(第6回)


説教日:2000年10月15日
聖書箇所:ヨハネの福音書4章1節〜26節


 きょうも、ヨハネの福音書4章1節〜26節に記されている、イエス・キリストとサマリヤ人の女性の対話についてのお話を続けます。
 先週と先々週にお話ししましたように、4節で、

しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。

と言われているのは、イエス・キリストがこのサマリヤ人の女性に出会ってくださり、彼女のあかしを通して、スカルの町のサマリヤ人たちにご自身を現わしてくださることが、この旅の目的であったことを示しています。
 そのようにイエス・キリストがみこころに留めてくださっていたサマリヤ人の女性は、どのような女性だったのでしょうか。17節、18節に記されている、

私には夫がないというのは、もっともです。あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。

というイエス・キリストの言葉から分かりますように、彼女には、かつて五人の夫がありましたが、この時は、それとは違う男性と、結婚しないで生活していました。
 彼女は、このことに後ろめたさを感じていたようです。そのことは、人があまり出歩かない真昼に、一人で、町の外にある「ヤコブの井戸」にまで水を汲みに来ていることに現れています。15節に記されている、

先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。

という言葉は、彼女が、ここにまで水を汲みに来なくてはならない事情にあったことと、そのことに負担を感じているこを表わしています。
 さらに、このようなこともあってか、16節の、

行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。

というイエス・キリストの言葉に対する、

私には夫はありません。

という彼女のそっけない答えには、この問題には触れられたくないという思いがあることが感じ取れます。
 これらのことから、このサマリヤ人の女性がかつて五人の男性と結婚していて、今は、結婚しないで別の男性と生活していたのは、以前の夫たちと死別したり、一方的に離婚されたりしたという、彼女には如何ともしがたい事情だけによっていたのではないことが分かります。
 イエス・キリストは、このサマリヤ人の女性の事情と心の思いを十分にご存知であられました。それにもかかわらず、というより、そうであるからこそ、彼女に出会ってくださり、ご自身を現わしてくださることを、この旅の目的としてくださったのです。


 イエス・キリストは、このサマリヤ人の女性に、着ている物からユダヤ人のラビであることは分かりますが、旅の途中で疲れ果て、喉が渇いて「ヤコブの井戸」までたどり着いたのに、汲む物がなくて水が飲めないでいる状態で出会われました。しかも、ユダヤ人たちが付き合うことがなかったサマリヤ人で、しかも、ラビたちの教えでは、常に汚れた状態にあるとされていたサマリヤ人の女性に、

わたしに水を飲ませてください。

とお願いするほどに困っていると、彼女の目には、見える姿で出会われました。
 そのようなイエス・キリストに対して、彼女は、

あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。

と皮肉を込めて応える余裕を示しています。そして、そこから、彼女とイエス・キリストの対話が始まっていきます。
 10節にありますように、イエス・キリストは、まず、

もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。

と言われました。
 このイエス・キリストの言葉については、すでにお話ししましたが、「生ける水」という言葉は「わき水」や「流れる水」を意味しています。それが象徴的に用いられますと、人を「生かす水」を表わします。そして、人を「生かす水」は空想の産物ではなく、旧約聖書において、神である主が約束してくださっている「」です。
 サマリヤ人の女性は、この「生ける水」を「わき水」の意味に取りましたので、11節、12節にありますように、イエス・キリストに、

先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。あなたは、私たちの先祖ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。

と尋ねました。
 この言葉にも、皮肉が込められています。旅の途中で疲れ果て、喉が渇いているのに汲む物がないので水を飲むことができないで、井戸の傍らに座り込んでいる人が、いったい何を言っているのか、という思いがあります。そして、

そのようなことをおっしゃるとは、ご自分が「私たちの先祖ヤコブよりも偉い」ということですか、いいですか、「ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです」よ。

と、いわば、言い聞かせているのです。

 これに対して、イエス・キリストは、13節、14節にありますように、

この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。

と言われました。
 「生ける水」は、確かに、わき出る「」の水ですが、それは、私たちそれぞれのうちで「泉となり、永遠のいのちへの水がわき出」るものだ、というのです。
 このイエス・キリストの言葉も、旧約聖書に記されている神である主の約束が背景となっています。その例を、紀元前700年頃に活動した預言者イザヤを通して与えられた預言の言葉から見てみましょう。
 まず、イザヤ書12章2節、3節では、

