長編投稿集

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「インテグレートで(「を」ではありません)失敗した親の手記」

                     雪田 香

  〜 どうしてインテをさせたんだろう?? 〜
  〜 ろう学校でもインテをめざす 〜
  〜 普通小への遠い道のり(行政との戦い) 〜
  〜 はじまった、ばら色のはずのインテ生活 〜
  〜 インテの苦悩 〜
  〜 ふたたびろう学校へ 〜
  〜 ろう児の教育には何が必要か? 〜

  1.どうしてインテをさせたんだろう??
 私の子供の聴覚障害がわかったのは生後10ヶ月。「わが子が障害者…!?」と
いう絶望感で頭が真っ白になったとき、医者は言いました。
「大丈夫、補聴器を付けてちゃんと訓練をすれば普通に話せるようになります」
それから、そこの病院の言語指導室に月に一回通うかたわら、毎日自宅で言語指
導室で教わった訓練を行う事になりました。はじめに、家の中にあるもの全部に
白い短冊をつけました。「とけい」「かれんだー」「てーぶる」「ぴあの」短冊
にはそのものの名前をつけて…。そして、強力な補聴器を付けて毎日、毎日、き
びしい訓練をおこなったのでした。

 その姿は、「母と子」というより、「先生と生徒」いや「調教師と動物」のよ
うでした。そう、普通の子供が公園で遊び、絵本を読んでもらうという、とても
幸せな時間を、この子は、訓練にあてられ、怒られ、やりなおされ、時にはたた
かれていたんです。

 言語指導室でときおり行う講演会でも「難聴の子供をいかに普通の子のように
育てたか…」みたいな、そして、そのためにどんなに母子で頑張ったかが語られ
ました。「ピアノが普通の子のように弾ける。」「普通の子と同じ学校に通い、
同じようにサッカーが出来る」すべてにおいて「障害をいかに克服して普通の子
供と同じようになるか」が課題でした。

 年に一度のキャンプで出会う先輩のろう児たちは補聴器はしているものの、発
音はほんの少しへんだけど、普通小に通い健聴児に負けないで毎日がんばって通
っている。そんな子供達です。ちゃんと訓練すれば、健聴児と同じ…。そう、私
の子も障害なんかに負けずこの子たちのように頑張ってもらいたい、この子たち
のように普通小に通ってもらいたい。そんな思いが募るのでした。

 私たちの周りには成人ろう者はおりませんでした。だだ、その言語指導室であ
った先輩のあるお母さんから、「子供が、高校生くらいになると補聴器を外し、
あんなにかわいい声で話していたのに突然声を一切出さなくなる。そして、親を
恨めしそうな目で見るようになる。それは、子供が、ろうの世界にいちゃったこ
とをいうのよ…。」うーん、なんて恐ろしい『ろうの世界』。私の子はいつまで
も私の元にいて欲しいと思いました。でも、本当は、それは逆。自分で自分を知
った頭の良い子は、本当の自分の有るべき姿、に気付き、過去の辛い体験。親の
勘違いを無言で訴えていたんだと思います。成人ろう者をしらないから、ろう者
の社会を知らないから、自分の世界の価値観をすべてとわが子におしつけ、それ
が子供の将来の為と勘違いをしていったのです。

 ところがここ数年で私のであったろう者は、みな一様に素晴らしい人ばかりで
した。フリースクールを開いて、自分たちの後輩に、本当の人間教育をしようと
している若者たち。人間は勉強が大事だと75歳をこえてまだ、文章教室に通う
老人。男の生きざまで息子を叱れるお父さん。皆さんとっても素敵な人達です。
今は、こんな人になれるなら『ろうの世界』に行って欲しいと思っています。

 ろう者にしたくないから、きびしい聴力を無理矢理使かわせ、普通の子供がな
んでもなく入ってくる音を訓練と努力で聞き分けさせる、口の中に指を突っ込ま
れての発音指導をさせる。あげく、出来ないといわれ、努力がたりないといわれ、
やりなおされ、怒られる。目の見えない子に新聞の活字を読め!!足のない子に
速く走れ!!とは言わないのに耳の聞こえない子は、普通を求められる。

