『 いろいろ言いたい広場 』



2006/03/10

ろう教育が変わる!
 本書のPRが出ないのでおかしいなーと思っていました。
日弁連の意見書が出てからの様子がどうなっているのか見えないなー、と思っていたところへの本書の出版。待っていました。日弁連が申立書に対してなぜ意見書という変則的な対応をとったのか、これでわかりました。意見書の内容を読めば、ここまで辿りついた弁護士にして、まだ日本手話とそれ以外との区別がつきかねる人もいるんですよね。昨今のろう学校での手話使用問題の混乱(対応手話、手話単語、指文字での授業)は、文部科学省の組織的な対応なくして解決は難しいのかなと思いました。
そもそも「手話のうち、日本手話…」という言い方は、まず手話として一括りにして、その中で日本手話と対応手話に分けるという、最もオーソドックスな誤りがあります。まず、言語として分け、その中で音声、文字、手指と表し方の種類を分けるべきです。(ちなみに私は手話学習初心者に対して日本手話と対応手話の違いを説明するときには、「聾語」と「日本語」という言葉を使って説明していますが、比較的よくその違いが理解されるように思います。)
著作権法にも触れられていますが、教科書の手話ビデオ化だけでなく、映像への字幕付加についても可能となるような運動が必要だと思います。
さて、私は現実のろう教育現場が親の会の希望どおりに変わるまでは、この運動は終わらないと思っています。その意味で「はじめに」にある特区提案に関する記述で、「2005年6月 ついに日本政府は手話と書記日本語による教育を容認した」という点が極めて重要です。これは4月に発表された意見書の影響が大きいのでは、と、個人的に喜んでいます。
ところで、この「容認」とは2005年6月15日に文部科学省が公開した「ろう児にたいする手話と書記日本語による教育について対象範囲を拡大することとし、提案主体及び関係地方公共団体の意向等を踏まえつつ所要の措置を講じる」という回答を指しているのでしょうか?この回答中の「提案主体」は龍の子学園ですが、これとは別に親の会として何か提案をしているのでしょか?不勉強で申し訳ありませんが教えてください。


2006/03/01

☆龍の子学園からのお知らせ☆
宮崎
 始めまして、宮崎と申します。突然のメール、失礼させていただきます。
実は、デフ・フリースクール龍の子学園のイベントがありまして、そのお誘いのメールをさせていただきました。
ぜひ、参加されてみては如何でしょうか?
また、お友達もお誘い頂ければ嬉しく思います。

下記のPR文を友達に転送されたり、日記に書き込まれても結構です。
どうかよろしくお願い致します<m(__)m>

 [第4回バイリンガル・バイカルチュラルろう教育研究大会  詳細]


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♪2006年限定なっとく!講座♪(来年はやりません!)

「バイリンガルろう教育」という言葉をよく聞くけど、いまいち分からない…。
バイリンガルろう教育をもっと知りたい!日本手話には興味がある!
そんなアナタ、まずはこの講座に参加してみよう!

 <ろう学生向けワークショップ>
   『ろう者学入門 −ろう者の視点から見る新しい学問です−』
 <一般向けセミナー>
   『手話を母語とするろう者について−日本手話/ろう文化−』

みなさん、参加しませんか?
なによりも他の大学・高校のろう学生・ろう者達と交流できるかもしれない。
みなさんの参加をお待ちしております。
また、ろう教育のことだけじゃなくて、ろう文化について学べます。


2006/02/15

見捨てるの?
聾家族
 私は第2聾家族、主人の両親兄弟は聴者。
 義父は還暦のお祝いで外食した時、悲しい事を白状します。
 主人の兄弟と親戚が集まって義父に乾杯する時の挨拶、ひと事をすべて口パクパク。私は何を言ってるのか?誰も通訳してないため、何の話か知りたくて尋ねようとしてもみんなが飲んで食べながら喋って盛り上がっていました。尋ねるタイミングが悪くてなかなか・・・諦めたんです。
主人がずっとこんな事だったか、私には無理。私はデフファミリー育ちだからずっと手話で団欒する環境が当たり前なのに主人はぼっつんして孤独感があってかわいそう・・・。
 主人の両親が悪いじゃなくて聾学校の教育がはっきり言って悪いでしょう!情報保障を考えてない!聴者たちの中にデフがいる時、どう配慮しなければならないか、も考えてない。主人は慣れたのせいか、話は何何?と知りたいと思わないし僕のことをどうでもいいと諦めています。
私はどうして文句いわないの?主人の両親は自分の子供を思ってない?と思いました。
本当に悲しいですね。私は主人の両親に文句を言えないんです。その現状をろう児を持つ親たちに伝えていました。聾学校の先生にも話したけど、どう思っていたか・・・。


