長編投稿集

このコーナーに掲載している新聞記事はすべて当該新聞社の掲載許可を受けたものです。
快諾くださった記者・新聞社のみなさま心から感謝申し上げます。


2001/01/22 「『手話は心』川渕依子著」

 みなさん、「わが指のオーケストラ」を読まれたことがあるでしょうか。その主人公・元大阪市立聾唖学校長 高橋潔先生のことを少しお話したいと思います。

 高橋校長は全国のろう学校が、次々と口話法を採用し手話を排除していく中、最後までろう児、ろう者のために勇気と優しさと信念ををもって手話を守り抜いた方でした。その詳しい内容は高橋校長の娘さんである川渕依子さんが書かれた著書「指骨」、「手話は心」、「手話賛美」にあります。是非、読まれることをお勧めします。今までにこんなにも我が子達のことを考え、慈しみ、真剣に思ってくれた人がいただろうか?そのような教育者がいただろうか?高橋校長の心を知れば知るほどろう児をもつ親として、感慨深く思います。

 そしてまた、日本のろう学校はなぜこれほどまでに手話を排除し、口話法にこだわったのだろう。これらの著書を読むとその謎が解けてきます。それは決してろう児のためではなく、いろいろな人間が絡み合い、ろう児ろう者不在のまま決められたことだったのです。日本の聾学校から手話が消え去った日が昭和8年1月29日。今から68年前のことです。
 著者の川渕依子さんに許可を頂き、ここに『手話は心』の一部を掲載させて頂きます。快諾して下さいました川渕さん、ありがとうございました。


『手話は心』川渕依子著 (財)全日本ろうあ連盟 発行より
―――――――――――ここから本文――――――――
第一部2【指骨】より

昭和8年1月29日、
眠れぬままに夜は明けた。
(いよいよ、今日という日がやってきた)
バスルームに入った高橋は、冷水を頭から浴びる。身を切られるような冷たさは、彼に新たな息吹を与えてくれた。
 全身が針のように鋭く感じ、幾度となく水を浴びる彼の体は、徐々にほの赤く、水滴は美しい玉となってしたたり落ちる。
 冷水を浴びた彼は心身共に澄んでいた。彼は思わず掌を合わせた。
 今日の結果が将来のろうあ者の幸せにつながるものであってほしい。そうでなくてはならない願望の心境が、自然に彼をそうさせているのだ。そこに自我、利欲のあろう筈はなかった。こうした土壇場にあって、初めて捨て身の境を知る心地であった。
 丸の内ホテルを出た。常とは変わりない霞ヶ関にかかっていた。幾度となくくぐる文部省の古びた煉瓦造りの建物でさえ、今日は威圧される思いだった。
 (こんなことでは……)腹に力を入れた。控え室には、全国から集まった聾学校長連が、まばらに思い思いに寄り合い雑談をしている。彼らは高橋に目礼を送るのみで、彼の側へは誰も来ない。
「今日の高橋さんはどうでしょうね」
注目の的になっている彼についての話題は、処々でささやき交わされている。
「いいかげんに匙を投げればいいんですよ、まったく頑固ですね」
「いや、今更そうはいきますまい。長年、我々を敵に回して来たんだから」
冷ややかな視線がぽつねんと離れて坐る彼を鋭くさす。
「何といっても今日で最後ですよ。もう少し早く音を上げていればよかったものを。当局がこうも口話万能に乗り気じゃ、いくらあの人が喚いても、ものにはなりませんよ」
「そうでしょうかね。わたしは、あの人の言うことにも一理あると思いますがね」
「おやおや、あなたも手話主義者ですか……」
「いや、そういうわけじゃありませんが、実際ろうあ者から手話をとりあげることは無理でしょう」
「全くですね。それと解っていても……、やはり当局の指示に従うより他ありませんよ、首がかかっていますからね。ふふふ」
「ところで、どうですか……。今日の結果は?」
「やはり口話万能に落ち着くでしょうね。第一父兄がそれを望んでいますよ、どうです、皆さんの方では――」
「親心ですね。ものを言わせたいということは」
「高橋さんには気の毒だが、やはり今日(こんにち)の口話主義の勢いではどうすることもできませんよ、ともかく口話万能主義はバックがいいです。第一文部大臣、それに徳川義親侯もご関心をお持ちと聞いております」
「まあ、楽しみに結果を待ちましょう」
またしても冷笑が低く起こる。つぎつぎと人々は室に入って来た。
高橋は無遠慮な人々の凝視をよそに目を閉じていた。朝食もとらずに来たのに空腹を感じることもなく、一睡もすることのなかった頭は、冴えに冴えた。
(解ってほしい。自分の今日言わんとすることが……。どうしても解ってほしい。いや、解らせなければ、ろうあ者にとって、とり返しのつかないことになってしまう)
そう思うと、必死のあがきがこまかい身震いとなっていた。
(またしても、このようなことでは。豪気な気でいたつもりだったが……)
二度と来ぬ機を迎える彼の心に、断末魔のようなおののきが祈りを越えて身におそいかかるように思えた。

定刻午前9時、総会の幕は切って落とされた。全員席に着く。殺風景な部屋にそぐわぬ菊の大輪が部屋の隅の花台に盛られている。
 当時、ろうあ教育界には口話主義教育が全国を風靡していた。そんな中で高橋を始め2,3の反逆者といわれる者が手話の危機を辛うじて保ちつつあった。いずれもろうあ者を愛するが故の戦いは厳しかった。ろうあ教育を口話万能に決定するか否かが、今日の総会の第一の目的であった。賛否の差ははなはだしい。高橋にとっては危ない瀬戸ぎわというよりも止めを刺される一瞬を、総ての人が予期していた。出席者全員、反論に出るであろう高橋に嘲笑と憐憫の視線を向けていた。
 予定通りの開会の辞。それに続き局長が文部大臣の訓示を代読した。またもや口話奨励、それは高橋の胸を圧迫し、他を慢心させた。高橋は立った。聞くまでもないというような白々しい冷笑を意識して甘受していた。
 「しばらく、私の申し上げますことを、何卒冷静にお聞き頂きたいのであります。恐らく皆さまは、今日、私が今更この機に及んで何を言うであろうかと、お思いのことと存じますが……。ともかく我々ろうあ教育に携わります者は、その方針が如何に異なりましょうとも、共にろうあ者の幸せを願い、彼らを愛することに於いては一致することに変わりはないのであります。お互いに反目しあう……、まことに悲しいことであります」
 高橋の心はあくまで静かであった。だが、冷視を伴うざわめきは、彼の言葉を聞こうとする情をもってはいなかった。
 高橋は一段と声を張り上げた。ちらっと、菊の大輪が目をかすめる。彼の心とは別な、おおらかな開花であった。
 「『ろうあ者は少数であって、正常者は多数である。少数者は多数者の犠牲になってもらわねばならぬ。故にろうあ者は手話を止めて口話に改めねばならぬ』これが当局のお言葉でありました。
 異常者を正常者に近からしめんとすることは、それは教育の理想であります。これの実現に努力されますことは実にご立派なご決意であり、私はその勇気と、努力に対して心から敬意を表する者であります。
 さて、……、教育は実際問題であります。私は決して口話法を非難するものではありません。むしろ、それの出来得る者には、即ち言語界に残聴ある者、また、かつて言葉というものを聞いた者、それ等の者には適応致しましょう。しかし、聾なるが故に唖なる者に言葉を教えるということに疑問が生じるのであります。言葉でない単なる発音、発語を通して如何にして彼等に人間性を教えられるでありましょうか……。口話法は単に平面的なことのみ教えるには可能でありましても、内容的な心の深部に入る人間性の教育には無理であると申さねばなりません。
 ここに、口話法よしとして、すでに皆さまには口話教育をしていられましょうが、6年教育を不足とし2年の予科をおき前後8年をもって正常児の6年課程とされていられるのでありますが、それであっても、それが大変に困難なるものであるということを痛感していられる方々が、この席の中に必ず大勢おいでになる筈であります」
 途端に起こる騒めきに高橋は息をついた。だが、彼はたじろがなかった。

 「失礼ではありますが、現在の口話主義学校におきましては参観者と対談させたり、或いは、ラジオに放送させたり致します、いわゆる看板生徒の中には、かなりの成績を上げている生徒もありましょうが、それはせいぜい10中の2、3にとどまり、残る7、8の犠牲者を如何にして救うのでありましょうか、それに看板児とて正常者とは全く同様とは申せません。ろうあ教育は決して富豪、有閑社会の子弟のみの教育ではありません。また、天才教育でもありません。少数者を教育するがために多数者は指をくわえていろと言われるのでありましょうか」
 言葉はよどみなく流れ出る。
 「こうしてお話しいたしております私に、只今しゃべることを止めよ、そうして他の方法で自分の言いたいことを話せと申されたといたしましょう。いえ、私だけではありません、皆さまも同様……。自分の意志を自由に表すことのできない苦しみは恐らくご想像のつくことであろうと思います。現在、ろうあ者は従来使い馴れた手話を取り上げられようとしております。いや、もう既に口話徹底のために手話を厳禁されていられることと存じます。指一本の動きで幾多の意志表示のできる手話にかわって、自分の耳にさえ入らぬ一つ一つの発音を苦しい思いをしてやらされているのであります。それは発音であって意味を持った言葉ではありません。内容を把握することがなければ、それは単なるものを言う人形に過ぎないのであります。
 彼等は学校という中で大いにこれを使い練習もするでありましょう。しかし、その対象は先生と名のつく人であって、彼等同士の語らいは何をもってなされるのでありましょうか、彼等同士の語らいも、これをもってせよとは……。まず、彼等の社会を考えてやるべきではないでしょうか。
 せっかく、習い覚えた口話を、かりに自信を持って、おおいに使用しようと社会に出た彼等の発音が一般と異なることを、やがて気がつくでしょう。それは口話を彼等から離してしまうことになるのであります。なぜかと申せば、彼等の発語は彼等が自分自身の耳でたしかめることができないからであります。口話法による発言は悪く言えば、人にもよりましょうが一般社会に於いては通じないのであります。ろうあ者の本来の言葉は、やはり手話であります。人類の発展の歴史から見ても、意思表示の最初のものは手真似であり身振りであり、動作であります。
 故に私は、ろうあ者の人間教育には手話をおいてはないと申し上げたいのであります。世間一般に、そうしてろうあ者の総てに通用することのむずかしい口話法、人間の物の見方や、人生の考え方を教え得ぬ口話法は教育という面に於いては、とうてい手話法に及ばないのであります」
 (今をおいて言うべき時は無い)、彼は胸の中でそう思っていた。凄惨なまでに血走った眼で満座を見まわした。
 「中央崇拝、形式模倣は目下、我が教育界一般の習であります。今や、どのような田舎のろう学校におきましても、はかどらない口話万能主義を忠実に守っていられるように見うけられます。
 ところで……、私は過日、口話万能主義の某学校を参観いたしました。丁度3年生の修身の時間でありました。
 ワタクシハ、カミサマニ、オマイリシマス。
 ワタクシハ、オトケサマヲ、オガミマス。
と、1時間にわたり、僅かこの2条を繰り返し教えていられました。もうここに至っては修身というより、国語の、否、口話の練習としか思えないのであります。
 彼等の親たちには、日雇い労務者あり、貧しい行商人もあります。また、血族結婚なるが故にろうあの姉弟をもち、日々苦しい生活を続けながら、不幸児の独立の一日も早からんことを乞い願っている者もあります。何卒、この点充分にお考え頂きたいのであります。」

 「ろうあ者がろうあ者であることを、なぜ恥じねばならないのでありましょう。世の親たちは、なぜ苦しい口話を強いるのでありましょう。親心とは申せ、それは大きな間違いなのであります。吾が子にものを言わせたい、たとえ「オカアサン」と、呼ばれたとしても、その言葉の意味を把握していなかったとすれば、それでも満足と申せるのでありましょうか。まこと、子どもを愛するならば、子どもそのものの幸せを考えるべきでありましょう。

 親が見栄や外聞を恥じ、生まれ落ちると共に冷視された彼等の心の中に、人間としての宿業を、そうして何等恥じるべき人生ではないことを説き聞かせる教育、それと共に親自身、吾が子を愛する心こそ、やがてその子の心の中に、ほのぼのとした灯となって燃え続けて行くのであります。

 親の心、親の涙が解る人間となって彼等が、たとえ「オカアサン」と、呼んでくれなくとも共に泣ける子であったなら、それ程、幸せな人生はないのであります。要するに彼等は自分の意志で聾となり、唖となったのではありません。何ら恥じることはないのであります。彼等には堂々と闊歩してよい世界があるのであります。卑屈にならず、愉快に人生を送れるような心を持つこと、それは教育をおいてないのであります。それこそ、我々教育者のまことの仕事であると信じるのであります」

 緊張感と疲労は、自信のある声量にさえ、狂いを生じさせた。だが、身に受ける微妙な変化を感じる心のゆとりは保ち得ていた。彼の額から流れ落ちる汗を見逃す者はなかった。寒風が窓を叩く。

 「長い間のご静聴心より感謝致します。まことに、くどいようではありますが、最後にもう一度、要点を申しのべさせて頂くことをお許し願いたいのであります」

 一礼した

 「まず、第一に、人間が人間として生まれた喜びを知ること、ろうあ者が聾唖という宿命をもって生まれたことに対し、自分の障害を自覚し、これに積極的な人生観を持たせることが教育として第一にしなければならないと思うのであります。ろうあ者が聾唖という障害を恥じたり、親を怨み、社会を、神仏を呪うようなことは教育として最も恥じなければならないところであります。ものを言う術をいくら教えても、人間の生きる指針を持たない者は、魂のない人間ロボットとも言えましょう。長い人生、自分を自覚し、自分の生きて行く目的を持つこと、これが動物と異なるところであります。ろうあ者は動物ではないのであります。