 ろうを認めない人達がいう、「健聴の社会観が正しいから、ハンデを乗り越え
てこちらに来い。だって、世界は健聴者の数が圧倒的に多いんだぞ…」みたいな
考え方を私はうっかり信じ込みわが子をインテの道に追い込んだのでした。
  2.ろう学校でもインテをめざす
 ろう学校の幼稚部に入りました。同じ学年に13人のろう児たちがおりました。
ここでは、読話訓練や発音訓練がおこなわれました。口元を隠しまたは後ろに回
り込み問い掛けます。答えられれば良い子。わからない子は、訓練と努力が足り
ない子…とされました。その時は、聴力を考えるより訓練、努力が足りないので
分からないのだと思っていました。今考えればおかしな話です。聞こえないから
読話が必要なのでしょうに…。

 指文字も教えてくれました。発音の悪い子供達にきちんと言葉が入っているか
分かります。聴力の悪い子に50音を確認させられる事ができました。話は横道
にそれますが、同級生に、この指文字を覚えてから著しい発達をしたお子さんが
います。それまでは、聴力が悪く発音も…。当然理解力も低くて、先生は「この
子は知的障害もあるのではないか…」と親に対してはさらに追い込むような事を
言っていたようですが、指文字を覚えてから理解力が高まりどんどん言葉を吸収
して行きました。その子には口話でわかるのは母音の5つの口形の違いだけだっ
たのではないでしょうか。日本語が50音ある事を知ってからどんどん言葉を覚
えました。もちろん覚えた言葉を出す手段は指文字です。この事でも、ろう児に
は、ほとんど聞こえない音声を頼りに言葉を覚える事は無理な…いや、無駄なこ
とだったとわかります。口形、指文字、やはり視覚活用が重要なのです。しかし、
この時この学校では、手話は使われていませんでした。

 クラスは3つに分けられました。5人2クラスと重複クラスです。聞き取りが
良く、発音の良い子供達は、インテを目指せる「おりこうさんクラス」聞き取り
が悪く、発音が悪い子供達は、これからろう学校で学年対応の勉強もできない「
おばかクラス」。私の子供はこの「おばかクラス」でした。授業は5人を扇状に
並べその後ろに母親が先生の授業を真剣に聞きます。もちろん、メモを用意し、
今日、家に帰ってからの訓練に必要な事を書き込みます。先生は子供達にひとり
づつ順番に問いかけ指導します。「きのうは、よる、な・に・を・たべましたか
あ?」「д£йб?∞♂#…」「なにかなぁ、せんせい、わからないなぁ、もう
いっかいいってくれる?」すると後ろから母親が「先生、ハンバーグって言って
ます」「そう?はんばーぐだったの」「それでは、指文字と一緒に『ハ・ン・バ
・―・グ』、そう、もういっかい…。」こんな調子の授業が永遠続きます。隣り
の子供は、ぼーっとただただおとなしく座らせられいます。休み時間はありませ
ん。どうしても時間内に全員が終わらないからです。毎日日記の宿題が出ます。
構文力をつけるためです。発音の練習もあります。宿題を忘れたりすると周りの
母親の視線がきびしいです。あの子のおかげで授業が停滞する。みんなが頑張っ
ているのにどうしてやらないの?みたいに…。ついついお母さんが作文してしま
います。

 普通の子供だっだら、幼稚園は楽園、毎日お友達と遊んで、お絵描きをして、
お歌を歌って…。しかし、こんなに頑張っても普通小にはいけません。先輩たち
を見ると、このまま、ろう学校に残っていると学年対応の勉強なんて当然無理、
小学校2年になって1年の教科書を使い始めるのですから…。下手をすると6年
卒業までに4年生が終わるかどうか…。私の子供は耳が聞こえないけど馬鹿じゃ
ない!相応の勉強はできるはず。いくつかの医療機関と教育相談を受けたけど基
本的な能力は低くはない。といわれ、学校の校長に相談したときには「おかあさ
ん、何をそんなにあせるのですか、ろう学校で多少勉強が遅れていたって、中学
部がある、高等部もある、そして就職だって障害者枠って言うやつがあってちゃ
んとした企業に就職できる。(あんたの子は、馬鹿なんだから)高望みをせずに
今までのように学校に任せておけば大丈夫です。」っていわれました。その一方、
同じ校長が「おりこうクラス」の母親に向かって「この子達が、社会で生活をす
るためには、普通の人達と対等に出来る力をつけなくてはいけない。小学校から
地域の学校で友達を作り、自分のハンデを克服してみんなと一緒にできる力を育
てなさい…」みたいなことをいっていました。