見よ。神は私の救い。
私は信頼して恐れることはない。
ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。
私のために救いとなられた。
あなたがたは喜びながら
救いの泉から水を汲む。

と言われています。
 ここでは、その「」は「救いの泉」と呼ばれています。その「」から飲むことは、神である主が成し遂げてくださる救いの御業にあずかって、生かされるようになることを意味しています。
 ですから、この「」は、この世の支配者たちが追い求めた「不老長寿の泉」、「不老長寿の薬」というようなものではありません。「不老長寿の泉」、「不老長寿の薬」は、そのような「もの」が人のいのちを支えるという発想から考え出されたものです。しかし、この「」は神である主の救いの御業による救いをもたらすものです。

 さらに、イザヤ書44章2節、3節では、

恐れるな。わたしのしもべヤコブ、
わたしの選んだエシュルンよ。
わたしは潤いのない地に水を注ぎ、
かわいた地に豊かな流れを注ぎ、
わたしの霊をあなたのすえに、
わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。

と言われています。
 ここでは、神である主が「潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注」いでくださることが、比喩的に、主の「」とその「」による「祝福」を注いでくださることであるということを示しています。それは、また、「あなたのすえに」、「あなたの子孫に」と言われていますように、後の日に注がれる御霊であることも示しています。
 ここに、イエス・キリストが与えてくださる「生ける水」、すなわち、私たちそれぞれのうちで「泉となり、永遠のいのちへの水がわき出」るようになる「」は、後の日に、主が注いでくださる御霊であることが示されています。
 さらに、サマリヤ人の女性は、

あなたは、私たちの先祖ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。

と問いかけましたが、イザヤ書44章2節、3節には、その答えが暗示されています。そこで言われている「ヤコブ」は、ヤコブをかしらとするイスラエルの民のことです。そこでは、主が、ヤコブとその信仰に倣う「子孫」たちすべてに、救いの祝福をもたらす、御霊を与えてくださると約束してくださっています。イエス・キリストが、

この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。

と言われるのは、この主の約束の成就を告げるものです。ですから、イエス・キリストは、ご自身の民のために贖いの御業を成し遂げてくださり、いのちの御霊を注いでくださる契約の神である主に他なりません。

 また、イザヤ書49章8節〜10節では、

主はこう仰せられる。
「恵みの時に、わたしはあなたに答え、
救いの日にあなたを助けた。
わたしはあなたを見守り、
あなたを民の契約とし、
国を興し、荒れ果てたゆずりの地を継がせよう。
わたしは捕われ人には『出よ。』と言い、
やみの中にいる者には『姿を現わせ。』と言う。
彼らは道すがら羊を飼い、
裸の丘の至る所が、彼らの牧場となる。
彼らは飢えず、渇かず、
熱も太陽も彼らを打たない。
彼らをあわれむ者が彼らを導き、
水のわく所に連れて行くからだ。」

と言われています。
 これは、49章1節〜6節に記されている「主のしもべ」の第二の歌に関連して語られています。その意味で、これは、「主のしもべ」によって成し遂げられる贖いの御業によってもたらされる救いの恵みと祝福を預言的に語っています。(ちなみに、第一の「しもべの歌」は42章1節〜4節に記されており、第三の「しもべの歌」は50章4節〜9節に記されています。そして、第四の「しもべの歌」は、52章13節〜53章12節に記されています。)
 ここに預言されている「主のしもべ」と、その贖いの御業によってもたらされる救いの恵みと祝福は、イエス・キリストによって成就されます。このことの最終的な成就は、黙示録7章14節〜17節に記されています。そこでは、

彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。だから彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです。そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。

と言われています。この、

彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。

という言葉は、イザヤ書49章10節の、

彼らは飢えず、渇かず、
熱も太陽も彼らを打たない。
彼らをあわれむ者が彼らを導き、
水のわく所に連れて行くからだ。

という言葉を受けています。

 契約の神である主が、贖いの御業を通して、私たちのために、このような救いの恵みと祝福を備えてくださることを踏まえて、イザヤ書55章1節では、

ああ。渇いている者はみな、
水を求めて出て来い。金のない者も。
さあ、穀物を買って食べよ。
さあ、金を払わないで、穀物を買い、
代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え。

と言われています。
 これは、52章13節〜53章12節に記されている、第四の「しもべの歌」で、「主のしもべ」が私たちのために「自分のいのちを罪過のためのいけにえ」としてくださる(53章10節)ことによって、贖いの御業を成し遂げてくださることを踏まえての招きです。53章4節〜6節では、

