祖母は伝統工芸を支えるひとり

祖母は伝統工芸を支えるひとり (中1作文)


 ぼくは、夏休みのある日、剣道の練習を終えて家に帰った。自分の部屋に行くと、暑いのに母がたんすを開けて何かをしていた。大きなたんすは前から部屋の隅にどーんと置いてあったが何が入っているのかぼくは知らなかった。母はたんすからたとう紙という和紙でできた入れ物に入った着物を1つ1つ大事そうに出していた。たんすの中にはしょうのうというにおい袋が入っていた。ぼくはとっても不思議な気持ちになった。たんすの中は桐という材質でできていて、桐の箱は思っていたより軽かった。ここにはおばあちゃんが作った母の嫁入りの時の着物が入っていた。毎年夏になると着物への害虫や湿気を防ぐために、虫干しといってたんすから着物を出すそうだ。母はその虫干しをしていたのだ。
 ぼくはたんすから出される着物をのぞきこんだ。赤や黄、金銀の糸で織られている帯や花柄や絞り染めの着物がいっぱいあった。その中で50センチ位の着物にぼくは目をとめた。これはおばあちゃんがぼくと兄ちゃんのために作ってくれた七五三の時の袴だと母が教えてくれた。剣道で使っている綿の袴とは全然ちがって、青色の糸で織った生地に金糸で模様をつけたものでしかも手ぬいだ。おばあちゃんがぼくたちのため一針一針ぬってくれたことがわかった。袴のたけは50センチぐらいで小さいけれど、腰板やすべり止めもちゃんとついていた。おばあちゃんにこんなすごい技術があるとは知らなかった。たんすの中の着物や帯も全部おばあちゃんの手づくりだと聞いてまた驚いた。おばあちゃんは今でも時々人に頼まれて作っているらしい。おばあちゃんの作る袴は、能や舞いなどの日本の古典芸能を伝える人たちが使うと聞いた。
 ぼくは、以前に京都に帰った時、西陣織会館に行った。ここは西陣織の織物産業の歴史や織物ができる工程を知ることができる。また、伝統工芸士による実演があり、生の声を聞くこともできた。西陣織の歴史は、飛鳥時代にさかのぼって奈良や京都に都が移されても続いた。平安時代には、貴族たちが美しい着物を着て織物作りもさかんだった。西陣というのは室町時代、応仁の乱の後、織物職人が住んでいたところに西軍の陣を置いたことからその名がついたそうだ。今の時代までずっと続いているというのは西陣織を支える人たちの努力があったからだと思う。また、織物が完成するまでに大変手間がかかる。だから多くの職人の力で出来上がる西陣織はきめ細かく美しいのかもしれない。
 ぼくは、母から着物や帯、そして袴も一つの反物から実際に着れるものに仕立て上げられることや反物の単位は反(たん)ということも聞くことができた。西陣織は数多くの工程をさまざまな専門の職人の手で行われて一反の反物になるのだ。おばあちゃんはこの一反の反物を、着る人の体の大きさにあわせて、着やすい形に仕立てることができる。おばあちゃんの話では昔に比べると嫁入りに着物を持っていく人も減っているので頼まれることも少なくなったそうだ。また、おばあちゃんのように作れる人も減ってきているといっていた。多くの工程からできている伝統工芸の西陣織も、受け継いでいく人が少なくなってきているのも事実だ。そのような人が減ってくると能や歌舞伎などの日本の古典芸能も衰えていくのではないだろうか。長い歴史の中で火事や戦争で機が止まったこともあったが人々の伝統を伝えていこうという気持ちが再び復活したのだと思う。ぼくはおばあちゃんがこの伝統工芸の西陣織にたずさわっていることに感激した。母のたんすの中からおばあちゃんのいつもと違う姿を見つけ西陣織のこともいろいろ知ることができた。伝統工芸を支えていく一人として、おばあちゃんは京都でまたがんばってい
るだろう。おばあちゃんはぼくの誇りだ。


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