 心の問題まで完全に発表できる手話法によって、まず、人間をつくること、これが教育としての先決問題であると信じるのであります。

 次に、ろうあ者は少数である、だからといって多数なる正常者の言語を強要されるところに疑問があるのであります。


一、 口で話すことは耳と相まってその用をなすものでありまして、耳に訴うべき言葉を目に訴えてする口話主義に無理があると思うのであります。

一、 中途失官者、残聴者には、口話よしとするも、これをもって一般ろうあ者に強いることに無理があると存じます。

一、 故に10中2、3をかろうじて教え得ても、残る7、8人の犠牲者を如何になさるかを、うけたまわりたいものであります。

一、 口話可能といたしましても、多年の年月と、多くの労を要し効果の比較的少なきこと衆知のところと存じます。

一、 一対一の場合、また少数の場合は口話も可能でありますが、大勢のろうあ者の集まりの場合、遠くから見ることができましょうか、ろうあ者を一堂に集めて講話をするというようなことができましょうか。

一、 手話は、すこぶる簡単敏速に意志を伝え、総てのろうあ者を満足させるものであります。また一般には筆談を用いできる者には口話を併用する。また、口話力も文章力も手話から入ってゆけばいかがなものでしょうか。

 最後に申し上げたい。口話に適する者には口話法にて、適しない者には手話法にて、一人の落ちこぼれのない教育、いわゆる適正教育を最もよしと信ずるものであります。教育は万能ではありません。可能の範囲において運命に順応でありたいと願うのであります。

 以上をもちまして終わらせて頂きます。これが私の総てとは申せませんが、既に時間も経過いたしました。何卒、くれぐれも皆さまのご厚意ある、ご一考を乞い願うものであります。高橋個人の願いと申しますよりも、全ろうあ者が私をして、言わしめているのであります。ありがとうございました。」

 口話万能主義に巻き起こした大センセーションは、ろうあ教育を口話万能を以て決とすることをはばんだのであった。

 日本ろうあ教育史上記念すべき日と、彼は言う。ろうあ者から完全に手話を取り上げることのできなかった日とも彼は言う。即ち大阪市立聾唖学校のみ手話の一脈を保ち得たと言うのであろうか……。
                   (以上『指骨』より抜粋)

 現在、文部省は、手話を禁じたのではないと言う。事実、大阪市立校は堂々と手話教育に適する者には手話で教育をして来た。もし大阪市立校も他校と同様、教育の場にて手話をしていなかったならば……と、思う。

【財団法人聴覚障害者教育福祉協会発行の、「聾教育百年のあゆみ」の中より】

『文部大臣訓示のくいちがい』と、題して、手話と口話をめぐって、二人の文部大臣の訓示がくいちがい、聾教育界は騒然となった。

 二人の文部大臣というのは鳩山一郎と荒木貞夫。初めは昭和8年1月27日、文部省が開いた全国盲聾唖学校長会議の席上、鳩山文相は「…聾児にありましては日本人たる以上、わが国語をできるだけ完全に語り、他人の言語を理解し、言語によっての国民生活を営ましむることが必要であります。……全国各聾唖学校においては聾児の口話教育に奮闘努力……」と、口話法をすすめる訓示をのべた。

 このときの会議のようすについて、樋口長市は、「当時わが聾唖教育界には、手話、口話の論争いまだ全く止まず、ことに新任の校長中にはいずれに適帰すべきかに迷いいたるものも少なくなかった際とて、この一★は全議場を緊張せしめ、……これを聞いて"口話法は国定となりたり"と合点したのも、また無理からぬことである」と書き残している。

 会議の最終日、文部諮問の「盲唖教育の振興に関する適切なる方法如何」に対して答申案を審議する段になって大阪市立聾唖学校長・高橋潔は、手話学級設置の必要なこと、世間には手話法を、世間には手話法を口話法の敵のように考えているものもあるが、その実、口話も手話から進むほうが近道であり、児童には口話の能を有するもあり、手話の能に長ずるもあり、また指文字に適するものもある、と日ごろの主張をのべた。その発言中にあちこちから「議長」「議長」と叫び立つものがあって、「議場は一時蜂の巣を突きし如きなり」というありさまであった。

 ついで昭和13年10月4日、やはり文部省が招集した全国盲唖学校長会議に、荒木文相は訓示の終わりのほうで、「昭和8年の会議において訓示のありました口話法は、各位のご努力によりまして大いに普及発達して参りましたことは聾唖教育進歩の一証として真に欣ぶべきことであります。が、これに熱心なる余り、いやしくも口話法に適せざるものにもこれを強い、ためにかえって教育の効果を阻害するが如きことのないよう、適当な省察を加えられんことを希望いたします」とくぎをさした。

 この訓示をきいて各校長は、文部省が180度の転回をしたと、喜ぶものあり、また呆然自失するものあり、とにかくこの一石は、聾教育界に大きい波紋を描いた。

                       (聾教育百年のあゆみより)

 私はこの文中、「議場は一時蜂の巣を突きし如きなり」というありさまの中、文部省と日本各地聾学校長を向こうに回して孤軍奮闘する父の心中が、痛いほど想像される。

 父が母に宛てての手紙。

〓〓〓文部大臣の訓示、またも同じく口話奨励。

 連中、これ見たかと得意満面、ホテルに帰っても眠られず、とうとう今は1時過ぎ、29日となった。今日の説明を考う。

 口話万能の連中に、とどめをさして、われ生きるか死ぬかの別れ目。彼等の後には文部大臣の奨励あり。

 われは、大臣始め当局の認識不足を正す方。しかもわれ一人。賛成は、まあまあ二人位の見込み。これは口添えする人。他にもあるが、これは、当然と思いながらも沈黙主義。

 当局の前に、言うだけは言って、この年来の苦しみ、胸をも裂けよと捨身のかまえ。

 口話万能、破れるか否かの瀬戸ぎわ。彼等も捨身。

 昭和8年1月29日午前、我が国聾唖教育史上記念すべき日なり。

 今日は日曜日、皆楽しき夢路ならん。

 ホテルに一人考える身は、たまらなく淋しい。こんな時側にあって励ましてくれる人あらばと思う。しかし、御身の理解を思えば心強くなり勇み立つ。

 やります。必ずやります。言うだけは言います。将来の聾唖者の為に。

 父の決意がわかる。私はこうした父を見て育って来たのだ。父は将来のろうあ者のためにと言っている。その将来が今だ。父の苦しみが大きければ大きいほど今が尊い。……

【徳川義親さまのこと】

 徳川義親さまのことを書きたいと思う。

 尾張名古屋の殿様であった徳川様は、はからずも滋賀県立聾話学校創立者である西川吉之助先生と知り合われた。己が娘はま子さんに口話法教育を施して、ものの見事に成功され、我が国口話法の我が国口話法の生みの親ともいえる西川先生に対して力強い協力者となられた。この事が徳川さまをろうあ者とのかかわりへ導いていったことになる。徳川さまはろう教育振興会会長、後に全日本聾唖連盟総裁となられた。

 私が徳川さまのお名前を耳にしたのは、まだ小学生の頃であった。父と母との会話の中で時折、徳川さまという名が出た。私はわけがわからないままに、偉いお方だと思っていたものだ。やがて、おぼろげながらもわかってきたのは、その方が今までは父と反する考えをもっていられたが、父の思っていることに対し漸くご理解いただけたということだ。私の瞼にやきついているのは、そのことについて父母が涙を流して喜びあっている一こまだった。

「長い間、本当にご苦労さま。よくここまで、がんばってくださいましたね」
と、いうような言葉が母の口から出たようだった。私は、ともかく、父も母もうれしいことなのだと思っていた。家の中にあった暗いとばりがとり払われたような、そんな感じをうけたものだ。徳川さまというお方は本当にありがたい方なのだとも思った。

 昭和15年11月16日、父の学校の恒例となっている「手話劇の夕」が、大手前の国民会館で開催されるのだが、それに徳川さまが東京より来られるということで、我が家の空気は何となく、はずんでいた。その頃私は、女学校の5年生になっていので、たずねるまでもなく、父母の会話の中に、父の苦労がやっとむくわれかけていることを感じていた。毎年のことだが、その年、母は特に切符を売ることに精を出しているようだった。母もうれしいのだなあと私は見た。

 しかし、当日の朝、母はみまかった。父は母の死を秘めて大会に出るのだ。この感激と喜びにひたることのできなかった私の家は、そうして父は、それを機に家庭的に淋しい日をおくることとなった。

 徳川さまを思うと私の思いは母の死につながる。しかし、母は喜びの中に死んでいった。思いようでは幸せな人だったともいえる。そう思えば徳川さまは本当にありがたいお方である。

 昭和42年、『指骨』を、徳川さまに贈った。時代は変わっているとはいえ、私のような古いものには、それこそ、おそるおそる郵送したのだったが、うてばひびくように受け書が届いた。おどろいた。私にとっては思いもよらなかったことだし、というよりその内容におどろいているのだ。

《 御著書、まことに有り難う御座います。昭和15年11月の大会の日、私はどんなに感激しましたでしょう。先生が涙を流しながら、併し何事もなかったようにしておられたお姿をはっきりと印象に留めております。口話と手話で先生と激論をして、初めて先生の真意を知り、考えを改めなければならないことを教えられ頭がさがりました。正しい教育者、そうして他を見まわした時、多くの教育者にあいそをつかし、教育振興会を辞職して、聾唖者の福祉の問題を特に考えるようになりました。手話も口話も要するに愛情の問題。口話法が多くの校長、先生方の点数をかせぐ手になろうとは。それを思って高橋先生をしのんでいます。  高橋先生も西川先生も愛情の人、本当に感謝しています。

                               徳川義親 》

 昭和14年、西川はま子さんは思いがけなくも、父を訪ねている。手話をきびしく禁じ、徹底した口話法教育をうけた日本のろうあ者の、また、ろうあ者をもった親たちの、それ以上に口話法教育者の、かがやく星でもあったはま子さんが、こともあろうに、一ばん攻撃の的であった父のところに来た。父はきっぱりと断っている。それははま子さんが父西川先生に黙って来たこと、そのことは西川先生の立場を悪くし、また、それまでの協力者であった徳川さまにも迷惑をかけることになる。もし全体がよいとされたら喜んで迎えるということであった。

 翌15年7月18日、西川先生の悲しい死、それは溺死であった。その翌16年、あらためて、はま子さんは父を訪ねた。徳川さまの口添えもあってのことだが、嘱託職員ということで迎えられている。

 はま子さんの手記の一部に、

== 私は口話法で教育され、立派に成功した者と言われてよいのか。亡き父も私に言葉を教え、物を言わせることに成功したものの、果たして自分の子と同様に他のろうあ者にも充分に物を言い、書けるようになった人があまりにも少ないことを見て秘かに苦しんでいたのであった。当時は口話法万能時代で亡父も口話法の踏切をふみ出したかぎり、尻込みできず心にかかりながらも、口話法のためにつくしたのであった。==

 私は一度徳川さまという方にお目にかかりたいものだと思っていた。いただくお便りの書体からして、おやさしい方だろうと思っていたし、また、そのやさしい書体の中にひそむ内面のいさぎよさがしのばれた。なつかしい方に思えてならない。父や母の苦悩をぬぐってくださった方なのだ。去りゆく母に安堵をあたえてくださった方なのだ。母は大会で徳川さまにお目にかかれることを待ちわびていて果たさず逝ったのだ。私は母に代わってお礼が言いたいとも思った。

《 お手紙拝見しました。私も大分弱りましたが元気だけはよろしいです。なるべく外出しないようにしていますから、むしろ御都合よい時、連絡してくださればお待ちしています。もっと、のどかに考えてください。私はそんなに偉い人ではないのですから。教育者には本当の教育者と、自分の為のことばかり考えている教育者とあります。昔の話をゆっくりしましょう。
                              徳川義親 》

 私が目白の徳川邸を訪ねたことは言うまでもない。まことに、おおらかな方であった。純粋な方でもあった。さすがにお殿様だと思った。

「当時、私は口話法こそ本当のろう教育だと思っていましたから、そうすんなりと、お父さんのおっしゃることを、うけとめることはできませんでした。だから二人は机を叩いて激論をかわしました。あのように激しく話し合ったことはそれまでにありません。お父さんは私のことを、"これほど申しあげてもおわかりいただけないとは、失礼ながらあなたさまは馬鹿殿さまです"と、言われたのです」

 私は動悸に胸が苦しく顔が赤らむのをかくしきれなかった。
「まあ……」
 戦前の侯爵さまに対して何と失礼なことを、父も失礼だとは知っていた、だが言わずにはいられなかった必死の父のようすがうかがえるのだ。

「本当に申しわけございません」
「いいや、それでよかったのです。私は目が覚めたのです。そうして私は負けたのです」
 なんと、すがすがしい言葉として私の耳に入ったことだろう。
 昭和50年、名古屋において全国ろうあ者大会があった。徳川さまは、ご自分の地元での大会であり、ご出席なさりたかったのであろう。ご老体をおして、全日本聾唖連盟総裁、大会総裁のお立場としてのご出席であった。そうして、これが最後の大会ご出席となった。

 この時の式辞の中に、

「『足を知って、以て自ら誡しむ』と、いう言葉がある。すべてのことに謙虚に心がけたいものである。口話法の創始者西川吉之助さんと娘のはま子さんを紹介された時、私はすっかり感心してしまった。当時のろうあ学校は全部手話法ばかりであったが、口話法でこのくらいにものが言われるのだから、各聾唖学校でも考えてもらいたいと西川さんは、全部自己負担で全国に宣伝したいから文部省もそれを認められたいと全国行脚をやられた。ところが、これは薬がききすぎて、やがて殆ど全聾唖学校が口話法を採用してしまった。そうして従来手話法で育った卒業生を口話法教育の邪魔になるからという理由で学校へ来ることを禁止し、福祉の仕事もやめてしまった。これは、ろうあ者の為でなく校長、先生たちの点数をかせぐ為なのであった。