まことに、彼は私たちの病を負い、
私たちの痛みをになった。
だが、私たちは思った。
彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は、
私たちのそむきの罪のために刺し通され、
私たちの咎のために砕かれた。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
私たちはみな、羊のようにさまよい、
おのおの、自分かってな道に向かって行った。
しかし、主は、私たちのすべての咎を
彼に負わせた。

と言われています。
 ここには、自らの罪の闇の中で、飼う者のいない羊のようにさまよっていて、滅びを待つばかりであった私たちのために、「主のしもべ」がご自身の死をもって贖いを成し遂げてくださることが示されています。このことの奥には、主が私たちの羊飼いとなってくださって、「いのちの水の泉に導いてくださる」ようになることが暗示されています。
 このことを受けて、55章1節では、

ああ。渇いている者はみな、
水を求めて出て来い。

という招きの言葉が記されています。
 ここでは、さらに、

さあ、金を払わないで、穀物を買い、
代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え。

と言われていて、主が備えてくださっている救いの恵みと祝福の豊かさが、「」、「穀物」、「ぶどう酒」、「」によって示されています。そして、それらの祝福は代価を払って買わなくてはならないものなのに、私たちは、その代価を払わないと言われています。その代価は、先ほどの「主のしもべ」が、ご自身の死の苦しみをもって、私たちのために支払ってくださっているからです。

 このように、契約の神である主は、旧約聖書において、私たちそれぞれのうちで「泉となり、永遠のいのちへの水がわき出」るようになる「生ける水」を約束してくださっていました。それは、主が注いでくださる御霊のことです。御霊は、救い主が、ご自身の死の苦しみを通して成し遂げてくださる贖いの御業に基づいてお働きになり、私たちを新しいいのちで生かしてくださいます。
 これが、イエス・キリストが、サマリヤ人の女性に、

この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。

と言われたことです。
 これと同じことを述べている、ヨハネの福音書7章37節、38節には、

さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」

と記されています。
 ここで言われている「生ける水の川」は、イエス・キリストがサマリヤ人の女性に約束された「生ける水」と同じものを指しています。ヨハネは、続く39節で、この「生ける水の川」について、

これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。

と説明しています。
 イエス・キリストは、十字架にかかって、ご自身のいのちを私たちの罪のための贖いの代価として支払ってくださり、私たちの贖いを成し遂げてくださいました。そして、栄光をお受けになって、死者の中からよみがえってくださり、私たちの復活のいのちの源となってくださいました。
 御霊は、イエス・キリストが成し遂げてくださった私たちの罪の贖いを私たちに当てはめてくださいます。これによって、イエス・キリストを信じる者はすべて、罪と死の力から贖い出されるようになりました。そして、御霊は、イエス・キリストの復活のいのちをもって、私たちを新しく生かしてくださいます。この御霊が「生ける水の川」であり、イエス・キリストが与えてくださる「生ける水」です。
 
 しかし、サマリヤ人の女性は、イエス・キリストに、

先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。

と言って、「生ける水」を求めました。彼女は、

この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。

というイエス・キリストの言葉を聞いてもなお、イエス・キリストは、「わき水」のことをお話しになっておられると考えていました。
 それは、このサマリヤ人の女性が、この時、真昼に人目を忍んで、町の外にある「ヤコブの井戸」にまで汲みに来なくてはならないことを負担に感じていて、何とかそこから逃れて、楽になりたいと思っていたからです。そのようなことに心がいっぱいになっていて、そのような関心から、イエス・キリストの言葉を聞いていたからです。彼女は、自分だけが汲むことができる「秘密のわき水」があれば、問題は解決すると考えていたのです。
 しかし、そのような彼女の姿を外から眺めている私たちには、それが当面の解決にはなっても、根本的な解決にはならないことが分かります。それは、私たちが一定の距離を置いて見ているから分かることです。私たちが彼女の立場に立てば同じようなことをしてしまうことでしょう。
 このサマリヤ人の女性の考え方は、私たちが、もっと力があれば、もっとお金があれば、もっと背が高ければ、もっと色が白ければなど、あれがあれば、これがあれば、あるいは、これがもっとあればなどと考えることに似ています。それは、当面の解決になることはあっても、根本的な解決にはなりません。本質的には同じ問題が形を変えて出てきます。
 たとえば、物の豊かさという点では、どうでしょうか。数十年前の私たちの社会では、どう考えていたでしょうか。多くの人々が、もっと多くの物が手に入れば幸せになれると考えて、それを求めてきました。あの頃に人々が求めていたものは、今、私たちの間では現実となっています。それどころか、私たちは、あの頃の人々が考えもしなかった便利なものや、多くの物に囲まれているのではないでしょうか。その私たちの時代でも、人々は、相変わらず、もっと多くの物があれば、あれがあれば、これがあればということで、物を追い求めているのではないですか。
 自分を満たそうとして、自分の外側にある物をいくら集めても、それで、人間として充足することはありえません。それが、イエス・キリストの、