2006/02/08

聾学校の教育とは?
コーダ教員
 最近、教育現場でも手話を使い始める先生が増えています。よいことに変わりはありませんが、対応手話になってしまうため、細かなニュアンスや情報量が不足してしまうため、手話を母語としている子どもには十分に伝わりません。まだまだ課題は残っています。が、問題なのは、このこと以上にあります。先生方は、自分は手話を使っているのになんで子どもたちは分からないんだ!と子どもたちを罵倒することにあります。手話を使っているはずだから相手はわかるはず!という身勝手な理論が働くようです。
自分の手話の使い方が間違っていたり、どうしたらもっと伝わる手話になるのか?という考えを持ちにくいようです。これは、日本語を第一言語にしている聴者の先生にとっては当たり前の考えかもしれませんが、一方的に罵倒される子どもたちにとってはたまりません。結局先生方の間では、手話では十分に教科学習ができない、日本語が身につかないという身勝手な理論を振りかざしてしまうのが現状です。一方的に罵倒されて教育を受けた子が、果たして教育の目標である(教育基本法にもありますが)「人格形成」「全人的発達」を正当に行えるのでしょうか?
よく、コミュニケーションに問題を抱える環境で育った子は、成長過程でなんらかの困難を示すケースをニュース等でも挙げられています。
聴覚障害児は、引っ込み思案、積極性がない、人の意見に左右されがち・・・みたいな批判や課題を先生方が声を上げているけど、自分たちが作り出している、そういう子どもを育てたことに反省をしない教員という体質に問題あり!と個人的に思います。
なんとか、手話で(母語が手話の児童ならば)生活、教育し、その上で日本語を獲得していく!という実践と結果を出したい!・・・という野心だけはあるのですが・・・。聾学校は、手話か口話か?という低次元の議論ではなく、手話は子どもたちの当たり前の言葉だから、教員は当たり前に使って人格形成をしていく。その上での次元で、日本語をどのように獲得させていくか?教科力を伸ばしていくか?場合によっては、聴覚口話力をどう身につけていくか?について研究していくことが大事なんじゃないかと。本心、実証がないだけに不安なところもあります・・・。

一教員の思いでしたが、皆さんはどのようにお考えでしょうか?
ご意見いただければ幸いです。


2006/01/11

琉球語
 昨年末の教育TVで「島クトゥバで語る戦世」という番組がありました。沖縄の戦争体験を琉球語で語り継ごうという活動を紹介する番組です。今沖縄では独自の言語である琉球語が急速に失われつつあります。番組では方言という言葉を使っていましたが、琉球は独立国であったわけですし、言語的にも方言と言うにははるか昔に日本語とは分かれた言葉ですから、琉球語を単純に日本語の方言とは言えません。
そのことを日本政府もよく知っていましたから、戦前は学校での琉球語の使用を禁止していました。青森で津軽弁を禁止することはなくても、沖縄では琉球語を禁止したのです。アメリカ軍が上陸した後は、琉球語で話す者はスパイとみなす、とまで言ったのです。
さて、琉球語を禁止され、日本語の使用を強制されて育った人はどうなったでしょうか?番組の登場人物の中で一人、琉球語で語ることを拒否した人がいました。日本語で教育を受けた人です。
その人がこう言うのを聞いて私はショックを受けました。「日本語も方言(琉球語)もよく話せない人間を育てたのは誰だ」ここにも自らの言語の使用を禁止されたことで、自らを表現する言語を奪われた人がいたのです。
一体日本の政府はいつまでこのような非人間的な教育を続けるのでしょうか?親の会の活動は日弁連の意見書が出て終わりではないと思います。親の会の支持者も同じです。意見書の内容が実現するまで、息長く理解者を広げる活動を続けなければならないと思います。
そして、親の会の活動は正当に評価されるべきです。


2005/12/24

不整合
 全日ろう連が、申立書への見解の最後に「手話と直接の関わりを持たない日弁連という組織の判断を求める発想には、賛成しかねる」と明言したことは、日弁連も承知しているはずです。
日弁連は、そのことに何の言及もないまま意見書への感謝をあらわしに来た全日ろう連を、内心どのような目で見ていたことか・・・。
もしも「ろう者とはこんなものか」と思われたとしたら、本当に残念なことです。
全日ろう連は先の見解と今回の行動の不整合について、関係者にきちんと説明する必要があると思います。
「人権救済申立」に対する全日本ろうあ連盟の見解』(全日本聾唖連盟 HP抜粋 2003年10月17日掲載)
「最後に、手話とは何かという、ろう者の間でも議論の分かれる大きな問題について、手話と直接の関わりを持たない日弁連という組織の判断を求める発想には、賛成しかねるということを付言いたします。」


2005/12/21

「ぶ」さんへ
へえ〜(ろう者)
私も同感です。新聞を読んだ時、なんで連盟が??
と疑問に思いました。


2005/12/16

恥ずかしい全日ろう連
11月1日付けの日聴紙の一面に、全日ろう連が、2月に日弁連が出した
意見書に感謝の意を表すために、9月28日に日弁連を訪れたという記事が掲載されています。
親の会の活動を散々批判しておきながら、いまさらなんで?と思いまながら、読んでびっくり!
この記事には親の会のことは一言も触れられていないんですよ。
いくらなんでもそりゃないでしょ。意見書が出たのは誰の活動の成果なんですか?
こういうのをアンフェアって言うんですよ。
もともと全日ろう連はろう児の教育改革に対しては、さしたる主張もしてきませんでしたし、さしたる関心も持っていないことは、2月に発行された「たっちゃんと学ぼう 耳の聞こえない人たちのこと」に、教育のことがまったく触れられていないことからもわかります。
大きな組織が、小さな団体の手柄を横取りする。
これがろう者の代表といわれる人たちのやることかと思うと情けない限りです。


