は一体何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは」(3:11)と答えると、神は「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。」(3:12)と語られます。驚いたモーセは「ああ主よ。私はことばの人ではありません」(4:10)「ああ主よ。どうかほかの人を遣わしてください」(4:13)モーセは何度も相応しくない理由を挙げて神の命令から逃げようとしたのです。しかしモーセが心配したことは全て解決され、いよいよエジプトを出ることをパロに告げることになったのです。パロは怒って受け入れずイスラエルの民は厳しい苦役を課せられました。しかし臨在の神はエジプトに災いを与え、奴隷として虐げられていたイスラエルの民を解放されたのです。
<臨在のしるし>
神が共にいるしるしとして「主は、昼は、途上の彼らを導くため、雲の柱の中に、夜は、彼らを照らすため、火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。~略~雲の柱、火の柱は民の前から離れなかった。」(13:21 -22)モーセがパロにイスラエル人を行かせよと告げた時は80歳でした。どうしてこんな力があったのでしょう。それこそは共にあり続けた主の臨在だったのです。主の使命をやり遂げる力は神の臨在から注がれるのです。
<民の反逆、モーセの懇願>
モーセと民の荒野の旅は40年続きました。神の恵みの奇跡(水、マナ、うずら)に養われ神の律法「十戒」を受ける祝福を戴きながら同時に様々な反逆と試練を通りました。それは敵との戦いではなく、旅を共にしたイスラエルの民との戦いだったのです。民の中から偶像の金の子牛を作り拝み始めた人々を見てモーセは神に問いかけました。「 今、もしも、私があなたのお心にかなっているのでしたら、どうか、あなたの道を教えてください。そうすれば、私はあなたを知ることができ、あなたのお心にかなうようになれるでしょう」(33:12 -13)更にモーセは懇願して「もし、あなたご自身がいっしょにおいでにならないなら、私たちをここから上らせないでください。(33:14 -15)
モーセには神の臨在がいつも必要でした。私たちはどうでしょうか。モーセのように絶えず神の臨在を求めているでしょうか。モーセが120歳まで荒野を旅したその力は肉の力ではありません。神の臨在によって主の使命を全うできたのです。ダビデは息子ソロモンに「主は、あなたを見放さず、あなたを見捨てず、主の宮の奉仕のすべての仕事を完成させてくださる」(Ⅰ歴代誌28:20)と、臨在の主が共におられるからと励まし、主の宮を完成させたのです。現代の私たちが主の臨在を求めることは、イエス様と共に歩むことです。イエス様はインマヌエル(神ともにいます)と呼ばれました。臨在はイエス様ご自身と共にあります。皆さんの人生に神の栄光を表すよう主から離れず主の臨在を頼り進むのです。又、賛美の中に主の臨在が表れます。楽器と歌うたう者達が一人かのように「主に向かって賛美した。そのとき、その宮、すなわち主の宮は雲で満ちた。~略~ 祭司たちは、立って仕えることができなかった。主の栄光が神の宮に満ちたからである。」(歴代誌Ⅱ5:13-14)私たちの教会の賛美に主の臨在の雲が満ちるよう求めましょう。
「臨在の主」
荒野で空しく過ごしていたモーセは、ある日神の山ホレブで燃え尽きない柴の炎の中の神の臨在に出会いました。すると神は「わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ」と使命をお与えになりました。しかしモーセは「私は一体何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは」(3:11)と答えると、神は「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。」(3:12)と語られます。驚いたモーセは「ああ主よ。私はことばの人ではありません」(4:10)「ああ主よ。どうかほかの人を遣わしてください」(4:13)モーセは何度も相応しくない理由を挙げて神の命令から逃げようとしたのです。しかしモーセが心配したことは全て解決され、いよいよエジプトを出ることをパロに告げることになったのです。パロは怒って受け入れずイスラエルの民は厳しい苦役を課せられました。しかし臨在の神はエジプトに災いを与え、奴隷として虐げられていたイスラエルの民を解放されたのです。
<臨在のしるし>
神が共にいるしるしとして「主は、昼は、途上の彼らを導くため、雲の柱の中に、夜は、彼らを照らすため、火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。~略~雲の柱、火の柱は民の前から離れなかった。」(13:21 -22)モーセがパロにイスラエル人を行かせよと告げた時は80歳でした。どうしてこんな力があったのでしょう。それこそは共にあり続けた主の臨在だったのです。主の使命をやり遂げる力は神の臨在から注がれるのです。
<民の反逆、モーセの懇願>
モーセと民の荒野の旅は40年続きました。神の恵みの奇跡(水、マナ、うずら)に養われ神の律法「十戒」を受ける祝福を戴きながら同時に様々な反逆と試練を通りました。それは敵との戦いではなく、旅を共にしたイスラエルの民との戦いだったのです。民の中から偶像の金の子牛を作り拝み始めた人々を見てモーセは神に問いかけました。「 今、もしも、私があなたのお心にかなっているのでしたら、どうか、あなたの道を教えてください。そうすれば、私はあなたを知ることができ、あなたのお心にかなうようになれるでしょう」(33:12 -13)更にモーセは懇願して「もし、あなたご自身がいっしょにおいでにならないなら、私たちをここから上らせないでください。(33:14 -15)
モーセには神の臨在がいつも必要でした。私たちはどうでしょうか。モーセのように絶えず神の臨在を求めているでしょうか。モーセが120歳まで荒野を旅したその力は肉の力ではありません。神の臨在によって主の使命を全うできたのです。ダビデは息子ソロモンに「主は、あなたを見放さず、あなたを見捨てず、主の宮の奉仕のすべての仕事を完成させてくださる」(Ⅰ歴代誌28:20)と、臨在の主が共におられるからと励まし、主の宮を完成させたのです。現代の私たちが主の臨在を求めることは、イエス様と共に歩むことです。イエス様はインマヌエル(神ともにいます)と呼ばれました。臨在はイエス様ご自身と共にあります。皆さんの人生に神の栄光を表すよう主から離れず主の臨在を頼り進むのです。又、賛美の中に主の臨在が表れます。楽器と歌うたう者達が一人かのように「主に向かって賛美した。そのとき、その宮、すなわち主の宮は雲で満ちた。~略~ 祭司たちは、立って仕えることができなかった。主の栄光が神の宮に満ちたからである。」(歴代誌Ⅱ5:13-14)私たちの教会の賛美に主の臨在の雲が満ちるよう求めましょう。