『ろう学校へのメッセージ』投稿集

・ほとんどのろう学校で手話を教えない、使わない
・しゃべれる訓練をすべての科目で行なっているため授業内容が数年単位で遅れている
・ろう者の教員をほとんど採用しないためろう児は自分の将来像を思い描けない
・親が家庭で手話を使うことすら責めることがある
・口だけによる教育を母親に押しつけるだけでなく、
 母親が働くことすら責め立てる傾向がある

  今の日本のろう教育がおかしいと思う方
  ろう学校の中に手話を導入していないのはおかしいと思われる方
  ろう者の教員を採用して欲しいと願う方
  ろう学校での想い出
  ろう学校の重要性を実感されている方
※新しい投稿は現在受け付けておりません。

[ 2000 〜 2003.3 ]

2004.4〜

ハンドル名 ご意見
藤枝明里  今年に入ってから「わが指のオーケストラ」を読んで、現在のろう教育についてインターネットでとっかかりを調べていたらこちらのサイトにたどり着きました。
手話教育がろう学校でみとめられない現実が、今も続いていることに驚きショックを受けています。
少しでも現状がいいほうに変化することを微力ながら祈っています。
あきら  現在、聾学校寄宿舎で勤務しています。
各都道府県の寄宿舎の状況がどのようなものであるのか、解らないままここに今私が現場で感じていることを書き、共感してくださることのほうが意義があると思い私の勤務地はあえて伏せさせていただきます。

私が今直面している問題は、寄宿舎と言う場所が教育的な場であるのか、それとも彼らの「家」であるのか、またはそのどちらでもないものなのか、そのどちらでもあるのか。このような渦中に立っているということが問題であります。
このことに深く関心を寄せていない、または寄せない職員に対する苛立ちがあり、日々、孤軍奮闘の面持ちです。
まず寄宿舎に入ることになる子供の状況としては、学校までの通学距離が毎日通学することができない場所に家があること。
今居る生徒の話しを聞いていると学校まで来るには2時間から2時間半かかる子供たちばかりです。
つまり教育を受けるためには家を離れなくてはならない子供たちが集まっている環境、というのが寄宿舎という場所です。

寄宿舎での生活を求めてきた、のではなく教育を受けようとなると寄宿舎に入らざるをえないという子供たちばかりです。
このことで子供たちが「なぜ、寄宿舎にいる職員の言うことを聞かなくてはならないのか」という疑問を持つ原因になります。
 
 私の勤める寄宿舎では一日のスケジュールが張り出されておりその時間通りに子供たちが生活しています。その時間通りに子供たちが動かないと注意されます。このことは家でも実際にあるような光景ですが、それを6年間、もしくは3年間、子供たちは「規則正しい生活」を遂行していくことになります

学校での生活もこれと同じく時間で区切られた生活をしているわけですが、通学生は家に帰るとある程度、時間を忘れる、時間を持つことができますが寄宿舎生は帰ってからも時間割りをこなしていかなくてはなりません。

常に監視下にあるということがいえるのも実際のことです。私は家というものは憩う場所で「外」と「中」という実感がありました。そういう私からすれば、よい光景にみえないのですが、子供に対して注意をすることで自分が持つ職務を全うしているように思う者にとっては注意することに何も疑問を感じてはいないのです。「言うことを聞かなくなる人間にしてはいけないからちゃんと言って」ということをよく言われます。

「言うことをきかせる」ことが教育、また寄宿舎に居る大人の立場として正しいのでしょうか。
ここで見させてもらったデンマーク親の会8つの基本的心構えのひとつ「ろう者は聴者といる必要がある」という部分には社会と自分の障害を乗り越えるための術を学んでいくことが大事だといわれているようにも取れるのですが、寄宿舎で働くものは彼らと社会を結ぶ役割でもあるように思います。学校外での生活の場での唯一の情報源でもあります。

教師は教科を通じて教養を、家族は生きていく知恵を、与えなくてはいけないように思うのですが、寄宿舎生には生きていく知恵が家族から伝えられる場が無い、その場に「職員」がいるのが現実ですです。
他人ではなく家族だけが言ってくれることを受け取る場所が無いのではないかと感じるのです。
公務員的立場を堅守することが子供にとってはマイナスになっていくことがあるのではないかと思うのです。
「子供たちとは適当に付き合ってほしい」その一言を言われたのですが、どう解釈すべきか、悩む日々です。