2005/11/28

寄宿舎について
ろう児をもつ親
お便りありがとうございます。
娘は今9歳で、小学校3年生です。知的な障害もありますので、養護学校に通っています。
しかし、在学時間が短くて、家に帰ったら、テレビゲームだけに夢中です。
授業参観や、懇談会など学校へ行った時、何でも自分で一所懸命をやっている娘の姿と家にいるときの姿が全然違うことがわかりました。
専門的な訓練ができるところに長くいったほうが、娘の成長にもっと役に立つかなと思って、寄宿舎のある学校へ転校させたいです。
さらに、娘の将来を考えて、信頼と安心できるところに預けたいんです。


2005/11/14

寄宿舎
ライト
寄宿舎に預けたいろう児の年齢をお教えください。それが分かれば、お教えいたします。
デフ・ファミリーの父です。



2005/10/28

寄宿制ろう学校
ろう児をもつ親
 初めまして。寄宿できるろう学校の情報を探しておりますが、ご
存知の方がお便りを頂けませんか。

2005/08/16

聾唖者のためになる法律立案を
気にしている市民
 聞こえないという、たったそれだけのことが、
隣人を始め社会との間に溝を作り、
ろうの方の「知りたい」「伝えたい」気持ちに戸を立てているとしたら、
大変哀しいのです。
大切なことは、ろうの方が接することができる世界を、
私たちが接している世界と限りなく同じに近づけることだと思います。
そのためには、どうすればより理想に近づくことができるのでしょう。
この広場を通じて個々の問題意識はもうすでに
十分出し合われたのではないでしょうか。
ここにお集まりの皆さんがお持ちの情報と叡智、
それに皆さんがご存知の専門家や組織などの力を合わせて、
そして当事者であるろうの方にも参加していただいて、
ろう教育のモデルを構築、実践なさってはいかがでしょう。
その過程で海外の教育当事者や国の担当者を招いて
公開のシンポジウムを開いてもよいでしょう。
その実践で得られたことが、法制化されて予算措置の裏づけを
伴い普及すればすばらしいことでしょう。
趣旨を明確にして発起人を集め呼びかければ、
協力いただける県、ろう学校、大学も見つかるのではないでしょうか。
識字教育で国際協力をされている田島伸二さんが紹介されている
寓話をお伝えします。皆さんが小さな灯りを点されることを願っています。
「洞窟の暗闇の中で、箸で闇を掃き出そうとしている男の物語が
ある。彼がどんなに懸命に闇を掃いても闇を掃き出せず嘆いてい
ると、誰かが小さな灯りをもって入って来た。たちまち闇は消え
てしまった、と。この寓話のように、希望とは閤を掃き出す努力
ではなくて、光をつくるものであるかもしれない。」

2005/07/20

「全日連の態度」
全日連の態度が変わったかもしれないとのこと。
大変嬉しいことです。
私はこのたびの申し立ては二つの意味で重要だと思っています。

一つは聾教育の当事者である聾児と親が
初めてまとまって声を上げたということ
(もし以前にも声をあげた方がいらしたら申し訳ない)。

もう一つは日本手話を認めないことを人権の視点から論じたことです。

これまでの手話・口話論争は、どちらが教育効果があるかとか、
どちらが社会で役に立つかというような論争だったと思います。
これだとどちらにも言い分があって、いつまでも両論併記のまま
結論がでない結果になっていたと思います
(実際には現実に力を持っている口話論者・文部科学省を変えられない)。
しかし、人権問題となれば話は違います。
「ろう教育と言語権」を読んだうえで、現状が人権侵害であることに
真っ向から反論できる人はそう多くないように思われます。
皆さんの願いは口話の排除ではなく、
日本手話も選択肢に入れて欲しいということですよね。
それによって聾児の人権を回復して欲しいということですよね。
これこそ、今までの立場を越えてみんなが一致できる論点だろうと思います。
これまで全日連(その傘下の地区協会等を含めて)が
この申し立てと意見書を無視し続けてきたことは、
行政との関係を考えれば、事実上運動を妨害しているに等しいと
感じていただけに、今回の態度の変化は素晴らしいことだと思います。

全日連には是非その力を聾児の人権回復に
発揮していただきたいと思います。

2005/07/15

「人権救済申し立て」に対する全日連
全日連評議員の一人
2005年6月時点の話ですが、全日本ろうあ連盟では、
「人権救済申し立て」に対する態度が変わっているようです。
申し立てを出した当時、全日連の意見には、他人事であるかのような、
手話を大切にしないような、呆れるような記述がありましたね(笑)。
6月の評議員会において、明示したりしてはいませんが、
「日弁連意見」と称して、全日連としては、ろう学校教育を含む手話に対する
考え方が一致していると、話されました。
「日弁連意見」とは、「人権救済申し立て」、それとも、
「手話教育の充実を求める意見書」のどっちかわかりませんが、
ともかく、前進と歩み寄りがみられたこと、
本当に嬉しく思います。


