[ 口話教育と手話教育 ]

  1. 『聾唖教育』−大正13(1923)年5月、広島で行なわれた全国聾唖教育全国大会第9回大会で、日本聾唖教育会の設立と年2回(後に年4回)の機関誌発行が決議され、会長に小西信八が就任、大正14年10月に『聾唖教育』第1号が発行された。昭和17(1942)年3月の第68号まで継続し、政府の雑誌統合政策により『聾唖界』を統合し『聾唖の光』と改題され、継承される。
     『口話式聾教育』、『聾口話教育』−前者は大正14(1925)年2月に創刊。昭和6(1931)年4月の第7巻第4号から『聾口話教育』改題され、発行、昭和16(1941)年3月、第17巻第3号をもって終刊となる。
     『聾唖界』−創刊号は大正3(1914)年1月の発行。発行所は東京聾唖学校内の聾唖倶楽部。翌大正4年、日本聾唖協会が発足、同会に引き継がれる。会長小西信八、編集に大阪の藤本敏文があたった。昭和17(1942)年3月、97号まで発行され、前記『聾唖の光』に統合される。『聾唖の光』は教育号と福祉号を隔月で発行、第3巻第5号まで継続し、昭和19(1944)年8月終刊となる。
     以上『障害者教育福祉リハビリテーション目次総覧』(津曲裕次監修)、聾・難聴関係篇解題(上野益雄著)1990による。
    大阪市立聾唖学校『大阪市立聾唖学校七十年史』東京教育大学附属聾学校 『東京教育大学附属聾学校の教育−その百年の歴史』1970年

  2. 川本宇之介(1890〜1960)兵庫県出身、県立伊丹中学、東京帝国大学文科大学選科を卒業。東京市を経て大正9(1920)年文部省入り、普通学務局第4課調査掛長として盲聾教育と社会教育を担当。当時に手話教育主体の聾唖教育に触れ、その改革を決意、欧米の盲聾教育研究のため欧米を訪問した後、東京聾唖学校兼東京盲学校教諭に就任し、欧米の障害児教育制度・動向の紹介、研究、口話法の普及と盲聾児就学義務制実現に尽力した。昭和6(1931)年聾教育振興会常任理事、同17(1942)年東京聾唖学校長、戦後東京教育大学教授に就任、口話法教育を完遂した。著書に『聾教育学精説』(1940)、『ろう言語教育新講』(1954)他。川本の伝記として山本実著『川本宇之介の生涯と人間性』(1961)がある。

  3. 大阪市立聾唖学校『会誌』(号によっては『会報』と呼ぶ場合もある)は校友会、同窓会、教育後援会の発行で(これも号によって違う)高橋が校長に就任した大正13年から昭和12年まで13号にわたって発刊されている。昭和13年以降の発刊については、年史にもその記録はなく、また、現物も残ってはいない。

  4. 小西信八(1854〜1938)新潟県十日町生れ。明治12(1879)年東京師範学校中学師範科卒業、明治13(1880)年東京女子師範学校附属幼稚園監事。同17(1884)年文部省普通学務局兼務、同19(1886)年訓盲唖院専務として盲唖教育界に入る。明26(1893)年東京盲唖学校長となり、同29(1896)年、障害児、貧児の教育研究のため、欧米に派遣される。大正14(1925)年3月校長を辞任する。

  5. 川本宇之介 『ろう言語教育新講』p.119 1954年

  6. 前掲5.p.89

  7. 前掲5.p.89〜90

  8. 川本宇之介 『聾教育学精説』 p.209〜211 1940年 川本はこの著の中で「小西の意見の批判」として口話法の意義を理解せず、手話を重視する小西を批判、併せて教諭石川文平を同調者として批判している。

  9. 平田勝政 『川本宇之介文献目録』 長野大学 教育学部教育科学研究報告 第39号 p.83〜106 1990

  10. 山本実『川本宇之介の生涯と人間性』p.34 1961年 またその他名古屋校において開催された聾口話教員養成講習会の講師としても多くの口話教員を養成している。

  11. 橋村徳一(1879〜1968)愛知県出身、名古屋市立盲唖学校校長。我が国の聾唖学校の中で純口話法教育に組織的に取り組んだ最初の校長。川本、西川とともに口話法を全国に普及するために尽力、名古屋校を会場に聾口話教員養成講習会を開催、短期間に口話教員を多数養成、全国的な口話法採用の原動力となった。著書に『聾教育口話法概論』(1925)等。自伝に『人の話を目にて知る』(1965)。

