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説教日:2002年12月29日 |
これが御子イエス・キリストが治めておられる御国の基本的な特徴です。そして、このキリストの御国は、キリストのからだである教会において、この世に実現しています。ですから、キリストのからだである教会においては、かしらであられる栄光のキリストがみことばと御霊によって治めてくださいます。それによって、私たちを福音の真理がもたらす自由の中に生かしてくださいます。キリストのからだである教会においては、そのようなキリストの御国の本質的な特性が現わされなければなりません。 私たちは、これまで、私たちの弱さや限界の中でではありましたが、お互いの良心の自由を大切に考え、どのような犠牲を払ってでもそれを守りたいと願ってきました。それは、イエス・キリストがご自身のいのちの値をもって、私たちを自由な者としてくださったからです。そして、私たちの主であられるイエス・キリストだけが私たちの良心の主であり、イエス・キリストは私たちの良心を自由なものとして解放してくださっていると信じているからです。私たちは、そのような理解のもとに、福音の真理のうちに私たちを生かしてくださるキリストのみことばのみに従います。私たちは、 キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。 と戒められていますが、私たちは自分の良心の自由を守るべきであるとともに、兄弟姉妹の良心の自由を拘束しないようにしなければならないわけです。 そして、私たちは、そのような自由があってはじめて、 兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という一語をもって全うされるのです。 という戒めが私たちの間の現実となると信じています。 お互いの良心の自由を守ることは、私たちがイエス・キリストの御名によってお互いに愛し合うことの土台であるとともに、その出発点です。お互いの良心の自由を守ることは、お互いが神のかたちに造られているもの、御子イエス・キリストの贖いによって神のかたちの本来の姿を回復されているものとしての尊厳を認め、受け入れることを意味しています。それこそが、イエス・キリストの御名によって愛することの出発点です。イエス・キリストは、私たちを神のかたちの本来の姿に回復してくださるためにご自身のいのちを捨てて贖いを成し遂げてくださいました。 私たちは、お互いの良心の自由を守ることを土台として、また出発点として、栄光のキリストから委ねられた賜物をもって互いに仕え合います。それによって、愛がさらに具体的に現われてきます。そのような教会のあり方が、エペソ人への手紙4章11節〜16節には、 こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。 と記されています。 ここに述べられている賜物を与えられた人々は「使徒」、「預言者」、「伝道者」、「牧師また教師」というように、福音のみことばに関わる賜物を与えられた人々です。それは、 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、 と言われていることや、 私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく と言われていること、さらには、 むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。 と言われていることが私たちの間に実現するために決定的に大切な務めに関する賜物です。このことも、栄光のキリストは、みことばと御霊によってご自身のからだである教会を治めてくださるということと深く関わっています。 これらのことを踏まえて、さらにお話を続けます。 アウグストは、自分が築いたローマ帝国の基盤をさらに固めるために、「全世界の住民登録をせよという勅令」を出しました。昨年の降誕節にお話ししましたが、それはローマ帝国の下にあるすべての地域の住民が一斉に住民登録をしたということではなく、ある程度の年月をかけてあちこちで住民登録が実施されるという形を取ったようでした。このように、アウグストが「全世界の住民登録をせよという勅令」を出したこと、また、それがユダヤにおいて実施された時が、ちょうどイエス・キリストが誕生された時と重なるようになっていました。 しかし、これは「歴史の偶然」ではありません。これらのすべてのことに神である主の御手が働いています。なぜなら、神さまが約束してくださっている贖い主がダビデの子孫として生まれることと、その誕生の地が「ユダヤのベツレヘムというダビデの町」であるということは、神である主が預言者たちを通して預言しておられたことだからです。 約束の贖い主がダビデの子孫としてお生まれになるということは、預言者ナタンを通してダビデに約束されたことです。サムエル記第二・7章12節〜16節に、 あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。もし彼が罪を犯すときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。しかし、わたしは、あなたの前からサウルを取り除いて、わたしの恵みをサウルから取り去ったが、わたしの恵みをそのように、彼から取り去ることはない。あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。 と記されています。