[ 口話教育と手話教育 ]

   ※本資料は作成者の許可を得て掲載しております。


1.研究目的

 大正末から昭和初期にかけての聾教育界における純口話法普及運動の中で、大半の聾唖学校は手話を教育方法の一手段とすることをやめた。第二次大戦前、大阪市立聾唖学校などごく少数の聾唖学校のみが、手話を活用してきたにすぎない。これらの学校も、戦後の義務制実施にともなう口話教育の徹底の中で手話は用いられなくなった。そして又、当時の教育の実際を示す資料も廃棄されたり、散逸あるいは未整理のまま埋もれてしまい、その詳細は十分明らかになっていない。

 本研究では、昭和初期の大阪市立聾唖学校を中心とした手話擁護グループの主張とその教育の実際を明らかにするとともに、これら手話を擁護する立場に対して川本宇之介を中心とする口話法を推進してきた我が国聾教育の本流がどのような批判を展開し、また、手話擁護派はどのように反論し、どのような教育を志向していたのか(大阪市立校ではORAシステムと称していた)を概観し、所謂手話−口話論争とよばれるものの実際を明らかにする。

2.研究の方法

 大正末から昭和初期にかけての両派の動向、主張を『聾唖教育』、『口話式聾教育』、『ろう口話教育』、『聾唖界』、大阪市立聾唖学校、大阪聾口話学校、東京聾唖学校等の年史 1) 、純口話法推進、手話排除の中心的人物であった川本宇之介 2) の著作、大阪市立聾唖学校校友会発行の『会誌』 3) 等の文献を用い、跡づける(各文献についての若干の説明は注を参照)。

3.手話・口話論争の前史

 川本の著『ろう言語教育新講』に記す所によると、大正後期まで、日本の聾唖教育は全国的な研究組織ももたず、口話教育もほとんど行なわれず、官立の東京聾唖学校においてさえ小西信八 4) 校長の意見によって口話には消極的で、口話学級が開設されたのは大正14年のことであった 5)

 川本によれば、伊沢修二がベルの「視話法」を紹介した頃、即ち、明治19(1886)年頃、小西は吉川金造ら二少年を伴い、伊沢宅に通い、指導を受けたという。そして、話言葉を学びえた吉川少年を連れ、しばしば近県各地に旅行し教育者の会合に出席して彼にものをいわしめて、誇らしげに大いに吹聴したということである。しかし、「・・・かくのごとく、小西校長は、一時熱心ないわゆる「音話主義」者であったが、後には、これに冷淡になったのみでなく、反対説をとるに至った」 6) ド・レペ二百年祭での伊沢の発音法衰微をなげく挨拶を引用して、川本の小西批判はさらに続く。「この当時(ド・レペ誕生二百年祭の行なわれた明治45年−清野注)は言うまでもなく、小西はすでに校長になっていたが、口話法はもちろん、この発音法さえ力をいれなかったのに対する伊沢の不満の言葉が発せられたのであろう。」「けれども、肝心の小西校長は、その口話法採用の意見にはあまり気乗りせず、ただ盲ろう学校の分離と就学については、多少力を用いたようである。・・・ところが、口話法に対しては一層強く反対意見をとるようになった 7) 」。

 『聾教育学精説』においても、川本は、小西の言を批判、執拗に彼の「はなはだ精致ならざるもの」や「矛盾と思われるもの」を指摘し、小西への不快感をあらわにしている 8)

 川本は当初より聾唖教育に直接関係を持っていたわけではない。東京帝国大学時代の彼は公民教育と理科教育に関心を持ち、それぞれその分野で多くの業績をのこしているのであるが 9) 、東京市を経て、文部省に籍を移した後のある体験が、彼を盲唖教育、とりわけ、聾唖教育に強い関心を持たせることになる。川本は大正9年の全国盲唖教育大会に文部省調査係長として大臣祝辞をもって出席、手話法一辺倒というその教育の後進性を痛感、聾唖教育の研究に踏み込むこととなるのである。彼は、文部省の在外研究員として大正11年から約2年間にわたって欧米を視察、大正13年、帰国後直ちに東京聾唖学校教諭に就任、「師範部」教諭も兼ね口話法に基づいた教員養成を開始した 10) 。また、おそらく、その実施にも彼の力が大きかったであろうが、文部省主催の聾唖教育講習会等でも口話法を教授し、全国に口話法採用の気運を高めていった。さらに、当時地方にあって口話法教育の推進にとりくんでいた名古屋の橋村徳一 11) 、滋賀の西川吉之助 12) らと結び「日本聾口話普及会」を発足させるとともに、『口話式聾教育』を創刊した。

 このような川本の目から見れば、教諭就任当時の校長、小西信八は聾教育の革新、口話法教育の推進にとっての障害以外のなにものでもなかったであろうし、官立の聾唖学校が真のモデル校として機能していくためには新しい体制のもとに東京聾唖学校が再生しなければならないと映ったであろう。

 後に小西の娘が記した所によると当時小西が川本の度重なる批判を受け、神経衰弱状態に陥っていたという 13) 。ちょうどその時期、小西は病に倒れた。記録によれば、大正13年12月22日、東京聾唖学校創立記念日・終業式の訓話を板書中に、手が動かなくなり、動脈硬化症と診断され、療養を余儀なくされた 14)

 大正14年3月31日、官立東京聾唖学校校長小西は、校長在職32年にして退職、樋口長市が校長に就任し、4月より初等部幼年組の教育を純口話法によることに決め、すべての学科目の授業を口話によって行なうこととした。 15) 。当初校長には、川本を推挙する話があったというから 16) 、教諭とはいっても学校内の川本の影響力は非常に大きなものがあったと思われる。いずれにしても、日本の聾教育の「革新」をめざす川本のリーダーシップのもとに我が国の聾唖教育は急速に純口話法の道を歩み始めていくことになる。