 「おりこうクラス」の5人は、みなインテをして普通小学校にすすみました。
そしてわが子たちは、将来の可能性をここで止められたかに感じました。私は、
何がなんでも自分の子は、近い将来普通小にインテさせたいとそのときは思った
のでした..。
  3.普通小への遠い道のり(行政との戦い)
 ろう学校小学部に入学する前年秋、役所から就学のお知らせが来ました。はが
きにはろう学校に進むようにとの連絡が書かれていました。私たち両親は、この
はがきを持って役所の教育課に、学区の小学校に入学させていただけるようお願
いに行きました。教育課では、ろう学校に連絡を取り「まだ、普通の小学校でや
っていける学力(?)がない」とのことで、この申し出は却下されました。その
決定の後も何度も何度も教育課には足を運びました。学力をつける補助的な手段
として、本当は「難聴学級が欲しい」ろう学校に週に何回か通いながらではどう
か、などなど…。しかし、それも認められませんでした。

 仕方なく、ろう学校に進学しましたが、やはりインテへの思いは断ち切れませ
ん。普通小への転入を目指しました。まず、市長に手紙を書きました。「私の子
供は聴覚障害を持っております。しかし、本人は地元の子供たちと一緒に学校に
通いたいといっております。学力的には多少きびしい面がありますが、この先、
普通の子供達と一緒に机を並べ勉強する機会は年を追うごとに難しくなります。
ろう学校という特殊な環境でなく、地域の子供達と育て、自分の障害を克服し健
聴者の多い一般社会で生活できる子供に育てたいと思います。」そんな内容だっ
たと思います。

 市長への手紙はきちんと届いたようで、しばらくして、教育課から課長と係長
が私の家に訪問してきました。ろう学校のような特殊学校は県のレベル、普通の
小学校は市町村のレベル。ろう学校が転校を認めなければ編入は無理と話をされ
て行きました。しかし、学区の小学校にある『がくどう保育』(働く親を持つ子
供を放課後何時間か預かるシステム)に通う事を許されました。ここで、様子を
見て見ようというわけです。

 ろう学校では、相変わらずの授業が続きました。私は、特に口話訓練を重視し
て勉強してくれるようにお願いしました。しかし、1年の担任は、新任の教師で
訓練どころではありません、子供の指文字すら読み取れないのです。ただ、毎日
書いてきた作文を読ませる事に始終していたように思います。そして、教科書は
はじめのお約束の通り、子供たちの学習できる基礎的な学力が出来るまでという
事で使われませんでした。

 小学校2年の冬でした。再々度教育課を訪ね普通小への編入のお願いをした所、
教育課長が女性に変わっていて熱心に私たちの訴えを聞いてくれました。しばら
くして、突然、教育課から連絡が…。学区の小学校で体験入学をしてみないか、
様子によっては編入を認めます。1週間の、体験の後、教頭に呼ばれました。「
やはり、耳が聞こえないハンデは大きい。普通小では無理」「難聴学級なんて作
れない」そんな答えが返ってきました。学校は教育課の手前体験は受けたものの
あまり積極的ではなかったようでした。

 もう、絶望的になりました。このまま、ずるずると学年対応の勉強なんかをや
る気もないろう学校に通うのかと…。その時、もう一度、連絡がありました。隣
りの学区ではあるが、校長が受け入れに応じている。難聴学級は作れないが特殊
学級があるので個別の指導は受けられる。やはりここでも、1週間の体験入学を
してその結果、前の学校とは全く違う結論がでました。「本人が前向きに一生懸
命やっている」「他の子供とのコミュニケーションはきちんとできる」「勉強の
遅れは特殊学級で個別に教えれば大丈夫」そして、編入許可が下りました。