この水を飲む者はだれでも、また渇きます。

という言葉が象徴的に示すことです。

 サマリヤ人の女性は、自分が考えている問題を、自分が考えている方法で、イエス・キリストが解決してくれることを願っています。そこでは、自分が中心であり、イエス・キリストには、ただ自分の願いをかなえてくれることを期待しているだけです。
 そのような彼女に対して、イエス・キリストは、

行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。

と言われました。それは、彼女が触れたくない、そっとしておいてもらいたい問題でした。そのことは、

私には夫はありません。

という、彼女のそっけない答えに表われています。
 そこから、イエス・キリストは、ご自身がどなたであるかをこの女性に示し始められます。そして、

私には夫がないというのは、もっともです。あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。

と言われました。
 それまで、彼女は、イエス・キリストは、旅の途中で疲れてしまって、喉が渇いて「ヤコブの井戸」まで来たけれど、汲む物がなく水を汲むことができなくて困っているので、自分に話しかけてきたと思っていました。当然、自分の現実は知らないと思っていました。自分の現実を知っているなら、いくら困っていても、自分のようなものに助けを求めるわけがないと思っても、おかしくはありません。
 けれども、イエス・キリストは、彼女のすべてを知っておられました。その上で、彼女に話しかけられました。ただ、彼女には五人の夫があったけれど、今は、結婚もしないで別の男性と暮らしていることを知っておられただけではありません。そのために、彼女が心苦しく暮らしていることも知っておられました。そして、その彼女にこそ「生ける水」が必要であり、ご自身がそれをお与えになろうとしておられることを示してくださいました。
 このことを境として、イエス・キリストとサマリヤ人の女性の対話は新しい局面に入りました。
 それまで、彼女の目は、自分と自分の問題に向いていました。そして、自分と自分の問題を中心にして、イエス・キリストとイエス・キリストの教えを見ていました。それが、この時から、彼女の目は、イエス・キリストご自身に向いています。「この方はいったいどなたなのだろう」という、イエス・キリストに対する関心が、彼女の心を占めています。これによって、イエス・キリストを中心として、自分と自分の問題を見つめることができるようになったのです。そして、最後には、25節にありますように、

私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。

とイエス・キリストに尋ねるようになり、

あなたと話しているこのわたしがそれです。

というお答えをいただくようになります。

 サマリヤ人の女性の問題の根は、彼女自身のうちにありました。彼女自身のうちに罪があることを、彼女は知っていました。それが、真昼に人目を避けて、町の外にある「ヤコブの井戸」まで水を汲みに来なければならないことと、そのことを重荷に感じることに表われてきていました。
 先ほどお話ししましたように、旧約聖書において約束されている「生ける水」は、主が救いの御業の中で注いでくださる御霊のことです。御霊は、イエス・キリストが、十字架の死の苦しみを通して成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きになり、私たちを罪の力から解放し、復活のいのちで生かしてくださいます。このサマリヤ人の女性も、イエス・キリストが成し遂げてくださる贖いの御業にあずかって、すべての罪を赦していただき、御霊によって、新しく造り変えていただき、永遠のいのちを受け取るようにと招かれており、導かれていたのです。
 もちろん、彼女はその恵みと祝福にあずかるようになったと考えられます。
 一般には、29節に記されている、

来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。この方がキリストなのでしょうか。

という言葉は、彼女の確信のなさを示していると言われています。確かに、彼女が、

この方がキリストなのでしょうか。

と言うときに用いている「なのでしょうか」という言葉(メーティ)は、相手が「そうではない」と言うことを予想しているものです。
 けれども、それは、町の人々に対する彼女の「引け目」の表われであるとも考えられます。彼女の中には、「自分のような者には、とても、人を導くようなことは言えない」というような思いがあったので、このような、人々に伺いを立てるような言い方をし、しかも、いくらでもそれを否定しても構わないというような意味合いを人々に伝えながら、あかしをしているのではないでしょうか。
 あるいは、