  12. 西川吉之助(1874〜1940)滋賀県の商家に生まれる。私立商業素修学校卒業。明治28(1895)年北海道庁の許可を得て、私立小樽商業夜学校を設立、校長に就任。明治32(1899)年本家の西川伝右衛門家を継ぎ、北海道オショロで漁業を営む。明治40(1907)年より8年間アメリカに渡り、働く。帰国後、三女はま子が聴覚障害であったことをきっかけとして聾教育に取り組む。大正9(1920)年よりはま子に口話法の教育を始め、我が子の教育にかかわる一方、口話教育推進運動に参加、日本聾口話普及会の副会長に選ばれる。又はま子を連れて、全国各地の聾唖学校を訪問し、口話法推進の気運を盛り上げた。昭和3(1928)年滋賀県立聾話学校を創立する。晩年は口話教育の推進に家財を蕩尽するとともに、病に苦しみ、昭和15(1940)年自死する。彼の生涯をまとめたものに高山弘房著『口話教育の父−西川吉之助伝』(1982)がある。

  13. 『日本聴力障害新聞』のNo.153(1963.1)に「小西信八先生の娘から便り」として、小西よし代の名前で次のような文章が掲載されている。「前略、本紙にのっている藤本敏文先生の小説”聾学校教師”の中に、昔のおなじみの方々の名前が出ます度になつかしく思います。・・・父に藤本敏文というこの生徒は文章も字も達筆だと聞かされた事を子供心におぼえております。父は大正十二年頃川本氏の為に急性神経衰弱にかかり困りました。思い出はあの小説で一層ふかめられわき出されて来ることでしょう。・・・」 小西よし代は『小西信八年譜稿』によると、小西の四女として1899年に生れている。なお文中大正十二年は、川本の海外視察時期からいって、おそらく大正十三年の誤りと思われる。

  14. 小川克正 「小西信八年譜稿」 岐阜大学教育学部治療教育学研究室 『治療教育紀要』第16号p.32 1995年

  15. 文部省 『特殊教育百年史』p.126 1978年

  16. 前掲10. p.33 1961年

  17. 『聾唖教育』2号 p.6 1926年
    以下は3首の内の2首
    ※たいしょう一四ねんのおほいたのくわいに
    かつてみぬ けふのつどゐを のちはまた
    かずにもあらぬ ものとなせよや
     くびかくか どうぎりせんぢや ならぬてふ
    すごいゆめみて こしぬかすわれ

  18. 前掲5. p.94 1954年

  19. 前掲8. p.223

  20. 島畑彦三 「本邦聾唖教育六十年の回顧」 言語教授中の口話法の項 『聾唖教育』32号 p.83

  21. 前掲18. p.113

  22. 『聾唖教育』2号 p.23〜25

  23. 『聾唖界』34号 1926年

  24. 田代喜作「感想と希望」『口話式聾教育』第3輯p.27〜28 1925年

  25. 橋村徳一「田代熊本盲唖学校長に答ふ」『口話式聾教育』第3輯p.28〜32 1925年

  26. 五代五兵衛(1848〜1913) 嘉永元年大阪の商家に生れる。16歳の時に、失明。家業を継ぎ、苦心の末、家運を興した後、私財を投じ、明治33年、私立大阪盲唖院を開設する。同院を大阪市に無償移管した後、大正12年急逝す。

  27. 古河太四郎(1845〜1907) 待賢小学校教師として聾唖の姉弟の教育にあたった後、明治11(1878)年京都盲唖院の教師となる。盲教育、聾唖教育に様々な工夫を重ね、その後の盲、聾教育の基礎を築いたが古河は初代の監事(院長にあたる)に就任した。盲教育、聾唖教育に様々な工夫を重ね、その後の盲、聾教育の基礎を築いたが、明治22年職を退いた。明治33(1900)年、五代の懇請を受け、私立大阪盲唖院長となる。