 その頃私は大阪に行ったので大阪市立聾学校に高橋先生を訪ね、口話法と手話法について議論した。すべての学校が口話法になったのに高橋校長は口話法と共に手話法も大切であるとして、むしろ孤塁を守っていたのである。高橋校長と議論した。負けてたまるかと、喧嘩腰の勢いであった。しかし聞いているうちに、考えると私の言うことより筋が通っている。私は突然立ち上がって『負けたあ』と、怒鳴ってしまった。高橋さんは、びっくりしてきょとんとしていた。『私は負けました。あなたは経験者、私のは机上の空論です。私はご指導に従います』と、言って手を握った。

 高橋さんは正に情熱の人、夫人が亡くなられた時も、涙をこぼしながらも学校の会に出て来られて世話をしておられた……」

 昭和33年1月9日、父は他界した。すでに久しいというのに徳川さまの胸の中には、まだ鮮明に父が生きているのだと思った。もう、父の名を口にする人は、ほとんどないと思っていたのに、この名古屋大会に残してくださった式辞。私は心から拝む気持ちだった。

 50年5月の名古屋大会が終わって6月23日付、

《 この21日に全東京聾唖者連盟主催で第6回ウェルフェアショーが開かれ、初めて手話劇ヴェニスの商人が演ぜられました。秩父宮妃殿下も台臨。手話法もここまで発展しました。大阪で私も手話法のことを知ってから何十年。ここまでになったのは当然とはいいながら、考えさせられるものがあります。

 劇が出来るまでの苦心。それだけ劇は上出来。気がついたことは、言葉だけで進行する劇より身体全体を動かして説明している手話劇、仲々面白く見られます。もっと研究すると更によくなりましょう。おとうさんが見られたら、よろこばれましょう。また、別な工夫もされることでしょう。

 東京でも通訳者が百人近く出来たようです。一口に言えば進歩。幸福。やりがいのある仕事。
             徳川義親 》

 手話劇をご覧になって父を思い出してくださったのだろう。そうして、また、私を思い出してのお便りだった。

 そうして、徳川さまの最後となった便り、

《 人は一代だけのもので死んだら、それでおしまいです。よく、忘れられてしまうと、いわれますが、実は忘れるのではなく知らない人ばかりになることです。仕事だけが残っているのです。それでもよく、どこかで役に立っていたらよいでしょう。

 おとうさまのこと、私が生きている間は忘れやしません。あの情熱は大したものです。それがつもって聾者はよくなります。朗らかに、楽しく生きてゆきましょう。
             徳川義親 》

 忘れやしないと、言ってくださった徳川さまは、もういらっしゃらない。徳川さまのことも知らない人ばかりになるだろうか。やはり私は日本の聾教育の一つの歴史を知っていてほしいと願うために、書きのこさねば。

 このほど、滋賀県ろうあ協会の元役員が、
「これは、昭和47年、学校創立者の西川先生の遺徳讃えて記念像の建設を計画した時、徳川さんからいただいた葉書です。はからずも今日まで、私が所持していましたが、これは依子さんにお渡ししておくほうがよいと思いますから」
と、くれた。

 宛名は、西川吉之助先生記念像建設委員会御中、となっている。

《 西川さんの像、多年願っていて私自身、幾度か失敗して気にしていましたが、今年みなさまの御尽力で完成されましたことは、うれしいことです。

 西川さんに対して私もまた、多くの関係者、教育者も西川さんの口話教育の絢爛たる成功に眩惑されて聾者の福祉のことも西川さんの生活のことも忘れてしまっていたのでした。西川さん一家をあれほどまでにおとしこんでしまったこと、何とも申しわけのないことでした。

 私を口話法一辺倒から、ろうあ者の福祉、手話法の必要などについて教え導かれたのは、大阪市立聾学校の校長高橋潔さんでした。高橋さんと散々論議して、とうとう見事に負けて、そうして私は救われたのでした。立派な校長さん。冷静に反省すると教育者の多くが聾唖者の福祉より、自分の出世を考えていたということです。それで私は聾教育振興会から退いて福祉を主にして、ひろくろうあ者の為に尽くすことにしました。高橋さんのような校長さんがほしいものです。

 西川さん、高橋さんはじめ文部省のお役人で聾唖者の為に骨を折って下さった方々の事いずれ調べておいて感謝したいと思っています。いろいろ有難う御座います。
          徳川義親 》

 私に、この一葉の葉書をくれた意味がよく分かった。そうして、その心づかいを感謝している。

 私は、このようなものが来ていたとは夢にも思わなかった。まして個人宛のものでもないのだ。かつては口話の西川、手話の高橋と相反する道をゆくものとされ、いまだに、手話をすることを不満に思っている人もあると聞く。この滋賀の学校に、一ばんの協力者であった徳川さまが、このようなものを出されていたとは。私に宛てたものだけではなかったのだ。西川先生の口話法教育に対する献身と愛情は素直に高く評価されているのだが。我が国のろう教育史の中で、何のてらいもなく、公平に見て来られたお方は、おそらく徳川さまお一人ではなかっただろうか。 

                                抜粋 終わり



「全国ろう児をもつ親の会・事務局より一言」

 高橋潔校長の娘さんである、川渕依子さんの書かれた「指骨」「手話は心」は残念ながら絶版になっております。しかし、2000年10月に出版された「手話賛美」(サンライズ出版)にそれらの一部が転載され、更に詳しい内容が書かれております。是非一読をおすすめ致します。


も ど る


2000/12/10 「 障害の受容 」

        ―我が子の場合―

       Kろう学校PTA研修会での講演記録

                ろう児をもつ母  Sさん

        (1)16年前「手話」を見た日 (12/11)
        (2)聞こえる人のように…聞こえる人に近づけたい (12/11)
        (3)我慢している子ども達 (12/12)
        (4)雑談したがっている子どもたち (12/13)
        (5)生徒会副会長の体験 (12/14)
        (6)仲間達との出会い (12/14)
        (7)聞こえない者として生きる (12/15)
        (8)大学生になって一人暮らし (12/15)
        (9)手話も口話も…そして心豊かに (12/16)
        (10)きこえない人達から学ぼう (12/16)
        (11)母親としての願い…きこえない子らの自立のために (12/18)