 やったー。逆転満塁ホームランで、普通小へのインテを獲得できたのでした。
しかし、これも実は不幸の始まりだったのです。
  4. はじまった、ばら色のはずのインテ生活
 小学校3年になる始業式のとき、転校生として全校の前で紹介されました。校
長は始業式の挨拶で、「今年は、みんな、何か頑張る事を見つけよう!勉強、ス
ポーツ、お手伝い、なんでもいい。先生は頑張る事がとても大切だと思います。
きょうは、ひとりとても頑張っている仲間を紹介します。耳が聞こえないのです
が、みんなの仲間に入れるよう本当に頑張っています。みなさんその気持ちをう
けとめてあげてくださいね。」壇上に私の子供を上げて紹介してくれました。そ
して、その瞬間、全校の友達に一生懸命頑張っている子という認知を頂いたので
した。

 担任の先生も、私の子を常に一番前に座らせ、板書をふやし授業内容をそれと
なくノートに書いてくれました。クラスの仲間にも、助け合う事が必要と教え、
聞こえない事の不便さ、どうしてあげればいいのかを話してくれました。指文字
のプリントを配布してくれ、クラスメートの女の子の何人もが指文字を覚えコミ
ュニケーションをとろうとしてくれました。校長もいつも気にしてくれました。
校内では有名人です、どの先生も通りすがりに声をかけてくれます。他の学年の
子供も親切です。授業は学年を落とした勉強をしていたため算数と国語は特殊学
級で個別指導を受ける事になりました。難聴学級でないのでコミュニケーション
が問題でしたが、筆談とゆっくりした口話で何とか学習を進めてくれました。し
かし、聴者の集団の中での学習は難しい。家に帰ってから母親が付き切りで今日
やった勉強の復習をします。それでも授業にはついていけませんでした。友達関
係はまあまあ良いものの授業はほとんどお客様状態になっていました。

 音楽と体育が嫌いでした。音楽の時間はほとんど図書室から本を借りて読んで
いました。体育は着替える事を嫌がりクラスメートがなだめながら連れて行く、
そんな感じです。だんだん、お世話する側と、される側、そんな関係になってい
きました。授業中つまらないので、エスケープするようになりました。クラスメ
ートがみんなで探しに来てくれます。先生も、少しずつ学べばいい、人間関係を
作る事が大切だ。他の子供達にも助け合う(福祉の)気持ちが育つ、問題はあり
ませんと言ってくれていました。
 そうしているうちに、1年が過ぎ、4年生になりました。なんと、残念な事に
良き理解者であった校長とそして担任もが転勤になりました。そして特殊学級の
先生は産休で一年間お休みです。もはや八方ふさがりです。新しい担任は、移動
したての先生。前の先生とはちがい、自分の義務だけ終わらせればいいというち
ょっと冷たい先生でした。エスケープしたらほっておけばいい。みんなでちやほ
やするから何度も繰り返すんだ。そんな感じです。当然、クラスの雰囲気は変わ
ります。授業中の扱いも、情報保証の特別な配慮もありません。子供は授業をエ
スケープする事が多くなり、ウサギが大好きだったので、ウサギ小屋の前でたた
ずんでいることが多くなりました。図書室にも入り浸っていました。そして、保
健室と校長室。校長は前校長の事は全部引き継ぐと明言しており、エスケープ中
子供を校長室に引き入れいろいろ話をしてくれていたようでした。

 最悪だったのが、特殊学級の教師。新任のいわば産休の代用教員。障害児を教
えるすべを知りません。他の自閉や知的障害を持つ子供もただ見守っているだけ、
新しい事、自分が教えられない事は全部宿題にして、自宅でやるように言ってき
ます。親は、勉強が遅れるのは困るし与えられた宿題はきちんとやらせようと必
死になり、時には深夜までかかって、なだめ、おどし、怒鳴りつけ、たたき、宿
題をきちんと終わらせようと勤めました。そんな事をしているうちに親子関係は
どんどん悪くなって行きました。