  28. 福島彦次郎(五代五兵衛頌徳會)『五代五兵衛』 1937年

  29. これまで高橋潔の伝記は書かれていないが、川淵依子氏が後出の著書の中で、父の聾学校長としての仕事を後世に残そうと高橋の姿を描いている。この著書を元に漫画家の山本おさむ氏が『わが指のオーケストラ』を出版し、反響を呼んだのも記憶に新しいところである。その他、『大阪養護教育史』研究紀要第10号に《回想》「大阪市立聾学校、先人の業績を忍ぶ」として「高橋潔先生と手話」が書かれている(p.137〜139)。また、『日本聴力障害新聞』No.104〜110に座談会「高橋先生をしのぶ会」が掲載されている。

  30. 当時の聾唖教育はその校長、教師のみならず、家族の協力で行なわれており、数々の逸話が伝わっている。高橋潔氏の長女川淵依子氏は『指骨』(1967)、『手話は心』(1983)、『手話賛歌』((1994)等で母、醜の潔への献身ぶり、市立校の教育を支える姿を紹介しているが、新しい本『醜草‐「ろうあ者と聞法」』(1996)の中で「父を支えた母」と題して次のような文章を記している。「母は野州町行畑の西本願寺の末寺・蓮照寺で生れた。明治二十九年生れだから存命であれば今年九十四歳。母はわたしの十七歳の時、四十四歳で亡くなった。昨秋五十回忌をつとめることができた。早く別れるべき母娘であったのか、母はきびしいの一言につきる人だった。母はわたしを連れての再婚であったが、父となった人を立派な人だと、ことあるごとに言い聞かせた。今、わたしがその父の志を少しでも継いで行きたいと思うのも、この母の教えのおかげだと思うての毎日である。 母の死、それはついこの間のことのように鮮明に脳裏にやきついている。ろう教育上、口話法を支持する文部省、それに従う全国のろう学校を向こうに、手話法を支持し孤塁を守っていた父に献身的な母だった。 母は母なりに手話の必要性を、そしてそれ以上に世間の人々にろうあ者の苦しい立場を説くことにつとめた。昭和十二年四月に、ヘレン・ケラー女史はじめての来日。来阪を機にろうあ者福祉後援婦人会を結成することにも全力をつくした。 全国のろう教育の場から手話が消え去ろうとしているその中にも、父は歯をくいしばって堪え、なおも懸命に手話の美しさ、ろうあ者にとっての不可欠のものであると世間に訴えつづけた。その一つとして手話劇を毎年一流の劇場でしていた。時代背景を思うとき、それは大きな英断であった。今日のような手話ブーム的な世相ではなく、手話は動物的な恥ずかしいものとされていた時代だった。それに反発するかのように手話の美しさを披露する父。劇場いっぱいの人々の前で手話で讃美歌をバリトンの声高らかに歌った時の感動は今も忘れない。おそらく日本で最初の手話歌だろう。 昭和十五年十一月十六日、この日も恒例の手話劇のされる日だった。母はその切符売りに懸命であり、だれよりも楽しみにしていたが、その日の早朝、急死した。父はその母をおいたまま母の死を秘しての大会だった。 また、母は父の願っている宗派を越えての宗教教育にも力をつくした。西本願寺の女性布教使であった母は、津村別院の協力を得て、学校に比較的近くの超願寺にろうあ児の日曜学校をつくった。子供達は土曜日の午後、いそいそと仏さまのお話を聴くべくお寺へ集いよった。みんなは仏さまの前で「われらは仏の子どもなり」と、手話でうたった。母へのつきぬ思いは、こうしたことへとつながっていく」。

  31. 高橋潔 「口話式聾教育について」 大阪市立聾唖学校後援会『会誌』第2号p.1〜15

  32. 清野茂「佐藤在寛と昭和初期聾唖教育」市立名寄短期大学「紀要」第27巻p.41〜58 1995年

  33. 井上彰夫「ORAシステム(資料抜粋)」1968年 原文は400字詰原稿用紙205枚に手書きで記されたもの。大阪市立聾唖学校の『研究紀要』26(1994)資料として収録されている。

