メモ2

「旧かな遣い」の制定過程は?

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明治政府が「旧かな遣い」を制定した過程はどういうものだったのでしょう。参考文献も教えて頂ければ有り難いです。
旧かなスレッドは電波が飛んでて恐いので、新スレッドを立てました。
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もっと表音主義的な仮名遣いを制定する可能性も、当時あったと思うのです。
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國學者系の榊原芳野らによつて文部省編纂『小學教科書』(明治6年)に契沖式の假名遣が採用されたのが端緒です。築島裕『歴史的仮名遣い』(中公新書)参照。その後、教育及び印刷の進展に伴つて「歴史的假名遣ひ」が確立しました。戰後の「現代かなづかい」のやうに内閣告示などで公的に制定されてはゐないので、「明治欽定かなづかい」(龜井孝)といふ揶揄は事実にそぐはないと思ひます。
維新當時、表音的假名遣ひを制定する可能性もあったか? あつたとしても低い可能性だつたでせう。何故なら、それぐらゐならローマ字國字化論の方が有力であつたと見られるからです。森有禮の英語公用語化論もあった程ですし。
なほ「歴史的假名遣及び表音的假名遣の名は、英語に於ける歴史的綴字法(ヒストリカルスペリング)及び表音的綴字法(フォネティクスペリング)から出たもの」(橋本進吉)です。それ以前は普通に「假名遣ひ」と言へば所謂「歴史的假名遣ひ」を指してゐたのであり、この「歴史的」とは表音的な新案と區別せんがために設けられた冠稱に過ぎず、舊かなの實態や原理から云つても不適當だとの意見があります。正假名遣ひと呼ぶ人もゐますが……。
14 : 1>4
>國學者系の榊原芳野らによつて文部省編纂『小學教科書』(明治6年)に契沖式の假名遣が採用されたのが端緒です。築島裕『歴史的仮名遣い』(中公新書)参照。
文献紹介ありがとうございます。探してみます。
>維新當時、表音的假名遣ひを制定する可能性もあったか?あつたとしても低い可能性だつたでせう。何故なら、それぐらゐならローマ字國字化論の方が有力であつたと見られるからです。
しかし、他のスレッドにもありましたが(っていうか、私が書いたんだけど)その後、上田万年や保科孝一が表音主義を主張し、小学校では一時的にせよ「棒引き仮名遣い」が用いられたのですよね。
維新当時は可能性がなかったにせよ、戦前でも表音主義的仮名遣いが定着する可能性はそれなりにあったのでは。1905年の国語調査会では、漢字字音にとどまらず和語も表音式に書く仮名遣いが答申されたそうです。それに反対したのが森鴎外。4さんのリンク先の文章はかなり電波飛んでますが、この鴎外の反対意見などもアップされており、参考になります。鴎外も、子供に自然に書かせれば表音的に書くだろう事を認めていますね。
私見では、鴎外の反対意見は論拠に乏しく思われます。
21 : 4
>私見では、鴎外の反対意見は論拠に乏しく思われます。
そこ、今少し具體的にご指摘下さいませんか。さうすれば、15〜19のやうでない、もっとまともな議論が進められるやうに思ふのですが、如何。
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>1=2=14
>維新当時は可能性がなかったにせよ、戦前でも表音主義的仮名遣いが定着する可能性はそれなりにあったのでは。1905年の国語調査会では、漢字字音にとどまらず和語も表音式に書く仮名遣いが答申されたそうです。
ええっと、その「可能性」に着目することで、何がおっしゃりたいのですか?表音的仮名遣の方が「自然」だと?