確かに人の子供を預かる場であり、危険なことがあってはならないのですが、それを未然に防ごうとする意思が子供の視界を狭くしていっているのではないか、寄宿舎は教育機関であるのか、家であるのか、その大きな壁にはさまれた私が出すべき答えはどうでなくてはならないのか。

もしくは、無為自然に何事も無いように簡潔に済ませていくことが正しいのでしょうか。
えびすさん  グラハム・ベルの「孤独の克服」NTT出版刊を3年かけて読破致しました。私も脳腫瘍術後弱難聴です。視話法を学習したいのですが・ 以上
さくら 教育関係者のみなさま
ろう学校を卒業されたろう者たちの手話(声)を見過ごさないでください。

もうひとつ 教育者としての立場でお薦めの本をお読みになってください。

累犯障害者 獄の中の不条理 山本譲司 新潮社
絵夢  同情ではなく、人間としての愛と思いやりを持った人が先生にふさわしいと思いますね。
よしむね  日本の聾学校の教員が手話ができないとは知りませんでした。
手話通訳の資格もある方が教鞭をとられるものだと思い込んでいました。
子供たちは大変なんですね。
私はたまたま区の手話講習会に参加したくて、参加した人の話を聞きたく色々検索してたどり着きました。
ですので、私は健聴者です。
こんな私が書いていいのか戸惑いましたが、抽選で落とされなければ15日から講習会に参加できます。
少しでも聾の方々の役に立てればという気持ちで勉強は頑張りたいと思います。
そして、私は自分に子供ができた時赤ちゃんの頃から手話を使いながら会話を進めて生きたいと感じております。
昨日の講習会ガイダンスで講師の先生(もちろん聾の方です)が健聴者の使う身振りも手話も同じような動作はたくさんあります、いくつか試した後難しいと身構えないで欲しいとおっしゃいました。
「確かにそうだね〜」とみんな喜んでしまいました。
「でも、、、お金とOKは同じじゃない?!」と言われてみんな「あれ〜?!本当だ!」どうするんだろう?といった感じであーでもないこーでもないとザワザワ・・・入門コースなのでまだまだこの先どれだけの人が残っていくのかわかりませんが、今のところみんなやる気満々です。
入門コースは日常会話ができる程度ですが、そこからでもいいのかなと思っています。
聾の方々が日常使われる手話とはいかないのでしょうが、取っ掛かりはそこからでまず良しとしてもらいたいです。
私の周りの人でも手話を習った人たちは結構いるのに続かないのは「聾の方々の手話が通じないから」「授業と違うから、きっと特別」と言うことでした。
私も受講することを否定されました。
「聾の人たちの使う手話と私たちの習う手話と違うから無駄だよ」と。
私は無駄とも特別と思いたくないです。
同じ人間です。
私は外国の方と話すとき英語は話せません。
でも、なぜかよく道を尋ねられます。
正直「ゲッ!まずい」と思うけど単語使いながら身振り手振りで通じます。
伝えようとする心が一番かな?
以前働いていた時も聾の方々に接することがありましたが、筆談と身振り手振りです。
時間はかかりますが、でもお互い一生懸命で笑顔です。
いつか手話通訳士の資格まで取りたいと思っていますが、
相当長くかかると思います・・・
一つ聾の方々にお願いしたいことがあります。
私達、講習会を受けていく者は(私はこれから抽選結果待ちですが)きっとなかなか通じないと思います。
でも、お話しする機会がありましたらちょっとだけでも拙い手話に付き合ってください。
私達はまず接することから始まると思います。
そして、少しでも多く会話をすることだと思います。
高齢の方々も来ていました。
覚えられない・・・・と嘆いておりましたがみんな頑張ろうとしています。
どうぞはじめの一歩がくじけないよう、手話の楽しさ・美しさを出会ったときに教えていただければ幸いです。
よろしくお願いいたします。
いつか聾教育を変えていく事にお役に立てるときが来ることを心より願っております。
さくら  「ろうがいい 手話の子どもたち」をテレビのニュース番組から録画しました。
うちの家に遊びにきた聾者たちや日本語対応手話の手話サークル聴者にも個別にその録画したビデオを見せてあげました。

聾者と聴者の反応がはっきり違いました。

聾者と日本手話の学習者(聴者)は子どもたちの会話の内容を驚くばかりで恵まれている環境であることを発見しました。
それで 話題も尽きなく 共鳴できています。
「もう一度 龍の子学園に入学して学びたい。ほんまに うらやましいね」
と真剣な顔つきで話された聾の中年、高齢な方が少なくありません。
私も同感です。