 小西は、退職して約半年後の日本聾唖教育大会に挨拶代わりの短歌3首を寄せているが、その一首に「くびかくか どうぎりせんぢやならぬてふ すごいゆめみて こしぬかすわれ」とある 17) 。この歌にどんな気持ちを託しているのか特に説明はないが、彼のこの間の退職にいたる不本意な思いを託したものと解すこともできよう。

4.純口話法とは何か

 ところで、当時の口話法とはどのようなものであろうか。我国の聾学校では、明治より大正にかけて手話法中心の教育が行なわれ、いわゆる口話法は全国的にはほとんど普及されず、前記のように大正末の時点においても、官立の学校でさえ、手話法主体の教育が実践され、口話法による教育ははなはだふるわないという状況であった。川本は前記の『ろう言語教育新講』で次のように当時の状況を振り返る。「大正9年、東京牛込区にライシャワー夫妻によって日本ろう話学校が設けられ、米国の口話方式を採用するに及んで、一大変化をおこすきっかけが起こった。これに並んで、名古屋校の熱烈な努力と綿密な研究が行なわれ、ややおくれて西川吉之助と、著者がこの教育に加わるに及んで、急激な発達進歩を見るに至ったのである。かくて大正のはじめ頃より昭和3・4年頃までに、口話科より口話法に進展していった。この口話法への進展が同時におのずから、ろう教育の革新となったことは言うまでもない 18) 」。

 この口話法、より正確には純口話法とは何かを当時の文献により示せば、以下の如くである。

 「純口話法の特色はいづくにありやと言へば、その細密なる技術の問題は姑く措いて問はず、之を一言以って掩へば、読話を以って聾児の言語理解は勿論、其の発音発語指導をも之に基づいて行なうべきであるとする点である 19) 」。また、「口話法はその代表的な一種の言語を教える教育手段であると共に、全教育の手段である。即ち近代の口話法は聾児をして読話によって他人の言語を理解せしめ、且つ読話その他の方法により理解した言語を発音、発語によって表現し得る様にする方法である。尚お聾児の残聴力を鋭敏にし、(加藤亨博士は聴力発達説)これを利用して読話・発語をより有効に発達せしめ、その外視覚・触覚・運動感覚・振動感覚等を適当に刺激して口話能力(読話・発語)を発達せしめるための補助手段とするのである 20) 」。

 この純口話法の普及・推進のために大正14年、聾口話普及会が結成されたが、機関誌として『口話式聾教育』が発行され、口話法に関する多量の情報が全国に流されていった。又、名古屋聾唖学校等を会場に聾口話教員養成講習会が開催され、名古屋校だけでもその後15回続けられ、多くの口話教員が養成、全国に散らばって行った。聾口話普及会は、後に昭和6(1931)年聾教育振興会となり、さらに体制を強固にしていった。機関誌の名称も『聾口話教育』と改められ、第17巻第3号(通算190号)まで続く。



5.最初の論争

 資料を見る限り、その最初の論争らしきものが行なわれたのは、大正14年10月に開催された日本聾唖教育会第一回総会での口話教育促進に関する諮問をめぐっての論議の中でのようである。

 当時の聾唖教育の研究活動ははなはだ不充分で、盲、聾唖合わせての研究協議の実施という状況であったが、この年日本聾唖教育会が発足、初めて盲、聾を分離して実施することとし、その第一回を大分県立盲唖学校が当番校となって開催したのであった。これも、おそらく川本の働きかけによるものであろうが、総会の協議題として「聾唖学校に於て児童生徒に口話を有効適切に教授する方法如何」が取り上げられている。川本はその著『ろう言語教育新講』でその時のことを次のように述べている。「・・・その時ある手話主義者は口話法では修身や歴史の教授はできないと言ったようである。それは口話法では言語の進歩がおそく、かつ情操の教育が行ないがたいから、情操が大切な要素をなす修身や歴史科の如きは、口話では教育しにくいというのである。・・・」恐らくは、高橋によって主張されたものであろうか、これらも含め、「(手話主義のものは)たまたま研究大会等において、何等かのきっかけを求めて発言し、口話の弱点を誇大に吹聴し、無理に手話の長所を強調するしかできなかった」という評価を与えている 21)

 このことと関連する記述が、『聾唖教育』第2号の日本聾唖教育会第一回総会報告中の総会成績一覧の一部に記されている。即ち、諮問案第二、聾唖学校に於て児童生徒に口話を有効適切に教授する方法如何に対する答申として1500字程の記述があるが、その中には以下のような記述がある。

 「聾唖学校に於ては左記各項に留意し更に適切なる具体案を作成し之が実行に力れば児童生徒に有効適切なる口話の教授をなすことを得」として

 教員の項に「1.口話法の可能を確信し創作的態度をもって教授に当ること、2.口話法の理論と実際とに通暁すること」とあり、また、教授の諸注意の項には「ホ、読唇は必ず教弁物により手真似を用いざれば答ええざる如き教授及練習をなさざること」訓練の項に「6.手話学級児童と口話学級児童とはなるべく接近せしめざること」、などの記述がある 22)

 『聾唖界』の第34号には、この諮問案の委員には、橋村、川本、西川、ミセス・ライシャワーら純口話法を推進する人々を中心に10名が指名され、答申がとりまとめられたとあるが 23) 、高橋ら手話法を認めるメンバーは当然のことながら、含まれていない。おそらく前記の手話主義者の発言云々はまとめられたこの答申案をめぐっての総会でのやりとりで行なわれたものであろうか。