講演記録

 この講演は平成3年11月にKろう学校で行われました。聞こえない息子

さんをインテグレートさせたSさんが、その体験をお話しされたものです。

またSさんは同年、NHK教育テレビ「聴覚障害者」の番組にも出演されま

したその時、聴親であるSさんは手話で「手話の否定は聞こえない人の否定

につながると気付かなかった」と話されたそうです。
 1. 16年前「手話」を見た日
 ろう学校に通い始めたある日、私はKヶ丘から息子(3歳)と共にバスに

乗りました。5〜6年生が4〜5人乗っていました。盛んに手話で楽しそう

に話しをしていました。私は口で簡単なことを聞きました。でも、子ども達

には二回聞いても通じませんでした。子ども達は不安げな表情を見せました。

なんだかとっても子ども達にすまないことをしたような気持ちになりました。

筆談など思いもつかなかった頃です。すまなかったという気持ちと同時に聞

こえない人だけが分かる言葉を教えても仕方ないという考えを持ってしまっ

たのですね。その時は偏見と私自身まったく気付いていませんでした。

 2.聞こえる人のように…聞こえる人に近づけたい
 ろう学校に入れながら、聞こえる人に近づけたいとばっかり願っていまし

た。そうしてやることが親として当然の責務であり、幸せにつながる道だと

思ってしまったのです。以前の私は”ろう者はろう者のままで立派になれば

いい”という考えは頭のどこにもありませんでした。聞こえない人をお手本

にするようにとか、聞こえない人から学びなさいと言ってくれた医者や先生

は一人もいませんでした。筑波大学の前身、東京教育大学付属ろう学校の校

長先生萩原浅五郎先生は、よく「聞こえない人のことは、聞こえない人に聞

け」と言っておられたと何かの本に載っていて読んだことを覚えているので

すが、残念なことに当時の私はその本当の意味を理解していなかったのです。


 あらゆる努力をして聞こえる人に一歩でも二歩でも近づきたい。そればっ

かり。親の私に障害の受容がまったく出来ていなかったのです。私にとって

息子のモデルは聞こえる子でした。子どもは障害の認識もはっきり出来ない

し、親にされるがままですね。でも子どもは喜んで言語を身につけましたし、

体験もたくさんしました。本も良く読めました。

 3. 我慢している子ども達
 難聴学級やインテグレートをした子ども達の毎日はとても余裕のない生活

です。聞こえない授業を一日4〜6時間も我慢強く受けています。落ちこぼ

れないように母さん達は必死です。親が子どもの家庭教師を毎日毎日やって

います。予習をしておかないと先生が何について説明しているのか、とっか

かりがつかめないからです。「先生!わかりません。」とばかり言っていた

ら授業は進みません。だから、分からなくても小さいうちは我慢をしていま

す。


 今のインテグレートは、小、中、高、大どこに行っても聞こえない子の学

習権は保障されていません。口話の、早い授業についていけない。友達との

コミュニケーションがスムーズにいかない。いろいろ悩みはありながら我慢

しています。聞こえないのは自分一人だから遠慮して生きているうち、生き

方まで消極的になりやすいのです。


 ろうの子はろうの大人になります。聞こえる人に近づけても、聞こえる人

にはなれないのです。聞こえる人と共に生きる方法とか、聞こえる人の感覚

はインテグレートで育ちます。学力も付くと思います。けれど残念ながら、

聞こえない人の生き方を学ぶ場がないのです。

 4. 雑談したがっている子どもたち
 「聞こえないんだから仕方がないわ」とあきらめてしまう人、「学力さえ

あれば将来何とかなるのでは」と考える人、様々です。しかし皆一様に友人

の話にまざれず淋しい思いをしているのです。子ども達は周りの人々と雑談

したがっています。会話に飢えています。「うちの子は話ができるから」と

言う親さんが時々いますが、聞こえない子は親との話でさえ相当神経を張り

つめて聞いていることを分かって欲しい。いつも聞き漏らすまいとして会話

は楽しくないと言っています。50〜60db位の子どもさんでさえ「手話

が分かって、おばさん楽しい。会話が楽だよ」と言いました。


 親と子の間での心和む会話、先生と生徒との間での人間的な心和む会話は、

十分日常的に成されていましょうか。心の成長のあるような会話…これが日

常的に必要なのです。一対一で出来る会話も多人数ではお手上げです。討論

して高まると言うことが出来ないんですね。

 5. 生徒会副会長の体験
 中学2年の時でした。息子は学級の推薦で断りきれず、生徒会の副会長に

立候補し当選してしまったのです。とにかく選ばれた以上はやるしかありま

せん。息子は自分なりに頑張ったけれども、聞こえない不便をイヤというほ

ど味わったようです。相談して決まったことは責任を持ってやれますが、ど

んなに良い意見を持っていても、タイミング良く出せない悔しさです。討論

して決めていく過程がまるで抜け落ちる不安です。皆との一体感、連帯感の

様なものが持てなかったのだと思います。情報がきっちり入らない中で、ど

うして自信を持って意欲を持ってリーダーシップをとれましょうか。


 一年の任期が終わって帰宅した息子が私に言いました。「母さん、僕はど

んなに頑張っても限界がある。皆と同じくはなれないとはっきり分かった。

僕は皆と違う!この耳がのろわしい!」って。

 6. 仲間達との出会い
 「そうかい、皆と同じくなくたって良いじゃないの。」「聞こえない先輩、

魅力的な人いっぱいいるでしょう。賢い人も。手話を覚えたら討論なんてち

ゃんと出来るって言ってたでしょう。「君の側には聞こえない仲間がたくさ

んいることを覚えていて欲しい」と励ましてくれた人もいるでしょう。聞こ

えない者として立派に生きてみな。」私は自分でも不思議なくらい動揺せず、

心の底から言ってやることが出来ました。「あ、良かった、早く気づいてく

れて」と思いました。こう言ってやれたのも、聞こえない人々との出会いが

私達親子にはあったからです。魅力的なろうの人との交流が一年前から始ま

っていたからです。


 それまでは何一つ聞こえない人々のことは知りませんでした。先生方も聞

こえない人々との交流はないに等しく、さっぱり的を得た答えはもらえませ

んでした。聞こえる人の方にばっかり目がいっていました。私は大きな間違

いをしてしまいました。

 7. 聞こえない者として生きる
 息子はその後、自分は聞こえないということをはっきり先生や友人に訴え

ました。どんな方法で話しをしてくれたら分かりやすいのか具体的に示しま

した。


 私はF高校に息子が通っているとき、何回も講演や入試の説明会に手話通

訳に行きました。息子に頼まれて。先生の方から息子のために通訳に来て欲

しいと言われたこともあります。はじめは学年の先生、生徒全員の目が私達

親子に釘付けになりました。回を重ねるうちに珍しさは消え、当たり前にな

りました。先生も友人も「おまえは良い母さんもってるなあ」と言ってくれ

たそうです。


 聞こえない人々と交わるようになって、生き方が積極的になりました。我

慢して聞こえる人の真似をして生きるのではなく、自分は聞こえない人なの

だからどうしなくちゃいけないのか、どう他人にしてもらったら自分も同じ

く出来るのか考えて行動するようになりました。


 「僕はこういうことは聞こえなくてもできます。こういうことは出来ない

ので協力して下さい。皆さんと同じように僕も知りたい、楽しく一緒に学び

たい。僕も出来る限りの協力をするつもりです。だから力を貸して下さい。

僕は普通の人です。通じないとかわいそうと思って話しかけない人もいます

が、結果的には僕を孤独にするのと同じです。」などなど、先生や友人が変

わる度に毎年ワープロで打って印刷して配るのです。

 8. 大学生になって一人暮らし
 息子は今、大学の一年生。世田谷でアパートを借り自炊生活をしています。

大学は入試の時も入学してからもいっさい特別の配慮はしない。それで良け

れば入ってこいといった考えです。その大学に息子はノートテーカーを自分

で探すから、ノートテークの謝礼を学校から払って欲しい…と公的な情報保

障を求めて単独で交渉したのです。来年度は60万円の予算が付きそうです。

それまで友人に上手なノートのとり方を覚えてもらうと張り切っています。


 大学は受け身では絶対生きられないところです。2600人一年生がいま

す。聞こえない学生は息子一人です。10人くらいノートを見せてくれる友

人を学内に作ったとか。自分で情報を集め、判断し、行動しなければならな

い毎日の連続です。大学はやる気のない人にとっては生きにくい場所です。

今は他大学の聞こえない学生さんとの交流に喜びを感じているようです。

 9.手話も口話も…そして心豊かに
 バスの中で手話は息子にとって必要ないものと感じたときから、手話を使

って生きるろうの人々に対して関心がいかなくなりました。息子は将来きこ

えない大人になるのに、なんてすまないことをしたのかと後悔しています。

息子の幸せを誰よりも願いながら、きこえない息子の仲間に関心を向けてい

なかったバカな私です。私の間違いをここにお集まりの皆さんに繰り返して

欲しくないのです。


 「もっと早く手話を覚えておけば良かったね」と息子に言われました。私

は口話がダメだから手話をと言っているのではありません。もっともっと楽

しくお話しして欲しいから、心豊かに人間らしく生きて欲しいから、手話も

口話も同じくらい必要と言っているのです。


 手話を使うことによって、自分が聞こえない者だということがはっきりし

てくる。自分も周りの人も。そして、手話の分かる人の中では、自分の出番

があり、必要性が感じられるのだそうです。皆と共にいるんだけれども、手

話の分かる前は居なくても同じという思いを持ったと言うんですねぇ。


 自分で自分の存在を否定するような所で、まっとうな人格が形成されない

と思うのです。手話の否定は、ろう者の否定につながります。

 10.きこえない人達から学ぼう
 私達はもっともっときこえない人達から学ぶ必要があります。そのための

コミュニケーション手段として手話を学びましょう。先生方も卒業していっ

た人々に、たくさん会って欲しいのです。必ずやいろいろのことが見えてく

るはずです。社会で自立して生きている先輩の方々と子ども達を会わせて欲

しいのです。子ども達は、それぞれのモデルがやっぱり必要なのです。聞こ

える人のように話は出来なくても、人間として本当に惹かれる人がいっぱい

います。聞こえていさえすればいいのか、聞こえる人のように話せることが

そんなに価値のあることなのかと、このごろ思ってしまうのです。
 11. 母親としての願い…きこえない子らの自立のために
 私に本当に役立つ情報を流してくれたのは、聞こえない人達です。親身に

なって私達の子どものことを考えてくれたのは、聞こえない仲間です。私は

聞こえない人々と出会い、息子の将来が少しずつですが見えてきました。


 親さんも先生方も是非、ろうの方々とお話の出来る手話を学んで下さい。

学ぶことと子ども達に使うことと別で構いませんから。手話に対して正しい

知識を持って下さい。


 困ったとき助け合える、心の通じる仲間がいることも、自立のためにはと

ても大切です。自立とは"他人の世話にならない、全部自分でやる"こととは

違うはずです。社会の中で自分の出来ること、出来ないことがはっきり分か

って、周りの人と良い関係を作りながら互いに協力し会って、心豊かにたく

ましく生きていかれること、それが自立の意味ではないかと思うのです。


 "力を貸して欲しい"と誇りを持って言える人に育てたいものです。また、

自分の能力を出し惜しみせず、世のため人のために使おうという、使命感を

持った人に育てたいものです。言いたいことが自由に言え、書きたいことが

書けるようになっても、息子の聞き取る力だけはどうにもなりません。だか

ら息子にとって手話は、生きるために絶対必要であります。


 息子が親から離れ自立が出来たのは、きちんとした日本語の習得もさるこ

とながら、手話を知り、手話を使ってたくましく生きる人々との交流から、

自分も生きられるという安心感や夢や可能性、希望をもらえたからだと思い

ます。

(おわり)


も ど る


2000/11/19 「ろう児をもつ聴者の親が学んだこと」
   〜インテグレーション、龍の子学園、そしてろう学校 〜

                 ろう児をもつ聴の親

    (『聾教育の脱構築』 明石書店
      群馬大学教育学部 金澤貴之編 に掲載予定)

        (1)はじめに     (2000/11/19)
        (2)告 知      (2000/11/21)
        (3)知られざる事実  (2000/11/24)
        (4)現在のろう教育  (2000/11/26)
        (5)インテグレーションを選択した理由 (2000/11/29)
        (6)インテグレーションから得られるもの (2000/12/01)
        (7)「龍の子学園」との出会い (2000/12/04)
        (8)ろう教育の矛盾 (2000/12/05)
        (9)親の役割 (2000/12/07)
        (10)おわりに (2000/12/010)