日本手話で授業可能のある定時中学校、高校も必要だと感じました。
対応手話を使う聴者の反応が鈍いようで 日本手話を読めなかったかもしれません。
さくら  まさか 奇妙な光景に遇ったとは思いも寄らなかった。
ショックでした。

今年3月 ある聾学校同窓会の盛大なパーティで 
多くの聾者や先生がいらしておられました。

35年前の私が在学していた当時 初めて聾学校の先生になられてからずっと今でも勤めておられるA先生がいらしていました。
長年 聾学校で多くの聾の子どもたちに接して口話を教えているそうですが、まともな手話さえ 使えないみたいです。どうなっているでょうか

同期のM先生はよその聾学校の校長をやっているかたで手話を使っています。M先生は 人なっこいで気さくなかたです。

A先生は誰か手話できる聴者に介して私たちにお話をやりとりしました。

教育者の姿は対照であったですが 複雑な気持ちになりました。
やっぱり 聾学校で働くなら 日本手話を覚えてほしかった。
毎年 手話を使っている恩師と年賀状で文通しています。
みみ  自分の手話が、本当に子供に通じているのか?
その説明の仕方で子供たちが理解できているのか?
子供のせいにする前に、自分の方法が子供に伝わっているかどうか確認して欲しい。伝わっていないと感じたら色々な側面からの伝え方をして欲しい。自分勝手な手話で伝わらないのを子供のせいにしないでほしい。
先生達そんなに自分の手話に自信があるのですか?今一度謙虚になって自分を見つめて欲しいです。常に伝わっているのかどうか子供を良く観察して欲しいです。
ぱち  養護(特別支援)学校教員を目指して勉強中(専門分野は一応肢体不自由教育です)の学生で、現在は某市の教員採用試験2次準備中です。大学は教員大ですが、盲学校・ろう学校免許の取得はできません。また、私の受験自治体にはろう学校がありません。
(この地域のろう学校は全て都道府県立なので)

とはいえ、昔から手話やろう教育には関心を持っていて指文字・挨拶・自己紹介程度の手話はなんとか覚えたりもしました(なかなか続けることが難しいですが…)私は聴者ですし、身近にろうの方がいるわけではありませんが、やはり聴覚口話法主体の教育には反対です。現在は私の住む地域のろう学校も手話が導入されていると聞きます(口話と手話でクラスを分けているそうです)が手話クラスの実態はどうなのでしょう…?


2年前に大学の「障害児教育」という授業を履修しました。この科目は養護学校教員免許のためではなく(養護学校免許には使えません)、小中高の免許に必要な「教職科目」の選択科目として開講され、ほぼ全学の学生が受講可能な科目です。知的障害・視覚障害・聴覚障害についての授業が5回ずつあり、視覚障害と聴覚障害については盲学校・ろう学校の退職校長が授業を行いました。
その元ろう学校校長はバリバリの口話主義者で、授業でこんなことを言いました。(2年前で正確に覚えているわけではありませんが、大体こんな感じでした)

「最近、他の県のろう学校では手話の導入が進んでいます。そのせいで、他の県のろう学校校長からの年賀状には『そちらでも手話の導入が進むといいですね』といった言葉が書かれていたりもします。要はこちらが遅れているという事を言われてるのですが大きなお世話です。手話が主体の学校では授業が静かです。しかしこっちのろう学校は騒がしいくらい活気があっていろんな声が聞こえます。みんな声を出そうと一生懸命です。私はそのことに誇りを持っています…」

「聞こえない子ども達が一生懸命声を出そうと頑張ってる」姿を想像して「いい話じゃん」と私も思いました。多分同じように感じた学生は少なくないでしょう。
しかしこのHPを見た後に改めてこの言葉を思い出し、心底ゾッとしました。なんでろうの子たちが音声を使わないで会話することを否定されなきゃならないんでしょう?