2005/06/16

どんどん情報交換
チャレンジャー
聾学校のレベルは、県によって地域によって変わります。
どんどん情報交換をして、地域や県に縛られることなくレベルの高い聾学校へ進学させましょう。
自分の子どもの人生です、当てにならない教師を頼りにするよりも、ここだと思う学校へ行かせましょう。
そのために、寄宿もあるんですから。
自分の子どもの人生を預けるのにその程度できなければ、親ではないでしょう。

2005/04/18

祝! 日弁連意見書
ろう児を持つ親
 日本弁護士連合会の意見書が出たことをとてもうれしく思います。
手話で教えて欲しいと願い、先生や学校や教育委員会に求めてきたことが親のわがままなどではなく、まさしく人権問題だったことが証明されたことになります。

これまで、手話教育に対してだけでなく、苦しんでいる親達が出した申立に対してすら反対する団体や個人があり、実際に迫害や不利益を受けた親達もいるのではないでしょうか。
結論が出るまでに2年という非常に長い時間を要してしまったのは、心無い反対運動のためだったのではないでしょうか。
2年間という時間が子どもにとってどれほど長い時間だったでしょう。
その間も学校からあるいは、考えの違う親達から攻撃を受けてきた苦しみをその人たちはわかっているのでしょうか。


人権侵害を受けた親達が出した申立に対して、日本弁護士連合会から意見書が出され、その中で、国、教育委員会、ろう学校が言語である手話(自ら選択する言語)を使って教育が受けられることを保障すべき、と提言がなされたわけですから、もしその要求をしたことによって理不尽な迫害を受けた場合には法的な訴えができる根拠になるのではないでしょうか。

もうこれ以上待てません。
一日も早くろう学校が変わるようにしてください。

2005/04/16

意見書
日弁連の意見書が出てよかったですね。
内容的にもほとんど十分なものだと思います。
皆さんのご努力が実った結果であり、心からお祝いを申し上げます。
私も署名をした一人として大変嬉しく思っています。
特に、地域でのろうコミュニティ、聞こえる親への手話教育の必要性に言及している点は、
個人的にずっと感じていたことであり、共感を覚えます。
これからは聴こえないことの本当の困難を広く社会に知ってもらうために、
この意見書をまわりに広めていくことが大事だろうと思います。
私も機会あるごとに宣伝に努めたいと思います。
これからも皆さんを応援しています。

2005/01/26

聾学校で学習が遅れるもう一つの理由
チャレンジャー
障害児の母さんの投稿を読み、これはと思い投稿します。
もう一つ理由があります。それは、担任が養護学校から来た先生の場合に起きることです。養護学校から来られた先生方に強く感じるのは、進度が遅れてもしょうがないと言う考えです。普通校の感覚では信じられません。普通校において、一つの単元が終わった時点で100点を取る子どもから0点を取る子どもまでいるのは事実です。しかし、0点の子どもがいても、次の単元に進みます。それは、進めないと、1年間の学習が終わらなくなるからです。次の学年に繰り越すと言うことは絶対にあり得ません。

聾学校は普通校に準じる教育をする場であると言うことは、国で定められていることですから、現状のように分かるまで進めないなんて言うことはあってはならないのです。(普通校に準じると言っておきながら、普通校に準じる設備を整えない国や県の教育委員会には失望しっぱなしですが・・・)

あと、あえて苦言を提言させていただけば、「分からないのは先生が悪い」と言うだけで、自分で勉強しようとしない生徒の意識にも起因はします。「分かるように説明してくれない先生が悪い」「自分が分からないのは先生のせい」そう言う生徒に共通しているのは「自分では全く努力しない」と言うことです。確かに教え方にも問題は大いにある。でも、人のせいにしていても、自分は何も進歩しない。それに気がついて、苦しみながらも、努力している生徒は確実に学力を伸ばしています。そして、相変わらず責任転換から抜け出せない生徒は、日々差をつけられています。

そのことは普通校でも同じ。先生の教え方が悪いから勉強ができないという親・生徒はたくさんいます。先生にも色々いるから、自分に合わない先生もいるから仕方ないと自分なりに努力をする生徒は、学力を伸ばし、文句だけ言って努力しない生徒は楽な方へ転がるだけです。
「先生の教え方が悪いから、勉強ができない」この考えは、保護者や教師の中だけでやりとりされる分には良いのですが、学ぶ立場である子どもの意識に入ってしまうと、大変なことになりかねない考え方でもあるように思います。