 ところで、口話法が全ての聾唖学校関係者に確信をもって迎えられたかというと、必ずしもそうとはいえず、大分の総会と同じ年、田代喜作熊本盲唖学校長は「総ての聾児は果たして口話法教授法の可能性を有するものか」等の質問を『口話式聾教育』によせているが 24) 、それに答えた橋村はその可能性を強調し、「低能児」の場合の困難性は認めつつも、しかし彼らにおいても手話は認めるべきではないと断言している。

 川本が高く評価する橋村のこの論文は「読唇の不可能な者は手話による教育も不可能」であるとか、「手話を用いる生徒と口話科生を接触させない」等、今日から見ると、明らかに行き過ぎと思われる主張をいくつも包含している 25) 。この手話生徒と口話生徒の分離は実際にいくつもの学校において行なわれたという。



6.大阪市立聾唖学校の動向

(1)大阪市立聾唖学校の沿革

 大阪市立聾唖学校の前身である私立大阪盲唖院は、明治33年、盲人五代五兵衛 26) により設立された。五代は当初府市当局にその実現を熱心に働きかけたが、成果をみるに至らず、自力で建設を決意し、半生を苦闘して得た蓄財のすべてを投げうち開設にあたった。院長には日本初の聾唖学校、京都盲唖院の初代院長を勤めた古河太四郎 27) が迎えられている(写真1)。この私立大阪盲唖院は五代の考えでは、単なる学校としての教育機関ではなく、むしろ、より大きい意味での社会施設であった。盲唖院の中に、学校だけでなく、病院、授産場、経済的機関としての有隣舎等を設置する構想を持ち、発足している。病院、授産場は資金的な困難から実現はみていないが、有隣舎の事業は形を変えて賛成会と称された後援会組織となり、食料、衣服、学用品を給与して、貧困な家庭の盲唖生を救助する事業等が行なわれた。

 五代は、院長古河太四郎に絶対の信頼をおき、学校の教務や院内のことは一切任せ切って、自身は経営資金の調達、寄付募集に専心、その経営を支えた。彼は、明治39年、市への移管運動を起こし、同年建物器具及び基本金千円をあげて、市に無償引き継ぎが行なわれ、校名も市立大阪盲唖学校と改称された 28)

 同校は明治40年12月古河の病没後、宮島茂次郎、佐藤亀太郎等が校長となり、運営にあたったが、大正11年10月、大阪市会に於て盲唖分離が決議され、大正12年4月大阪市立聾唖学校の誕生に至るのである。

 当初市立聾唖学校の校長は宮島が盲学校と合わせ務めたが、翌13年4月高橋潔が学校長に就任した。35歳の若さであった(写真2・3)

(2)高橋潔の経歴と人物 29)

 高橋潔は、明治23年に仙台市に誕生、東北中学、東北学院専門部文科を卒業し、1年間母校の東北中学の教師として勤めている。大正3年市立大阪盲唖学校教員となり、助教諭を経て、大正6年に教諭に就任、その間舎監も兼任している。当時の聾唖学校は普通校の退職者で高齢の教員が多く、体罰等も日常化するような状況があったようである。高橋は福島、藤本らの聾唖教員と協力しながら、宮島の後援も得ながら、そのような状況を改善し、学校での位置を固めていく。後出の教員の名簿からもわかるように、高橋の教諭就任後、東北学院出身の彼の後輩が続々と同校の教員となっている。

 校長就任後の高橋は、急速に激しくなる手話排斥の動きの中で、手話を擁護しながら、柔軟で、自由な発想を発揮し、意欲的な学校経営を行なっている。

 高橋は昭和28年に退職するまで38年間、校長としては28年間の長期間にわたり、大阪市立校の教員として働き続けたが、心の教育を重視し児童の全人的発達を図ることを第一として全教職員のエネルギーと才能を引き出し、生徒の自由で開放的な学校生活を支えた。東北学院というキリスト教の理念に基づいた学校の出身者である高橋は、又、宗教を大切にした教育を展開するが、一宗派に偏ることなく、親の帰依する宗教を生徒に保障するという立場から仏教、キリスト教二つの日曜学校を学外に設け、宗教教育にもあたっている。 30)

 彼は常に教師や生徒、卒業生とともにあった。絶えず、教師と教育論を交わし、手話劇に代表される文化をともに作り上げ、スポーツをともに楽しむ高橋のエピソードは枚挙にいとまない(後出中川書簡参照)。

(3)手話擁護と大阪市立聾唖学校

 高橋潔は、大阪市立校の校長に就任した翌年の大正14年に「口話式聾教育に附いて」 31) を記し、聾唖児に手話法の役割が依然として存在することを強調しているが、これが彼の書いた最初の手話擁護の主張である。この少し後、15年3月、大阪医専教授加藤亨はJOKB、大阪放送局を通じて講演や口話法の実演を行なう等、口話法教育の大阪での実施をめざし、活発な活動を展開していた。加藤は高橋に対して直接、間接に口話の導入、手話の排除を迫るが、高橋はあくまで、手話の必要性を主張、加藤は独自に聾学校を設立、以降両校の対立的な関係が長く続く 32) 。高橋は川本や加藤らから手話主義者と呼ばれていたが、口話をいっさい受け入れないという意味での手話主義者ではなかった。彼は、口話の必要性を認めていたし、そのために口話指導に秀でた教員を採用もしていた。ただし、口話指導が聾教育の総てという考えを彼がとらなかったのは事実である。手話の必要な子どもも多く存在するし、口話能力の高い子どもでもあらゆる場面で口話のみということにはならない。教育の内容、場面によっては適宜様々な方法を活用するべきであるという考え方に彼は立っていた。また、聾唖者としての自己の価値を認める上で手話はかけがえのないものというとらえ方もしていた。口話のみで生きていく正常化の路線ではなく、障害を受容しながら、障害を自己の個性としてうけとめながら生きていく生活者としての路線を選択していた。それらから考えると高橋らと川本らは根本的に相容れぬものをもっていたといえるだろう。障害を持つことが決してマイナスなのではない。今でこそ共感をもってうけとめられる障害を持ちながら生きていくことに価値を見出すという高橋らの考えは当時の川本らには理解できぬものであっり、川本には高橋らは時代遅れの手話主義者、守旧派と映ったことであろう。