口話というのは「耳は聞こえないけど発声機能は普通にあるんだから」という発想ですよね?盲の子に「目が見えないけど手の機能は普通にあるんだから…」と「点字使うな、鉛筆持って墨字で書け」と言ってるのと同じですよね?読唇も、盲の子に墨字の文書を指で読め…と要求するのと同じなんじゃないかと私は思います(これらのたとえが不適切だったら申し訳ありません)

盲学校の子が点字の読み書きを習い点字を利用して学ぶように、ろう学校の子が手話の会話を習い、手話を利用して学ぶ事を国は保障すべきです。そのためには、ろう者やCODAの方のような「手話を母語(あるいは母語の一つ)として習得した人をもっとろう学校教員として採用できるように、そして手話を母語とする人たちのためのろう学校教員養成課程を増やす(そもそもそのようなろう学校教員養成課程が日本にあるのでしょうか?不勉強ですみません)必要があると思います。
また、聴者がろう学校に赴任するためには3年くらい手話漬けの生活をさせることを条件にする必要があるんじゃないかと思ったりもします。そうでもしなきゃ、一度音声日本語で言語習得をした大人が日本手話を習得するなんて絶対無理な話です。

長々とすみません。
私も特別支援学校教員を志望する人間として、ろうの子たちが「ろうの子に合った」方法で学ぶことができる環境を作っていくための努力や協力をしていきたいと思います。
full  会社で聴覚障害者の方たちを何人もサポートして来ましたが、皆さんメンタルヘルスの問題を抱えています。そしてその中で、充分に聴覚口語も、手話も出来ず、家族とのコミニュケーションさえも悪化している彼らを見ていて、教育の問題を痛感しています。家族とのコミニュケーションが悪化している為に情緒不安定となり抑鬱傾向を深める方達が多いのです。せめて彼らが罪の意識無く(禁止されたり叱られたりした過去を引きずっています)手話が出来ればいいのに。。。見ていて辛いです。そしてサポートも大変です。
AG  先日、日本のろう教育の番組を見る機会がありました。
私の母は全盲でした。13歳で目を患い何度もの手術もうまくいかずとうとう目が見えなくなりました。 その中で父との出会い(健常者)、結婚、そして、私を出産いたしました。長く辛かったであろう光のない55年を生き私の腕の中で息を引き取りました。もう28年も前のことです。

戦後の混乱期には、今で言う社会福祉などを当てにもできない時代でした。社会的差別は本人のみならず、身障者の子供である私に対して大人からの、そして、教師からの直接のものもありました。 しかし、母は私に料理を教え、女性としての立ち居振る舞いを指導し、布団の作り方まで教えてくれました。 明治生まれの母は自分が厳しくしつけられたように私をしつけてくれました。 この年になってなお更,母の娘であったことを神様に感謝しています。

母のように、本来人間が保持する人としての尊厳、誇り、生きることへの前向きな気持ちを失わずにいることの大切さを耳の不自由な子供たちに持ち続けていって欲しいと願わずにはいられません。

ひたむきに生きる子供たちに、私は力をもらいました。底抜けに明るい笑顔、自分の思いを手話という形で伝えることができることに感動しました。

私は1975年から塾を経営しています。 この長い歳月限りない未来を持つ子供たちと共に生きることができたのも、無意識にも私を傷つけたり、母を傷つけたりする言葉に敏感になり、感受性を研ぎ澄まして生きる中から、子供が何に傷つき、何を求め、私たち大人の言動が子供たちの心を癒し、自分の今ある命を大切に思い生きていけるのかを学びました。私は周りにいる全ての人に育てられて今があります。

保護者の方々の無限の愛情が、耳の不自由な子供たちの未来を明るく照らしていくと確信しています。

子供たちにエールを送ります。 ありがとうございました。
マダムみどり  広汎性発達障害の男の子を持つ母です。この春から新1年生になり、特殊学級と普通学級の併用で学習する予定です。

今日の夕刊で手話による授業をする学校を作る!!を見て、すごく感銘を受けました。

自閉症児のコミュニケーションで、絵カードやスケジュールを使って、視覚的に分からせるということをよくするのですが、『絵に頼っていたら言葉が遅くなる・出なくなるのでは』とか『普通に分からせられる努力をしたほうがいいのでは』という考えがまだ残っているところもあります。