そして、この約束は、その後の預言者たちによってさらに深められ、豊かにされていきます。たとえば、イザヤ書9章6節、7節には、 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。 ひとりの男の子が、私たちに与えられる。 主権はその肩にあり、 その名は「不思議な助言者、力ある神、 永遠の父、平和の君」と呼ばれる。 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、 ダビデの王座に着いて、その王国を治め、 さばきと正義によってこれを堅く立て、 これをささえる。今より、とこしえまで。 万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。 と記されています。 また、約束の贖い主がベツレヘムでお生まれになることは、預言者ミカの記したミカ書5章2節に、 ベツレヘム・エフラテよ。 あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、 あなたのうちから、わたしのために、 イスラエルの支配者になる者が出る。 その出ることは、昔から、 永遠の昔からの定めである。 と記されています。 このように、アウグストは、ローマ帝国の基盤をより強固なものにしようとして、「全世界の住民登録をせよという勅令」を出しました。イエス・キリストは、そのアウグストの政策をもお用いになって、ご自身の誕生に関する預言を成就なさいました。ですから、イエス・キリストがマリヤの胎に宿られたことも、ベツレヘムの家畜小屋においてお生まれになったことも、そして、「布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりご」としてお生まれになったことも、ご自身のご意志によることです。本当は、それとは別の形でお生まれになりたかったのに、歴史の波に翻弄されて仕方がなく、そのような形でお生まれになったというのではありません。そうではなく、それが最もご自身のみこころにかなっていたのです。 さらに、ルカの福音書2章8節〜12節には、 さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」 と記されています。 約束の贖い主が誕生したことは、ベツレヘムの郊外で羊の番をしていた羊飼いたちに知らされました。その当時のユダヤの社会においては、羊飼いたちは貧しくて社会的な地位も低い人々でした。羊飼いたちは「さげすまれていた」という見方もありますが、それはイエス・キリストの誕生の時代より後の時代の文献に基づくものですので疑問視されています。いずれにしましても、羊飼いたちは社会的には貧しく立場も弱い人々でした。 この羊飼いたちがイエス・キリストの誕生の最初の証人であったということも、栄光の主がご自身のみこころによってお選びになったことです。しかも、羊飼いたちには、お生まれになった方が「主キリスト」であられることのしるしは、この方が「布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりご」であられることにあると告げられました。 15節〜18節には、 御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。 と記されています。 このように、「主キリスト」がこの世に来られたことの最初の証人は羊飼いたちでした。しかも、羊飼いたちが捜し出した「主キリスト」は「布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりご」でした。これらのことにも「主キリスト」のみこころが現われています。このことをこれまでお話ししたこととの関わりで言いますと、ここには、外側から人々を縛りつけてくるようなものは何もありません。人々は、羊飼いのあかしを無視することができます。また、「布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりご」を無視することもできます。無視したからといって、その人の社会的な立場が危うくなるというようなことはありませんし、この世的な価値観からしますと何かを損するというようなこともありません。言い換えますと、私たちは、ただ伝えられた福音のみことばを悟ることによってだけ、この方はご自身の民のための贖いを成し遂げてくださる主、ヤハウェであられると信じることができるのです。またこのことには、それ以外の外的な圧力があってはならないのです。 イザヤ書42章1節〜9節では、このようにしてお生まれになった方のことが、 見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、 わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。 わたしは彼の上にわたしの霊を授け、 彼は国々に公義をもたらす。 彼は叫ばず、声をあげず、 ちまたにその声を聞かせない。 彼はいたんだ葦を折ることもなく、 くすぶる燈心を消すこともなく、 まことをもって公義をもたらす。 彼は衰えず、くじけない。 ついには、地に公義を打ち立てる。 島々も、そのおしえを待ち望む。 天を造り出し、これを引き延べ、 地とその産物を押し広め、 その上の民に息を与え、 この上を歩む者に霊を授けた神なる主は こう仰せられる。 「わたし、主は、 義をもってあなたを召し、 あなたの手を握り、 あなたを見守り、 あなたを民の契約とし、国々の光とする。 こうして、盲人の目を開き、 囚人を牢獄から、 やみの中に住む者を獄屋から連れ出す。 