しかし現実に戦前には度々の改革案にもめげず歴史的仮名遣が維持されたのであり。改革の実行は「敗戦」みたいな転換期にしか成功しなかったのですから、歴史的事実からは、旧かなと新かな、どちらが自然だとも決めかねると感じます。
26 名前: 1=2=14
>24
私がこのスレッドを立てた趣旨は、単に旧かな制定の経緯を知りたいということです。ところで、表音主義と表意主義のどちらが「自然」かということでしたら、ひらがな・かたかなは表意文字ではなく音節文字ですから、それは表音主義の方が「自然」でしょう。
私がここで「自然」といっておりますのは、日本語表記をこれから学ぶ児童や非日本語話者にとって、覚えやすい方を仮に「自然」と形容しているまでです。ひらがな・かたかなを覚えれば、どんな子も表音主義的に書きます。ただ、現行の新仮名は、表音主義が不徹底で矛盾が多く、新仮名どおりに書くとは限らないでしょう。
しかし、学校を「がっこー」と書く子はいても、「がっかう」と書く子はいません。私も、学校は「がっかう」なのに光線はなぜ「くわうせん」なのか、質問されたら分かりません。旧かな派の人たちはどう説明するのでしょうか。新仮名が最善とは到底思えませんが、これを旧かなに戻そうというのは、明らかに改悪です。
また、「だから何」とか「文明の規範」とかいうレスが付くでしょうから、「どちらが良いか」という問題はここでは論じたくないのですが、一応お答えしておきました。
29
>26
旧かなの「制定過程」からすれば、新かなの内閣告示みたいな特に正式の「制定」は無く、教科書に採用されたとか、新聞・書籍がそれで表記ししてたとか、要するに社会的慣習しか根拠は無い。その意味では新かなより人為的でなくて「自然」と見ることもできます。
言語なんて、前から言ってたとか、周りの皆が言ってたとか、そんな慣習を真似て自然と身につけるもんですよね。我々は、常に既に、何らかの言語環境内に被投されてるものですから(言語-内-存在ってか?)、「これから学ぶ児童や非日本語話者」等を持ち出されるのは、ちと白紙(タブラ・ラサ)主義に過ぎやしないかと懸念いたします。
もっとも、単に慣習と言っておけばよいものを、やれ傳統だの文明の規範だの大仰な言葉で飾って誇示するのも、いかがなものかと存じます。
32
>>29
後ろ2行に激しく同意。
私も戦後の新かな移行は、間違いとまでは言いませんが下策だったと思っています。でも、そこから既に50年以上経ってしまい、今では現行かなが一般的です。ここでまた「旧かな」に戻したとしたら、50年以上前の愚行をまた繰り返すことになります。
間違っていたのは「仮名遣いを強制的に変えてしまった」ことにあって、「新かなと旧かなどちらが正しいか」などという議論は意味がない、というのが私の考えです。
33 名前: 1=26=30
30だけでは不親切のそしりを免れないので、もう少し補足。書く事、読むことを覚えるのは、単に言葉を身に付けるのと同列には扱えないでしょう。
旧かなは、「規範とすべき時代(平安前期?)」(なぜ平安前期を規範にすべきか、これも解らないが)の書き方を知らなければ書けませんよね。そうした知識がない子供は、表音主義的に、自分が覚えている音に似せて語を書くより他に、どんな書き方ができるでしょうか。そもそも「くわうせん」という表記も英語のつづりも、最初は表音主義的にそう書いたわけでしょ。だったら表音主義の方が、やはり自然ではないでしょうか。
また、時代毎に表記が異なるのは、これは仕方のないことです。言葉が変われば表記も変わる方が「自然」です。第一、音が変わるよりもむしろ語彙が変わりますから、仮名遣いだけ保存しても、過去の作品が読めるわけもないでしょう。
27の人は「源氏物語」を辞書なしで読んで意味が分かるのでしょうか。それに、旧かなが明治政府に採用されるまでは、統一した仮名遣いなど存在しませんでした。旧かなが日本語の伝統を担っているというのは、全くの僭称にすぎません。
>教科書に採用されたとか、新聞・書籍がそれで表記ししてたとか、要するに社会的慣習しか根拠は無い。
教科書に採用されるというのは慣習ですか?これほどあからさまな「人為」はないと思いますけど。
34 名前: 29の補足
>33