 加藤等の攻勢、また、「口話式聾教育」誌上での激しい手話排除の動きに対して、高橋等は校内の研究・教育活動を展開、頻繁に研究会を開催している。また、教職員、後援会員、同窓会員が共同して大部の会報を発刊、その中にも多くの研究成果を掲載している。確認できる論文、研究発表のタイトル数は51にのぼる 33) 。 その現物が残されておらず、内容の判明しないものもあるが、その多くは『会誌』に掲載されたり、その概要が記されている。著者とタイトル名をあげれば以下の通りである。

昭和2年
「手まね今後の進路」
「手まね文字の研究及び其の要、不要」
「聾唖児の心理研究」
「予科と初等部の系統的連絡」
「国定教科書の否定」 以上第一回手話研究会発表者氏名記録なし
「注意の決定」(藤井)
「手まねに対する私の真感と懐疑」(松永)
「視察みやげ話」(大曽根)
「予科1年を受け持った動機」
「聾唖生の綴り方教授について」
「手まねの本質問題」
「聾唖教育及び実際問題」
「学級経営・学校経営」
「聾唖者の社会問題」
「聾唖者の基礎問題」

昭和3年
「綴り方教授における私の声明書」(松永)
「手まねと児童の心性について」(藤井)
「ミシン裁縫の教授について」(阪神)
「和服裁縫教授について」(佐々木)
「予科教授について」(中川)
「観念養成について」(大曽根)
「心理的特徴に対する教育的手段」(藤井・松永)
「聾唖児童における想像的要素」(藤井)
「手まねの概念以前」(藤井)
「聾教育の主観と対象」(松永)
「受け持ちの組に対して、どういうことに一番力を注いでいるか」(福島他)
「学校を帰ってから、夜休むまでの子供の生活」(父母による)

昭和4年
「綴り方教授」(松永)
「口話法と手話法との比較」(吉田)
「手話における文法的教授」(松永)
「世界盲唖教育を調べて」(藤井)
「手まねの価値論」(佐田)
「予科を論ず」(中川)
「手まねの先験的形式」(藤井)
「情意測定の方法」(藤井)
「宗教的情操」(高橋)
「のどから手が出る話」(藤井)
「如何にして聾唖者に於ては手語と書言語が可能であろうか」(藤井)
「心の方法」(藤井)

昭和5・6・7年
「米国における聾唖教育」(大曽根)
「手の序説」(松永)
「聾唖者の言語教育」(中川)
「意思の教育」(徳山)
「国語教科に対する私見」(藤井)
「国語教育に対する私の態度」(中川)
「ベルギー法」(藤井)
「聾唖者の思想及び言語」(松永)
「日本語教授における形式的取扱の苦悩」(藤井)
「三多の法」(福島)
「聾唖者の持つ道徳的観念の一面」(高橋)
「聾唖の特殊心理と教育」(佐藤裕)
「聾唖児の国語教育」(藤本)


 又、高橋らは、川本等聾口話普及会のメンバーにより一方的に流される欧米の聾唖教育情報に対して、自ら、欧米の聾唖教育の実際を知るために、大曽根源助と藤井東洋男を昭和4年、5年にあいついでアメリカ、ヨーロッパに派遣した 34) 。大正12〜13年の川本の欧米視察以降、少なくない聾唖学校関係者の視察が行なわれていたが、一般教員の相次ぐ海外渡航は当時の事情を考えると異例のことであった。しかも、それ以前のものの多くは文部省による派遣であったが、大曽根、藤井の渡航は形こそ文部省、大阪市の派遣であるが、私費によるものであり、高橋夫妻が財政的にもその一部をバックアップして送り出したといわれている。

 大曽根はカナダ、アメリカに約7ヶ月、19の州立聾唖学校と32の私立聾唖学校を見学、総て学校に宿泊しての視察であった。特に口話法のメッカ、クラーク・スクールには1ヶ月半滞在し、師範科も見学している。藤井も欧州各国の聾学校、成人聾唖団体と接触し、多様な教育法が行なわれているかの地の状況に触れ、手話、指文字を含む混合法の有効性に確信をもち、口話教育に限定されず、生徒の適性に応じて教育方法を選択するORAシステムの確立、推進に至るのである。



7.ORAシステムと川本らの批判

 大阪市立聾唖学校が主張した教育法ORAシステムとは、「知識を与え、生活を与え、職業教育を施し宗教的情操にまでふれてこそ真の教育なり」という理念のもとに、児の心理的、生理的状態に合せて、方法を選択し、「各児童になるべく、犠牲を少なくし、且つ可及的成績向上を図るべく企図された教育システム」であるとしている 35)

 予科、初等部、中等部を通じて、手話を禁止することなく、予科では総合的保育を、初等部では児の状況によりA組(口話)、B組(手話、指文字、口話)、C組(手話、指文字)の3クラスに分け、指導、修身など情操教育については、A組においても手話を採用した。中等部では、口話、指文字、手話の併用とし、思想的方面の話は手話によるとした。即ち、一部の子どものみに手話を許すというのではなく、A組に所属する残聴力大なる者も含めて在校生のすべてに手話の利用を保障するという考え方をとっていたといえよう。

