主の栄光の顕現の中心は


説教日:2002年12月22日
聖書箇所:ルカの福音書2章1節〜20節


 きょうは2002年の降誕節です。昨年の降誕節の礼拝におきましては、ルカの福音書2章1節、2節に、

そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。

と記されていることを中心としてお話ししました。ここでは、約束の救い主の誕生が「住民登録」というローマ帝国の皇帝アウグストの勅令との関係で記されています。
 きょうもこのことについて、さらにお話ししたいと思います。それに先立って、昨年お話ししたことのうち二つほどのことをまとめておきたいと思います。
 第一に、約束の救い主の誕生が「住民登録」というローマ帝国の皇帝アウグストの勅令との関係で記されているということによって、約束の救い主の誕生は、私たちの住んでいるこの世界の歴史の具体的な時代と社会状況の中で起こったということが示されています。約束の救い主の誕生は人間の想像力によって生み出されたおとぎ話や神話ではなく、実際に、神さまが、今から二千年前になしてくださった御業です。お話ではなく、神さまの御業です。
 ある人が画期的な製品を開発していて、一つの部品がこれまでのものでは、熱に弱くてどうしてもうまくいかないという事態となったとします。そうしますと、その人は、熱に強い部品があれば何とかなるのに、と思い続けます。そして、その熱に強い部品を頭の中で描きます。いくらそのような部品を想像しても、心に描いただけのものでは実際の力にはなりません。しかし、他の人が実際に、それにぴったりの熱に強い部品を開発していたとします。そうしますと、その画期的な製品を開発している人は、その部品を使えば、首尾よく開発できるわけです。単純なお話ですが、神さまが御子イエス・キリストによって成し遂げてくださった救いも、それと同じような効果を持っています。この救いは、人間が想像しただけのお話ではなく、実際に、今から二千年前に、神さまが成し遂げてくださった御業です。それで、この救いはこれにあずかる人を確かに救う力があります。
 第二に、イエス・キリストがお生まれになった時代のユダヤは、ローマ帝国の支配下にありました。しかし、イエス・キリストの地上の生涯を記している福音書では、ローマ帝国やローマ皇帝に関する記述はほとんどありません。ローマ帝国の関係者で、その名前が記されているのは、二つの出来事との関係においてだけです。一つは、イエス・キリストの降誕とのかかわりで、「皇帝アウグスト」と「シリヤの総督」であった「クレニオ」の名前が記されていることです。もう一つは、イエス・キリストが十字架につけられて殺されたこととのかかわりで、総督ポンテオ・ピラトの名前が記されていることです。このように、いわば、イエス・キリストの地上の生涯の最初と最後を記す記事において、ローマ帝国の主権と権威を代表する人物の名前が出てくるわけです。
 このことによって、イエス・キリストによって成し遂げられた贖いの御業による救いが歴史的なものであったことが示されているわけですが、さらに、それがユダヤ人という一個の民族にかかわるだけではなく、全世界の民にとって意味をもっているという、視野の広がりを示しています。


 以上のことは昨年お話ししたことですが、ここには、いわば「神の国」と「地上の国」というような対比があります。その当時の発想では「王国」というのは空間的な領土というより、その王の支配、また、その支配権ということにあります。その意味で、アウグストは地上の国を代表しており、イエス・キリストは神の国を代表しています。
 ここに記されているアウグストは、最初のローマ皇帝で、紀元前63年に生まれ、紀元14年に亡くなりました。彼が権力を得たのは紀元前31年に、アクティウムの海戦で、アントニウスとクレオパトラの連合軍を打ち破ってからのことです。彼の名前は、ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタヴィアヌスでした。紀元前27年に、ローマの元老院から「アウグスト」(崇敬すべき者)という称号を与えられ、最初の皇帝として認められました。「アウグスト」という称号は、その後も何人かのローマ皇帝に与えられています。アウグストは軍人としても政治家としても優れていて、「ローマの平和」(Pax Romana)を確立したと言われています。
 ルカの福音書2章14節には、

  いと高き所に、栄光が、神にあるように。
  地の上に、平和が、
  御心にかなう人々にあるように。

という「天の軍勢」の賛美が記されています。イエス・キリストがお生まれになったのは紀元前6年ごろと考えられますが、この時、政治的には「ローマの平和」が確立していました。ただし、それは、ローマが軍事的に圧倒的な優位な立場にあったことによっています。
 また、10節〜12節には、最初に羊飼いたちに現われた「主の使い」が語った、

恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。

ということばが記されています。
 この御使いのことばは、旧約聖書を背景として語られています。しかし、それはまた、その当時のローマの社会的・政治的・文化的な背景に照らしてみますと、皇帝アウグストにも当てはめられていたことばをほうふつさせるものでもありました。アジアの総督であったパウルス・ファビウス・マクシムスが新年をアウグストの誕生日から数え始めることを提案したときの地方議会は、アウグストの誕生を「良い知らせ」すなわち「福音」の始まりとしています。また、アウグストは戦争を終わらせて秩序を確立した「救い主」とされていますし、「神」とも呼ばれています。さらに、マクシムスの提案とは別のことですが、「主」ということば(キュリオス)も皇帝に当てはめられていたことばでした。
 もちろん、御使いや福音書の著者であるルカが、イエス・キリストの誕生をローマ皇帝の誕生になぞらえているわけではありません。あるいは逆に、二人の誕生を対立させるというような意図があったということでもありません。しかし、ここには、二つの主権と権威が存在しています。そして、歴史的には、イエス・キリストの誕生はローマ皇帝アウグストの治世において起こったこととして位置づけられています。これによって、イエス・キリストの誕生が世界史的な意味もったこととして記されているわけです。
 このように、ルカの福音書2章に記されているイエス・キリストの誕生の記事には、二つの主権と権威が出てきます。もう一度、1節〜5節を見てみましょう。そこには、

そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。

と記されています。
 ローマ皇帝アウグストが「住民登録」を実施したのは、税金を徴収するのと徴兵のためでした。ユダヤには特殊な民族感情があることが分かっていましたので、その地方から徴兵がなされることはありませんでした。しかし、税金は、自分たちが支配されているということを覚えさせられるものでした。そして、税金の徴収を目的とした「住民登録」のために、それぞれが自分の父祖の町に帰らなければならないということは、自分たちがアウグストの支配下にあることを、身にしみて思い知らされる機会となりました。
 そのようなアウグストの勅令のために、それぞれの父祖の町に移動する人々の中に、ダビデの家系に属するヨセフと、いいなずけの妻であるマリヤがありました。マリヤはすでに身重になっていましたが、安定期に入っていましたので、旅をすることも可能であったと考えられます。住民登録のためには、必ずしもマリヤもともに父祖の町に帰る必要はなかったようですが、ヨセフは、マリヤをナザレに残すことはよくないと考えたようです。それは、一つには、マリヤが、まだ正式に結婚する前に身ごもったということによって、苦しい立場に置かれる可能性があったからであると考えられます。それとともに、ヨセフは、主からマリヤとともに、新しく産まれてくる子をも託されたと考えていたからであるとも考えられます。ヨセフは、どのようなことがあっても、マリヤと、また、新しく産まれてくる子と離れてはならないと考えたということでしょう。
 このように、「ローマの平和」を確立したアウグストは、さらにその帝国の基盤を強固なものとするために住民登録を実施しています。それによって造り出された波のうねりに巻き込まれるかのように、ヨセフとマリヤもベツレヘムへと移動しました。その移動は何の変哲もないもので、マリヤが身重であるということを除けば、誰かが特に注目するようなものではありませんでした。そのすべてを動かしているのは、アウグストの主権と権威です。
 しかし、そこには、アウグストの思惑と主権と権威とをさらに越えて、しかも、人の目には隠された形で働いているもう一つの主権と権威があります。それは、この世界の創造者であられ、ご自身がお造りになったいっさいのものを御手によってお支えになっておられ、特に人間の歴史を支配しておられる、神である主の主権と権威です。
 アウグストの主権と権威は、その主権と権威の下にある人々が感じ取ることができる主権と権威です。なぜなら、その主権と権威は軍事力や経済力のような物理的な力を背景として発揮されるものですので、人々にとっては、自分の外側からの強制力のような形で迫ってくるものであるからです。
 しかし、造り主である神さまの主権と権威は、神さまがお造りになった一つ一つを、それぞれの特性にしたがって生かしていてくださるという形で働きますので、支えられている一つ一つのものにとっては、何の違和感もない力なのです。それは、ちょうど私たちが、普段、空気の存在を感じないようなものです。空気がなくなってしまえば、私たちの肉体は死ぬほかはありません。それほど、私たちの肉体的ないのちのためには空気は必要ですが、私たちは空気の存在に気がつきません。それが、排気ガスのようなもので汚染されて違和感があるときに初めて、その存在を意識します。それと同じように、神さまの主権と権威は、造られたすべてのものを根底から支えている、いわば、最も自然な形で働くものですので、普段、私たちが意識することがないものです。
 その意味では、神である主の主権と権威は、アウグストの誕生から始まって、そのすべてを支える形で発揮されてきています。さらに言いますと、ローマ帝国とその歴史自体が造り主である神さまの御手の中に治められています。
 そのような中で、神さまの主権と権威は、特に、ご自身の民を罪とその結果である死の力から贖い出し、本来のいのちである永遠のいのちによって生きるものとしてくださる、贖いの御業を遂行するように働いています。もちろん、それは、神さまが永遠の前からのご計画によることです。この意味での神さまの主権と権威は、アウグストが勅令を出したことにも働いています。
 アウグストがこの勅令出さなかったら、身重の妻を抱えたヨセフが、わざわざガリラヤのナザレから、ユダヤのベツレヘムへと旅をすることはありませんでした。しかし、この勅令が出されたために、ヨセフは自分の父祖の町に帰らなければならなくなりました。しかも、ヨセフは他の人々には十分に理解してもらえない事情にあるマリヤを手元において守らなければならなかったのです。これによって、ミカ書5章2節に、