大阪の某小学校に進入し大勢の死者を出したTは、「自分がこうなってしまったのは、学校・社会が悪いからだ」ととんでもない責任転換をしていました。
聴覚障害は知的障害でも視覚障害でもありません。でも、聾学校では養護学校的扱いを受けています。何しろ、養護学校しか経験がない先生が大勢います。普通校に準じる学校なのに、特殊学級もありません。まずは、普通校に準じると言う設備・体制を整えてもらうことも大切でしょう。養護しか経験のない先生の授業を見ても、普通校ではあり得ないような進め方・仕組み方をしていることが多いです。これでは、例え、手話を完璧に使えたとしても、普通校に準じる進め方は不可能でしょう。

2004/11/27

聞こえない子の作られたハンディ
障害児の母
 私の子供は障害児ですが、聴覚障害ではありません。公立小学校の特殊学級に通っています。同じ学校に難聴学級があり、交流をさせてもらっていますが、知的な障害のないお子さんばかりなのに、授業の進度がやけに遅いのでいつも不思議に思っていました。

時間が経つにつれ状況が飲み込めてきました。要するに先生と子供の意志の疎通がとれず、極簡単なことですら時間がかかるのです。しかも授業が口話のため、聞き取りに時間がかかる上「聞こえているだろう」「わかっているだろう」と言う思い込みも多いので、行き違いも一度や二度ではないようです。

一度難聴学級のお子さんがなきわめいて先生では手に負えず、私の子供がそばになぐさめに行ったことがあります。つたない手話でしたが、私の子供が「泣く・おしまい」と伝えたところ、ぴたりと泣き止みました。

そのお子さんは聞こえないだけの普通の子供ですから、分別もあるしきちんと振舞うことができて当たり前です。私の子のような知的ハンディがある子とは違うのですが、その場にいた大人は「子供は子供同士ね」などと見当違いのことを話していました。わからない言葉で話されるからどうしていいのかわからないだけで、子供本人に問題はないのだということがその子の親御さんですらわからないようで、私は愕然としました。

外国に暮らす日本人が日本語学校に通うように、ろうや難聴のお子さんにも日本手話で教育が受けられる日が来ることを願わずにはいられません。知的なハンディがないにもかかわらず、不当に遅れた教育を受けなければならないお子さんが、たくさんいることに憤りを感じます。難聴児・ろう児のハンディは作られたものだと思います。

2004/04/23

「全日本ろうあ連盟の見解についての意見書」
東京都在住 Y
 HPをご覧のみなさんこんにちわ。私は手話を学習中の聴者(男)です。
 以前より全国ろう児を持つ親の会の活動を興味深く感じておりました。昨年の「人権救済申し立て」については、この国のろう教育に一石を投じるものとなるだろうと、そのゆくえに注目していたところでありました。ところがこの申し立てに対して昨秋、全日本ろうあ連盟より公表された「見解文」を読み、私は率直に申し上げて呆れてしまいました。
連盟は本当にこの107名の申立書を理解したといえるのでしょうか?私はあくまで一人の手話学習者の聴者であり、ろう文化や教育問題については素人ではありますが、昨年5月に読んだ申立書の内容を、少なくとも連盟の出した「見解」のようには理解しなかった。否、あのように解釈する発想すらありませんでした。どう考えてもあの見解文には、素人の私にも指摘できる程の問題(穴)がある、見解文として公にするにはあまりにも拙速に過ぎたと思うのです。連盟があの見解文を発表してから随分たった今になっても、あの見解文を出す必要性に対する疑問は解けていません。
そこで私は、連盟の「見解文」に対する「意見書」というものを作成し、昨年暮れも近い時期に開催されたある大会に参加させていただいた折に、出席されていた連盟理事の方等数名に意見書を直接手渡しいたしました。手渡しする事で、見解文に対する反対の意思表明をしたと同時に、見解の再考の願いを私からのメッセージとして込めたのです。その大会後、京都及び東京の連盟事務所へもこの意見書をそれぞれ郵送しました。
しかしあれから約5ヶ月経った今、残念ながら意見書に対する連盟からの回答はなく、またそのような動きもないようです。そこで、賛否含めた更に幅広い議論のきっかけになればと思い、素人ではありますが私の想いを一生懸命?頑張ってまとめたその「意見書」をこちらに転載させていただく事となりました。なにせ文章についても素人なものですから、読みづらい部分が多々あるかもしれませんが、頑張って読んでいただき、どうかみなさんもろう教育について考えてみていただければと期待します。
どうかよろしくお願いいたします。
財団法人 全日本ろうあ連盟 御中

「人権救済申立」に対する
全日本ろうあ連盟の見解についての意見書

 初めまして。私は一手話学習者です。手話学習を契機に、現在は地域内外、国内国外のろう者と幅広く交流させていただいており、また貴連盟の行事、大会や活動にも度々参加、賛同させていただいている聴者です。
この度、上記表題にありますように、今年五月にろう児とその親の計一〇七名によっての日本弁護士連合会(以下、「日弁連」と略す)に対して、日本のろう学校におけるろう児の人権救済申立が行なわれた一連の出来事は周知の事実です。彼らによって作成、提出された「申立書」についての、貴連盟の「見解」も、先日拝読させていただきました。この見解について、私個人の意見をぜひとも述べさせて頂きたく、今回このような「意見書」という形で筆を取らせていただきました。これをお受け取りになり、私なりに考えてみた意見に、お目を通していただけると幸いです。唐突なお願いであり、また稚拙な文章とは思いますが、どうかよろしくお願い致します。