 昭和12年に刊行された五代五兵衛頌徳会発行の『五代五兵衛』には市立校の教育に関する資料が各ページの下段に記されているが、「教育法−ORAシステム」としてその説明がある。それによると「大阪市立聾唖学校は口話法を排撃するものではない。児童の素質を知って之に応ぜよと主張するのである。」として、学級編成についてそれぞれ以下のように説明されている 36)

◎予科 入学年齢満四歳以上(教育は早期に始める程効果の多いことは聾唖教育に於て特に著しい)

 入学児童数によって、二個学級又は三個学級に編成する。年齢別でも優劣別でもない全くの混合である。

 まず観ること触れることなどの感覚教育に始まる。又残聴力を検べるために聴くこともやらせられる。或は顫覚による物の振動の感受も課せられる。漸次簡単な手話、口話読唇、読話が授けられる。更にカードによる短文や語句が授けられる。かうして、あらゆる方法を混合して国語教育(言語と文字の教育)を行ないつつ、学習態度を養成することを経とし、子供の情操教育、社会生活への馴致を緯とする。一種の保育であはるが、普通の保育とは、その直接目的が複雑であり、教師の労力も大である。カードを用いてする国語教育は、本校独自のものというべく、参観者をしてその練熟に感嘆せしめるものがある。

 斯の如くして二箇年の教育を経た児童は、其の素質と性能に応じて、ABCの三種類に分類して初等部第一学年に編入せられる。

◎初等部

 A組‐将来口話法に主力を注いで教育するを適当なりと認められた児童の組である。これには先づ残聴力の強いもの、失官年齢高い者が大多数を占める。中には先天性の聾唖で全聾に近いが、其の素質が口話法に適する者もある。是又A組に編入せられる。

 B組‐口話教育も幾分可能であるけれども、これのみを以てしては将来を約束することの出来ぬ者で、此の組は口話と手話と指文字の混合によって教えられる。

 C組‐全然口話に適しない児童のみの集団である。然し口話に適しないからと言って決して劣等児低能児ばかりではない。精神能力に於てはAB組に優る者もある位である。此組は手話と指文字によって教えられる。

 本校のABC編成(之をORAシステムと言う)は以上の如く、精神能力の優劣や年齢別による編成ではなく、どこまでも生徒の素質とその将来を慮っての編成である。‥‥

 このORAシステムによる公開教授の様子が当日のプログラム(表1)とともに報道された記事を引いて、『会誌』第9号に「大阪市立聾唖学校十周年記念祭概況」として掲載されている。

 「午前九時半から高橋校長の講演が講堂で開かれ、聾唖教育の同校システムに就いての説明から世界の聾唖教育の実際、将来への方針等興味と好奇に充ちた貴重なる研究の結果を発表、続いて藤井教諭の予科一年の授業から公開教授に入り手話法の巧みな面も真剣な教授振りは参観者の教育者畑のものをして涙ぐませるものがあり”こりや聾唖学校の先生はもっと待遇をよくするべきだ”とまで叫ばせ予科二年の『桃太郎さんのお話』など特に注意させ、国語教授『玉子』の口話教授は全く教員と生徒の真剣勝負といった感じの厳粛さに一同唖然、初等部四年A組の国語「川中島」はORAシステムによる手話法教授で生徒同士の討論は全く白熱的であり、他の学校に見られぬ情熱ある授業は感心させるに十分であった 37) 」。

 このような市立校の実践に対して、純口話法推進運動のリーダー川本宇之介は、市立校のような手話を先行して指導する教育は、たとえ、口話を用いていたとしても口話方式ではないとして、激しく批判している。彼の立場からすれば、手話をわずかでも用いる方法は口話の習得をめざすべき一般聾児にとって害悪をもたらす以外の何ものでもなかった。

 「昭和七・八年頃より大阪市立校も口話法を採用したが、それは決して口話法式でもなく、また必ずしも、本心からでたものでも、ないような点もあり、寧ろ政策的の面があった。生徒募集の便利や父兄の希望等を無視できなかったもののごとくである。それを更に理論づけようとして児童の能力別による学級組織をとるという立前より、児童入学当初は手話にて教育し、その間手話と口話に適するものを選んで学級を別にして教育するというのであった。これは、第一編第四章の三にも述べたごとく、米国では入学当初数年間口話法のみにて教育し、口話の成績が不十分なものには手指法を加えて併用方式をとり、精神遅滞児には手指法を主にするのであった。ところが大阪市立校では新入児童を、まず手話にて教育し、後にそのある者は、口話学級に編入して指導するというのである。だからその編入の時には、ろう児は手話による思想伝達法を相当習得しておる。だから、その上に口話法を採用しても到底口話の成績があがるものでない。‥‥」 38)

 又、川本は、梓渓生という筆名で『聾唖教育』35号に記している巻頭言「過渡期よ疾く去れ」の中で口話法の思うように進展しないことに苛立ちを示しながらも露骨な手話排除論を主張する 39)

 「手話は恐らく類人猿を距ること遠からざる時代の貨財であったであらう。さる原始的なものを取って現時人間に学ばせようとするは、アナクロニズムも亦甚だしいものといはねばならない。或は手話は現代人の思想を表現すべく適切に創造されつつある。‥‥その謂う所の創造は全く個人的なもので最初から通用性を有するものではない。‥‥」「是に於て、吾々は多数者のために少数者に犠牲になって貰はねばならぬという考えに落ちざるを得ない。耳の利かぬ者に口話を学ばしめるは容易でないことは、実験や経験に訴えずとも、分かりきった事柄である。‥‥」