1 はじめに

 私は、生まれつき耳の聞こえない娘の教育環境にインテグレーション(以下

インテ)を選択し、幼稚園から小学校4年までの間、聞こえない娘を聞こえる

子どもの中で過ごさせた。そしてその7年の間に様々な問題に直面し、その都

度、いろいろな専門家に相談をしてきた。それぞれの専門家からは「何とかし

てあげたい」との気持ちは十分に感じたが、残念ながら誰一人として娘の問題

に答えられなかったし、娘が納得出来る術を持ってはいなかった。あれだけ熱

心にインテを押し進めてきた専門家や担当教員でさえも…

 結局、自分達で考え動くしかないと心に決め、いろいろな方法を試みた。し

かし、いろいろな方法で環境を整えても、インテをしている娘からの苦痛の声

は止まなかった。そうなると「これが聴覚障害と言う障害なのだ。これを運命

と受け止めて、少しでも障害となるものを軽減するしかないのか。」そんな考

えを抱くようになった。そんな時、ろう児のためのフリースクール『龍の子学

園』との出会いがあった。その出会いを通して私は障害とは何なのか、聞こえ

ないとはどのようなことなのか、ろう者とはどんな人なのか、今の娘には何が

必要なのかという事を、改めて考えるようになった。そのような問いかけは本

来娘が『ろう』と告知を受けたときに学んでおくべき基本的な事柄なのに、な

ぜ今頃になって考えるに至ったのか…

 それらを順にひも解いてみると、現在のろう教育の根底にある流れが浮き彫

りとなってきた。いままでその流れのまっただ中にいて、何度も流されそうに

なりながら直面した問題の数々は、実はすべてが成るべくしてなっていたのだ

と納得できた。そして本来ならばもうとっくに押し流されていてもおかしくな

い状況だったのに、そこでたった一人、その流れに逆行し一生懸命に抵抗し続

けた娘の強さに驚かされた。

 そして娘は新たな世界「ろう学校」へと進んでいった。インテ、龍の子学園、

ろう学校と進んでいった娘は今でも私と夫に様々な問いかけをしてくる。私達

はその問いかけを以前のように覆い被すことなく、娘と共に直視する事を心が

けた。そして娘の気持ちに沿って行動した結果、今までとは違った角度でろう

教育を捉えるようになった。それらを心境の変化とともに述べてみたい。

 最初に一言付け加えさせていただくが、今回「龍の子学園親の会」の一員と

して書かせていただいてはいるが、内容については龍の子学園の理念とは別の

もので、あくまで私個人の意見であることをご承知いただきたい。

2 告 知

 娘が1才8ヶ月で「ろう」(105〜110db)と診断された。同じ経験を持つ親な

らば必ず忘れない記憶となっていることだろう。私はABR検査の後、耳鼻科

の医師にこう言われた。「残念ですが、お子さんの耳は聞こえません。現代の

医学では治すことはできません。しかしこの子には教育という道があります。

悲しんでいる時間はありませんよお母さん。今日からがんばってくださいね。」

その後訪ねたろう学校では「大丈夫。補聴器をつけて訓練すれば話せるように

なります。」との説明を受けた。たぶんほとんどの親が同じような言葉を聞い

た事だろう。ほとんどの医師とろう学校教師が口にするこの告知の言葉を言い

かえると「耳が聞こえない事は悲しく残念なこと。医学ではどうしようもでき

ない大変な障害だから、早い時期から補聴器をつけ厳しい訓練をし、この子を

聞こえる人のように音声で話しをさせる事が親の責任であり、それがこの子の

幸せとなる。がんばってね。」と言うことになる。たったそれだけである。現

在日本で行われているこの告知方法は、残念ながら片手落ちとしか言いようが

ない。最初の大切な告知の場に「聞こえない事は悲しくて残念なことだ」と思

い込んでいる専門家が説明に当たっているのだ。そして、かなりの人が成果を

十分に上げられない聴覚口話法だけを紹介し、がんばれと言っているのである。

親達のほとんどが聞こえない事に無知であるため、「専門家である医師やろう

学校教師の言うことは正しい」とこの時点では信じるしかない。


 当時を冷静に振り返るとこんな光景が思い浮かぶ。ろう者は崖の下に落ちる

と信じて疑わない医師や専門家は、まず親子をその崖っぷちに連れていく。そ

して落ちたことを確認するとそこに一筋の蜘蛛の糸をたらすのだ。その蜘蛛の

糸は『聴覚口話法』という糸だけだ。そして崖下に向かって「がんばれ、泣い

ている暇はない、がんばるのだ」と励ます。そのような状態におかれたら、そ

の糸にしがみつくのが人間の心情ではないだろうか。だから親達は『聴覚口話

法』だけにしがみつき、教師でもないのに我が子の言葉の先生となり、来る日

も来る日も絵日記を書き、家族を犠牲にし、我が子に付き添うこととなる。な

ぜそこまでやるのか?またやってしまうのか?それは我が子がかわいいからで

ある。そしてその方法だけが、かけがえのない我が子の幸せと信じ込まされて

いるからである。また他の術を知らされない故に、苦しくてもこの糸をたぐり

登って行くしかないのだ。細い糸を登りながら、ほとんどの親子は苦しみを感

じることになるだろう。親子なのに心から笑い会える事がほとんどない。コミ

ュニケーションが通じない。食事の時間でさえ訓練の場となる。「おーう、お

っえー」「しょうゆとってーでしょ!」「いおーう」「しょうゆでしょ!」子

ども達は母親の落胆した顔を見ながらの食事となる。そんなときにろう学校教

師は言う。「それは聴覚障害だから仕方がない。でもお母さんのその繰り返し

の働きかけが大切なのよ。」また、その蜘蛛の糸を必死で登りながらその効果

を疑うこともある。「母親と先生には分かる発音なのに、なぜ父親や祖母達に

はほとんど通じないのでしょう…」そんな時もろう学校教師は言う。「聴覚障

害だから仕方がない。でも相手に分かってもらうまで、何回も言う姿勢を身に

つけさせましょう」こんな具合に、聴覚口話法の『きちんと伝わらない・伝え

られない』という欠点が全て聴覚障害だからという言葉にすり替えられていく。

そうなると親達はせめてもの慰めに「あーと声が出るようになった」「おあー

あんといえるようになったと」と不明瞭な発声にしがみつき一喜一憂するよう

になる。それがさも聴覚口話法の成果やキューサインのおかげだと言うように。

たとえその一言を言わせるために、子ども本来の自然な成長を妨げられていよ

うとも、能力を持ち得ているのに、それに見合った教育が成されていなくても、

同年代のデフファミリーがもうとっくに二語文・三語文を使いこなしていよう

とも、音声にこだわるのである。


 では、なぜそこまで音声にこだわるのか。親がそう思い込む土壌を作ってい

るのが、最初の告知の言葉であり、ろう学校の幼稚部教育である。幼稚部時代

は毎日親子で授業を受けなければならない。そこでは他の子どもと比較されな

がら、子どもの発声の善し悪しをつけられ、聴力があり発声できる子が誉めら

れる。毎日教室で授業を受けている親達は、いつしか自分が生徒になっている

ことに気付かず、あの親には負けたくないというライバル意識をあおられる。

教育者は自分達がそうした土壌を作っておきながら最後に言うのである。「親

が望むから聴覚口話法を進めている」と。


 今、日本の医療現場やろう教育がなぜこのような告知を繰り返し、すべての

親子に聴覚口話法だけを進めているのか。その方法を一生懸命やった結果とし

て、一般人には理解できない中途半端な発音を身につけ、その代償として日本

語が読めない、書けない大人になっていく。しかも親子間には断絶が生まれ、

お互いが心の傷を隠し持ちながら生きていく現状を医師達や教師は知っている

のだろうか。親達はどんなに歳月が経ようとも、その時の医師とろう学校教師

の告知の言葉は、はっきり脳裏に焼き付いているものだ。彼らは、なぜ聞こえ

ない子をしゃべられる子どもにすることだけが、ろう教育だと言ったのだろう。

そのころの私は、その言葉を疑う術も、知識も持たず、ろう教育という名の第

一の洗脳を受けたのだった。
3 知られざる事実

 聞こえない子をしゃべらせるという口話教育の発想を遡れば、昭和初期に行

われた純口話法普及運動を抜きにしては語れない(1)。そのころの歴史を紐

解くと、川本宇之介氏を中心とした純口話主義者達の強引な政策により、有無

を言わせず手話を徹底的に排除した事実がある。昭和11年、川本氏とおぼし

き梓渓生(しけいせい)が書いた『過渡期よ疾く去れ』を現在読み返してみれ

ば人権問題に関わるような重大発言をしているのである。「…多数者のために

少数者に犠牲になってもらわねばならぬという考えに落ちざるを得ない。耳の

利かぬ者に口話を学ばしめるは容易でないことは、実験や経験に訴えずとも、

分かりきった事柄である。…」と。言い換えれば、「この世の中は聴者が多い

のだから、ろう者は聴者の犠牲になってもらう。」そして「口話法を聞こえな

い子どもに教えるのは、大変なことで実験や経験でもその大変さは明らかなこ

となのだ。」このように自ら口話法が、成果の上がらない負担の多い方法だと

分かっていながらも、なお口話法に固執した。なぜこれほど執拗なまでに手話

を排除したのか。梓渓生の心を表すべく言葉が残っている。そこには「手話は

恐らく人類猿を距てること遠からざる時代の貨財であったであらう。さる原始

的なものを取って現時人間に学ばせようとするは、アナクロニズムも甚だしい

ものといはねばならない。…」つまり、「手話は人間が類人猿だった時代に近

い時代の原始的なもの。そのような原始的なものを現代の人間に学ばせようと

することは、時代遅れもはなはだしい」と信じているのである。この時代では

手話を言語とみなす科学が発達していなかったために、このような馬鹿げた理

由のみで手話を排除していたのである。そして、「大変で苦しい口話法を覚え、

この苦労に耐えることによって、正常者と一緒に人生の幸福を味わうことがで

きる」と言うように正常者こそが幸福と勝手に思い込んでいる。その結果、ろ

う児から手話という母語を奪い取り、口話を強制し、さらには手話を擁護する

人間を非人道的な手法で排除していった。例えば川本氏は口話法に反対する東

京聾唖学校校長の小西信八氏には、執拗な批判を続けついには神経衰弱状態に

まで追いつめ退職に至らせた。そして大正14年3月31日に校長在職32年

の小西校長がやむなく退職すると、その4月より初等部幼年組の教育を純口話

法と定めすべての学科目を口話によって行うとした事実がある。そして手話派

の教員をことごとく排除し、ろう教員をやめざるを得なくした経歴がある。今

から約70年前のことである。
4 現在のろう教育

 では、平成の現在はどうだろう。世界の言語学者の間で『手話は言語』だと

言うことはすでに常識である。手話は日本語、英語、ドイツ語、フランス語、

中国語などあらゆる言語と同等な遜色のない『言語』だと実証されている。

国連標準規則5bにも『ろう児に対する教育に手話を用いるように考慮すべき

である』と記されている。70年前に無知と偏見で押し進められた日本の口話

法の教育はどうなっていったか。また口話法で育てられたろう児はどう育って

いったか。


 現在は補聴器の開発と共に純口話法から聴覚口話法となり、聞こえないと分

かった時から補聴器を付けられる。しかしいくら補聴器の性能が良くなったと

はいえ、聴者と同じ聞こえ方には絶対にならない。補聴器をとおした、曖昧な

歪んだ音(声ではない)を手がかりに、相手の口を凝視し、話しの前後から会

話の内容を想像するという作業に変わりはない。子ども達には聞こえていない

のに、先生はべらべらとしゃべって授業をする。ろう児はその口元を見続けて

いるが、内容まではきちんと伝わらない。従って学力もつかない。ろう教育界

では2〜3学年下げての授業は当たり前となっている。「いや、うちは学年対

応でやっている」と言っているろう学校でも実は内容を抜粋し、全部の内容を

消化しているわけではない。そして学力が遅れているのに更に拍車をかけてい

るのが、発音訓練。子ども達には聞こえない音声の訓練のために多大な時間を

費やしている。小さいときから口の中に先生の指を入れられ、水を入れられる。

そして自分では聞いたこともない声を出させられている。聴能という授業もあ

って、テープやCDのを聞かせ、人間の声や犬や牛の鳴き声を聞き分ける訓練

などをする。先日も小学校高学年に「♪もおーいいくつねえるうとおーおおし

ょおおがあつうー♪」のCDを聞かせその歌詞を書かせていた。子ども達には

分からない。先生は「よーく聞いて!」とまた聞かせる。これで1時間が終わ

るのだ。聞こえないから『ろう学校』に入っているのに、聞いて授業を受けよ

と言われているのだ。盲学校でも見えない子どもに「よーく見て!」と視覚を

使った授業が行われているのだろうか。


 ろう児達は聴児と同じ能力があるにも関わらず学力を下げられ、わずかな人

を除いて書記日本語も獲得し得ず、就職やIT時代に取り残されつつある。し

かも子どもらしく自然にのびのびと育つ時期に、おとなしくきちんと座ってい

られる子が良い子で、好奇心旺盛でいろいろなものに興味を抱く子が困った子

とされているのである。


 70年前に川本宇之介氏らが日本に提唱した『口話法』は、現在『聴覚口話

法』と名を変えてはいるものの現在も脈々と続いている。しかもろう学校教師

の中でも「手話は劣ったもの」と先輩に教えられ、いまだに信じている人もい

る。その「手話は劣ったもの」と言う人達の心底にあるものは梓渓生と変わっ

てはいない。梓渓生の「多数者のために少数者に犠牲になってもらわねばなら

ぬ」という言い方は「社会に出れば聴者の世界に入るのだから、しゃべられる

ようにさせなければ」に置き換わっている。梓渓生の「この苦労に耐えること

によって、正常者と一緒に人生の幸福を味わう」は「聴者に近づけ、しゃべら

れるように教育をすればろう者は幸せになれる」との考えに置き換えられてい

るのだ。いずれもろう者本人の気持ちを無視し、聴者の勝手な思い込みによる

抑圧された教育となっている。医師達も聞こえない事は残念で悲しいことと思

い込み、今こうしている間にも同じような告知を繰り返している。3歳の幼稚

部から1時間きちんと座っていられ、教師にとって都合の良い発音の上手な子

が優等生となる。こんな聾教育に見切りをつけ、せめて学力だけでも聴者並に

と思い悩んだ親達はインテへと走る。自分の指導力を誇示したい教師達もイン

テを勧める。そのインテが実はろう児の人格形成にとんでもない弊害をもたら

すことも知らずに……。残念ながら私達もこのインテの仲間入りをしてしまっ

たのだった。
5 インテグレーションを選択した理由

 2歳より補聴器を使用し、家事や雑用を母に頼み、それこそ眠っている時間

以外は娘と関わってきた。そして何も分からないまま幼稚園年少からインテを

させた。なぜそうしたのかというと、まだろう学校の乳幼児相談に通っていた

頃、あるろう学校の幼稚部を見学する機会を得た。その際感じた大きな違和感

がインテをさせる理由となった。


 その違和感とは、まだ3才そこそこの子供たちがきちんとイスに座らされ、

つまらなそうな顔をしている。子供同士のもめ事は、後ろに控えている親達が

すぐ出動し仲裁している。先生は、口だけでべらべらしゃべり続ける。「いっ

たい、この子たちは自分で考え、行動する時間が与えられているのだろうか。」

大人達に囲まれ大人のペースで、知らない間に物事が進んでいく。「どこかが

おかしい」その思いが強く残った。


 二つ目の理由は、標準的学力をろう学校ではつけられないという現状。私が

見学した時点では、インテができなかった子どもが、仕方なくろう学校に残さ

れたという雰囲気があった。その親達も自分達は落ちこぼれという劣等感を抱

いている人が少なくなかった。そして、いつかはインテさせたいと願っている

のだった。


 三つ目の理由は、将来聞こえる人が圧倒的に多いこの社会に少しでも慣れて

欲しい。又、まわりにも「聞こえない子」に対して理解して欲しい、という勝

手な思い込みだ。「大勢の聴者の中で生活すれば社会性が身につく。どうせな

ら早い時期がよい。」と考えたのだ。これについては後に重大な間違いだと気

づくが、この時はそう思い込んでいた。


 もう一つおまけの理由として私の背中を押したのが、ろう学校教師の言葉だ

った。信頼していた乳幼児相談の担任とはどんなことでも話し合えた。何かの

拍子に「もし、先生の子どもが同じ立場だったらどうする?」と聞くと、担任

はこう答えた。「うーん…インテさせるかなあ…。」この言葉の奥にはいろい

ろな意味が含まれていたことであろう。しかし当時の私はその深い意味を知る

術もなく、先生だってそう思っているのだと楽観していた節がある。


 今回、あえてこの担任について触れたのは理由がある。母親の多くに共通す