わたしは主、これがわたしの名。 わたしの栄光を他の者に、 わたしの栄誉を刻んだ像どもに与えはしない。 先の事は、見よ、すでに起こった。 新しい事を、わたしは告げよう。 それが起こる前に、あなたがたに聞かせよう。」 とあかしされています。 これは第一の「主のしもべの歌」に当たります。ここでは、主のしもべであられる贖い主が「いたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない」ほど徹底的に貧しくなられて、「盲人」、「囚人」、「やみの中に住む者」と一つとなられること、そして、そのように虐げられている人々に救いをもたらされることが記されています。そして、 わたしは主、これがわたしの名。 わたしの栄光を他の者に、 わたしの栄誉を刻んだ像どもに与えはしない。 と記されていますように、そのことにおいてこそ、契約の神である主、ヤハウェの御名が表わされ、栄光が現わされるということが示されています。 それでは、人はどのようにして、このような人間の思いを越えた主の栄光を見ることができるのでしょうか。 もちろん、それは、栄光の主の恵みによることです、私たちは、自分自身の罪によって霊的な眼の閉ざされた者でした。その私たちが御霊のお働きによってその眼を開かれたとき、自分の罪の現実を知らされてがく然といたしました。そして、そのことをとおして「いたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない」ほど徹底的に貧しくなられた方こそが、私たちを罪から救ってくださる「主キリスト」であられるということを信じることができるようになりました。 人は誰でも、羊飼いのあかしを無視することができます。また、「布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりご」を無視することもできます。無視したからといって、その人の社会的な立場が危うくなるというようなことはありませんし、損失がもたらされるということもありません。しかし、この方の恵みによって霊的な眼を開かれ、自らの罪の現実を悟ったとき、自分にはただ恵みによる救いが必要であることが分かるようになります。それで、福音のみことばのあかしにしたがって、「布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりご」となられ、最後には十字架にかかって死んでくださったこの方こそが「主キリスト」であると信じることができるのです。 コリント人への手紙第二・8章9節に、 あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。 とあかしされているように、私たちは主イエス・キリストの貧しさによって、自分の罪深さを知っても、なお望みを持つ者としていただき、栄光の主の御前で恐れにすくむことなく自由な者としていただいています。 みことばは、「主キリスト」が「布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりご」となって来られたことにおいて、そして、私たちのの罪を贖い、私たちを神のかたちの本来の姿に回復し、永遠のいのちに生かしてくださるために、十字架にかかって死んでくださったことにおいて、神さまの栄光が最も豊かにまたはっきりと啓示されたということを教えています。「主キリスト」が徹底的に仕えるものとなられたことに、神さまの栄光が最も豊かに示されたのです。 これが、この世界をお造りになった神さまの栄光であるなら、アウグストを含めて、圧倒的な軍事力や経済力を背景として、人を外側から支配するこの世の主権者の権威と栄光は、なんとそれからかけ離れたものであり、歪んだものであることでしょう。本来は、この世界のすべての主権者の権威と栄光は、貧しくなって来てくださった「主キリスト」がお示しになった栄光を現わすべきであるのです。 ですから、「主キリスト」が「布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりご」となって来られたことによって、また、ご自身の民の罪を贖うために十字架にかかられたことによって、アウグストを含めて、この世界のすべての主権者の権威と栄光が、いかに本来の権威と栄光を変質させてしまっているかが明らかにされているのです。そして、やがて、天にあるものも地にあるものも、すべての主権と権威が、「主キリスト」が示しておられるこの栄光の基準に照らしてさばかれることになります。 この点で私たちは勘違いをしてはなりません。やがて終わりの日に栄光のキリストが再臨される時に現わされる栄光は、「主キリスト」が「布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりご」となって来られたことにおいて、また、十字架にかかって死なれたことによって現わされた栄光と異質なものではありません。そのどちらも、無限、永遠、不変の栄光に満ちた主の、恵みとまことに満ちた栄光です。終わりの日に、この世の主権者の権威と栄光がさばかれるのは、それが、「主キリスト」が「布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりご」となって来られたことにおいて、また、十字架にかかられたことによって現わされた本来の栄光を変質させ、損なっているからです。 気をつけていませんと、私たちも、栄光のキリストの再臨の日におけるさばきのことを、ちょうどテレビドラマの「水戸黄門」が番組の最後にその正体を明かして、権力を背景として悪人を屈服させて懲らしめることのように考えかねません。