 親が、自分の子供に勉強を教える。私だけでしょうか、始めは穏やかに教えて
いても、こんな事が分からないのかとイライラが募り、冷静でいられなくなりま
す。子供も親の怒りにおびえ、萎縮して行きます。きびしい聴覚活用を強いて教
え込む事は本当に難しい事で、聞こえないと思うからついつい大声で怒鳴ります。
そして、親自身がどんどん昂奮状態になって最後には怒鳴り散らしているのです。
  5. インテの苦悩
 5年生になり、担任がまた変わりました。今度の先生は、「あれができない。」
「これもできない。」とばかり言ってくる先生でした。連絡帳にいつも、「今日
は、○○ちゃんをぶちました…。」「図書室で暴れました…」「授業中大声で騒
ぎました…」「困ります。お家で注意してください…。」そんな内容ばかりです。
そのたびに、同級生のお宅に電話をして謝り、連絡帳に謝りの文を書き…。そし
て、子供に注意をします。それがたびかさなるうちに子供は先生が書いた連絡帳
を見て、消しゴムで消したり、先生に書くなとゴネたり、時にはやぶり捨てたり
するようになりました。当たり前ですよね、帰れば連絡帳を見てそのたびに叱ら
れるのですから…。授業のエスケープも相変わらずです。4年生のころから、ワ
イヤレス補聴器をつけ、マイクの使用を先生にお願いしてきましたが、授業を受
ける基本的態度が見られないという事で使ってはもらえませんでした。先生の話
している事がわからないから、授業を受ける態度が見られないと思うのですが、
マイクを首からかけているのが重いのか、スイッチのON/OFFがわずらわしいのか、
とうとう使う事はありませんでした。5年生になって、新型の軽量のマイクを購
入、持たせましたがやはり効果が見られないとのことで使ってもらえませんでし
た。

 6年生になったとき1学期の授業参観がありました。算数の授業だったので、
特殊学級での参観でした。そこで、ビックリする光景を見ました。教室の後ろの
箱からプリントを持ってき始めました。以前からプリント学習を中心にやってい
るとは聞いていましたが、そのプリントは2桁の足し算です。「無理に難しいプ
リントをやらせようとすると嫌がりますので…」先生からの返事でした。

 普通小に編入する際に、算数、国語はろう学校で1年遅れなので個別学習で行
い6年終了までに追いつけるよう頑張ろうというもくろみが、このプリントを見
たときまさに絵にかいた餅であった事がわかりました。編入時からほとんど進歩
はなかったのです。家であれほど苦労して教え込んだ九九は使わず、公文式で分
数の掛け算割り算までは理解しているのですが、それもでも学校では子供が喜ん
でやる『簡単な』プリントですましている。勉強する時間としては有効に使える
学校で勉強させず、家で夜中まで親が怒鳴り散らして勉強を進める…。最悪なパ
ターンです。

 3年生に編入したときは、『頑張っている子』だったのが、『困った子』『手
のかかる子』になりました。だから、嫌がる事はしなくていい。無理矢理やらせ
ると、泣いて暴れるのでそのままそっと放置される事が多くなりました。本人も
だんだん「そんな自分で良い」と考えるようになりました。嫌な事は駄々をこね
ればいい。やりたくない事はやらずに済ます。どんどんわがままになってきまし
た。そのうち、学校では『どうでもいい子』になってしまいました。
 私の子の、このインテグレートでの問題点は、やはりコミュニケーションの問
題です。例え、発音が良くても、読話が上手でも何もしなくても自然に入ってく
る健聴児とは違うのです。本人は、聞こえない事に厳しいストレスを感じていま
すし、健聴者の社会では多勢に無勢。不便な点を理解してもらう事も難しい状態
です。そして、いつも『助けてもらう側』。そこから、ずるずると泥沼にはまり
込みました。親は、周囲の人達に迷惑をかけないよう必要以上にナーバスになり、
子供にあれこれ求めます。周囲の人も『かわいそうな子』だから面倒を見てあげ
よう、我慢しようとしています。先生は、どうせ障害があるのだから勉強はでき
なくても当たり前、自分のせいではないと考えます。本人もどうせ出来なくてあ
たりまえ、特別扱いが当たり前になってしまいました。