手話教育と口話教育について、どんぐりの家で読んだことがありましたが、なんだか自閉圏の子に対しての教育についての考え方に似ていると思い、手話で授業をする学校を作るの記事を読んで、頑張って欲しい、応援したいと思いました。
困ったさん  ろう学校では、人事異動の面接が始まっています。
学校長と面接し、話し合いをします。その際、学校長は、他の学校に移動することを勧めます。3年目のろう免許を持った教員に対しても、いろいろとおいしいことを言いながら、移動することを勧めます。これでは、ろう学校の専門性は守れません。学校長はろう免許もなく、なんでろう学校の校長になれるのですか!本当にへんです。
手話の導入もついても、いいかげんでしっかりした考えをもっていない状況なのに、ろう学校の専門性を考えません。人事異動は専門性を考慮せずに行われています。
これでいいのでしょうか?
みなさん どう思いますか?ろう学校教員より。
 最近のいじめのニュースを見ても、学校の管理職の中には、保身と責任逃れに汲々としている人もたくさんいるみたいですね(組織の中ではえてしてそういう人が偉くなる)。保身・責任逃れの最上の方法は、今までのやり方を変えないことです。特に公務員の世界ではそれが顕著です。明日香さんのように、目覚めてかつ行動を始めてしまった人には厳しいと思います。心療内科、つらいですよね。でも、子供たちはそんな明日香さんの行動を、信頼した目で一生懸命見ていると思います。聾教育には明日香さんのような方が求められていると思いますが、自分が壊れてしまわない範囲で、息長く改革の努力をお願いします。時には一歩引いて、自分を休ませることも忘れないでくださいね。
明日香  4年間のブランクをおいて聾学校に戻ってきました。こんな短期間?で復帰できたことを嬉しく思いつつも、今の担当は初任者指導。子どもと直接関わる時間がないのを淋しく思いつつも、将来の聾学校を背負って立つ人材育成のために自分の持てる専門性をフル稼働して対応しています。