  34. 二人の視察の状況は『会誌』、ORAパンフレット3『米国に於ける聾唖教育』(1932)、同パンフレット5『第四回国際聾唖大会』に紹介されている。

  35. 前掲33)p.60

  36. 前掲28)p.155〜157

  37. 『会誌』第9号p.62〜63 1932年

  38. 前掲5)p.122〜122

  39. 梓渓生「過渡期よ疾く去れ」『聾唖教育』35号 p.1 1936年

  40. 『会誌』第8号の表紙裏の中川俊夫署名の文章(巻頭言のような体裁で掲載されている)『朋友相信じ』の全文は書きの通り。皆さん、もし私たちが今日限り手真似を使っていけないと云われたら・・・・どんな気持ちがするでせうか。いや、そんな事は考えられないことです。私たちの手真似はちゃうど御飯のやうなもので一日もなくてはならないものです。もし私達の世界に手真似がなかつたらどうでえせう? 耳のきこゑない私達にとつては猿や犬の生活よりも、もつとみじめなものでした。お友達に自分の思つていることも伝えられないし、お友達がどんなことを考えているかという事もたづねられないし、ほんとうの心からの親しい好きな、お友達にはなれなかつたでせう。私達はお互いに悲しいときにはなぐさめ合い、嬉しいときは喜び合い、困ったときは励まし合いました。これも皆手真似があつたからです。私達は手真似によって心から深く信じ合い、固く結び合つています。そしてこれからも、手真似によつて楽しく強く生きていくのです。 畏おののくも教育勅語に「朋友相信ジ」と仰せられてあります。私達聾唖者にとつて手真似なくしてはこの尊いお言葉を遵守し、実際にやつて行くことが出来ないのです。手真似。手真似。私達の手真似。真、善、美と共に生くる手真似! (としを)

  41. 『会誌』第12号 1935年

  42. 中川俊夫「手真似の出来る皆さんへ」『会誌』
     第9号p.8〜9 1932年

  43. 『会誌』8〜12号の雑報に校友会各部の報告が掲載されているが、運動部には陸上部、庭球部、卓球部、蹴排球部、野球部、水泳部があり、文芸部には編集部、文庫部、学術部、芸術部があった。各部の部長、主任には各教員が配置されその活動を援助、指導している。又、これらとは別にキネマ部、カメラ部からなるニュース部もあった。

  44. 中川俊夫氏より川渕依子氏宛書簡 1983.3.19

  45. 藤田威(1917〜1972)9歳で失聴、昭和7(1932)年、15歳で京都府立聾学校中等部3学年絵画科に編入する。昭和9(1934)年5学年に進級、生徒長となる。研究科卒業後、菊池契月塾に入塾、昭和18(1943)年、文展に入選。昭和27(1952)年より島根県立浜田聾学校助教諭、昭和35(1960)年同校教諭。全日本聾唖連盟理事・同厚生文化委員会部長、中国聾唖連盟長、島根聾唖連盟長等を歴任。

  46. その時期自ら口話法を推進した京都聾学校元校長、中潔は過去の口話法教育を振り返って率直に以下のように記している。『京都府立聾唖学校創立九十年史』p.14〜15 1968
    口話法‥‥聾唖者の言語教育としては、先ず音声言語表象を各自の印象においてはっきり把握せしめることが肝要である。これはどんな方法でもよいが、口による訓練が最も近道であろう。しかし、これは知能による作用であるから、口でといっても必ずしも発語を伴う必要はない。口によってその発語のあり方を感得せしめればよい。「これで彼等も立派に音声言語を有っていると云い得るわけである。」尤も発語できるものはそれにこしたことはないが、目途なきものまで無理に強行する必要はない。それを口、手(文字、指文字)を表現できればよいわけである。ところが、口話法によって聾唖者もものが云える、口が読めるという大キャッチフレーズで派手に宣伝した手前、何が何でもものを云わせなくてはならぬというので、ガムシャラに、いきりたったのである。Oralというからには無理もないが、これが高じて言語は声を出して即ち発語しなければ言語ではないという妄念を作り出し、そして発語・読話は練習さえすれば必ず発達すると進化論まがいの盲信によって妄努力が強行されて来た。手を動かしても発語の邪魔になるといった工合で遂に口話法以外の研究はしてはいけないというタブーも生れてきた。こうして最重要な早期文字教育を拘束し、知識の向上を抑圧してきたのである。知能の啓発は書物を読解研究する力がなくてはだめである。殊に聾唖教育では最終の目的は文字に置かなくてはならないのに加えて手まねは恰好が悪い。口でやれば普通人と同様に話ができるなど、聾唖者自信のことはそっちのけにして父兄や教師の見栄を張ったものである。口話法であるからも早唖はない。故に聾学校だなど、全く児戯に等しいものまで飛び出してきた。そして口話法をやっているのか教育をやっているのかわからなくなってしまった。
     このような傾向は他の元聾学校長にも見られ、退職後に純口話法への反省、手話への一定の理解を示す人たちは少なくない。

