天下統一への道 秀吉から
天下統一への道 秀吉から(中2 感想文)
「あー。やっと頂上だ。」
ぼくは、汗をぬぐいながら言った。祖父から標高二七〇メートル位の低い山と聞いていたので、屋島に登るより楽だろうと思っていたが、結構険しかった。その名は天王山。天王山はぼくの生まれた、京都府長岡京市からすぐのところにある山だ。スポーツの決戦の時に『天下分け目の天王山』という言葉を聞いたことがあったが、この天王山とどのようなつながりがあるのだろうかと前から思っていた。また父から、戦国時代にここで激しい戦いがあったことを教えてもらっていた。
今年の夏は自分の生まれ故郷について調べたいと考えていたので、天王山に連れて行ってほしいと祖父と父に頼んだ。父から「天王山に行くのだったら、その前に豊臣秀吉や明智光秀のことを勉強しておくほうがいいよ」と言われた。明智光秀といえば、本能寺の変で織田信長を討った人物だ。ぼくは本屋で秀吉について書かれている本を探した。そこで見つけたのが『豊臣秀吉 物語と史蹟を訪ねて』だった。この本は秀吉の生誕からさまざまな戦い、天下とり、そして死去までをそのゆかりの土地や史蹟を紹介しながら書いてあった。
秀吉は尾張の国つまり今の愛知県の農家に生まれ、顔が猿によく似ていたので小猿とか猿と呼ばれていたそうだ。小猿は十五歳の時、家を出る決心をしたという。裕福でなかった農民の暮らしにいや気が差していたことと、義父の竹阿弥への恨みのようなものが日ごろから積み重なっていたようだ。後に浅井長政を討って小谷城を信長からもらって一国一城の主となった時、母や兄弟たちは城に招いたが義父だけは呼ばなかったことからも相当な恨みがあったことが読み取れた。そして、田舎である中村の里に時々届く武将たちのうわさが『猿』の心の奥深くに響いて、この地にいつまでもじっとしていられないと感じ始めたからかもしれない。また、『猿』の母のなかもこの息子をこの田舎に置いておくよりそうさせた方がよいと考えたのだろう。無名の百姓の『猿』が針を売りながら旅を続け、蜂須賀小六や松下加兵衛と出会う。彼らにとって、『猿』に似た顔と異常に大きい声や、身軽に働く姿はインパクトが強かったに違いない。秀吉は信長につかえている時も、気の短い信長に対してよく気が付き、すばやい行動で主君の関心を呼んだようだ。『猿』秀吉は生まれながらの鋭い勘が働いている。もしかしたら、秀吉は『猿』に似た顔にコンプレックスを持っていたかもしれない。しかしそれをうまく使い、信長に気に入られたというのは何と世渡りがうまいのだろうか。同じ家臣たちからのいやがらせにがまんしたり、信長に気に入られたりする為に人一倍の努力もしたにちがいない。コンプレックスを意識的にチャンスにつなげていったとも言えるだろう。
秀吉は信長につかえてなかったら、一農民が『天下人』になるという前代未聞なことはありえなかっただろう。
ぼくは、備中高松城(岡山県)の毛利攻めは秀吉の強気や運のよさが良い方向に向いたできごとだと思った。城主清水宗治が秀吉軍になかなか従わなかったので城の周りに川の水を流し込んだ『水攻め』という戦略で挑んでいる。この『水攻め』や美濃攻めの時の一夜で城を築いたという話は秀吉の知恵を使った戦術で頭のよさがうかがえる。また、幸運の持ち主だとつくづく思った。それは、明智光秀が本能寺で信長を襲撃した後、そのことを知らせるための光秀の使者があやまって秀吉の陣に入ったことだ。その時に悲報を知らなかったら秀吉の光秀討ちは遅れていたかもしれないし、なかったかもしれない。それから、秀吉の強気を感じたことは秀吉の『中国大返し』だ。主君信長の死を知り、光秀を討つため数日で天王山まで走ったのだ。そして天王山での戦い、いわゆる『山崎の合戦』が始まり秀吉軍は圧勝する。この戦いについて歴史では詳しく習わなかったが、ぼくは秀吉がすばやい動きで光秀を倒したこの戦いこそ秀吉の『天下人』になる第一歩なのだなあと思った。『天下分け目の天王山』という言葉も理解できた。
今、名神高速道路の天王山トンネルの近くに新しいインターチェンジができている。秀吉は今の天王山と近くの様子を見てどう言うだろうか。『わしの天下とりはこれからじゃ。見ておいてくれ』とでもいうのだろうか。今回豊臣秀吉を、天王山から興味を持って読み始めた。今まで秀吉はぼくにとって大きすぎて遠いイメージでなかなか近寄ることができなかった。でも『猿』と呼ばれながらも、一生懸命働き、戦っている秀吉にいつのまにか親近感を感じて、拍手を送っていた。努力を惜しまないで全力で前進していく姿はすがすがしい。本当に見習わなくてはいけない。ぼくは再び秀吉を取り上げた小説を読んで彼の魅力に迫りたいと思った。
TOPへ