 さて、貴連盟の見解ですが、率直に申しまして、内容に少々違和感を感じました。また、先の申立に対する誤解もあるように感じ受けます。見解文中からいくつかを掻い摘んで例に挙げさせていただきますと、まず見解文中では、


>申立書では、手話を「日本手話」と「日本語対応手話」とに峻別しているが現実のろう者のコミュニケーションとしては、手話はさまざまな形で使用され、安易に二分できない。
(中略)

>手話をろう者の現実のコミュニケーションから離して、抽象的・理念的定義に無理に当てはめ二分する考え方は、ろう者の現実を無理に分類し、結果としてろう者を分裂させる恐れがある。
               (中略)
>連盟では、もっと広い意味での手話の導入と、児童・生徒間での手話による自由なコミュニケーション保障を全国のろう学校で実現させることが、現時点における全国共通の目標になるものと考えます。

と述べられておられます。では、ここで貴連盟のおっしゃる「広い意味での手話」とは、どういう手話ですか。
貴連盟の運動成果もあってか、現在全国のろう学校のいくつかにおいて、「手話」(貴連盟のおっしゃるところの「広い意味での手話」?)による教育を導入しており、その流れは徐々に他校へと広がりつつあるようです。しかし、現在わが国のろう学校において、日本語とは異なる文法構造をもち、一つの独立した言語であることが解明されている「日本手話」による教育を一部でも実践しているろう学校は、〇校です。「広い意味での手話」の中には、日本手話は含まれていないのでしょうか。この「広い意味」という言葉の方が、日本手話の定義説明より抽象的な感があり、「全国共通の目標」と言う言葉と共に、現実離れした理念の、無理な当てはめではありませんか。なぜなら、先ほど申しましたように、日本手話が実践されていないわが国のろう学校の現状において、「広い意味での手話」の導入との見解には、矛盾があるからです。例えれば、木を見ずに森を語るようなものでしょうか。
また、見解文中にある「コミュニケーション方法の優劣」云々の仮説は、「万が一」の断り書きを文頭に付加したとしても、貴連盟の今回の見解の対象となった「人権侵害申立」の趣旨とは話題の次元が違うと言わざるを得ず、今回の「申立」に対する見解としてはその範囲を逸脱しており、従って論外であると付言いたします。
話題をわが国のろう学校の現状に戻させていただきます。大まかな言い方をすれば、わが国のろう学校における教育手段としては、聴覚口話法等による口話教育と、日本手話を除いた手指日本語(=日本語対応手話)等音声言語(日本語)の視覚的な代替手段を取り入れた教育の二通りに大別されます。当然、教育を受ける立場のろう児そしてその親たちにも、現状ではこのどちらかしかろう学校を選択する権利はありません。とすれば、彼らの「選択できる権利」というものは、どうなってしまうのでしょうか。かつての口話教育一辺倒であった状況は徐々に変化しているとはいえ、この「選択権」が制限されてしまう状況が今なお続いている現実が、すなわち日本国憲法で保障された基本的人権の尊重に抵触する「人権侵害」であるとして、彼ら一〇七名に今回の訴えを起こさせたのではないでしょうか。
確かに現実としてろう者は話す相手によって、コミュニケーションとしては表面的には手話をさまざまな形で使用しています。これはコードスイッチングといって、私たち聴者も度々使用するものです。例えばフォーリーナートークといって、日本語を習得しきれていない外国人を相手に話すときに、助詞等の単語を省略したり、語順を入れ替えたり、相手の理解度に合わせようと、通常の日本語の文法をある程度無視したり、話すリズムを相手に合わせたりする行為を、無意識のうちに実践しています。このほかにもコードスイッチングには種類がありますが、これはあくまでも相手の語学・言語レベルに合わせるために自分の話法を変化(=コードスイッチング)させコミュニケートしたにすぎず、表面的には手話をさまざまな形で使用しているようでも、ろう者・聴者に関わらず。思考の根本をなす言語としては「母語」という第一言語が各個人のほとんどには備わっております。母語についてはこれからお話いたしますが、貴連盟の見解文中の「安易に二分」云々を拝読しますと、このあたりの誤解があると感じうけますが、如何でしょうか。
では、その思考の根本にある「母語」についてですが、人は、生まれながらにして外部からの言語刺激により、その言語を理解習得しようとする能力が備わっております。一般的には、生まれから小学校低〜中学年頃にその能力はピークに達する(このピーク時を「言語臨界期」といいます。)といわれていますが、母語の多くは、この臨界期までの間に身につくという言語学の定説があります。そのため母語は、言うまでもなく人間の思考の根本をなすものであり、自己表現やコミュニケーションのかけがえのない重要な手段であり、社会生活を行なううえで、さらに言えば「ヒトが人間として生きるための根幹」であります。母語は単なるコミュニケーション手段とは、この点で大きく異なります。決して抽象的・理念的定義のみではないことを断言いたします。