 激しい手話法批判、周囲からの孤立にもかかわらず、大阪市立校の教師集団は手話擁護、生徒主体の学校づくり、聾唖者の全生涯に寄り添う教育・福祉活動に一丸となって邁進する(写真4)

 市立校校友会発行の会報、会誌には、教師達によって直接生徒に向けての次のような呼びかけの文章等がたびたび掲載されている。「皆さん、もし私達が今日限り手真似を使っていけないと云われたら‥‥どんな気持ちがするでせうか。いや、そんな事は考えられないことです。私達の手真似はちやうど御飯のやうなもので一日もなくてはならないものです」(会報第8号のとしを署名の巻頭言) 40) 。「先生ばかりで話友達のひとりもゐない世の中があったとしたらだね、それは子供の敵国だよ」(会誌第12号の扉の言葉、東の署名) 41) 。このように市立校では、手話は子どもたちにとってかけがえのないものというとらえ方をしていたが、一方で手話と国語は形式上別個のものであるために、国語教育上困難を来す場合が多く、指文字を用いて、その欠陥を補わなければならないという認識がされていた。同じく会誌第9号には「手真似の出来る皆さんへ」という中川俊夫の文章が載っているが、そこには、手真似だけでなく、筆談、発音、また、指文字を用いて日本語を使うことをよびかける文章が記されている 42)

 何故、市立校の教師集団はこれまでに手話擁護にこだわったのであろうか。

 そのことは前記のように、その障害観に深く関わっているように思われる。手話を認めることは聾唖を認めること。障害をもつことは何ら恥ずべきことではない。障害を個性として認めるという発想、聾唖者は患者ではなく、生活者であることを強調し、生徒達が誇りをもって聾唖者として生きていくことを励ましているのである。

 なごやかな家族的雰囲気のなかで、言葉を教えるだけでなく、知識を教え、さらにそれだけでなく、生活を与える。校友会誌の発行を通じての文芸活動、中等部生徒、卒業生有志による演劇活動(後に「車座」となる)、様々なスポーツ活動、校友会による雄弁大会、キネマ部による月例の映写会の開催等、勉学のみならず、生徒の自主性を大切にした豊かな学校生活が展開されていた。残されている『会誌』の中にも、その盛んな活動の様子が詳細に記録されている 43)

 大正12年から昭和20年まで市立校訓導として勤務した上記中川俊夫氏(写真5)は、1983年に高橋潔校長の娘の川淵依子氏に宛てた書簡(資料2)の中で当時を回想して次のよう記している。「『手話は心』に書かれて居る様に、私も約六ヶ月間自由に生徒達と遊んで手話を覚えるのが仕事でした。この六ヶ月は私にとって有り難い期間でした。授業時間中は授業を参観し、休憩の合図の鐘を待ちかねて、子供達と遊び、夜は寄宿舎を訪ねて話合い、多くの生徒達と仲よしになりました。また、折あるごとに福島先生や藤本先生、高平先生からも手話を習い、半年でどうにか手話が出来るようになり、学級を担任させられました。この頃はまだ、手話教育全盛時代で、校長は何の憂いもなく、全国聾唖学校の中心となり、腕を振るっておられた時代でした。‥‥

 ‥‥私達の手話劇のはじめは単なる児童劇でありましたが、普通の学校と違って居たのは衣装や舞台装置にこって、泥絵具で美しく描かれた本式の書割を用い、舞台照明をして大いにムードを高めた点でした。この舞台で表情豊かな子供達の演ずる手話劇は実にすばらしいものでした。この舞台装置は全部東先生(藤井東洋男のこと‐清野注)の製作でした。東先生の洋行中は、当時まだ生徒であった黄田貫之君がやり、私も一場面位手伝ったことがありました。劇団で舞台監督の経験のある端先生(松永端のこと‐清野注)が加わって追々本格的になり、先生達も舞台に立ったりして、日本最初の手話劇団車座にまで発展したのです。福島先生の演技は抜群でした。聾唖会館建設資金募集運動に車座も舞台で活躍しました。

 劇と映画の会等対外的に劇をする時は必ず校長の陰の台詞がつきました。この校長の影の台詞は名調子ですばらしいものでした。校長の影の台詞を聞いただけでもうっとりする程で、この名台詞を聞くために切符を買う人が大勢あったのです‥‥」 44) (写真6〜8)

 また、様々なスポーツ活動の様子も毎号の『会報』に記されている。一般の中学生と伍して数々の大会で好成績を上げる生徒も生まれ、これも彼らの生きる自信につながる大事な教育の一部であった(写真9)

 彼らにとって学校や教師は学校時代だけのつながりではなかった。卒業後も事あるごとに集う場であり、生涯の拠所であった。学校は結婚式場(写真10)であり、聾唖者運動のセンターであり、文化活動のための集会場であった。また、学校内だけでなく、寺院、教会等校外の施設を積極的に活用、多くの協力者と連携しながら宗教教育のとりくみもすすめていた。

 この当時、純口話法推進の聾唖学校の状況はどうであったのだろうか。藤田威 45) の遺稿集『歳月』の中に、昭和9年頃の京都聾唖学校の様子が描写されている 46)

 「‥‥学校の手話部圧迫政策はすこぶる厳しくなり出しました。純情生一本の私たちには、それは大変憤慨に堪えないことでした。同じ聾唖教育を受ける以上は、同等視すべきではないか、何故手話部のみ極端な圧迫をするのかと、すこぶる不満でした。手話部の生徒が一日も早くなくなるようにすることが、岸高校長の希望でありました。そして極端なまでに差別待遇するようになりました。尤も前前年頃より、だんだんとそうなって来たのですが、私たちの時代が前後を通じて、最もひどかったようでした。‥‥