そのようにして、私たちも終わりの日に溜飲を下げるようになることを期待するというようなことになりかねません。そうであるとしますと、世の終わりの日に、栄光のキリストの再臨とともに現わされる主の主権とその栄光も、この世の権力者の主権と栄光と同じ本質のもので、ただ量的に、その大きさに雲泥の差があるだけであるというようなことになってしまいます。この世の権力者の主権と栄光はそれなりに凄いけれども、栄光のキリストの主権と栄光はもっと凄いというようなことになってしまいます。もしそうであれば、この世の権力者たちこそが栄光のキリストの栄光を最も豊かに現わしていたということになってしまいます。そのような考え方は、「主キリスト」の栄光を根本的に歪めることです。 繰り返しになりますが、世の終わりの日の栄光のキリストの再臨によって現わされる神である主の栄光は、「主キリスト」が「布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりご」となって来られたことにおいて、また、十字架にかかられたことによって現わされた栄光と本質的に同じものです。違いは、その現わされ方にあるだけです。 同じ主の同じ恵みとまことに満ちた栄光が、御子イエス・キリストの誕生と十字架においては、いわば、この世の目からは隠された形で示されました。それを無視したとしても、社会的な制裁を受けることはなく、この世的な損失を被ることもないというほどに、徹底的に私たちの自由な意志による選択ができるようにしてくださっています。それによって、私たちが外側からの強制によらないで、本当に自分で納得して、心から、十字架にかかられたイエス・キリストは栄光の主であり、私たちの救い主であられると信じて、告白することができるようにしてくださったのです。 これに対しまして、世の終わりの再臨の日には、同じ主の同じ恵みとまことに満ちた栄光が、誰の目にも明らかになる形において示されるのです。それによって、この世の権力者の主権と栄光が、いかに栄光の主の恵みとまことに満ちた栄光からかけ離れたものであり、腐敗したものであるかが、弁解の余地のないほどに明らかになるのです。 このように、神さまの栄光は、「主キリスト」が「布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりご」となって来られたことにおいて、また、十字架にかかられたことによって現わされた栄光です。その点は、この世・この時代においても、来たるべき世・来たるべき時代においても変わることはありません。そうであるからこそ、栄光のキリストの栄光が充満な形で示される終わりの日において、そして、それによって導入される新しい世・新しい時代において、私たちはもっと自由な者として栄光の主のご臨在の御前に立つことができるようになります。 イエス・キリストは、その公生涯の初めに、荒野でサタンの試みに会われました。マタイの福音書4章8節〜10節には、その最後の試みのことが、 今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」 と記されています。 ここに記されていますように、イエス・キリストはサタンの高ぶりによって自己中心的に腐敗した主権の栄光を獲得する道を退けられました。むしろ、主のしもべとして、父なる神さまのみこころにしたがって十字架への道を歩むことによって、恵みとまことに満ちた神さまの栄光を現わすことをお選びになり、実際に、その栄光を現わされました。 そうであるのに、私たちは、そのみこころを誤解して、「主キリスト」には、きらびやかで豪華な所がふさわしいと考えてしまわないでしょうか。そう考えて、アウグストを初めとするこの世の主権者の権威と栄光を、この方にお返ししようとしてしまわないでしょうか。そして、私たち自身も、秘かに、そのような主権者の権威と栄光に当たるものを自分たちのものにしたいと願うようなことはないでしょうか。自分自身を、また、自分たちの教会をそのような栄光で輝かして人の歓心を引きたいと願うようなことはないでしょうか。それは、イエス・キリストが一貫して退けられたものを、私たちがイエス・キリストの御名によって求めてしまうということを意味しています。 教会の歴史においては、キリストのからだであると自任する教会が、この世の権力の序列の最高位に就こうとしてしまったことがありました。そのようなことが不可能な状況においても、秘かにそのようなものにあこがれて、何らかの意味での「自分たちの天下」を考えるというようなこともありました。しかし、それは、イエス・キリストが身をもって現わしてくださった神さまの栄光を歪めることです。 ヨハネの手紙第一・3章16節に、 キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。 と記されています。 神さまの栄光は、貧しくなって来てくださった御子イエス・キリストの十字架の死によってこの上なく豊に現わされました。私たちは、イエス・キリストが十字架の死をもって成し遂げてくださった贖いの恵みにあずかって、ここに記されているように、兄弟姉妹を愛することにおいて、イエス・キリストの栄光を現わすことができます。そして、そのように互いに愛し合うことをとおして、私たち自身も御子イエス・キリストの栄光のかたちに造り変えられていきます。この世にあっても来たるべき世にあっても、これ以外に、栄光のキリストの栄光を現わす道はありません。 |
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