  ベツレヘム・エフラテよ。
  あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、
  あなたのうちから、わたしのために、
  イスラエルの支配者になる者が出る。
  その出ることは、昔から、
  永遠の昔からの定めである。

と預言されている、救い主の誕生の場所についての預言が成就することになりました。
 言うまでもなく、アウグストは造り主である神さまの存在を知りません。ただ、ローマ皇帝として必要だと思う政策を実行に移しているだけです。また、神さまを信じているヨセフも、自分が神さまの預言を実現しようというような考えをもっていたわけではありません。ヨセフとしては、皇帝の勅令が出されために、不本意ながら、自分の父祖の町に帰らなければならなくなったのです。その際に、身重のいいなずけの妻をガリラヤに残しておくわけにはいかないという配慮によって、マリヤとともにベツレヘムに帰りました。そのすべてが用いられて、主の預言が成就しているのです。イエス・キリストの誕生には、このような、主の不思議な主権と権威が働いています。
 このようにして、神である主は、ローマ皇帝アウグストの思惑と主権と権威を越えた「超越的な主権と権威」をもって働いておられます。この時、その「超越的な主権と権威」をもって贖いの御業を遂行しておられる神である主は、何と、マリヤの胎に宿っておられます。11節には、

きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

という「主の使い」のことばが記されています。この「主キリスト」という呼び名(クリストス・キュリオス)は、いろいろと論じられていますが、お生まれになった方がメシヤであり、契約の主、ヤハウェであられることを示していると考えられます。
 これに先立って、9節には、

すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。

と記されています。これは注意深く読まなければなりませんが、ここで、

主の栄光が回りを照らした

と言われているのは、御使いの存在の輝き、御使いの栄光の現われではありません。これは、神である主が救いとさばきの御業を遂行されるために特別な意味でご臨在されることによる「主の栄光の顕現」(セオファニー)です。
 主の栄光の顕現は契約の神である主、ヤハウェが、出エジプトの贖いの御業を遂行されるに当たって、モーセにご自身の栄光を表わされたことに典型的に見られることです。かつて、主は、栄光の顕現中から、モーセに、出エジプトの贖いの御業を遂行されるご自身の御名が、

わたしは、「わたしはある。」という者である。

であるということを啓示してくださいました。この、

わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名を圧縮したものがヤハウェです。
 出エジプトの時代に、神さまは、栄光の顕現の中で、出エジプトの贖いの御業を遂行されるご自身の御名がヤハウェであられることを啓示されました。それから約千三百年後、今から二千年前のベツレヘムの郊外で、主の栄光の顕現の中で羊飼いたちに語られた、

この方こそ主キリストです。

という啓示の言葉は、この時お生まれになった方が、贖いの御業を遂行されるメシヤであり、契約の主、ヤハウェであられることを伝えています。このことから、ベツレヘムの郊外で、主の栄光の顕現の中で羊飼いたちに語られた、

この方こそ主キリストです。

という啓示の言葉は、出エジプトの贖いの御業を遂行されるに当たって、主がモーセに、

わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名を啓示してくださったこととつながっていることが分かります。
 その昔、最強の帝国であったエジプトのパロの手から、ご自身の民を贖い出された契約の主、ヤハウェは、この時、ローマ帝国の皇帝アウグストの思惑と主権と権威をお用いになって、ご自身が、ダビデの町ベツレヘムにお生まれになるという預言のことばを成就しておられます。
 このことを踏まえて、6節、7節に記されていることを見てみましょう。そこには、

ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。

と記されています。
 教会学校の劇などでは、マリヤが身重なために旅が遅れてしまい、ベツレヘムに着いたらどこも宿屋は満員で泊めてもらえなかったけれど、馬小屋なら空いているという宿屋があって、そこに泊めてもらったというシーンが出てきます。
 しかし、実際には、そのようなことはなかったと思われます。マリヤとその胎に宿っている子に対する配慮に満ちていて、分別のあるヨセフであれば、その旅のための時間は十分に取って早めに出発したでしょう。
 また、7節で「宿屋」と訳されたことば(カタルマ)は、「客間」か「貸間」のことであると考えられます。10章37節に記されている、「善きサマリヤ人」がけがをした人を連れていった「宿屋」は、これとは別のことば(パンドケイオン)で表わされています。ある人々は、主要な街道沿いの町ではないベツレヘムには宿屋がなかったのではないかと考えています。その可能性もあります。その場合には、住民登録のためにベツレヘムに帰ってきた人々のために、空いている部屋を貸してくれた家があったということでしょう。ちなみに「旅人をもてなす」ということは、その当時のユダヤの社会では一つの徳でした。もちろん、それが宿屋であった可能性もあります。いずれにしても、どうしても相部屋ということになり、そこで出産をするわけにもいかないので、家畜のいる所で出産をしたということでしょう。
 このことも、ヨセフとマリヤが、やむなく、そのような状況に追い込まれたということになります。しかし、すでにお話ししましたように、そこに神である主の超越的な主権と権威が働いています。その意味では、これは、栄光の主ご自身がご自身の意志でお選びになったことです。その栄光の主のみこころは、ご自身が人の性質を取って来られるに当たっては、ベツレヘムの家畜小屋でお生まれになって、飼い葉桶にその身を置くということでした。事実、12節に記されていますように、主の栄光の顕現の中で語っている御使いは、お生まれになった方が「主キリスト」であられることのしるしは、その方が「布にくるまって飼葉おけに寝ておられる」ことであると、ためらうことなく告げました。
 このことには、考えれば考えるほど不思議な思いになることがかかわっています。
 8節、9節に、

さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。

と記されていることは、主の栄光の顕現です。このことに異を唱える注解者はありません。この栄光の顕現の中から語られた啓示が与えられていますし、その啓示にともなって、13節、14節に、

すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。
  「いと高き所に、栄光が、神にあるように。
  地の上に、平和が、
  御心にかなう人々にあるように。」

と記されていますように、まことに壮大な賛美がともなっていました。もちろん、これは、自然現象ではなく、羊飼いたちに与えられた幻による啓示ですから、それは羊飼いたちだけに見えたものですし、聞こえたものです。
 このように、羊飼いたちが接したのは、確かに、主の栄光の顕現です。しかし、それは、その他の主の栄光の顕現と少し違っています。一つには、それには「天の軍勢」の壮大な賛美がともなっているということがあります。しかし、私たちが注目したいのはそのことではなく、その時、主の栄光の顕現の中心は、「主の使い」と「多くの天の軍勢」が現われた所にではなく、ベツレヘムの家畜小屋で「布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりご」にあったということです。この点で、この時の主の栄光の権限は、その他の主の栄光の顕現と少し違っています。その他の主の栄光の顕現においては、そこに栄光の主ご自身のご臨在がありました。

あなたがは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。

という「主の使い」のことばは、主の栄光の顕現の中心は自分たちのいるここではなく、ベツレヘムの家畜小屋で「布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりご」にあるということを伝えています。
 けれども、その家畜小屋には、「主の使い」はいませんし、まばゆいばかりの光もなく、天の軍勢の賛美も聞こえてきません。皇帝アウグストの勅令のために、不本意ながらガリラヤから出てきて、出産のために、家畜小屋を使うほかのなかった夫婦とみえる男女と、「布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりご」がいただけです。しかし、そこが、主の栄光の顕現の目的であり、中心であり、郊外の野原で「主の使い」が現われ、天の軍勢の賛美がなされたのは、いわば、その「周辺」であったのです。
 ベツレヘム郊外の野原において、主の栄光の顕現の中で語られた「主の使い」のことばがなければ、誰も、ベツレヘムの家畜小屋において、「布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりご」に、主の栄光の顕現の中心があるということには気がつきません。私たちもそうです。「主の使い」のことばによって導かれて、やっと、主の栄光の顕現の中心がどこにあるのかに気がついたのではないでしょうか。そして、そのことへの驚きとともに、自分たちは、「主キリスト」の栄光を求めて、アウグストの主権と権威と栄光につながるものを追い求めようとしてしまっていたのではないかということに、気づかされたのではないでしょうか。
 私たちは、主の恵みによって、また御霊のお働きによって、その誕生の時に、現われた主の栄光の顕現の中心が、「布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりご」にあるということに対して目が開かれました。そして、そのように開かれた目をもって見ますと、さらに見えてくる、主の栄光のより豊かな顕現の中心があります。それは、言うまでもなく、十字架につけられたイエス・キリストです。そこには、人々のあざけりとののしりと、栄光の主の痛みと苦しみと悲しみがあるだけで、アウグストの主権と権威と栄光につながるものはまったくありません。
 イエス・キリストは、見える形においては、ローマ人の手によって、十字架につけられて殺されました。そこには、人々の誤解と当局者のねたみがあり、さらに、総督ピラトによって代表されるローマ帝国の主権と権威が働いていました。しかし、主は、そのすべてをお用いになって、私たちのための贖いの御業を遂行してくだださいました。そこにも、あの、超越的な主権と権威が働いています。
 最後に、もう一つのことに注目したいと思います。13節、14節に記されている、天の軍勢の賛美は、幻による啓示です。しかし、それは、天の軍勢が自らの意志に反して賛美を歌ったということではありません。あたかも演劇の台詞を言うように、割り当てられた言葉を述べているのではありません。天の軍勢は賛美の声を上げないではいられなかったのです。その辺の事情を考えてみましょう。
 ペテロの手紙第一・1章10節〜12節には、

