礼拝メッセージ 2025年3月9日/小坂叡華主任牧師
「生ける水の川」
全ての人は「愛を必要とし・目的を求め・繋がりを求めて」います。それは心が満たされていないからです。その渇きを満たそうと、誤った繋がりをもって犯罪に巻き込まれてしまったり、嘘の愛に騙されて命を失う事件が横行しています。求めが増してくると「渇き」になってきます。詩篇42篇の作者は「渇き」を次のように表しています。
「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、私のたましいはあなたを慕いあえぎます。私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。」詩篇42:1-2
ある時イエス様はこんな行動をお取りになりました。
「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」ヨハネ7:37~38 新共同訳 「生ける水が川となって流れ出るようになる。」聖書共同訳
最高潮の祭りの賑わいの中には心が渇いている人や自分に渇きがあることに気付いていない人々がいたのです。イエス様は声を張り上げて「だれでも渇いているなら、わたしのところに来て飲みなさい」と心の中にある「渇き」に気づかせようとされたのです。心理学者がこんな分析をしました。
『何かに不満があるわけではない。飛びぬけて幸せだとは思わないけれども、自分のことを特に不幸だとも感じない。人並みには幸せな人生を送れていそうな気もしている。
けれどもその一方で、何かが足りない。どこか虚しい。満たされない。つまらない』
渇きと虚しさは紙一重です。何となく虚しさを感じる日々を過ごしている人々。虚しさは「実無し」という言葉から出ています。「充実感がない、自分の行動に価値を見出だせない」で過ごしている人々。イエス様が群衆に叫ばれた理由です。
<渇かない水>
イエス様は旅で立ち寄った井戸で、水汲みに来たサマリヤの女に言われました。
「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」ヨハネ4:14
すると「女はイエスに言った。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」4:15とすぐに求めました。
多くの人は「乾かない水」を求めて自分を楽しませるもので心を満たそうと熱中します。しかしそれは一時的で、それが過ぎると虚しくなるのです。人が必要とする「乾かない水」、永遠に渇きを満たすイエス様が与える「生けるいのちの水」は永遠に変わらない「神の愛」なのです。「主は遠くから、私に現われた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。」エレミヤ 31:3
神の愛は永遠です。そして誠実、決して変わりません。イエス様は裏切った弟子たちさえ愛し通されたのです。今はリバイバル前夜ではないかと思います。それは世界中の人々が「乾いている」からです。カラカラに渇きった魂を満たした生ける水は、川となって流れ出て行きます。「この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入る所では、すべてのものが生きる」(エゼキエル47:9)
私たちは聖霊によってこの水を頂いています。この生ける水は私たちの内から川となって流れ出るようになり、流れていくところすべてを祝福するようになるのです。私の周り、あなたの周りを祝福し生かすのです。生き生きした魚が集まる素晴しい主の御業が現れるのです。渇いている人はイエス様のもとに行き乾かない生ける水を頂きましょう。
「生ける水の川」
全ての人は「愛を必要とし・目的を求め・繋がりを求めて」います。それは心が満たされていないからです。その渇きを満たそうと、誤った繋がりをもって犯罪に巻き込まれてしまったり、嘘の愛に騙されて命を失う事件が横行しています。求めが増してくると「渇き」になってきます。詩篇42篇の作者は「渇き」を次のように表しています。
「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、私のたましいはあなたを慕いあえぎます。私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。」詩篇42:1-2
ある時イエス様はこんな行動をお取りになりました。
「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」ヨハネ7:37~38 新共同訳 「生ける水が川となって流れ出るようになる。」聖書共同訳
最高潮の祭りの賑わいの中には心が渇いている人や自分に渇きがあることに気付いていない人々がいたのです。イエス様は声を張り上げて「だれでも渇いているなら、わたしのところに来て飲みなさい」と心の中にある「渇き」に気づかせようとされたのです。心理学者がこんな分析をしました。
『何かに不満があるわけではない。飛びぬけて幸せだとは思わないけれども、自分のことを特に不幸だとも感じない。人並みには幸せな人生を送れていそうな気もしている。
けれどもその一方で、何かが足りない。どこか虚しい。満たされない。つまらない』
渇きと虚しさは紙一重です。何となく虚しさを感じる日々を過ごしている人々。虚しさは「実無し」という言葉から出ています。「充実感がない、自分の行動に価値を見出だせない」で過ごしている人々。イエス様が群衆に叫ばれた理由です。
<渇かない水>
イエス様は旅で立ち寄った井戸で、水汲みに来たサマリヤの女に言われました。
「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」ヨハネ4:14
すると「女はイエスに言った。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」4:15とすぐに求めました。
多くの人は「乾かない水」を求めて自分を楽しませるもので心を満たそうと熱中します。しかしそれは一時的で、それが過ぎると虚しくなるのです。人が必要とする「乾かない水」、永遠に渇きを満たすイエス様が与える「生けるいのちの水」は永遠に変わらない「神の愛」なのです。「主は遠くから、私に現われた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。」エレミヤ 31:3
神の愛は永遠です。そして誠実、決して変わりません。イエス様は裏切った弟子たちさえ愛し通されたのです。今はリバイバル前夜ではないかと思います。それは世界中の人々が「乾いている」からです。カラカラに渇きった魂を満たした生ける水は、川となって流れ出て行きます。「この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入る所では、すべてのものが生きる」(エゼキエル47:9)
私たちは聖霊によってこの水を頂いています。この生ける水は私たちの内から川となって流れ出るようになり、流れていくところすべてを祝福するようになるのです。私の周り、あなたの周りを祝福し生かすのです。生き生きした魚が集まる素晴しい主の御業が現れるのです。渇いている人はイエス様のもとに行き乾かない生ける水を頂きましょう。