たゞ言ふ言葉も口をしうこそなりもてゆくなれ?」に答へる

頃日笹川美和の『笑』を耳にする機會があつた。サビの“泣き笑え”とリフレインするところでの“え”が、どうもh音が入つた“へ”の音に聞こえる。果たしてこれはどのやうな理念に基づき、また、何を意圖したものなのだらうか。非常に氣になる。

まさか上代日本語にあつた「母音は語中に立たない」と云ふ原則を知つてゐるのだらうか。

泣き笑へ - はてなダイアリー - はてなの茶碗

私が、上代日本語の原則を聯想したのは、以下の文章が念頭にあつたのです。

現在は、こうした歴史的假名遣いの表記と、実際の発音は必ずしも一致しないというのが定説だが、こと舞台語発音に関しては、上代日本語の「母音は語中に立たない」と言う原則に基づいて、現代語からは既に消滅したとされるヤ行音やワ行音を生かすことが有効なのではないのだろうか。発音のヴァラエティが最小化され、読み書きが簡略化された現代假名遣いから導き出される発音で「日本のうた」を歌うことにはどうしても限界がある。

藍川由美『これでいいのか、にっぽんのうた』

曲を聞いた限りでは、ア行の“え”には聽こえなかつたのは確かなのです。こゝでは何が發音されてゐるのか、それは一體何に基づいての發音なのか。

もし歌ひ手が、上代日本語にあつた「母音は語中に立たない」と云ふ原則を知つてゐて、母音を連続させないやうに、歴史的仮名遣にしたがつて、「へ」と歌つてゐるのだとしたら、それは史的に存在しなかつたハ行音を文字にひきずられて再構してゐるわけで、あまり望ましくないのではないか、と思ふのです。

たゞ言ふ言葉も口をしうこそなりもてゆくなれ?(明窗淨記)

因に笹川さんの發音は、必ずしも歴史的仮名遣に基づいてゐるものではないやうです。『笑』を改めて聽くと、例へば“ない”の“い”も私には“ひ”のやうに聞こえます。これは表記ではなく、あくまで歌唱に關する必然性に基づくものではないかと思はれます。

鎌倉時代までには、語の融合の指標が、母音の連接をなくすことからアクセントの変化へと移り、機能をうしなつた「母音は語中に立たない」と云ふ原則を、歌唱のなかでだけ復活させることにどれほど意味があるのか、私にはわかりません。

たゞ言ふ言葉も口をしうこそなりもてゆくなれ?(明窗淨記)

では、母音を語中に立たせないやうにして歌ふことに、どのやうな利點があるのか。また藍川さんの著書からひいてみます。

これ(上代日本語の「子音をもたない母音単独の拍は、文節の第1拍以外には使用できない。つまり、母音は語中に立たない」とのきまり)は日本語歌唱にとっては願ってもない特徴であった。なぜなら、歌においては、母音で音程を移動するとポルタメント(ずり上げ・ずり下げ)がかかりやすいが、子音が入ることで、いったん声門を閉じてから呼気を保持したまま移動し、新たな音程で子音を發音することになるため、発音や音程がクリアーになり、息も節約できる。

そして日本語の美は、何といっても、「かそけき」や「さやけき」といった言葉に象徴される繊細な子音の響きにある。(中畧)日本語の子音は、呼気の流れを遮断してできる微妙な間によって作られるのである。歌においては、とくに発音に時間がかけられるため、この間を自在に生かすことができる。ここに、上代の日本語における「母音は語中に立たない」というきまりの真意があるのではないだろうか。

藍川由美『これでいいのか、にっぽんのうた』

最後に、笹川さんがこの歌の歌詞をどのやうな意識を持つて發音し、歌つたのかは、結局私にはわかりません。これらは總て私の臆測であり、藍川さんの著書をダシに想像をたくましうしただけの話であることを記しておきます。