る思いであるが、我が子が『ろう』と告知され『ろう』を知らないが故に路頭

に迷っていた時、その一番苦しいときに自分を支え、受け入れ、励ましてくれ

た担任には格別の思いを持っている。母としてろう児の事も分からず、家族や

親戚からも阻害されたりすることもある。そんな時母親たちは決まって自分を

責め、自分の存在価値をも否定する時期を経験するのだ。その期間は人によっ

てまちまちだが、そんな時期にどんな言葉であれ暖かく笑顔で迎えてくれたろ

う学校乳幼児相談の担任は、母親達にとって特別の存在である。その担任もそ

の時代では聴覚口話法が最も優れた方法であると信じていたし、それを一生懸

命実践する事が自分の使命と信じて疑わなかったことだろう。だから母親達は

担任が厳しすぎても、その方法に疑問を感じても何も言えなかったのである。

善意からきているものだと分かるからだ。


 だからこそ今、あえて私は書こうと思う。今でも大好きな担任に向かって、

言葉では言い尽くせない感謝の気持ちを込めながら。先生に助けられ、育てら

れ、笑顔で送り出された親子の経験をきちんと伝えていくことが、かわいい後

輩のためでありせめてもの恩返しになると信じている。21世紀のろう教育に

つなげるために、20世紀の歴史を振り返ることは貴重な作業であると私は思

う。
6 インテグレーションから得られるもの

 聴覚口話法を信じ地域の幼稚園、小学校へと進んだが、法的なサポートも制

度もなくすべてを自分達で進めなければならなかった。親は何ができるかを常

に考えていなけらばならない。担任とは連絡帳を通じて毎日のように話し合い、

何かあるときはその都度本人も交えて相談を重ねてきた。また役員なども積極

的に引き受け、担任や学校との関係を築いてきた。校長とは毎月会談し理解を

深め合い情報保障などについて話し合った。集会などでは校長自らワープロを

打ち娘に渡してくれ、他の内容については担任が要約筆記をしてくれた。授業

はTT方式を運用してもらい、二人目の教師が教科書やノートを指さしてくれ

る。さらには市内の同じ思いの親達や市議会議員とで難聴学級を開設した。そ

の難聴学級の担任は子どもと親の心を丸ごと包んでくれるような素晴らしい人

柄で、常に自ら学び、協力者も求め学校に掛け合ってくれたりした。情報保障

のために校内に通訳の派遣制度を取り入れたり、集会時の要約筆記なども次々

と実現させ、校外のボランティアを含めた字幕活動にまで発展していった。


 もちろん聴覚をフルに活用できるよう、補聴器のフィッティングにも細心の

注意を払っていた。幼稚園時代は夫の仕事の関係上札幌に住んでいたが、私達

が最も信頼している筑波技術短期大学のO教授の元へと通っていた。あらゆる

環境を考慮し、聴覚活用をフルに発揮出来るようアンテナを張りながら育てて

きた。


 インテをすると言うことは、自分達で考え動かなければ協力者は現れないし、

何も始まらないということである。更にこれだけ環境が整っていても、どうし

ても足らない大切なものがあることに気が付いた。それは娘の姿から浮き彫り

となった事実である。


@娘は音声でわりと明瞭にしゃべることが出来る。

―→自分の発音が相手に分かってもらえても相手の言葉は聞き取れない。自分

の発した声も言葉としては聞こえてこない。どんな会話になっているのか、ま

た、微妙なニュアンスも分からない。だから会話はどうしても一方的になる。

すると当たり前のコミュニケーションが成立しなくなる。その結果、会話を通

して物事を進めたり、決めたり、みんなで話し合って何かをすることが苦手な

人間になる。


Aみんなの行動を見て状況をほぼ判断できる。

―→言い換えれば、目的がはっきり分からなくても行動をしてしまう。いつも

きちんと情報が入らないから、分からなくても仕方がない、分からなくても当

たり前の状態になる。すると何に対しても受け身の人間になる。たぶんこうだ

ろうと想像しながら行動するが、最後まで自信がない。行動して失敗するより

みんなの後に付いていくことを選択するようになり、消極的な人間へと変わっ

ていく。


B友達ともまあまあ遊べる。

―→しかし、友達と対等にぶつかり合うことはない。従って人間づきあいは表

面的なものになり、裏も表も分からない人間になっていく。いくらしゃべれて

も聴児と対等にはならない。友達同士の何気ない会話がまったく入らないため、

いつも疎外感を味わうことになる。例えばそろそろ昼休み、遊びの相談が始ま

る。隣の子が娘に聞く。はっきり大きな口を開け「な・に・し・て・あ・そ・

ぶ?」娘は「ブランコにしよう」それを聞いた後ろの席の子が「えーっ、昨日

もブランコだったから、今日は跳び箱にしよう」娘には後ろの声は入らない。

聴者には分かるから、みんなはいちいち後ろの子どもの顔は見ずに「うん、う

ん」とうなずく。娘は周りが「うん、うん」とうなずいているものだから、当

然ブランコで遊ぶものと思っている。さて、昼休み。窮屈な授業から解放され

た娘は一目散にブランコへと向かう。しかし、みんなは来ない。みんなは跳び

箱のある体育館にいるのだ。その時の気持ちはどんなものだろう。友達への不

信感?自分への不信感?毎日がこんな風に過ぎていくとしたら、いったいどん

な気持ちを持った子どもになるのだろう。こんな中で友達と対等な関わりがで

きるのだろうか。それでも社会性が身に付くのであろうか。誰一人悪気はない。

学校にいる間すべてを確認して暮らすのは不可能に近い。それを経験したこと

もない、想像したこともない専門家に限って「きちんと確認すれば良いのに」

と言い放つ。


Cみんながゆっくり、はっきり、話してくれれば大体会話が出来る。

―→良く慣れた聴児はろう児本人にはゆっくりはっきり話しかけるが、その同

じ場に他の聴児がいた場合その聴児に話しかける時にでも、ろう児が読みとれ

るように話すだろうか。まずしないだろう。ろう児はいつも最小限、自分が関

係する会話にだけしか参加出来ない。いつも結果だけを知らされる。例えば理

科の実験でグループ学習となる。実験経過を想像しグループで話し合って結果

を発表する事になった。最初はろう児がいることを意識しゆっくり、はっきり

話す「な・に・い・ろ・に・なるとおもう?」娘は「青くなると思う」と答え

る。隣の子も「そうだ青だよね。」横の子が「でもさあ…」後はさっきのパタ

ーンと同じである。内容が白熱してくるとあっちから、こっちから意見が飛び

交う。誰もが娘の存在を忘れてしまう。みんなは話し合いの中から納得し、う

なずいている。最後に誰かが娘に伝える。「ぼ・く・た・ち・のグループの結

果は赤ね、赤。」どういった話し合いを経て赤になったのか、最初青だと思っ

た子もどういった話しのいきさつで、赤になると思うに至ったか。一番大切な

プロセスが分からないままなのだ。しかも自分だけが分からない。


 こんなこともある。授業中、みんながどっと笑っても自分だけが笑えない。

そうすると意味もなく笑ったふりをして、その時間が過ぎ去るのをじっと待つ。

また、みんなが「うん、うん、」とうなずき、いきなり立ち上がったかと思う

と何か行動を始める。こんな事は日常茶飯事だ。


 私は娘にいつもこう言っていた。「分からないことがあったら、分からない

と言えばいいんだよ。」いつもはその言葉を適当に聞きながしていた娘が、さ

ずがに私に言った。「そんなことをしていたら、クラスの授業はいつも中断し

なけりゃならないんだよ。それができる状況かどうかは、その場の雰囲気とか

いろいろあって、そう簡単なものじゃないんだよ。まったくママは分かってい

ないんだから…」とたしなめられた。そう、まったく分かっていないのは、イ

ンテをさせた親自身だったのだ。


 ろう児はいつも相手の口を読みとろうとしているのにも関わらず、会話が見

えない。いつもいつもひとりだけ疎外感を味わっている。そして物事や会話の

不透明さに疲れ、抑圧に押しつぶされそうになりながら、必死で一日、一日を

暮らして行く。そして疲れ果て意欲さえも失っていく。


D学力もまあまあと言う状態。

―→だが、教科書に載っていない説明、先生の何気ない脱線話し、友達の発言

や、それに対してのみんなの反応などはいっさい分からない。しかも自分1人

だけが分からない。テストの成績だけが学力ではないし、人間の価値もそれで

決まるのではないのだけれど、そこでしか自己をアピールできなくなる。挙げ

句の果ては、学力だけでも聴児に勝つのだと、それに価値を見いだす親子も実

際に何組かいた。そんな中で人格形成ができるだろうか。


 授業中も放課後も学校にいるときは気の休まるときがない。その頃の娘は学

校から帰ると眉間にしわを寄せて「一日が長く感じるよ」と言っていた。翌日

も蒲団から起きあがれない。いくら話し合っても抵抗してくる。「なぜ、うち

の子だけがこうなのか…」自問自答の毎日だった。今でもこれらを思い出すこ

とは、とても辛い作業である。しかし目をそらさず見なければならないと思っ

ている。何故ならインテに追いやったのはこの私自身なのだから。そして私よ

りもっと辛い思いをしたのは娘自身なのだから。


 聾教育専門家、あるいは聾学校教師は音声で話せるろう児を目標としている

ようだ。ほとんどの教師が子どもの一過程のみしか関わらないため、将来を含

めた全体像を捉えられず、内面的にどう発達していくか、そしてどのような人

格形成をしていくかが見えづらい。だから不完全な情報しか入らない聴覚口話

法を押し進め、インテを進めるのである。今後そう言う教師には、40名のろ

う者の中に朝から夕方までたった一人で入ってもらおう。そこで一年間過ごし

てもらおう。そうすればインテの状況が少しは呑み込めるであろうし、それを

フォローし見守る親の気持ちも分かってもらえることだろう。 


 インテグレーションで成功するのはほんの僅かな人だと言われている。その

成功とはいったい何を指しているのか。一般的には@〜Dを満たしている子ど

もはインテの成功者と言われているし、それにあてはまる娘もインテの成功例

と言われることが多い。しかし人は幼い時から家族や他者と関わり、その中で

共通言語を通して自己を認識し、アイデンティティーを形成していく。その一

番大切な時期に共通言語を持たず、対等な関わりも持てない子ども達が、果た

して自己を構築できるのであろうか。核となる人格形成が曖昧のまま、その上

に知識、音声、学力、更には社会的な地位がいくらついたとしても、果たして

それで成功と言えるのだろうか。専門家たちが勝手に決めた成功の部類にいる

人達は、たとえ親と専門家に勝手に決められたインテであっても、その代償は

全部本人が背負っているのだ。おまけにインテ時代に聴者から受けた心の傷は

死ぬまで癒えることはない。せめてその現実を知るべきだ。


 インテグレーションで得られるものは、聴者からの抑圧と、歪んだ人格形成

作りの基盤と、聞こえない事を否定する気持ち、すなわち自己否定だけである。

インテに成功はない。
7 「龍の子学園」との出会い

 ’99年夏「龍の子学園」に初めて参加をした。ろう児のためのフリースク

ールでスタッフは日本手話を習得したろう者がほとんどだ。彼らは当たり前だ

が、耳が聞こえない。聞こえないので目で見てわかるコミュニケーション「手

話」という言語を持っている。この「手話」という共通言語があれば聞こえな

いことはマイナスでもないし、いつも助けてもらう存在でもない。仲間と心の

底から話し合えるし、そこから人間としての自信も生まれる。ろうであること

を誇りに思い生き生きと輝いている彼らの姿を見、私も娘もカルチャーショッ

クを受けた。


 ここで見逃せないのが彼らのほとんどが、ろう学校を卒業していることであ

る。現在の劣悪なろう教育の環境下にあっても、彼らには手話を媒介としたデ

フコミュニティーがあった。そしてそこでの対等な関わりの中で、ろう児とい

うより、当たり前の子どもとして自然な成長を遂げることができたのだ。そう

いった場として、ろう学校の果たしている役割は非常に大きい。


 一方、今までほとんど聞きかじりだった手話に関しての認識は、学べば学ぶ

ほど深くなり、今まで専門家や教師から言われていた「手話は日本語習得の妨

げになる」、「手話は語彙も少ない劣ったもの」などというものが何の根拠も

ない迷信だという事を確信した。また、耳の聞こえない人にとっての「手話」

は単なるコミュニケーションスキルだけでなく、「聾文化」「デフコミュニテ

ィー」と密接に関わていることも学んだ。手話だけ身につければ良いという問

題ではない。どんな言語でもそうだが、その言語を使う人々の文化、社会的な

背景、環境、そしてそれを使う人々のことを知ってこそ、その言語を使いこな

せるようになると考える。


 私は今まで聞こえないことが問題であり、聞こえない事が『負』という考え

であった。少なくともろう者をほとんど知らなかった頃はそう思っていた。だ

から、どんなにがんばって環境を整えても『負』は軽減されるのみで『無』に

なることはないんだとあきらめかけていた。しかし龍の子学園のスタッフを見

ていると、子どもとして自然な成長を遂げられるデフコミュニティーの中で育

てば、聞こえない事は『無』になるのだと実感できる。そこでは聞こえないこ

とが『負』ではなく、手話を知らないことこそが『負』だったのである。


 まず彼らの社会で母語を持ち、文化を継承しながら当たり前の生活をしてい

く。それが人間としての自己を作っていくことであり、誇りと自信を培う基礎

となる。その基礎を作り得たろう者はどんな世界へでも飛び出していける。そ

うなるともうそこには聴者との壁もない。もしろう者との間に壁を感じる人が

いるとすれば、それはろう者という人々を知らないが故に築かれた聴者自身の

心の壁であろう。そしてまた実際に彼らを見ていると国境もないように思われ

て仕方がない。どこの国の人であろうと、どんな人種であろうと、その人がど

んな障害を持っていようとそんなことはたいした問題ではない。目の前にいる

人は自分と同じ人間の仲間、ただそれだけなのだ。その心のスケールの大きさ

に私は圧倒された。今までの私の考えは、日本に住み聴者が多いこの社会なの

だから、娘の個性も特徴も『負』と捉え、そこに押し込めようとしていたのだ。

親という名を使っての抑圧にすぎなかったと気が付いた。


 娘は「龍の子学園」に通い始め変わっていった。まず手話を覚えた。言わず

もがな日本手話である。やはりろう児は本能的に日本手話が母語になると確信

した。乾いた砂地に水が浸みていくように、ものすごいスピードで吸収してい

く。そして、相手を見さえすれば100%会話が見える事が分かってきた。ど

んどん目の前のもやが晴れていき、ベールが一枚ずつ剥がれていく。スタッフ

同士の何気ない会話、世間話もみえてくる。そうなると、今までのインテ状態

は、いかに『自分が分かっていなかったか、と言うことが分かってくる。』さ

らに分かるということがおもしろくて仕方がない。もっともっと知りたいと意

欲的になる。そして、自分の将来の姿をスタッフや成人ろう者に見いだしてい

く。「あんなにすてきな先輩がいる」「自分もいつかああなりたい」と夢も膨

らむ。そう、娘は自分のロールモデルを必要としていたのだ。聞こえないこと

は大したことではない。聞くこと以外は何でもできる。自分だけが特別じゃな

いし、置いてきぼりにされていない。2年前、娘がこんなことを言った「私は

何のために生まれてきたの?」この時は学校でたった一人のろう児だった。し

かし、龍の子学園に出会えた後は自分がこの世に生まれたことを素直に喜び、

私にその存在感をアピールしてくるようになった。「龍の子学園」との出会い

が、私達家族にとって大きな転機になり、問いかけとなった。スタッフは言う。

「ろう学校は私達のもうひとつの故郷。そこで友達と出会い、先輩に様々なこ

とを教わった。そのお陰で今の自分がある。」「みんなでろう学校へ帰ろう。

インテをやめて、ろう学校へ帰ろう」と。


 娘の自己形成に最も大切な今、これらを除いて自己を語り得ない。そう判断

した私達親子はいくつかの学校を見学した後、ろう学校へと転校した。今でも

まだインテの悪しき産物を引きずってはいるが、娘は確実に自分の足で歩き始

めた。

8 ろう教育の矛盾

 インテグレーション、龍の子学園を経験した娘は、自分の意志でろう学校へ

と転校した。慣れた頃、学校の様子を尋ねるとニヤリとしながらこう答えた。

「前の学校では、校長先生も他の学年の子もみんな私のことを知っていた。聞

こえないMちゃんって有名だった。だけどね、今はみんな同じだから、何か特

徴がないと覚えてもらえないんだよ。」これを聞いたとき、「ようやくこの子

は、ただのあたりまえの子どもになれたのだ。今はのびのび自然体で育てば良

い」そう感じた。またしばらくして授業の様子を尋ねてみた。すると今度は怒