今回の訴えを起こした児童・生徒たちのように、日本手話が飛び交う環境ですごし、日本手話を母語として身につけたグループは、彼ら以外にも少なからぬ人数が存在します。また、きびしい口話教育を方針とするろう学校や、いわゆる普通学校で教育を受け、日本語を母語として身につけたグループも貴連盟の会員であるなしに関わらず多数存在します。日本語を母語とする彼らの中には、より快適なコミュニケーションを求めて、例えばろう学校卒業後や社会人となってから、つまり母語習得後に手話を学び始めるケースも多々あります。そうして取得された手話は、必然的に手指日本語や、日本手話の要素を一部取り入れた中間的な手話であることが多く見られますが、これらはあくまで日本語の文法構造を根底としています。しかし、鍛錬を重ねて日本手話も習得したいわゆるバイリンガルとなる人も事実として存在します。逆に日本手話を母語としながらも、手指日本語や中間的な手話を覚える人も存在します。ですから一見、貴連盟のおっしゃる「現実のろう者のコミュニケーションとしては、手話はさまざまな形で使用され」という見解とはつじつまが合うような感じを受けますが、これは幼少期を主として母語を身につけたことを前提として成立するものであり、申立書の内容を「安易に二分できない」とする見解自体が安易ではないでしょうか。見解にあります「結果としてろう者を分裂させる恐れ」や、先ほど私が論外と指摘した「コミュニケーション方法の優劣」の仮定もそうですが、「区別」と「差別」を混乱していませんか。貴連盟にはもう少し申立書の内容を掘り下げてから、見解をしていただきたいと思いました。
また、先ほど述べた教育の選択権の問題にも関連いたしますが、このような、母語による公的教育を受けられない現状において、仮に彼ら以外の誰かが人権侵害を申し立てても何ら不思議はないと私は思います。「母語による公的教育を。」の声があがることが、自然なながれではないでしょうか。見解文中の「具体的にどんなことかと言われるとさ間ざまに議論が分かれます。」云々の、主に言語研究の専門的世界での議論すべきような話題を、土俵違いである「教育上の手段としてであろう日本手話の話題」の場に持ち込むのは、別問題ではないでしょうか。どのような教育の場でもそうですが、主役は教育を受ける側、つまり児童・生徒たちです。主役の要求を聞き入れない専門家の議論は、言わば議論のための議論。日々刻々と変化成長してゆく子ども達の教育の現場には、そのようなことに時間を費やす暇はありません。主役である子どもたちやその親や、現場の教師達の声を反映させた異議のある議論をし、そこから生まれた知恵を終結させ現場に活用させ、子ども達も親たちも教師達も皆が成長しあえる。主役である子ども達が自分たちの言語で学び、考え、成長し、そうして養われた人材を社会に輩出する。こういった、世のためになってこその学校教育ではありませんか。更に見解では「教育の場において(日本手話と日本語対応手話の二分論)位置づけるのは一層無理がある」とも述べておりますが、それこそ「無理な当てはめ」だと思いますし、大まかに二つの選択権しかないわが国のろう学校の現状こそ、ろう者を都合上安易に「二分化」しており、ろう者の現実から無理に離したものでしょう。主役不在の学校教育に、どのような意味がありましょうか。
某新聞記事の話題に移りますが、私の記憶が定かではありませんが確か夏頃でしたか、彼ら107名のおそらく中心的な役割のメンバーであろう一人が、今回の申立についての記者とのインタビューで、こう語っておりました。
「私たちは、決して聴覚口話法を否定しているわけではありません。」と、貴連盟の見解文に関わられた方々のうち、何人がすでにこの記事に目を通されたかは知りませんが、このメンバーの一人の発言からも、彼らが「幅広い選択権」の要求をしていることは想像に難くありません。つまり彼らの要求は、日本のろう学校すべてを日本手話教育一辺倒にしてしまおうといった考え方は、持ちえていないのです。繰り返し言ってしまうようですが、貴連盟は彼らの要求内容を誤解していると思います。例えば、申立文中の「日本手話」「日本語対応手話」の表面的な、いわゆる言葉尻を唱え「二分論である」と安易に断定してしまうところからも、申立文の解釈に違和感を感じます。確かに貴連盟のおっしゃる「二分論」でろう教育を推進していくならば、見解文でいうところの「手話という面からはろう学校を今すぐ変革できる方法はない」は、そのとおりでしょう。しかしながら、わが国の公的ろう教育の現状で、しかも事実として主役であるろう児やその親の一部からこうした声まであがっている以上、果たしてそう言い切れるでしょうか。
見解の中で貴連盟がこの二分論の根拠の一つとしている「定義」という言葉についても、誤解があるように思えます。先ほどの「議論とは」の部分とやや似ておりますが、定義とは、学者・研究者たちが机上の議論のみで決め付けたものではありません。日本手話という言語を母語とする特定手段が存在すると言う事実がまずあり、観察や研究の結果、その集団には他の集団には見られない独自のものの見方や考え方、つまり「ろう文化」が一定して存在すると、たまたま学者・研究者が発見し、後か定義としてまとめただけです。