来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。

とは言ったものの、イエス・キリストのお姿を見る人々は、とてもメシヤであるとは思わないだろうという思いを前もって伝えているのかも知れません。
 いずれにしましても、39節で、

さて、その町のサマリヤ人のうち多くの者が、「あの方は、私がしたこと全部を私に言った。」と証言したその女のことばによってイエスを信じた。

と言われていることは、彼女のあかしに、それだけの説得力があったことを示しています。
 かりに、この時には、それほどの確信はなかったとしても、最後には、彼女はイエス・キリストを約束のメシヤであると信じるようになったと考えられます。そうでなければ、彼女とイエス・キリストの対話が、ここに記されているように詳細に記録されることもなかったことでしょう。というのは、ここに記されていることは、彼女の証言に基づいて記されていると考えられるからです。
 このサマリヤ人の女性がイエス・キリストのお導きにあずかって、イエス・キリストを信じるようになっただけではありません。彼女のあかしが用いられて、スカルの町の人々もイエス・キリストの言葉を聞くようになり、イエス・キリストを信じるようになりました。41節、42節で、

そして、さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じた。そして彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」

と言われているとおりです。
 このことのうちにも、イエス・キリストの深いご配慮が見られます。もし、彼女だけがイエス・キリストを約束のメシヤであると信じたとしたら、どうだったでしょうか。スカルの町のサマリヤ人たちは、反目するユダヤ人のラビを、こともあろうにメシヤであると信じているということで、ますます、彼女を排斥していたことでしょう。
 けれども、スカルの町の人々もイエス・キリストを「ほんとうに世の救い主だと」信じるようになりましたので、信仰において彼女と一致するようになりました。それで、彼女は、イエス・キリストとだけでなく、町の人々とも新しい関係を築くようになりました。このことから、彼女は、個人的にも社会的にも、新しい出発をすることができたはずです。

 もちろん、スカルの町の人々がイエス・キリストを「世の救い主」であると信じるようになったのは、このサマリヤ人の女性のためであるということではありません。スカルの町の人々一人一人が、主のみこころのうちに覚えられていました。そして、その一人一人がイエス・キリストとの出会いを経験し、イエス・キリストを信じるようになりました。このサマリヤ人の女性がイエス・キリストを信じるようになることと、スカルの町の人々がイエス・キリストを信じるようになることは、神さまのみこころのうちでまったく調和しています。ただ、この記事は、イエス・キリストがこのサマリヤ人の女性に出会ってくださり、ご自身を現わしてくださったことに焦点を合わせて記しているのです。
 そのように、イエス・キリストは、初めからスカルの町の人々のことをみこころに留めていてくださったのですが、町の人々にご自身を現わしてくださるに当たって、まず、この女性に出会ってくださり、ご自身を示してくださったことを忘れてはなりません。
 その町での評判は芳しくなく、人目を避けて水を汲みに来なくてはならなかった彼女が、まず第一に、イエス・キリストとの出会いを経験するという栄誉にあずかりました。イエス・キリストは、町の人々からは、神さまから最も遠い人物の一人と見なされていたであろうし、本人もそう感じていたであろう、このサマリヤ人の女性に、最初にご自身を現わしてくださいました。そして、彼女のあかしが用いられて、町の人々がイエス・キリストに心を開くようになり、その御言葉を聞いて、イエス・キリストを「世の救い主」であると信じるようになりました。
 このことのうちに、神さまの恵みの現われの不思議さを見ることができます。これは彼女の場合だけの例外ではありません。契約の神である主が、エジプトの奴隷の状態から贖い出されたイスラエルの民の第二世代に、

あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。しかし、主があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、主は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された。
申命記7章6節〜8節

と言われたことに示されている恵みの原理が、このサマリヤ人の女性にも働いているのを見ることができます。
 そして、主の恵みはそのように現わされるものであるということから、神さまが、御子イエス・キリストにあって、私たちにも恵みを示してくださって、私たちがイエス・キリストを信じるように導いてくださったことを了解することができます。それで、私たちも、この恵みの事実を思って、主の御前に身を低くしたいと思います。

兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。
コリント人への手紙第一・1章26節〜29節

 


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