ですが…頭の硬い現場の管理職にことごとく反発され、四面楚歌に近い状況です。聞こえない・聞こえにくい子どもたちが自分の存在に誇りを持って成長してくれるよう支援したいのですが…そのためには手話も(日本語対応じゃなく!)必要だと訴えているのですが、暖簾に腕押し、糠に釘、馬の耳に念仏…もう、頭に来ます!怒鳴り込みたい衝動を抑えつつ、心療内科に通いながらの奮闘が続いています。子どもたちの未来を守るために、ここで負けてなるものか!せめて共鳴してくれる仲間を捜しながら(かなり難しそうですが)頑張ります。
たま  四月にナッテシマイマシタ。聾学校に通う子供にとっても親にとっても、憂鬱な月ですね。というのは、担任や教科の先生が変わるからです。「少しでも手話の出来る教師かしら?」これを普通学校に当てはめると 新しい担任は「少しでも日本語のわかる先生かしら?」です。聾学校の場合どこの国の人が担任になるかわからないといった感じですよね。聾学校の教師が全員手話が出来たら…心配は普通学校の新しい担任程度ですみます。わかりあえるかは二の次として最低減 コミ二ケーション取れないことには始まりませんものね。聾の教師 聾のサポートの方切望します!
ビックまま  私は、今手話を勉強しています。勉強をはじめて、びっくりしたのは、すべての聾者が必ずしも手話が使えるわけでは無いと言うこと。本当に驚きました。聾者の言語として手話をとらえていましたので、不思議でした。今までの経緯を勉強して、過去、手話を禁止されていた事実を知りました。私の聾友達には、やはり手話は苦手、学校を卒業してから勉強をはじめた方など、いらっしゃいます。確かに読唇により会話はできますが、お互いにスムーズに手話で会話ができたらどんなに素敵なことだろうと思います。手話をまず第一言語ととらえ、バイリンガルを育てるそんな気持ちで日本語教育を進めるそんな考えは、甘いのでしょうか?
ガンモ (親の会事務局より)
この度、親の会宛に、某ろう学校校長の不適切な行動に関する情報が届きました。しかし、残念ながら投稿下さった方の連絡先の記載がなく、親の会としてはその扱いを苦慮しております。
投稿下さった方の プライバシーには細心の配慮を致しますので、親の会宛にご一報いただけますようお願い致します。
いずれにせよ、全国で、教育者による事件やスキャンダルが起きています。
私たち保護者は、こどもたちの教育環境を守るために、より厳しい目でチェックしていく必要があると思っております。
m 口話のみじゃなく、手話も導入してください。
サンタさんへの
お願い
 先日母校(聾学校)の小学部で先生をしてこられた方の講演会に参加しました。家でも学校でも口話を強いられる。宿題が解からなくても家で教えてくれる人がいない。そのくせ普通校より二年遅れの教科書を使っていてかっこ悪い。聾だからと近所の子供に待ち伏せされて虐めらるなどなど。多くの悔しい思いをバネに大変な努力をして全国初の国立大学入学をはたし、聾者の生活向上のためには、「教育と福祉」の両輪で社会に働きかけが必要だとやってこられたかたです。
講演のなかで、終始手話の大切さ、口話偏重のためにコミュニケーション障害がより深まるということを感じました。
にもかかわらず、この日子供が持ち帰った「全国ろう学校PTA連合会・会報」の会長のお言葉には、「今後も幼少期からの教育に欠かすことのできない聴覚口話法」とあり失望いたしました。
口話偏重のため、どれほど聞こえない子供は傷つき、多くの能力の芽を摘み取られてきたのでしょうか?
ろう学校は、きちんと科学的に歴史的事実を検証し、行くべき道を定めて欲しいと切に願います。
教師 長野県教育委員会へ
お願いですから、聾・盲・養・普のごちゃ混ぜ採用方針を変えて下さい。盲・聾学校は他とは全く異なる専門性が必要性です。。盲なら盲、聾なら聾だけの採用枠を設けて下さい。他の学校との交流人事はあっても良いと思います。でも、現在のように赴任してくる教師のほとんどが、資格を持たないだけでなく聾学校勤務の希望すらしていないという現状。専門性が身に付く前に元の学校に戻っていく訳です。
普通校なら、普通校としての経験を10年20年と積んでいる教師がたくさんいます。しかし、聾学校は、聾学校としての経験が5年未満の教師がほとんどです。それは全て県の教育人事の責任に他なりません。いい加減にミソクソ一緒の適当人事を変えるべきです。しかも、小中学校から移動する職員だけで、幼稚園から高校生まで教えるという事だって、「普通校に準じる
聾学校」の前提を覆しています。長野県では、小中学校の職員は、高校や幼稚園へ移動することは基本的にできません。交流人事という3年期限付きの移動か、試験を受け直すしか方法がないはずです。でも、聾学校ではそれでも良いというのであれば、「ろうの生徒は、高校ほどの専門性を持つ教員が教科を教えるに値しない」と言っているのと同じ。ろうの生徒を馬鹿にするな!と、憤りがたまる一方です。
子どもだけでなく、自分の存在価値を見いだせないまま赴任させられる教師だって犠牲者です。
コマッタママ  小学校四年生の難聴男子の母です。地方都市の聾学校と足かけ七年付き合いました。Qサインの強要と教員レベルの低さに悩みました。この春主人の転勤に伴い故郷・大阪に帰ってきました。息子は指文字と日本語対応手話で授業を行う大阪市立聾学校に通っています。「不安とストレスの闇から抜け出した。」と彼は言いました。お互いよくがんばった!口法話の聾学校は、聾の蔑視から成り立つ矛盾した存在です。熱心な先生が勤められるところじゃないと思います。首都圏や大阪・愛知などは親も先生も権利意識がしっかりしていて聾教育のプロ集団として頼れる聾学校が選択可能です。しかし地方に行くほど今までのやりかたにこだわったり有力者の子弟を特別扱いするとか民主主義に反する事でも平気で行われています。毎日開いた口がふさがりませんでした。しかも選択の余地はありません。もし主人の転勤がなければ私と息子の住民票を友人の所に移し岡崎聾学校に転校するつもりでした。人工内耳にして小学校から普通校に通わせる親も多かったです。