 インテの目的であった、『地域の子供達と一緒に、周囲に障害の理解を求めな
がら、自らも努力して社会性を身につける』『普通の子供と同じ学習環境を求め、
学年対応の勉強をする』は、3年経っても達成する事はできず、かえって自信を
無くし、わがままが通り、自分自身をあきらめた子供に育っていってしまった事
が残念でたまりません。
  6.ふたたびろう学校へ
 6年生になった4月、ろう学校のときの同級生のお母さんから、耳の聞こえな
い子供のためのフリースクールが始まると聞きました。半信半疑で行ってみると
そこにはすごい数のろうの子供達が来ていました。そして、もっとビックリした
のが、そこのスタッフたちが声を出さないのです。私の子は、手話はわからない
はずですし、そこに集まった子供のうち何人が手話を使えているのかはわからな
いのですが、子供達の視線を集めきちんと伝えたいことを伝えます。なんと不思
議な光景です。学年別に別れた子供達みな一様に明るい顔でスタッフたちと談笑
しています。

 私の子供はそのフリースクールが気に入り月に一回の開催を楽しみに通うよう
になりました。スタッフに親の私が自分の子供の事を聞くと、「今までは、お子
さんはこんな気持ちで過ごしてきた。そして、この学園でこんなふうに学ぶ楽し
さを理解しはじめました。今日は、朝はこんなで、いまはこんなです。」みたい
な、本当に子供の心のひだの奥にまできちんと理解されているのです。これは、
私の子だけではなく参加した子供全員の事が分かっていると聞いてさらに驚きま
した。

 親にも、ろう児の育てかたをアドバイスしてくれました。人間として自信を持
って行くには何が必要か…。でも、なによりそこで生き生きと働いているスタッ
フの姿を見るだけでわが子の将来の目標像があったのでした。

 6月のある日、学校で先生に怒られているとき、私の子供はいいました。「ど
うして、みんな、僕がわからないのにぺらぺら怒るの。どうして先生は手話を使
ってくれないの、そうすれば僕はみんなわかるのに…」先生はショックだったと
連絡帳に書いてきました。親の私もショックでした。自分の子供に普通の子供と
同じになって欲しいと、最も大変なハンディを持った部分で挑戦させていたこと
に気付きました。聞こえない子にあえて聴覚活用を強いて、できない発音を意地
悪く何度も直させ、人間性を認めないような教育をしてきたのではないかと気付
いたのです。聞こえない音声でわからせるより視覚を使った言葉つまり手話で教
えた方がずっと良かったのではないかと気付きました。

 6月の中旬より、近県のろう学校巡りが始まりました。キュード、指文字、口
話…。驚いた事に手話をつかっての教育をしているろう学校はありませんでした。
中には、厳しく手話を禁している学校もありました。ろう児たちの最も不得意な
部分で社会生活を立向かわせようとしているのです。そして、その学校は私の子
が以前通っていたろう学校と同じで、学年対応の授業はされていませんでした。
子供の理解力が低いから遅れるのだそうです。わたしは、そうではなく使えない
聴力だけで授業を行っているから時間がかかるのだと思いました。現にそこで見
た社会科の授業は社会科の授業というより子供達の発音の矯正の時間のようでし
た。5校ほど見学し3校体験させました。そこで同じ学年の子供の数が多く、そ
の子供達に手話環境があり、さらに手話を禁止していない学校が1校あり、その
ろう学校に転校させる事に決めました。7月の夏休み直前のある日に、通ってい
た普通小の校長に話をしに行きました。校長は、「いま、お子さんのためになる
と考えるなら賛成します。でももしそれが失敗だと分かったらいつでも帰ってい
らしゃい。」「お子さんは、充分この学校でもやって行けると思うし、このまま
中学校にも行けると思い、中学校の校長にもお子さんのお話をしてあるのですよ
…」と言ってくれ夏休み中の転校の手続きを快諾してくれました。大急ぎで住所
を移し転校の手続きをして、9月の新学期からろう学校に通う事になりました。