 例をあげると、朝会には口話部は出るように、手話部は出させない(体操も)始業時間を繰り上げて手話部、口話部の休憩時間を食い違わせて、会えないようにすること、各種式には一切、校長の口話ばかりで、手話通訳は認めないこと。

 口話部生徒には手話部生徒を極端に悪く印象づけるように、先生が教育して上級生を軽べつさせるように仕向けること、秋季の運動会には午前は口話部、午後は手話部と区別してやらせること、口話部の各行事には務めて出るようにしても、手話部の場合には欠席するようにしたこと、例えば運動会、送別会、その他‥‥です 47) 」。

 口話学級が開設されていく中で手話学級は新たには設けられなくなるのが、当時の状況であった。藤田氏のような手話学級所属の生徒は学年が上がるにつれ、少数グループになっていく。最後の手話学級生徒が卒業した時点で手話学級は消滅する。学校は手話学級を閉鎖することによって理想の純口話教育を目指そうとしていたから、その中で手話を用いる生徒はやっかいもの扱いにされていたのである。



8.大阪市立聾唖学校の動向

 全国的に口話学級の開設が広がる中で、手話学級の閉級が進んでいった。手話、口話学級の設置状況調査をみると、昭和11年には手話学級67学級、手話生徒数620名(外地除く、口話・手話併用含む)、それぞれ11.8%、10.4%となる。これを初等部に限ると30学級、320名、7.9%、7.9%となり、純口話法化はさらに進行している 48) 。このような状況の中でも、手話を排除しなかったばかりか、その必要性を事あるごとに主張したのが、大阪市立聾唖学校であった。

 市立校は、官立の東京聾唖学校、他の公立聾唖学校と比較して、そのスタッフに特色を有していた。所謂、聾唖教育の専門教育を受けた教員が少ないという点である。中心メンバーの学歴を以下に示すが、健聴の教員の場合、校長の高橋を初めとしてほとんどが一般の専門学校、中等学校の卒業者である。昭和10(1935)年発行の『聾唖年鑑』に基づき、記すと以下のようになる 49) (カッコ内の数は生年)。

 高橋潔(1890)‐東北学院専門部英文科
 内田豊(1903)‐東北学院高等師範 
 大曾根源助(1896)‐東北学院専門部英文科
 加藤金平(1895)‐東北学院専門部英文科
 阪神河藏(1881)‐愛知県渥美郡福岡尋常高等小
 櫻田茂(1896)‐東北学院専門部文科
 佐々木フサヲ(1878)‐愛媛高等女子学校
 佐田敞(1896)‐大阪天王寺中学
 佐藤祐(1908)‐岩手師範
*高平久雄(1901)‐大阪盲唖学校尋常高等科
 高村良樹(1901)‐大阪今宮中学
*谷口勝(1904)‐大阪盲唖学校裁縫科
*徳山正規(1893)‐東京聾唖学校師範部
 中川俊夫(1905)‐大阪高津中学
 永原富(1895)‐奈良女子師範
*中村和平(1897)‐大阪盲唖学校家具科
 林一敦(1908)‐大阪高津中学
 廣間ひで(1890)‐東京女子高等師範
*福島彦次郎(1891)‐大阪盲唖学校洋裁縫科
 福本壽子(1970)‐京都女子高等専門学校
*藤本敏文(1893)‐東京聾唖学校師範部
 藤井東洋男(1903)‐兵庫龍野中学
*藤井つや(1892)‐刑務所教誨師養成所
 松永端(1899)‐早稲田大学文科
 松永保男(1912)‐大阪浪速中学
 柳槌三(1897)‐大阪西野田職工
*吉田政雄(1894)‐大阪盲唖学校木工科


 以上が『年鑑』に記載の市立校教諭、もしくは訓導であるが、東北学院の卒業者5名、早稲田大学1名、中学卒業者5名、一般的には教師の学歴としては主流ではない人々が多数を占め、師範出身者は、聾者の藤本を含め4名のみである(写真11)

 また、聾者が8名いるが(*印のついた人物。助手等も含めればさらに多い)、この昭和10年当時は、口話法の拡張の中で全国的には聾者の教師の退職が急激に進んでいた時期であった。文部省年報によれば大正13年全教員の21.9%(210名中46名)を占めていた聾唖教員が、昭和10年にはわずか5.2%(639名中33名)に激減しているのである 50)

 当時の純口話法への抵抗、教育実践における彼らの自由な発想、子ども主体の考え方の背景に上に示したような教師集団の構成上の特徴も関係しているように思われる。このような教員構成をみてもわかるように、聾教育のための専門教育を受けてきた人物は少数であるが、前記のように、年史、会誌等から、昭和3年から7年にかけて多くの教師が研究発表、論文の執筆に参加していることが知られる。特に藤井、松永、佐田、中川らの名前が頻繁に、現われる。彼らは、当時20代から30代にかけての若手の専門教育を受けなかった教師であったが、それぞれ自己の才能を十二分に発揮し、大きな成果をあげている。





9.全国盲唖学校長会議と文部大臣訓示

 それより前、昭和8年全国聾唖学校口話手話状況一覧によると手話学級を有する学校は半数を割り、その学級数も全学級数の約16%となっていた 51) 。この年の1月全国盲唖学校長会議が開催されたが、その際、鳩山文相は訓示の中で以下のように述べている。「尚聾兒に在りましては、日本人たる以上、我が国語を出来るだけ完全に語り、他人の言語を理解し言語に依っての国民生活を営ましむることが必要でありまして、聾兒の言語教育に依る国語力の養成は、国民思想を涵養する所以でありまして、国民教育の根本方針に合致するものと言わなければなりません。全国各聾唖学校に於ては、聾兒の口話教育に奮励努力し研鑽工夫を重ね、其の実績を挙ぐるに一層努力せられんことを望みます 52) 」。