この救いについては、あなたがたに対する恵みについて預言した預言者たちも、熱心に尋ね、細かく調べました。彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされたとき、だれを、また、どのような時をさして言われたのかを調べたのです。彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのための奉仕であるとの啓示を受けました。そして今や、それらのことは、天から送られた聖霊によってあなたがたに福音を語った人々を通して、あなたがたに告げ知らされたのです。それは御使いたちもはっきり見たいと願っていることなのです。

と記されています。
 御使いたちが知りたいと願っていた贖いの御業が、いよいよ実現する段となりました。御使いたちは、人間的な言い方をしますと、「息をひそめ目をこらして」、どのようなことがなされるのかを見守りました。そして、まず、栄光の主、ヤハウェご自身がマリヤの胎に宿られたことを見ました。不思議な驚きに包まれたことでしょう。そして、この時は、その栄光の主、ヤハウェは、こともあろうに「布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりご」となられたことを見て、息を飲んだと思われます。やがて、天の軍勢も、その意味を悟ったのであると思われます。
 そして、声を合わせて、

  いと高き所に、栄光が、神にあるように。
  地の上に、平和が、
  御心にかなう人々にあるように。

という、心からの賛美をささげたのであると思われます。「布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりご」となられた栄光の主、ヤハウェは、天にて神さまの栄光を現わし、地に平和をもたらす方であるという告白と賛美です。
 このように、「布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりご」こそは、天と地にまったき調和をもたらす栄光の主であられるのです。すでにお話ししましたように、ルカの福音書2章の記事においては、救い主の誕生が世界史的な意味をもっていることが示されていました。しかし、ここでは、それがさらに天においても深い意味をもっており、ひいては、全被造物に対して決定的な意味を持ったことであることがあかしされています。
 御使いたちは、

  地の上に、平和が、
  御心にかなう人々にあるように。

と賛美しました。
 この時すでにアウグストが確立していたという「ローマの平和」は、圧倒的な軍事力や経済力を背景として、外側から人に迫る力によってもたらされたものです。しかし、それは地上的なものであり、一時的なものです。その奥では、他の人への不信と恐れに脅かされ、常にそれに備えなければならないというものでした。それは、実際には、平和とは呼べないものです。そして、そのようにして生み出された平和は、実際に覆されてきました。権力や富によって支えられている平和はこのようなものです。
 これに対して、天の軍勢が賛美した、「布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりご」となられた栄光の主がもたらしてくださる平和は、ご自身の十字架の死をもって私たち自身の罪をきよめ、罪の結果である死と死への恐れから私たちを解き放ってくださることによって私たちのうちに生み出される平和です。それは、神さまの御前での平和であり、神さまとの平和です。その平和の中で、私たちは造り主である神さまと、お互いの間でのいのちの交わりに生きるようになります。それは、永遠に私たちの間に宿る平和です。
 この御使いたちの驚きと賛美を踏まえると納得できる主のことばがあります。ルカの福音書15章7節には、

あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。

という主の教えが記されています。また、10節には、

あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。

と記されています。
 主の御前では、私たちは数の中に埋もれていません。この天における御使いたちの喜びは、私たち一人ひとりのためです。このことからも、栄光の主が「布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりご」となられたのは、そして、十字架につけられて殺されたのは、私たち一人ひとりのためであったということが伝わってきます。


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