 学区が違うので、通学には時間がかかります。朝は6時30分に家を出て、帰
りはクラブなどで7時過ぎになることもあります。しかし、子供は毎日明るく楽
しく学校に通っています。今まで苦手でエスケープしていた体育の授業もちゃん
と受けるようになりました。だって、もう『かわいそうな子』でも『どうでもい
い子』ではなくみんなと同じだからです。
  7.ろう児の教育には何が必要か?
 私は、体験から次のように考えました。ろう児にはやはり、きびしい聴覚を使
っての言語の教育よりは、視覚を使う言語(手話)で教育をした方が無理がない
のではないでしょうか?これは、聴覚が比較的良いといっても、一対一でのコミ
ュニケーションが可能でも教室のような場所で多くの雑音のなかで、複数の音源
を聞き分けられるのなら良いでしょうがやはり、健聴児と比べ大きなハンデにな
ります。

 インテグレートしての教育はどうでしょうか?ハンデキャップを背負ってそれ
をばねにして頑張る。聞けばカッコイイし、みんなも感動してくれる。しかしそ
れを実践する本人はどうでしょう。大変な事です。逆にそれを求める親が自分で
言語も生活習慣も異なるアフリカの小国に単身でいって生活するって事を考えた
らどうでしょう?普通の学校で頑張るには、考えられない努力が必要なんです。
私の知っているインテで頑張っているお子さんはクラスでトップクラスの成績で
すが、授業はほとんど分からないので自宅に帰って親と学校で学ぶ時間と同じ時
間勉強していると聞きました。

 友達関係もそうです。常に対等に付き合えますか?ボランティアの心にすがっ
ての人間関係では、まだ、幼いうちは難しいでしょう。一対一なら良くても複数
の人間関係を同時にこなすのはむずかしいと思います。コミュニケーションもま
まならなくて感動や心の痛みを伝え共有する事ができるのでしょうか?しかし、
その友達関係で得られる成長は大きいのです。

 ろう学校も、普通小もたいして変わらないのでは?まして、学年遅れの授業で
は困ります。私はそう考えました。しかし、ろう学校にはろう児たちの集まりが
あります。また、先輩や後輩、多くの仲間がいます。これは何事にもかえられな
いものだと思います。ろう学校の中には、口話だけで授業を進める学校もあり、
学年が遅れていても平気な学校もありますが、それは親の要望で変えて行ける問
題だとおもいます。

 先生方がろう児の人格を認め、どうせ、障害児だからこれでいいなんていう考
えは持たないで、本来の教育ということに目覚めてくれれば、子供達の学力はち
ゃんと付いて来ると思います。ろう児を認めるというのは、ろう児に対して最も
難しい聴覚活用と発音を強要するのではなく、ろう児のわかりやすい視覚を使っ
たコミュニケーション方法(手話)で教えてくれればいいんです。

 ここの『全国ろう児をもつ親の会』というのは、そういった意味で活躍されて
いるんでしょう?まず、親が自分の子供を認めきちんとした教育を求めて行く必
要があるのだと思います。

 ろう児を持たれている方は、ろうの成人の方と出会い、話をされる事をおすす
めします。多くのろう者はやさしくまじめで好い方です。たくさんの経験を持ち、
たくさんの心のひだを持っています。できれば、手話を覚えて手話で話しをして
みましょう。フランス人の心はフランス語で、英国人の魂は英語で伝わります。
ろう者には独特の文化があると聞きます。私たちの子供が得るその文化とロール
モデルを見ることができます。きっと、自分のお子さんの将来が見えて来ると思
います。

 私は、この『全国ろう児をもつ親の会』でろう学校にかえろうキャンペーンを
してくれる事をのぞみます。
 そして、返す刀で、ろう学校を変えようキャンペーンをしてもらえたらもっと
嬉しく思います。皆さんはいかがでしょうか?
も ど る

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