イースター礼拝メッセージ 2025年8月24日/小坂叡華主牧師
「キリスト・イエスにあって」
「いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」(Ⅰテサロニケ5:16~18)
私たちは嬉しいことがあれば喜びます。問題が起こったら普段祈らない人でも祈ります。また恵みを受けたら誰でも感謝します。それほど難しいことではありません。しかし、それが「いつも・絶えず・すべてのこと」になると難しくなるのです。ここで鍵になるのは「キリスト・イエスにあって」という言葉です。
1)いつも:世の中がどんなに移り変わっても、イエス様は決して変わらないお方です。パウロは「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」(ピリピ4:4)とピリピ教会に書き送りました。パウロはこの時、獄中にいました。ある程度の自由は許されていましたが、それでも24時間監視されながら生活することは相当のストレスがあったと思います。そんな中にあっても彼は喜びに満ち溢れていました。何故ですか?
それは「主にあって」だからです。彼の置かれていた状況では、決して喜ぶことはできなかったでしょう。しかし、パウロは主にあって喜ぶことができたのです。パウロは以前、教会を荒らし、クリスチャンを迫害し次々に牢に入れていました。そんな自分のためにイエス様が身代わりにはずかしめをものともせず十字架にかかりいのちを捨てて彼を救ってくださったのです。パウロの罪はこの贖いによって全部赦されたのです。同様に私たちはこのイエス様によって罪の赦し、永遠のいのち、神の豊かな恵みを戴いたのです。努力によらない一方的な恵みを思えばいつも喜びが湧きあがるのです。
<何を喜ぶのでしょうか?>
①主のご臨在を喜ぶ:主ご自身の存在を喜ぶことです。何をなさるかよりも、どなたであるかを喜ぶのです。主は決して私たちから離れず、いつも共にいてくださいます。その主の臨在を喜ぶのです。
②主との交わりを喜ぶ:聖書を通して神に聞き、祈りを通して神に語りかけます。神が私たちの相談相手となってくださるのです。「まことに、あなたのさとしは私の喜び、私の相談相手です。」( 詩篇 119: 24)安心して主に親しく自分の思いを話せるのです。
③主を喜ぶのは力:主を喜ぶ喜びは、私たちの生き甲斐であり、生きる力の源です。「主を喜ぶことはあなたがたの力です」(ネヘミヤ8:10)神に喜ばれ愛されていることを自覚するなら、喜びはどんな境遇にも耐えられる大きな力になるのです。
2)絶えず(絶え間なく)祈りなさい:神が願っておられるのは、絶えず祈りなさいということです。「隙間なく」祈るのです。一秒も休まず祈り続けるという意味ではなく、主の臨在を常に意識していなさいということで、日々の生活に起こる不安や恐れ、心配や憤り、怒り、悩み苦しみに遭う時、それらに対する最初の反応は祈りであるべきなのです。「主よどうしましょう」「力をください」という短い祈りが絶えず祈るという事です。
3)全ての事について感謝しなさい:神が私たちに望んでおられることです。この言葉を聞く時、二つの誤解を起こしやすいのです。感謝は神様が下さる良いものに対してのみするもの。嬉しい時、うまくいった時だけ。又は、感謝の思いが溢れてきた時だけ感謝するという考えです。全ての事とは、どんな状況でも、悲しい時にも失敗した時でも、さらには苦しみに直面している時でもです。神様の視点で物事を見るなら、そんな場面にも感謝が出来るのです。
「幸せは持っているものに比例するのではなく感謝に比例する」のです。「いつも喜び、絶えず祈り、すべての事について感謝する」この3つの聖句はクリスチャン人生を勝利に導く重要な鍵です。これらを土台に祝福された人生を歩んでいきましょう。
「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(ピリピ4:13)
「キリスト・イエスにあって」
「いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」(Ⅰテサロニケ5:16~18)
私たちは嬉しいことがあれば喜びます。問題が起こったら普段祈らない人でも祈ります。また恵みを受けたら誰でも感謝します。それほど難しいことではありません。しかし、それが「いつも・絶えず・すべてのこと」になると難しくなるのです。ここで鍵になるのは「キリスト・イエスにあって」という言葉です。
1)いつも:世の中がどんなに移り変わっても、イエス様は決して変わらないお方です。パウロは「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」(ピリピ4:4)とピリピ教会に書き送りました。パウロはこの時、獄中にいました。ある程度の自由は許されていましたが、それでも24時間監視されながら生活することは相当のストレスがあったと思います。そんな中にあっても彼は喜びに満ち溢れていました。何故ですか?
それは「主にあって」だからです。彼の置かれていた状況では、決して喜ぶことはできなかったでしょう。しかし、パウロは主にあって喜ぶことができたのです。パウロは以前、教会を荒らし、クリスチャンを迫害し次々に牢に入れていました。そんな自分のためにイエス様が身代わりにはずかしめをものともせず十字架にかかりいのちを捨てて彼を救ってくださったのです。パウロの罪はこの贖いによって全部赦されたのです。同様に私たちはこのイエス様によって罪の赦し、永遠のいのち、神の豊かな恵みを戴いたのです。努力によらない一方的な恵みを思えばいつも喜びが湧きあがるのです。
<何を喜ぶのでしょうか?>
①主のご臨在を喜ぶ:主ご自身の存在を喜ぶことです。何をなさるかよりも、どなたであるかを喜ぶのです。主は決して私たちから離れず、いつも共にいてくださいます。その主の臨在を喜ぶのです。
②主との交わりを喜ぶ:聖書を通して神に聞き、祈りを通して神に語りかけます。神が私たちの相談相手となってくださるのです。「まことに、あなたのさとしは私の喜び、私の相談相手です。」( 詩篇 119: 24)安心して主に親しく自分の思いを話せるのです。
③主を喜ぶのは力:主を喜ぶ喜びは、私たちの生き甲斐であり、生きる力の源です。「主を喜ぶことはあなたがたの力です」(ネヘミヤ8:10)神に喜ばれ愛されていることを自覚するなら、喜びはどんな境遇にも耐えられる大きな力になるのです。
2)絶えず(絶え間なく)祈りなさい:神が願っておられるのは、絶えず祈りなさいということです。「隙間なく」祈るのです。一秒も休まず祈り続けるという意味ではなく、主の臨在を常に意識していなさいということで、日々の生活に起こる不安や恐れ、心配や憤り、怒り、悩み苦しみに遭う時、それらに対する最初の反応は祈りであるべきなのです。「主よどうしましょう」「力をください」という短い祈りが絶えず祈るという事です。
3)全ての事について感謝しなさい:神が私たちに望んでおられることです。この言葉を聞く時、二つの誤解を起こしやすいのです。感謝は神様が下さる良いものに対してのみするもの。嬉しい時、うまくいった時だけ。又は、感謝の思いが溢れてきた時だけ感謝するという考えです。全ての事とは、どんな状況でも、悲しい時にも失敗した時でも、さらには苦しみに直面している時でもです。神様の視点で物事を見るなら、そんな場面にも感謝が出来るのです。
「幸せは持っているものに比例するのではなく感謝に比例する」のです。「いつも喜び、絶えず祈り、すべての事について感謝する」この3つの聖句はクリスチャン人生を勝利に導く重要な鍵です。これらを土台に祝福された人生を歩んでいきましょう。
「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(ピリピ4:13)