 この文部省による口話による教育をもって国民教育に合致するものとした方針の確立を、川本は『聾口話教育』第9巻3号の「巻頭の言葉」において、「吾人の欣快とする」と記している 53) 。この文部大臣訓示に「口話国定」を入れたのは、他ならぬ聾教育振興会常務理事の川本、同理事の田所、同副会長で文部省普通教育局長の武部の連携プレーであることは、全国盲唖学校長会議の終了後に行なわれた聾教育振興会長・候爵徳川義親招待の茶の会の座談を読むと推測される 54)55)

 しかし、高橋は諮問案討議の中であくまで手話の必要なことを訴えた。この発言に対して会場には野次が乱れ飛んだという。「総ての聾唖者より手真似を奪い取ることは不可能である故、手真似の放棄は出来ぬ」と常々主張する佐藤在寛等二人ばかりが高橋に賛意を示しただけだったが、彼は大臣訓示に異をとなえる勇気を示した。少数の学校ではあったが、この後も手話を擁護する学校は存在し続けた。又、手話の擁護あるいは、純口話法への懐疑を示す主張も少なからず行なわれている 56) 。しかし、全国的には前述のようにその後手話学級はさらに減少し、聾唖児に口話のみを強いる教育は進展していく。

 昭和8年の第3回盲唖学校長会議開催から5年後の昭和13年の同会議で荒木文部大臣は、一転次のような内容を含む訓示を行なう。「又昭和八年の会議に於て訓示のありましたる口話法は各位の御努力に依りまして大いに普及発達して参りましたことは聾唖教育進歩の一證左として真に欣ぶべき事でありますが之に熱心なる餘り苟も口話法に適せざる者にも之を強い為に却って教育の効果を阻害するが如きのないよう適当なる省察加えられんことを‥‥」 57) という訓示があり、手話・口話論争の再燃のきっかけとなり、手話、指文字への関心が一時強まることともなった。

 その頃市立校は職業教育に力を注ぎ、特に、海軍軍需工場のダイヤモンド研磨株式会社と関わりを持ち、精密工業への多数の卒業生の進出を実現、手話法による教育の優位性を喧伝する 58) 。市立校は10数名の卒業生を就職させるにあたって、自校のベテラン教員である教諭加藤金平を退職させ、企業に監督指導者として就職させることまでしている 59)

 戦時色が濃くなる中で、論議の中心は産業戦士の育成、皇国民錬成といった形で、戦争遂行に協力する職業教育に移っていくのであるが、そうした状況の下、軍需工場への勤労奉仕が日常化し、教育が形骸化していくのは、口話法推進の学校でも手話を許容する学校でも同様であった。そのような中、手話校の一つ浜松聾唖学校では、小学部生徒までを勤労奉仕に動員、2名の生徒を戦災死させるという悲劇が起きている 60)61)





10.おわりに

 以上、手話・口話をめぐる昭和初期の動きを概観、とりわけ大阪市立聾唖学校が激しい手話排除の動きに抗して教師集団一丸となって進めてきた教育実践、又、その教員構成について紹介してきたが、手話・口話論争というのは、結論から述べると、手話法がよいか口話法がよいかの論争ではなく、手話も認めるという立場と手話はいっさい排除する立場との争いと見るべきである。聾唖児といっても様々な障害の程度、生育歴の子どもらがおり、その子どもたちの能力、特性を無視して手話をすべてとりあげることに反対した大阪市立聾唖学校を中心とした少数のグループと、手話は言語習得にとって障害になるととらえ、口話法だけで教育は行なわれるべきという川本宇之介を中心としたグループとの論争である。大阪市立聾唖学校の側は少数とはいえ、高橋潔を中心に大阪校全体が非常に組織的に手話擁護の論陣を張っていた。また、他にも少数ながら彼らを支持するグループがあり、著者が旧稿で報告した函館盲唖院長佐藤在寛 62) の他にも、浜松盲唖学校 63) 、台南盲唖学校 64) 等を挙げることができよう。

 しかし、川本らのグループは彼自身文部省嘱託の立場にあり、文部省の力も背景に多数の有力者の後援も得て、非常に大きな勢力を有し、教員の養成機関や研究雑誌の編集権を有していたから、優位に立つのは当然のことであった。結果的には手話擁護グループは孤立を余儀なくされ、戦後も盲聾教育の義務制が実現する中で手話の排除はさらに進み、昭和20年代末には教室からほぼ駆逐されることとなるのである。

 そのような大きな力の前に大阪市立聾唖学校を始めとするこれら学校は、欧米の新しい教育成果を受け入れない、頑迷な学校という評価を受けてきたが、果たしてそうであったのだろうか。生徒の主体性を重視し、手話、指文字、を活用、生きたコミュニケーション、学習、自治活動、文化、スポーツ活動を保障し、その卒業生の生涯の拠り所であった市立聾唖学校のORAシステムによる教育のめざしたものに再度目を向けることが今求められているのではないか。危機にある現在の聾学校教育は、戦後も含めその後の聾教育の源流となった川本らの純口話法により駆逐された市立校の教育に多くの学ぶべきものがあることを知る必要があろう。

 稿を終えるにあたって、資料収集等に種々の援助をいただいた関係者の皆様に心より感謝申し上げたい。

※無断転載禁止 Copyright(c)2000 全国ろう児をもつ親の会