16世紀に始まるスペイン人らの侵略により、病気が蔓延したり、奴隷として酷使されたため、
先住民の種族は79から7つに激減したという悲しい歴史がある。
また、パナマ運河を巡るアメリカの権益に翻弄され、
新の意味での独立は1999年12月31日の運河返還といえよう。
●スペイン人到着以前
コクレ文化(Coclé)
パナマのアスエロ半島(Península de Azuero)から太平洋岸のプラヤ・ベナド(Playa Venado)にかけて
西暦500年から1000年の間に栄えた文化である。白地多彩文土器と豊富な金製品を特色とする。
この文化の重要な遺跡であるシティオ・コンテ(Citio conte)には高さ約2mの石の列柱、土の塚、石墓などが発見されている。
金製品は多彩で、人物、神像、動物などをかたどった耳飾、鼻飾、腕飾、ペンダント、冠、容器などが作られた。
●スペイン人到着以後
アメリカ大陸で最も狭いという地形条件が、パナマの歴史の背景となっている。
1502年
コロンブスの第4回航海で、カリブ海側のモスキトス湾(Golfo de los Mosquitos)沿岸が探査され、
チリキ沿岸やポルトベーロ(Portobero)に上陸した。
ポルトベーロは、コロンブスによって命名され「美しい港」の意味である。
1510年
ダリエン湾岸にスペインの植民地が建設された。
奴隷を逃れた先住民たちは、抵抗力がないためにヨーロッパ人の持ちこんだ病気により、次々と死んだ。
1513年
ダリエンの知事バスコ・ヌニェス・デ・バルボア(Núñs de Balboa)が、パナマ地峡を探検しカリブ海から太平洋岸に到達し、
交通の要衝として認識されるようになった。
バルボアは、ヨーロッパ人として最初に太平洋を発見し、「穏やかな、あるいは平和な海」を意味する太平洋と名付けた。
1519年
スペインがパナマ市に植民地を建設した。
パナマという名前は、先住民の「魚が豊富なところ」という言葉が由来になっている。
なお、この最初の植民地は、現在はパナマ・ビエホ(Panamá Viejo)と呼ばれる史跡になっている。
1538年
オーディエンシアという植民地支配のための機関が、パナマに置かれる。
1572年
英国人のフランシス・ドレイク船長がノンブレ・デ・ディオス(Nombre de Dios)を襲撃する。
1597年
地峡横断ルートのカリブ側基地として,ノンブレ・デ・ディオスにかわり,防御の容易なポルトベーロ(Portobelo)が建設された。
ペドロ湾を守る5つの要塞が築かれ、サンロレンソ要塞とともに世界遺産の文化遺産に登録されている。
1666年
ヘンリー・モルガン船長が、ポルトベーロを襲撃
1671年
海賊モルガンたちは、パナマを襲撃し、破壊と略奪により廃墟となった。
1673年
スペインは、アルフォンソ・メルカド・デ・ビリャコルタを司令官とし、
8km離れた現在の旧市街(カスコ・ビエホ Casco Viejo)に、新しい町を再建した。
現在でも、歴史的地区としてカテドラルや国立劇場などのスペイン様式のコロニアル建築が残っている。
1821年11月10日
ロス・サントス市がスペインからの独立を宣言した。
1821年11月28日
スペインから脱した大コロンビア連邦共和国の一州として、パナマも植民地支配から脱する。
この日を記念して、11月28日は「スペインからの独立記念日」となって祝日になっている。
1855年
パナマ市とコロンを結ぶパナマ地峡横断鉄道が開通した。
これは、アメリカのカリフォルニアのゴールドラッシュがおき、アメリカの東海岸から西海岸への旅が困難であったため、
パナマ地峡を横断する必要があったのである。建設には黒人労働者に9千人の犠牲者が出た。
1869年
アメリカ合衆国大陸横断鉄道が完成し、以後パナマ横断鉄道は急速に衰退した。
1881年
フランス運河会社がフェルディナンド・マリエ・デ・レセップスの指導により運河建設に着手したが失敗に終わった。
レセップスは、スエズ運河の建設を管理した技術者である。
この運河は、水門がないスエズ運河のように海面式であり、難工事であったばかりでなく、
黄熱病、マラリアなどの熱帯病や雨季の氾濫により工事が阻まれ、3万人が死亡した。
1903年11月3日
コロンビアから独立し、パナマ共和国となる。
アメリカ政府は、運河建設に関する条約をコロンビア政府に拒否されたため、パナマの独立派を援助したのである。
11月3日は「コロンビアからの独立記念日」となって祝日となっている。
1903年〜1914年
パナマ独立後、アメリカはパナマと運河条約を締結し、運河両側各8km地帯の永久租借権、治外法権、武力干渉権を確保し、
米国によりパナマ運河が建設された。
建設のピーク時には4万3千人以上の労働者がおり、その4分の3はアンチル人と呼ばれた英国領のカリブ海諸島の黒人であった。
1964年
1月9日国旗事件が起こる。パナマと米国の両国の国旗を掲揚することに反対した米国人右翼学生が、運河地帯内のバルボア高校で米国国旗のみを掲揚した。
これによりパナマ人の暴動が発生し、パナマ運河境界線に殺到した人々に対し、米軍が発砲し死者が出た。
この暴動により4人のアメリカ市民と20人のパナマ市民が亡くなり、この人々を記念して、1月9日は「殉教者の日」として祭日となっている。
1968年
軍のクーデターにより政府の実権はオマール・トリホスらの若手将校の手に移った。
1977年
新パナマ条約が締結され、1999年12月31日正午を期してパナマ側に無償で譲渡されること,
その後の管理・運営・維持はパナマが行うこと,その防衛もパナマの手に委ねられること,
運河は国際的通航水路として永久に中立化され,戦時であると否とを問わずあらゆる国の船舶がまったく平等に通航できることなどを決められた。
1981年
トリホス将軍が、航空機事故で死亡した。
1983年
軍内政変によりノリエガが実権を掌握した。
1989年
アメリカは、ノリエガ将軍を捕らえるために、パナマに侵攻した。
ノリエガは捕らえられ、ギジェルモ・エンダラが大統領に就任した。
1999年12月31日
アメリカは、全面的にパナマ運河を返還した。
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