りだした。「私は今まで地域の学校で勉強してきた。聞きたいこと、知りたい

ことが山ほどあったのにいつも我慢してきた。ろう学校に通ったら、今までみ

たいに授業の流れを止めずに、いつでも分からないことや聞きたいことが聞け

ると思ったのに。それなのに、ろう学校の先生は口だけでパクパク授業をして

いてすっごく疲れる。訳の分からないキュードも手間取るばかり。クラスの友

達も聞こえない子なのに、手話が通じない。指文字も通じない。ここだけのキ

ュードしか通じない。ここは本当にろう学校なの?ろう学校は聞こえない子ど

も達によく分かる授業をしているんじゃないの?こんな口パクだけの授業で『

ちゃんと見なさい!』ばかりで疲れるよ。しかも、小2、3の教科書をやって

いる。……私は小4だよ。先生は、手話を使ってもっといろいろなことを教え

て欲しい!!ここは聞こえない子のためのろう学校でしょう」と訴えてきた。


 低迷を続けている日本のろう学校は、いまだに聴覚口話法にこだわっている

ところが多い。ろう学校という専門校にもかかわらず、ろう児にストレスとな

る口パクだけの授業を行い、子どもたちは不透明な授業を強いられている。そ

の不透明な授業が一因で学力がつかないのに、ろう児の発達は遅いと見なし、

さらには口話も手話も中途半端なセミリンガルを生み出している。


 聴覚活用を進める専門家や聾学校教師は、自分の教え子であるにも関わらず、

成人したろう者とコミュニケーションが殆どとれない。ここで言うコミュニケ

ーションとは、簡単な挨拶や聴者側の一方的な問いかけでなく、政治経済や趣

味について、また何気ない会話やたわいない話、さらには哲学などを含め対等

に話し続けられるかどうかである。まずほとんどの教師が出来ないであろう。

では、教師たちはろう児が成人すればその殆どが手話で話すようになるという

事実があるのに、その事実をどう捉えているのか。ろう者が手話で話すと言う

ことは、それが彼らにとって一番自然で必要な言語だということ、そしてその

自然な言語である手話が、日本語を書く力、読む力をつけるのに絶対に必要だ

ということに、未だに気付いてはいない。なぜそれに気付かないのか?それは

成人ろう者とつきあったり、話したりしないからである。


 子ども達は本来能力を十分に持ち得ている。しかし、聴覚口話法だけでは、

きちんとしたすべての情報を吸収するのは無理がある。だから一学年から二学

年下の教科書を勉強させられている。やはりこれは人権問題ではないだろうか。

手話で学びたいという選択権をも与えられずに、子供たちは教育を受ける権利

を奪われていることになる。ろう教育の根本のところから変えていく必要があ

る。


 最近はこれらの問題に気づき【手話】を取り入れているろう学校も少数だが

ある。しかし内情は教師の手話がおぼつかず、生徒の手話もきちんと読みとれ

ない情けない状況で、とても手話による指導どころではない。手話を禁止して

いないと言うだけだ。


 ろう学校が【教育言語に手話】を取り入れない限り、ろう児は「インテをし

ても地獄、ろう学校へ行っても地獄」である。


 しかし、ろう学校を何校か見学した時「これは!」という授業に遭遇した。

近畿地方のあるろう学校の幼稚部で、先生と幼児がスムーズにやりとりを楽し

んでいる。聴者の学校と何ら変わりはない。ただし音声言語が【手話言語】に

変わっただけ。「こっちを見て!」なんて先生は一言も言わないのに、幼児の

目は先生を捉えて離さない。会話が全て分かるからだろう。子供たちの真ん中

にいるのは【ろう者教員】である。これは「龍の子学園」でも同じで、子供た

ちには目の前の会話が全て見えるので、当たり前の子供として成長している。


 もう一つ。先日娘の学校にろう者の教育実習生が来た。昼休みや放課後にな

ると自然に子ども達が寄っていき輪ができる。いつも子どもを中心に思ってい

る何人かの教師が自分のクラスで実習をさせた。それをたまたま見学した私は

驚いた。子ども達の様子が違うのだ。ただ実習生として珍しいだけではなく、

「本当にこの先生と話しがしたい、この先生の話が聞きたい。」との思いに気

が付いた。ろう者の先生は、児童の何気ない手話をすべて読みとることができ

るので、それを随所で取り上げ内容に織り込んで授業を進め広げていく。何か

質問すると一斉に手が上がる。子ども達の母語【手話】で授業をするとこんな

に集中し、意欲的になり且つスムーズにいくものかと感心をして見ていた。そ

の先生は児童達に言われたそうだ。「絶対に先生になって、ここの学校にきて

ね!僕たちもがんばるから先生もがんばって!!」娘もこう言っていた。「先

生の言うこと、すごく良く分かるよ。注意もしてくれる。何故いけないかをき

ちんと説明してくれる。それをみんながその場で一緒に分かるからみんな納得

できる。本当の先生だったらいいのにな。」将来、子ども達はこの先生と過ご

した体験を忘れないと思う。このような状況を作ってくれたろう学校校長、教

頭、担当教員に心から拍手を送りたい。教師も体制に縛られながらも、何とか

今の状況を変えたいと思っていることを理解した。子ども達が真に望む先生、

ロールモデルとなる「ろう者教員」さらには「ろう者職員」を多数採用しても

らいたいと心から願っている。
9 親の役割

 このような過程を経て、私達は今を過ごしている。最近はインターネットで、

家に居ながらにしていろいろな情報を得ることができる。そういう情報を見聞

きする中で特に目立つものは、世界中のあちこちで素晴らしい成果をあげてい

る、バイリンガル教育についてである。北欧ではその成果を認め、国の教育方

針として行われているそうだ。日本でもこの方法を我が子に積極的に取り入れ

たいと希望する親が増えてきたが、残念ながら国、公立校でこの教育方法を選

択できないのが現状だ。フリースクール龍の子学園、名古屋のろうっ子学園が

このバイリンガル教育を実践し、成果を上げている。


 2000年10月に全日本聾教育研究大会が福島で行われた。その『研究集

録』の冒頭にこのような会長の言葉が載っている。「21世紀に向けての教育

課程の編成とその実施、指導計画の作成等に新たな試みを行い、一人一人のニ

ーズに応じた適切な教育実践の徹底を図ることが大切であります。」本当にそ

の通りだ。この言葉通り、日本のろう学校でもバイリンガル教育を望む親子の

ニーズにきちんと答えてもらいたい。


 バイリンガル教育を望むということは、今までの口話法、聴覚口話法をすべ

て否定するものではない。子ども達をろう者の母語で教育し、実践を重ねれば、

年齢相応に学力も付き、本来持っている素晴らしい能力を発揮するようになる。

アイデンティティーを確立し、意欲的に自らの意志で学ぼうとする。その中に

聴覚を活用する子ども出てくるであろう。その時にこそ、今まで70年間のろ

う教育の実績が役に立つ。


 親に出来ることは子供を愛し、信じ、見守ること。そして親の役割は子供の

人権を守ること。ろう学校と社会に選択肢のある教育が成されるよう訴え、ろ

う児の個々のニーズに合わせた教育を一日も早くスタートさせよう。聴者に近

づけるだけのろう教育はもうやめにしよう。ろう児をろう児としてのびのび育

てよう。ろう児に教師が近づき、ろう児の母語である手話で教育をしよう。親

達も今までのように音声言語にこだわり、教師のようにいつも抑圧するのはも

うやめにしよう。ろう者には【手話】という立派な【言語】があることをまず

認識し、それらを媒介とし、コミュニティーの中で自然な成長、のびのびとし

た発達が遂げられることを知ろう。親も子供たちの言語を学ぼう。時代は変わ

ったのだ。


 今後は、この日本という国に「ろう者」として生を受けた娘が、聴者の親と

は違う言語【手話】を通して、書記日本語や人生を学んで行く、いわゆるバイ

リンガル教育で成長していくのをしっかりと見届けようと思っている。
10 おわりに

 2000年夏、娘は11歳の誕生日を迎えた。そのうれしい日に私達は「1

1歳を迎えたMへ」と称し、現在の気持ちをしたためた。まだまだ勉強不足で

未熟な親ではあるが、その時の正直な気持ちとしてここに転載し、それをもっ

ておわりの言葉としたい。


          11歳を迎えたMへ

 11歳のお誕生日おめでとう!!

 この11年間、入院するようなけがもなく、病気もなく健康で育ってくれた

ことが何よりもうれしいことです。身長も母にあと3センチとせまってきまし

た。おしゃれな服を着たり、ヘアースタイルを変えて楽しんだり、「だんだん

と大人に近づいているんだなあ」とうれしく眺めています。


 10から11歳になるこの一年は、Mにとっても父、母にとっても大きな転

機となった年。『ろう者』として生まれたMが、やっとろう者のコミュニティ

ーに出会えた年でしたね。そのきっかけが『龍の子学園』との出会いでした。


 父と母はあなたがろう児と分かったときから、この子に必要なものは何かを

一生懸命考えてきました。でも、この時は『ろうとは何か』がはっきり分から

なかった。分からなかった訳は、父も母も今までろう者と交流する機会がなか

ったからなのです。だから今まで私達があなたに必要だと思ってやってきたこ

とは、自分達の分かる範囲、つまり聴者の世界からだけのアプローチ(働きか

け)だったのです。


 父、母、Mは同じ人間。そして親子。これは死ぬまで、いいえ、死んだ後も

変わらない事実です。そうあなたは私達にとっては、大切なかけがえのないか

わいい娘。そしてね、この世に存在しているものは誰かに、何かのために生か

されていて、こうして生きていること自体に意味があるのです。と言うことは

父も母もあなたも、この世の中には絶対必要な人間なのだということです。


 地球上にはいろいろな国があります。いろいろな人が住んでいます。肌の色

も違います。いろいろな言葉を使って暮らしています。その中にろう者もいれ

ば聴者もいる。聴者とろう者は普段話す言葉が違います。聴者はべらべらと口

だけでしゃべる。ろう者は手話で語ります。そして、そのことば(言語・げん

ごと言います)は、どこの言語が良いとか、悪いとか、どこの言語が優れてい

るとか劣っているとか、そんなランクはいっさいないのです。それは世界中の

言語学者が証明してくれています。父や母が声で話す日本語も、龍の子学園で

スタッフが語っている日本手話も同等の言語です。


 父と母はあなたが生まれてから10年間、自分達の知っている言語だけで育

ててきました。自分達の知っている文化の中だけで育ててきました。しかし、

龍の子学園のみんなのお陰で、この世の中にはいろいろな言語があり、文化が

あり、仲間がいることがよく分かりました。これからは、もっと広い世界を見

ながら暮らしていきたいと思っています。やっと出会えたもうひとつの言語、

文化、仲間を大切にし、一緒に学んできたいと思っています。


 これからも今まで通り、言いたいことを言い合って、喧嘩しながらも仲良く

暮らしていこうね。そして、いろいろな世界を体験しよう。父と母はいつもM

の味方だからね。なにかあったら命を懸けてでもMを守っていくよ。(オーバ

ー?)大切な愛する家族だから…。


 M、私たちのところに生まれてきてくれてありがとう!あなたらしくこれか

らも生きていって下さい。11歳のお誕生日、おめでとう!!!

                           2000年7月
                             父・母より 


も ど る

2000/10/17 

 「ろう者が作ったろうの子供たちのための新しいろう学校」

     〜デフ・フリースクール ”龍の子学園”を通して見た
                        ろう学校の現状と課題〜

                             沢井 みゆき

        (1)ろう学校に出会うまで
        (2)ろう学校の子供たちの現状と背景
           (聴覚口話法を受ける子供たち)
        (3)聴覚口話法への疑問
        (4)「龍の子学園」を見て感じたこと
           (ろう者がろう者として生きる)
        (5)「ろう学校と社会のこれからの課題」


1 ろう学校に出会うまで
 これまで私は、知的障害養護学校に6年間勤め、いろいろな障害を抱えた子供

たちと関わってきました。また、後半の3年間は、訪問教育に携わり、そこでは、

ありのままを受け入れることから始まる、ただ共にあることの幸せや、子供にと

って、その年齢や発達段階に応じた遊びが、人間として成長する大切な糧である

ことを、私なりに実感することができました。

 見た目には、人の手を借りなければ、一日の生活さえも十分に送れない子供た

ち。けれども彼らの姿は、人として何が大切で、何が幸せなのかということを、

その子を受け入れる過程を周囲に与えることで、教えているようにも見えました。

私は彼らを、周囲を変える力を持っている存在として感じるようになり、また、

そのような感じ方を知ったことは、私にとって、大きな財産となっています。そ

んな視点や気持ちを持って、新しい学校に移れることを嬉しく思っていました。

2 ろう学校の子供たちの現状と背景 (聴覚口話法を受ける子供たち)
 「今の世の中にこんなに怒られてばかりいる子供たちがいるのだろうか?」こ

れが私のろう学校に来た最初の印象でした。笑うことも、歩くことも、話すこと

も、勉強もできる子供たちは、私にとって、ほめるところしか目に入ってきませ

んでした。しかし、子供たちの様子を見てみると、何かにつけてすぐ怒ったり、

にらんだり、人を押したり、叩いたりすることが多く、確かにそこだけ見ていれ

ば、注意されるのも当然のように思えます。けれどもそこには、

  「 何度言っても、わからない。」

  「 何度言っても、言うことを聞かない。」

  という大人の言い分と、

  「 何度言われても、わからない。」

  「 何度も何度も言われたくない。」

  という子供の言い分が、ぶつかりあっているように見えました。その光景は、

私にはとても空しく映り、「どうしてこんなに”つらい学校生活”があるんだろ

う?」という思いが、頭から離れなくなりました。

 ろう学校には、幼稚部・小学部・中学部・高等部・専攻科があります。本県に

は1校だけで、乳児のための外来日も設定してあります。一般に、聴覚に障害が

あると診断された子供たちは、一日も早くことばの補聴器を装着し、ことばの教

室に通い、ことばの獲得を目標にして生活することになります。幼稚部は、「聴

覚口話法」をもって発音訓練をすることを主とし、社会自立への基礎を身につけ

るための大切な時期を担っています。ここでのコミュニケーション手段は、キュ

ーサインが大半を占めます。また、母子通園なので、母親は毎日授業参観をして

勉強しなければなりません。そして、ある程度発音が上達した子供たちは、地域

の学校にインテグレードしていくのが、最近の傾向のようです。

 小学部では、インテグレードしなかった幼稚部の子供たちや、他の幼稚園に通

っていた子供たちが入学してきます。また学年の途中で小学校では対応できなか

った子供たちが帰ってくることもあります。教科指導については、「ことば」を

教えることに多くの時間が費やされ、学年対応の教科書を使用することになって

いながらも、実際には1・2年下の教科書で学習しているのが現状です。指導場

面では、原則的には手話を使うことは認められていません。しかし、子供同士の

コミュニケーションは、ほとんどが手話で、手話をよく知らない子供たちは、先

輩やデフ・ファミリーの子供たちから学んでいるようです。

 中・高等部になると、子供たちはだんだん声を出さなくなり、教師とも手話で

会話することが増えてきます。それは、年齢と共に、豊かになっていく感情や知

識を表現するには、手話が最も自然なことばであるということ。また、いくら訓

練しても先生や家族が理解できるぐらいしか上達しない発音では、役に立たない

という事などの理由が挙げられると思います。学年対応の学習は、さらに困難に

なってきます。同時に、日本語の獲得も不十分で、途中からろう学校に帰ってき

た子供たちは、手話も中途半端で友達同士の関係も難しいという状況が生まれて

きます。一方、心と体が成長するこの時期、異性間の問題がかなり取り上げられ

るようになります。

 専攻科には、被服科・理容科・産業工芸科があり、実践的な技術を学んでいま

すが、就職してから「長続きしない」ということが課題となっているようです。
3 聴覚口話法への疑問
 子供の発達段階から見ても、文字や数の学習は6.7歳からがふさわしいとさ

れています。人間が育つ基礎として、乳幼時期に周囲から愛情を注がれることは、

何よりも大切なことです。その時期に、ろう学校の子供たちはどうでしょうか?