「人権侵害」についての貴連盟の見解にも異論がございます。「実際のろう者のコミュニケーションとしては手話はさまざまな形で使用される」とおっしゃるのはまだしも、「日本手話の定義・抽象的理論に異論はないが、具体的にどんなことかと言われるとさまざまに議論が分かれる」との一文、これは、さまざまに議論が分かれるのだから、安易に手話を二分できない。従って、広い意味での手話のろう学校への導入を優先課題としよう、と言う意味でしょうか。(もし私の憶測に誤りがあれば、ご指摘願います。)もしそうであれば、そのような最大公約数的かつ一元的発想での運動は、逆に日本手話を母語とする集団への人権侵害につながる恐れなしとしません。現に見解で「手話はさまざまな形で使用される」と認めておられるのではないですか。私が先に説明させていただいたように、日本手話による教育を実践しているろう学校が0校という現実は、日本手話による教育を要求している者の権利を無視しており、この点で人権侵害に当たるのだろうというものが申立書についての私の見解ですが、更に言わせていただくと、この人権侵害を訴えた者の声をまるで少数意見のごとく処理し、ろう者を分裂させる恐れを孕むといって批判した貴連盟の見解そして、「過去50年の歴史」等といった手話通訳制度の話題を引き合いに出してまで、貴連盟が今まさに推進している多数派よりとも受け取れるろう教育への取組方針こそ、少数派の人権を無視あるいは、ろう学校におけるろう児の人権侵害の歴史の一因となるといえば、言いすぎでしょうか。彼らが手話とは直接のかかわりを持たない日弁連という組織の判断を求めた発想の根底には、こうした「少数派無視」に起因した一種の被害者意識があったのではないでしょうか。
そもそもこのような見解を、しかもこの時期に公にする必要性は果たして本当にあったのでしょうか。この見解を出す理由として貴連盟は「ろう運動との整合性を心配する評議員の声」を挙げておられますが、この一文による説明だけでは余りにも抽象的すぎ、少なくとも私には理由がよく理解できませんでした。この点説明不足だと思います。私が思うに、ろう運動とろう教育、このふたつの分野は確かに密接な関係にあります。しかし貴連盟は「整合性」ということばを用いておりますが、このふたつの分野が整合可能な範囲というものは、あくまで互いの共有しうる一部分であって、ろう教育のすべてがろう運動と整合可能な訳ではありません。その逆も然りです。ですから、今回の人権救済申立行動やそれに至るまでの彼らの活動の経緯を、ろう運動との整合性を心配する声が寄せられただけの理由で、またその整合性に立ってのみの視点から、安易な二分論等を彼らを簡単に非難「断定」できるでしょうか。また、評議員というごく一部からの声が寄せられただけで、連盟の総意とも受け取られかねない「見解」をわざわざ公にするというやり方は、少々行き過ぎではないでしょうか。評議員とは各地域の意見を代表する者として選出される、いわゆる間接民主制をとっているのだから、見解を出す理由になんら問題はないということでしょうか。そうであれば、当初より貴連盟の「総意」にそぐわない要求をもった彼らが、「手話とは何か」という大きな問題について、少なからぬ関わりと影響力を持つ貴連盟にではなく、直接の関わりを持たない日弁連に対して申立を行なった経緯も納得できますが、如何でしょうか。私はここでは何が言いたいのかというと、要は他団体や個人についての見解を公になさるのなら、特に注意をはらっていただきたいのです。
私は貴連盟主催の行事や大会に幾度となく参加させていただき、現在のろう者を取り巻く環境は、ろうへの著しい偏見とそれに起因する誤解があった悲しい過去にあっても運命を呪わず、ろう運動に命を掲げた偉大な先人達がいて、彼らや幾多の無名なる者達の功績によって築き上げられたものであることを学びました。そして先人達から受け継いだ宝は、未来のまだ見ぬ後輩たちのために、今という時代を生きている私たちの手で輝かせねばならないことも学びました。貴連盟にはこうした、何物にも変えることのできない素晴らしい財産と、今まさにそれを受け継ぐことのできる英知と大きな力をお持ちなのですから、彼ら一〇七名のような少数派の声をしっかりと認識し、それが異論であっても時には暖かい眼差しで彼らを見守っていただきたく思います。一聴者である私ではございますが、手話学習者であると共に、ろう女性と結婚を前提とした交際をしております。将来私たち二人の間には、ろうの子を授かるかもしれません。この問題は私にとっても、高い可能性で現実問題となりうるものなのです。そろそろ、一元的な考え方からは、転換・脱却していただきたいと、貴連盟には節に願っております。未来あるろう児のために。
 最後に、私のような若輩者が、自分個人的の意見のためとはいえ、貴連盟への失礼な言葉の数々がございましたら、乱文と共に、ここにお詫び申し上げます。
  
     2003年11月22日   東京都在住 Y


も ど る

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