  47. 藤田孝子『歳月』−藤田威遺稿集−p.46〜47 1980年

  48. 『聾唖教育』37号

  49. 「聾唖人名簿」聾唖月報社『聾唖年鑑』p.765〜835また 1935年

  50. 岡本稲丸「わが国聴覚障害者教員略史」‐戦前、戦後を中心に」『ろう教育科学』Vol.32 No.2 p.32 1990年

  51. 『聾唖教育』第22号 p.60〜68 1933年

  52. 文部大臣訓示=全国聾唖学校長会議ニ於ケル=『聾口話教育』 9巻3号 p.4 1933年

  53. 前掲51)p.1

  54. 前掲51)p.51〜56

  55. 『聾口話教育』 9巻4号p.33〜37 1933.4

  56. 佐藤在寛は『聾唖教育』37号に「理想と実際」を執筆し、純口話法批判、手話擁護論を展開している。又、黒田利平も『聾口話教育』10巻5,6号に純口話法への疑問を記している。黒田は戦後も川本らの言語教育批判を続けている。

  57. 「全国盲唖学校長会議ニ於ケル文部大臣訓示要領」『聾唖教育』第48号p.2〜4 1938年

  58. 大阪市立聾唖学校『産業進出記念号』(『会報』第13号)1937年

  59. 大阪市立聾教育後援会『あしあと全』p.4 1980年

  60. 柴田敬子 『聴力障害者たちの戦中戦後』 1995年

  61. 柴田敬子 『聴力障害者たちの戦中戦後補遺』 1996年

  62. 佐藤在寛(1875〜1956) 私立哲学館を終え、明治35(1902)年、教育雑誌『実験教授指針』を発行。明治38(1905)年上野高等女学校を創設、女子教育に携わる。大正5(1916)年渡道、函館商業学校講師、函館毎日新聞記者等をした後、大正11(1922)年廃院の危機にあった函館盲唖院の院長に就任。昭和25年まで同院院長を務める。彼は、純口話法を採用せず、手話の擁護を続け、大阪市立聾唖学校と提携し、教育を進めた。また、聾唖教育だけでなく、師・新井奥邃の教えを受け継ぎ、地域の青年教育にも尽くし、教師、実業家等多くの人材を育てている。

  63. 浜松聾唖学校‐大正10(1921)年、泉亀太郎、湯浅輝夫らが、浜松盲学校を創設、大正12(1923)年に聾唖学校を併設した。泉も湯浅も浜松市の実業界にいる人物として、地域の人々の寄付を仰ぎながらこの私立の盲学校、聾唖学校を運営し続けた。純口話法が推進される中でも手話法をとり続け、湯浅が手話を擁護する主張をしていた事実も『聾唖教育』の記事から知られる。昭和23(1948)年、県立に移管し、若生精一が校長に就任するが、手話学級が最終的に無くなったのは昭和28(1953)年のことである。

  64. 台南盲唖学校の校長には一時、大阪市立聾唖学校教諭だった西淵浚が就任している。

    (本研究は平成7年・8年度文部省科学研究費による研究の一部である)




    表1 ORAシステム公開授業プログラム(1932.10.22)






    写真1 私立大阪聾唖院時代の写真(明治34年頃のものと思われる)
    右端 五代五兵衛  左端 古河太四郎


    写真2 高橋 潔


    写真3 大阪市立聾唖学校教師(大正末と思われる)
    後列背の高い人物が高橋、前列中央が大曽根、
    前列左端が福島、右端が藤本


    写真4 手話による授業風景、教師は櫻田茂


    写真5 中川俊夫

    写真6 大阪市立聾唖学校生徒による手話劇



    写真7 手話演劇会の準備作業の様子


    写真8 「車座」による手話演劇「俊寛」


    写真9 テニスの試合風景


    写真10 大阪市立聾唖学校内での結婚式風景


    写真11 大阪市立聾唖学校教員の写真
    (昭和5年のものか)













































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