子供たちは長い時間椅子に座り、大人の口に集中しなければなりません。常に、

発音を訂正されながら過ごす日々を思う時、様々な疑問が浮かびます。

  「 我を忘れ、夢中で遊ぶことがあるのだろうか? 」

  「 心ゆくまで、自分の話をきいてもらったことがあるのだろうか? 」

  「 何か言おうとすると、手を止められる気持ちはどうなのか? 」

口話を身につけるのは、とても大切なことかも知れません。けれどもその前に、

人としての自然なコミュニケーションや子供としての自由な遊びの時間を、もっ

と大切にしなければならないと思います。私たちは、子供のために良かれと思っ

て、それが愛情だと思って「ことば」を教えているその裏側で、「耳が聞こえな

いということは、だめなのよ。」ということも同時に伝えていることに気がつか

なければならないでしょう。子供は誰からも認められたい存在です。声を出して

ほめられたら、一生懸命に励むでしょう。子供は、「日本語の獲得」や「社会自

立」のためよりも、周囲に認められたいから頑張っているのではないかと思えま

す。聴覚障害は、補聴器の発達や口話法の普及により、努力すれば乗り越えられ

る障害とされてきました。しかし、それは一方で、ろうの人がありのままに生き

ることを許さない状況も作り出してきました。本来、ろう学校とは誰のための学

校なのか、私たちはもっと、子供たちの本当の声に耳を傾ける必要があるでしょ

う。日々わからない授業を繰り返される子供たちが、すぐ怒ったりすることは当

たり前だと感じます。小さいころから、自分の話を本当に聞いてもらえず、家族

とも友達とも先生とも、わかりあえるコミュニケーション手段を身につけていな

い子供たちが、年頃になって、体で分かり合えるものを求めてしまうことにはな

らないでしょうか?発音やわかったふりが上手になっていく子供たちの方が、逆

に私には心配に思えます。この学校にきた4月、私は子供たちに、「心から自由

に遊んでほしい。」と思いました。しかし、この現状は、今までこの世界につい

て、私を含めた多くの人が無知であったことも一因しているのではないかと思っ

た時、「今まで何も知らなくてごめんね。」という気持ちでいっぱいになりまし

た。この子たちに、本当に子供らしい時間がやってくるのは、「そのままでいい

んだよ」という価値観を多くの人が持つことが、大切な気がしたからです。そし

てその頃、「龍の子学園」の存在を知りました。
4 「龍の子学園」を見て感じたこと (ろう者がろう者として生きる)
 ここでの主なスタッフは、20代前半のろう学校を卒業した若者たちでした。

とにかくスタッフたちが輝いている。そんな大人に教えられる子供たちの表情も、

当然生き生きとしていました。わかりにくかったろう学校での経験をもつスタッ

フたちは、ろうの子供たちにどう教えたら良いかを十分理解していますから、い

ろいろな教材を作り、とても効果的な授業を展開しています。一般にろう児に助

詞を教えるのは難しいと言われていますが、ある程度学校で理解している子供で

さえも、龍の子で教えてもらうと「ああ、そうだったのか。」とピンと来るもの

があるようです。さらに、聴の両親を持つ子供たちにとっては、龍の子は生まれ

て初めて、自分の気持ちを理解してくれる人たち(ろう者)との、出会いの場と

なるようです。意志疎通がスムーズにできる場を得た子供たちは、たった月1回

の活動であるにも関わらず、どんどん自信をつけて、表情や行動が見違えるよう

になるそうです。しかもここでは、教育に手話が必要か否かという段階ではなく

て、「日本手話」で教えることが、理解の近道だということが常識でした。「ろ

う者にはろう者のことばがあり、それは、ろう者にしか伝えられない。日本手話

は、ろう者にとって第一言語であり、その文化がある。」それを自分たちが、責

任を持って伝えていくという誇りが、スタッフたちから感じられました。難しい

ことがわからない私でも、子供たちの前に生き生きと、誇りに満ちた表情で立つ

ことができるこの姿こそ、おそらく本当の教育だろうと感じました。ここには、

私たち聴者が学ぶべきものが、たくさんあるような気がします。

  ・ 日本手話と日本語対応手話とCL

  ・ IDENTITY   ( ろう者 ・ 難聴者 ・ 中途失聴者として生きる)

  ・ マイノリティの文化
5 「ろう学校と社会のこれからの課題」
 このように、学校の現状とろう者が抱えている問題の差は、かなり大きいもの

があります。文部省は、社会性を身につけることを目標にして口話法を推し進め

てきた流れがありますが、そこには、手を動かして話す人々への偏見や差別がな

かったと言いきれるでしょうか?逆に、口話法で押さえつけられてきた時代より、

手話をもって社会進出してきた明らかな現実にさえ、固く目を閉じているように

見えます。現在は、口話法ではなく、聴覚口話法で、手話もある程度認めている

部分もありますが、幼稚部や小学部では使わない方が望ましいという、消極的な

姿勢です。しかし今、こうやってろう者たちが聴者へ開いてくれたこの門に、私

たちは足を踏み入れる時だと思います。そのためには、無関心であったことも、

正しいと思ってやってきたことも、認める勇気が必要でしょう。今、ろう者と共

に生きることを、聴者が理解する時なのだと思います。ろう文化を尊重し、その

良さを享受することは、聴の子供たちにとっても、豊かな表現力を身につけられ

る素晴らしいチャンスです。CLに触れることは、ろう−聴のことばの壁を超え

るだけでなく、国際人としても豊かになれるのではないかと思うのです。また、

これからは、ろうの人たちが教員となる制度も必要になってくるでしょう。その

ためには、多くの人がろう文化の良さを知り、彼らの存在が不可欠であるという

土台作りが大切だと思います。

 ろう学校の歴史の中で、個人差はあるにしても、子供たちが言うに言われぬ苦

しみを抱えて生きてきたことは、事実です。それは、誰かが悪いわけでもなく、

誰もがその当事者であった。と考えることが大切だろうと思います。世相は、ち

ょうど戦争をはさんだ時期であり、日本が高度経済成長を遂げるために懸命にな

っていた時期でもあります。社会全体が余裕のない時代は、弱い立場の人がその

しわよせを受けるという歴史は、ここでも繰り返されてきました。

 21世紀は、私たちが一人一人が、どんな人とも切り離して生きられないとい

うことを、もっとゆっくり、もっと真剣に考えて生きる時代のような気がします。

もし、一人一人がそうやって生きられたら、ろう学校で子供の気持ちを理解しな

いで、勉強を教えることもなくなるでしょう。そうしたら、先生も子供も、もっ

と輝いた顔で学校に来ることができるでしょう。けれども、こんなことを言いな

がら、学校に行くと見えない空気に押さえつけられる自分がいます。何が正しい

かを見極め、それを実行していく力のなさを思い知る度に、「子供だなあ。」と

感じます。

 たまたまここでは、ろう学校の問題に触れましたが、このようなことは、社会

のどこにでもある問題ではないでしょうか。今の社会に、本当に大人と呼べる人

が、どれくらいいるのでしょう?自分自身の生き方を振り返るとき、私はとても

子供の前に立てる大人ではない、ということだけはわかります。なのに、この仕

事を今も続けている意味は何なのか、ゆっくり考えたいと思っています。


も ど る


2000/10/15 「無神経という差別」  都内・ろう児をもつ親

「オオカミに育てられた少女」に関する投稿を拝見して、非常に驚きました。実は、

息子が通う都内のろう学校でも、幼稚部が発行している小冊子の「きこえとことば

のコーナー」で、「オオカミに育てられた少女」の話しが紹介されていたのです。

それも、裸で床に置いてある皿に顔をうずめて食事をしてる、リアルな挿絵つきで

・・・。すごく不愉快でした。気分が悪くなりました。

そこで、先生に何を意図しているのか?「きこえとことば」を教育しないと、聞え

ない子は獣と同じという意味なのか?と質問しました。先生の答えは「子供が育つ

上で環境というのがとても大切という意味で載せた」でした。環境が大切というこ

とは、親なら誰だってわかっています。それを、わざわざ「きこえとことばのコー

ナー」に載せた意味は?と聞くと、「他意はない」との答え。それじゃあ、あまり

に無神経だと思いませんか。私は息子の第一言語を日本手話として、手話による教

育を実践しています。「きこえ」とそこから来る「ことば」には、まったく執着し

ていません。ならば、私の息子は獣と同じ!ということになりますよね。と問い詰

めると、「そういう意味じゃない・・・」と。



たぶん、先生が言ってるのは本心なんでしょう。決して、ろう児をバカにしたり、

教育しないと【野生児】や【猿】になる、とは思っていないのでしょう。しかし、

自分が「ろう学校」の先生であるという認識が甘過ぎます。いえ、認識しすぎて麻

痺しているのかも知れません。これこそ「善意の絨毯」の典型でしょう。



これが、1つのろう学校だけでないとすると、もしかしたら、ろう学校に代々伝わ

る教育方法なのかも知れませんね。もし、そうだとしたら完全な差別問題だと思い

ます。ろう学校の中は、一般社会よりはるかに「無神経な差別」が横行しているよ

うな気がします。


も ど る


2000/09/19 「成人ろう者の方への質問」

(1)口話法について、良かった点、悪かった点。

3才から広島ろう学校幼稚部で発音と口話の訓練を受けたが、
当時の俺には意味の分からないものだった。
発音がうまいと先生から褒められ、頑張った記憶があるが、
学校の外に出た途端、通じなくなるケースが生じ、
戸惑うことが多くあった。
いくら、声を出しても相手に通じないんだから、
投げやりになったことが幾度もあった。
頭が悪くなるからと言って、手話を止められた私は、
手話が出来ないもどかしさで、ストレスがたまり、
短気を起こしたことがよくあった。
いわゆる瞬間湯沸かし器そのものだった。
教育関係者は、手話を使うと日本語が正しく使えなくなると
論じてるが、私を見てほしい!
発音・発声が出来なくても、日本語をちゃんと書ける!
今思えば、口話訓練に費やした時間を無駄にされた…
未だに無念が残っている。
失われた2年間を今すぐ返して欲しいのが本心だ。
だから、口話法のメリットなんて、はっきり言ってゼロです!
ろう学校での教育は、手話をメインにいて推し進めるべきである!

(2)手話を基本にした教育(バイリンガル教育)について、どう思うか?

日本手話を第一言語、日本語を第二言語として認知されるので
あれば、バイリンガル教育に抵抗はないと思う。
ただ、ろう学校そのものを変えていかなければ、
それが成り立たない。
まして、ろう児にはろうの教師を導入しなければならない。
聴者のでは、限度があり、ろう児の心を見透かすまでには
至らないからだ。

(3)会社等、社会に関わっていく上で、一番ベストだと
   おもうコミュニケーション方法は?

難しい質問ですねえ。
相手が手話を覚えてくれれば、最も良い手段でありえるが…
(社会全体が日本手話を認めてくれればの話だけど…)
それは夢の中の夢でしかない。
現実を見つめると、やはり手話通訳者を間に置かざるをえない…
ただ、置くだけでは通訳者の器量が問われるのだから、
ろう者が通訳者を育てていかなければならない。
いろいろと課題とか抑圧とかはあるが…
我々ろう者が日本語を完全にこなせれば、聴者との衝突は
回避され、社会との壁の崩壊につながるだろう。
未だに壁が崩れないのは、「ろう教育」が昔から歪んだままに
なっているからだ。
ともかく、私自身としては、“ろう者”とは何なのかを相手に
理解してもらった上で、手話そのものに触れてもらい、
自ら心を開放し続けているつもりだ。
そうすることによって、相手も心を開き、
コミュニケーションを図るようになって来る。
当然ながら、手話が最も必要なコミュニケーション
手段だとわかるようになる。
それで、手話をマスターする気持ちが生まれてくる。
そういう環境を作るのが、我々ろう者の役目でもある。
結局、我々としては「日本手話」が最もベストな
コミュニケーション手段である。

(4)ろう学校で手話を使っていないことについて、どう思うか?

情けない限りだ。
“ろう児”の価値観を見誤っている聴者の先生が多くあっては、
誰のための‘ろう学校’であるのだ!
未だに‘ろう学校’の定義がなされていない…
“ろう児”のための‘ろう学校’であるべきだ!
卒業生が社会で如何にして生きているかを教師はつかんでいない。
いくら、口話法を教えても、社会では実践されていない。
それところが、日本語を満足に書けないろう者を社会に
出す教師は、教師としての恥を感じていないのか!
それがわからない教師はまさに「生きた化石」そのものだ!
‘ろう学校’に給料泥棒がうじゃうじゃいる限り、‘ろう学校’は
“ろう児”の人格を無視してまでして、自ら滅びようとしている。
手話で生き生きとしている“ろう児”を[悪い子]と決めつけて、
口話に縛られて心を閉ざしている児童を[良い子]と見なす
教師の実像は、まさに醜いの一言につきる。
教師が生徒を殺しているようなものだ…
今のろう学校の教師は知性的犯罪者でありえる…



も ど る

※無断転載禁止 Copyright(c)2000 全国ろう児をもつ親の会