>旧かなは、「規範とすべき時代(平安前期?)」(なぜ平安前期を規範にすべきか、これも解らないが)の書き方を知らなければ書けませんよね。そうした知識がない子供は、表音主義的に、自分が覚えている音に似せて語を書くより他に、どんな書き方ができるでしょうか。
それは旧かなへの反感からちょっと曲解なさってるんでは?我々が文字を覚える際、普通、書くことより読むことが先行します。絵本を傍らに読み聞かせてもらったりして、そのうちこの綴りはどう読むと覚える。それから、それを真似つつ書くわけです。50音図だけ覚えてから、純粋に自分の発する音を記してゆくのではない。音だけでなく、既に何程か目で覚えた語をもとに書いてゆくものです。そして、その真似る手本としてある文字環境が、旧かなであれば旧かなで、新かなであれば新かなで書くわけで、戦前には旧かな、戦後には新かなの環境内に置かれてるだけのこと。
ですから、やはり言語は社会的習慣、慣用に根ざすかと存じます。もちろん、真似だけでは旧かな全部をマスターできないのは、26でおっしゃった「新仮名どおりに書くとは限らない」のと一緒で、教育が必要です。そこに教科書の重要性もある。教科書への採用はなるほど人為ですが、既に有識者に尊重されつつあった表記規範を踏襲したに過ぎません。「あからさまな人為」って程の、作為的策動は無かったと見ます。
まあ、そもそも教育を施すこと、文字を覚えさせることが人為なんですけどね。それをホブズボーム流に近代以降に「創られた伝統」として批判するにせよ、表音式よりは旧かなが往古の文字文化との連続性を打ち立てやすいのは事実ですし、少なくとも、「創られた伝統」は旧かなによって(と共に)創られたことになりますから、伝統を僭称するとまで非難しては行き過ぎではありませんか。
傳統を振りかざす旧かな論者には私も辟易しますが、表音が自然だと信ずるのも書記言語に就ての思考が不充分に見えます。
37
>知識がない子供は、表音主義的に、自分が覚えている音に 似せて語を書く
だからあ、それは文盲への道なんだよ。漢字なんて習はなきゃ書けないぢゃん。あいうえおだって習はなきゃ書けない。
>「くわうせん」という表記も、最初は表音主義 的にそう書いたわけでしょ。
その時代のものが、文明の力によって規範になったんだよ。
>英語のつづりも、最初は表音主義 的にそう書いたわけでしょ。
英語の綴りの改革方案でも出してみて下さいな
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>言葉が変われば表記も変わる方が「自然」です。
それは規範の否定、結局は文化の否定です。学習行為の否定です。学習させずに自然に任せるなら、人類は漢字もかなも使ってない筈。単なる生活上の必要だけで漢字やかなが生まれますか?文化を必要としてゐるから複雑なものが生まれるんだよ。
>「源氏物語」を辞書なしで読んで意味が分かるのでしょうか
学習することに人間の人間たる所以があります。
>統一した仮名遣いなど 存在しませんでした。
ぢゃあ君は統一は不要と?新かなも旧かなも基準なしで進めと?めちゃくちゃになるよ。
統一かな使ひは存在しました。江戸時代にそれが普及してゐなかっただけ。江戸時代の不幸な民衆には、文明が足りなかったといふことでせう。
40 名前: 1=26=30=33
>34
「それがどうした」「だから何」のようなレスにはうんざりしていますので、まとまったレスを頂けたことに感謝します。
>音だけでなく、既に何程か目で覚えた語をもとに書いてゆくものです。
綴りの視覚イメージを覚えていて書くということですか。これは、少なくとも私の経験とは違います。漢字を覚える時の体験に引きずられ過ぎておられるか、あるいはすでに文字に慣れ親しんだ大人の意識を子供に投影しているのではないでしょうか。私の甥や姪は一字一字、「この字はなあに、この字はなあに、」と聞いていました。「いぬ」「ねこ」をひとまとまりに覚えるのではなく、「い」、「ぬ」、と一字ごとに覚えていました。
勿論、綴りの視覚イメージは重要ですが、初めて聞いた語、なじみがない語、あいまいにしか覚えていない語は、音を頼りにするしかないでしょう。子供の書き間違いは、きわめて表音主義的です。あなたも英語を覚えたての頃、enouhとかbriggeとか、表音主義的な間違いをした筈です。戦前でも、子供用の国語辞書は、表音的に配列されていたそうです。学習の能率という観点からみても、いちいち「がくかう」「くわうせん」とおぼえるより、「こー」は「こう」で統一させた方が便利でしょう。