うみそら  僕のこどもも聴覚障害をもっています。まだ小さいのですがゆくゆくは聾学校に通わせたいと思っているのですが色々勉強していくなかで今の聾学校の現状で大丈夫?なのかと心配になります。でも、インテよりやはり聾学校と…。悩んでばかりいます。だからろう児をもつ親が心配なく進める、ろう学校であってほしとおもいます。いろいろ生意気にかいてしまいましたがすいません。
kmatsum  4月15日の朝日新聞東京版夕刊の記事で興味を持ち,日弁連の「手話教育の充実を求める意見書」を読みました。1980年代を中心にフィンランドに通算して6年くらい住んだことがあり,ヘルシンキのろう学校にお邪魔したこともあります。そのとき友人(両親がろう者)の手話通訳で生徒たちと話をしましたが,それが生まれて初めての手話体験でした。日常的には,手話やろう者と関わることがまずないものですから,朝日新聞の記事で日本のろう学校の現状を知って,国によってずいぶんと状況が違うのだと認識を新たにした次第です。
手話話者は,社会における「言語的少数者」であるという点で,少数言語を母語とする人々と共通の問題を抱えているのだという視点を日本でも早く確立させるべきですし,ろう学校のかかえる問題を社会に向けて訴えることから出発し,もっと欲張って,たとえば病院や老人施設などでも,言語的少数者が不自由を感じたり,不利益を被ることがないように配慮するのが当然だと皆が考え,実践する社会に変えていく必要があると思います。大学教育,とくに「ことば」に関わる文学部系・教育学部系のカリキュラムもそういった方向に沿って大きくかわっていくことが期待されていると考えています。ろう者やろう教育に直接関わっていない人々の意識が大きく変わらないと,この問題の本当の解決にはならないと思うからです。
mayomayo 先日、初めてろう学校文化祭へ見学に行きました。再来年には、廃校になるらしく、在籍生徒数もかなり少なく思いました。ただ、生徒さん達が生き生きしている表情を見て、気分が良かったのですが、やっぱり文化祭に来る人は、卒業生や関心を持つ方々のみで、近所の方などは来ていない様子にがっかりしました。
 一番、がっかりしたのが、ろうの生徒と健聴者の先生によるバンド演奏の発表でした。始めは、先生方の示すリズムに合わせて、演奏している何ら健聴者と変わらない姿にほっとしていました。しかし、最後の演奏では、先生方だけでノリノリに歌を歌い、演奏して、生徒は演奏せず、ただ、ステージでぼーっと時間を経つのを待っていました。それを見て、文化祭の主役は生徒なのに、よりによって先生が最後の演奏で、自分達の発表会をしている事に、唖然としました。私は、手話を習い始めて、間もなくろう者の気持ちについてもまだまだ理解できているかといえば、えらそうな事はいえませんが、私がそこのろう生徒であれば、めちゃくちゃに演奏してしまいたい気分でした。
チャレンジャー  普通校の登校日数と聾学校の登校日数を比べて驚きました。義務教育である小中の登校日数と同じなんです。それでいて、各教科の中で口話訓練もやり先生達は授業が進まないと嘆いています。と言うよりも、授業そのものも決して上手いとは言えません。おまけに、どの教科をやっていても、言葉の確認やら、発音指導やらにどんどん時間を費やし、最後には何の授業なのかすら分からなくなる始末。おまけに、行事はてんこ盛りで、交流やら何やらも入れれば普通校の倍以上もあり、そしてその準備にもこれまた普通校では考えられないほどの時間を割きます。
なのに・・・・・・。「授業が遅れて・・・」とか、「なかなか進めない」等と言っている。このメチャクチャな矛盾。本校だけなのか、全国的にそうなのか分かりませんが、義務教育に於いて、定められた期間に定められた内容を扱わないと言うことは普通校ではあり得ないことです。テストで、100点を取る子から、0点の子までいますがそれでも次の単元に進めます。「やったけどわからない」というのも問題ではありますが、「やったことすらない」等というのは、完全に教師の責任です。そして、普通校に準ずると言う聾学校でもそれは同じ事のはずでしょう。仮に分かっていなくても、「見たことがある」とか、「勉強した覚えがある」というのと、「何にもない」のとでは、その後の進歩が全然違うのです。
ある、小学部の教師が「分かるまでやるんです」なんて言う馬鹿なことを言っていましたが、それは、扱わない単元が山積みされていることを証明する言葉でもあります。特に関係する保護者の皆さん、お子さんの学習権を守るためにもぜひそれぞれの学校の授業を見つめ直して下さい。
mugiyu 「実情」を読んで、−−−普通校でも同じようなものがあります。でるもんだいを教える、予行練習のようのものをする。子供はモノじゃないですよね!「教育」ってなんでしょうか?私自身に問いかけています。親として・・・。
北国の雨  現在英国の大学院で言語獲得について学んでいます。
私の学部にはDeafファミリーで育ったDeafの先生が大学で英国手話を教えています。彼女いわく「読み書きに問題を感じたことは無い」とのこと。それはもちろん、彼女がDeafにとっての自然言語である手話を第一言語として獲得しているから。第一言語が土台になって初めて第二言語としての書記言語(音声言語が文化したもの)の獲得が実現する…なぜこの既知の論理が日本の聾教育に生かされていないのか残念でなりません。


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