前田英樹を知つた喜び

私は前々から甲野善紀氏の著作を讀んでゐたので、『剣の思想』(青土社)といふ本を手にしたのも甲野さん目當てだつた。この本は、前田英樹氏との往復書簡と云ふ形をとつてゐる著作である。前田さんに就いてはなんら前知識もなく、さほど期待もなしに讀み始めた。

前田さんの文章を一讀してゐる内、いきなり、これはどこかで讀んだかのやうな、私にとつてすごく日々親しんでゐる文章が出てきたのでおやつと思つた。

例へばのつけからこんな一節が飛び込んできた。「歩行について(原文は略字新かな)」より引用する。

武術の立合ひが課してくる問題には、無限の深さと擴がりとがあります。しかし、「無限の」などと言つてゐるのは、私がまだその程度の人間であるからにほかなりません。實際にこの問題をみづから創り出し、限定し、信じがたい嚴密さで解き得たごく小數の人物たちが、遠い過去にゐたのです。彼らについて絶えず呼び起こされる記憶以上に、私たちにとつて重要なものがあるでせうか……。

私が譽めそやしたい技術は、もつと別のところで、おそらくは默々と生きてゐる技術です。年齡の積み重なりと強く關はり、それによつてのみ少しづつ可能となつてくるやうな技術なのです。

常識といふ知性は、一方で生活上の有用な行動に向けられ、他方でまさにその行動がぶつかる自然のなかの實在の抵抗そのものに注意を拂つてゐるほかない。拂はなければ、常識は空想と同じになります。

びつくりした。これと同じ言ひ方をする人を私は一人知つてゐる。もしかして…。期待に震へてペイジをめくる。おや、荻生徂徠の名前まで出てきたぞ。孔子やプラトンまでお出ましになつた。そして…。

小林秀雄の「私の人生觀」を取り上げてゐるのを讀んでハタと膝を打つた。前田さんは相當小林秀雄を讀み込んでゐる、と確信した。案の定、著者紹介を讀むと小林秀雄の評論を書いてゐたのだつた。しかもかなりの讀み込みの深さである

この人は出來る!

私は勝手に前田さんを信頼して了つた。著者を信じるといふのは何と心地良いことか。そうなると、もう大船に乘つたやうな氣分で、身構へず、悠々と文章を味はひ隨ら、流れに乘つてゆくだけである。どのやうな場所へ連れて行かれようとも、私の期待は裏切られない。


前田さんは、大學教授であると同時に、新陰流劍術の筋金入りの遣ひ手であるといふ。この新陰流の流祖である、上泉伊勢守信綱が込めた、新陰流の「太刀」といふ理想、または「太刀」といふ〈制度〉を、荻生徂徠の學問を知ることによつて開眼した、といふくだりはしびれて了つた。私もこれを讀んで、色々得るものがあつた。改めて徂徠が身近なものとして感じられるやうになつたのだ。

以下その初めの方のさはりを引く。

彼(荻生徂徠)の學問とは、言ふまでもなく古文辭學といふ一種の注釋學を指します。徂徠は儒學といふものを「六經」(中國古代の七聖人、堯、舜、禹、湯、文王、武王、周公が制定した六籍「詩經、書經、禮、樂經、易經、春秋」で成る)の古文辭についてのあくことなき注釋に變へました。これらの言辭が定めるものは、ごく簡單に言ふならば、人が天地において身を動かし、心を治め、物を見るその一切の法であつた。古文辭によつて制定されたこの法が「道」なのであつて、それ以外に「道」などはない。後代の儒學者たちが各人各樣に埒もなく論議してきた「天地自然の道」などは、形而上學の病根に冒された僞の問題にほかならない。徂徠はさう考へました。故に儒學において「道」を明らめることは、「六經」の古文辭を體得し、そのあらゆる使用法に徹底して精通することにほかならない。彼の注釋學は、その實踐としてあつた。

徂徠における「六經」といふ言辭への信、形而上學の拒否は、私たちが考へてきた劍の問題にも實によく當てはまります。「劍は心である」といつた内實を缺いた大仰な説教が江戸期に發生してきたのは、禪、老莊、朱子學などがこの時代を支配した形態によるでせう。この時代思潮は、何と現代劍道をやる人々のなかに生きてゐる。徂徠が唱へた言辭第一主義は、かうした思潮に比べればはるかにわかりにくいもの、一般化しにくいものです。なぜなら、それは古文辭への習熟を何よりの前提とし、また目的としてゐるから。この特異な言辭の姿が直接に見えてゐない者には、結局のところ彼の主唱するところは分からないと考へたはうがよい。古文辭の姿を直接に見ることは、それを讀む〈技〉に屬してゐます。その意味で、徂徠の古文辭學は今日の文獻學とは違ふ。私たちの行なふ太刀の修練に大變似たものがある。

言辭の〈技〉を拔きにした形而上學やイデオロギーは、まことに傳播しやすい。かういふものを受け賣りするのに努力、探究、工夫は要らないからです。受け賣り屋たちの議論は、大變自由闊達に行なはれてゐるかに見える。彼らは自分たちの思ひのままに發言してゐるかに見える。けれども、そんなことはないのです。「今言」をもつて「古言」を見ることしかできない彼らは、自分たちがいかに不自由な「今言」の呪縛のなかで思考をしてゐるか知らない。「今言」は、いかなる探究もなしに身に附けられる。それは制度と言ふよりは、思考を操る無意識の慣習に過ぎない。その慣習から、聖人が作爲した「六經」の姿に遡る通路はない。徂徠のこの主張は、劍術をめぐる私たちの問題を實によく照らし出してくれるのではないでせうか。

「〈太刀筋〉といふ體系」より(原文は略字新かな)