>表音式よりは旧かなが往古の文字文化との連続性を打ち立てやすいのは事実
そうでしょうか。はなはだ疑問です。仮に仮名遣いだけを「往古の文字文化」と共通にしても、語の意味は解らないでしょう?まして、旧かなは一部の国学者にのみ使われたのですから、往古の文字文化との連続性を言うのは僭称です。
>表音が自然だと信ずるのも書記言語に就ての思考が不充分に見えます。
とおっしゃるけど、英語の綴りも旧かなも、昔の表音的表記の反映なわけでしょ。表音的表記の方が一次的な事はあきらかです。(表音文字ならば)
>やはり言語は社会的習慣、慣用に根ざすかと存じます
新仮名はもはや50年以上も流通しており、すでに慣用になっています。慣習を根拠にするならば、何故あなたは新仮名という慣習は拒否されるのですか。(これは、あなたが新仮名の環境で教育されたことを前提にして言っています。俺は旧かなで育ったから旧かなしか書けないという人には、勿論私は新仮名で書けとは申しません。また、個人の好みで旧かなを使うのもまた自由だと思います。ただ、旧かなを使うべきだと他人に主張する人に反発しているだけです。)
42 名前: 29=34 >40
>40
どうも、子供を基準とされる所に白紙主義が見えます。「初めて聞いた語、なじみがない語、あいまいにしか覚えていない語」とおっしゃいますが、ふつう我々はなじみのある語を使用するものですから、特異な例を以て一般を論じるのは感心しません。教育は子供を「すでに文字に慣れ親しんだ大人の意識」に至らしめるものであり、子供の意識から大人の慣習を改めるのでは逆立ちです。
>英語の綴りも旧かなも、昔の表音的表記の反映なわけでしょ。表音的表記の方が一次的な事はあきらかです。(表音文字ならば)
これも原点に帰れ的な主張ですね。我々はもはや子供ではないのと同様、もはや文字文化を開始したばかりの段階にはない。試行錯誤を経て、単に表音原理だけでなく他の原理や様々な慣用をコミにした表記法を有するに至ったわけです。表音だけで律しようとする人は、子供に帰ってやり直したいと願望する人に近い。この原点回帰願望は、表音派のみならず旧かな派にもありがちな誤りです。
>仮に仮名遣いだけを「往古の文字文化」と共通にしても、語の意味は解らないでしょう?まして、旧かなは一部の国学者にのみ使われたのですから、往古の文字文化との連続性を言うのは僭称です。
旧かな派も語義の変遷まで連続するとは申しますまい。せめて仮名遣だけでも、ってことではないのですか。その限りでは、表音式より連続性が見やすいのは事実なのですから。別にそれ位、認めてやってもいいのでは?往古の文字文化云々も、まさか紫式部の直筆手稿を回覧するわけでなし、後世の写本や版本で流通したわけですが、そのテキストは国学者らの校訂で旧かなに整序されました。これを伝統の創造(捏造)と見るにせよ、伝統なんてどうせ原形そのものではなく変形されつつ伝承されたものなのですし、そこで創られた伝統は旧かなによって(と共に)創られたとすれば、旧かなが伝統保存のフォーマットだったと説いても「全くの僭称」てことはない。
ただし、旧かなが「伝統」の原形そのものを保持せるが如き論調はいただけない。それは表音を「自然」と見るのと同様に、伝統を自然と見做し過ぎてしまってます。表音派とは違った行き方ながら、同じく原点回帰主義の誤謬に陥ってるんですね。
>学習の能率という観点からみても、いちいち「がくかう」「くわうせん」とおぼえるより、「こー」は「こう」で統一させた方が便利でしょう。
何度もこの例を出されますが、これらは字音仮名遣です。漢字で書けばいいので、カナモジ会みたいに漢字仮名交じり文を廃せと主張するのでもなければ、ふつう問題になりません。幼児に学習させる場合にせよ、仮名だけでなく漢字を交えた方がよいことは石井勲はじめ様々な報告があります。
>慣習を根拠にするならば、何故あなたは新仮名という慣習は拒否されるのですか。
これまで私は、旧かなも新かなも慣習であると述べるばかりで、どちらか一方を拒否したり称揚したりした覚えはありませんが? あなたの旧かな理解に偏見がある様子なので一言しましたが、私自身は、旧かなには旧かなの、新かなには新かなの理があり、争っても決着はつくまいと見ます。
しかし一方の論理しか見ない主張にはどっちにせよ到底賛成できません。