礼拝メッセージ 2024年12月1日/小坂叡華主任牧師
「アドベント2024」
アドベントはラテン語でキリストの到来を意味します。日本語では降誕節・待降節と訳されています。アドベントは「キリストの到来」であるクリスマスまでの4週間(4聖日)を主のご降誕を待ち望み準備をする期間です。今朝はアドベント=待ち望むという事についてみていきましょう。イエス様のご降誕に際しては、マリヤとヨセフの他にいろいろな人々が登場します。夫々には欠かせない役割がありました。
1)イエス様がお生まれの前…ザカリヤ、エリサベツ、御使いガブリエル、(ルカ1章) 処女マリヤの受胎告知の6か月前に御使いガブリエルは老祭司ザカリヤに「あなたの妻エリサベツは男の子を産みます」と告げました。その後不妊の女エリサベツは御言葉どうりに身ごもったのです。ガブリエルは処女マリヤに遣わされて聖霊によってイエスを身ごもること知らせました。エリサベツのことを通して「神にとって不可能な事はひとつもない」ことを語ると、マリヤは「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」と神の御業と信じ受け入れたのです。ヨセフもマリヤを妻として迎えました。
2)イエス様がお生まれの後…羊飼い、ヘロデ王、東方の博士(ルカ2章、マタイ2章)
救い主イエスがお生まれになったことを最初に告げられたのは荒野の羊飼達でした。彼らは急いでベツレヘムに行き幼子イエスを礼拝しました。一方ヘロデ王は東方の博士からユダヤ人の王の誕生を聞くと、恐れ、イエスを見つけ出そうと博士らに仕掛けましたが果たせませんでした。博士らは星に導かれて幼子イエスを見つけ、御前にひれ伏して黄金、乳香、没薬を捧げて礼拝しました。
3)イエス様が神殿行かれた時…シメオン(25~32節)とアンナ(36~38節)
イエス様が誕生して四十日が過ぎ、両親が幼子を主にささげるためにエルサレムの神殿に上った時のことです。二人の老人が幼子イエスとその両親を出迎えたのです。この二人は長い年月を救い主を待ち望んで祈っていました。
*シメオン…「この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた」彼は救い主イエスを見るまでは決して死なないと聖霊のお告げを受けていました。幼子イエスを連れた両親が神殿に入るのを見ると、シメオンはイエスを腕に抱いて神をほめたたえて「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。 私の目があなたの御救いを見たからです」まさにシメオンにとっていつ死んでも良い信仰の完成恵みの時でした。
*アンナ…彼女は七年間の結婚生活の後、夫に死に別れ、この時は八十四歳にもなっていましたが、日夜祈りをもって神に仕え、救い主の到来を待ち望んでいました。「宮を離れず、夜も昼も、断食と祈りをもって神に仕えていた。」シメオンやアンナに見られる待つ姿は、自分の「願望」が中心ではなく、神を信じその御言葉を「希望」をもって待つというものでした。聖書はこれを「待ち望む」と記しています。この姿は今答えや将来が見えなくても待つことを可能にします。それは「信じる」ことを土台にしているからです。
「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。」(Ⅱテモテ4:7)
又、待ち望むのは主からの恵みを、ではなく主イエスご自身を求めるのです。
「主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない」(イザヤ40:31)アドベントの期間、主のご降誕を心から待ち望みましょう。
「アドベント2024」
アドベントはラテン語でキリストの到来を意味します。日本語では降誕節・待降節と訳されています。アドベントは「キリストの到来」であるクリスマスまでの4週間(4聖日)を主のご降誕を待ち望み準備をする期間です。今朝はアドベント=待ち望むという事についてみていきましょう。イエス様のご降誕に際しては、マリヤとヨセフの他にいろいろな人々が登場します。夫々には欠かせない役割がありました。
1)イエス様がお生まれの前…ザカリヤ、エリサベツ、御使いガブリエル、(ルカ1章) 処女マリヤの受胎告知の6か月前に御使いガブリエルは老祭司ザカリヤに「あなたの妻エリサベツは男の子を産みます」と告げました。その後不妊の女エリサベツは御言葉どうりに身ごもったのです。ガブリエルは処女マリヤに遣わされて聖霊によってイエスを身ごもること知らせました。エリサベツのことを通して「神にとって不可能な事はひとつもない」ことを語ると、マリヤは「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」と神の御業と信じ受け入れたのです。ヨセフもマリヤを妻として迎えました。
2)イエス様がお生まれの後…羊飼い、ヘロデ王、東方の博士(ルカ2章、マタイ2章)
救い主イエスがお生まれになったことを最初に告げられたのは荒野の羊飼達でした。彼らは急いでベツレヘムに行き幼子イエスを礼拝しました。一方ヘロデ王は東方の博士からユダヤ人の王の誕生を聞くと、恐れ、イエスを見つけ出そうと博士らに仕掛けましたが果たせませんでした。博士らは星に導かれて幼子イエスを見つけ、御前にひれ伏して黄金、乳香、没薬を捧げて礼拝しました。
3)イエス様が神殿行かれた時…シメオン(25~32節)とアンナ(36~38節)
イエス様が誕生して四十日が過ぎ、両親が幼子を主にささげるためにエルサレムの神殿に上った時のことです。二人の老人が幼子イエスとその両親を出迎えたのです。この二人は長い年月を救い主を待ち望んで祈っていました。
*シメオン…「この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた」彼は救い主イエスを見るまでは決して死なないと聖霊のお告げを受けていました。幼子イエスを連れた両親が神殿に入るのを見ると、シメオンはイエスを腕に抱いて神をほめたたえて「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。 私の目があなたの御救いを見たからです」まさにシメオンにとっていつ死んでも良い信仰の完成恵みの時でした。
*アンナ…彼女は七年間の結婚生活の後、夫に死に別れ、この時は八十四歳にもなっていましたが、日夜祈りをもって神に仕え、救い主の到来を待ち望んでいました。「宮を離れず、夜も昼も、断食と祈りをもって神に仕えていた。」シメオンやアンナに見られる待つ姿は、自分の「願望」が中心ではなく、神を信じその御言葉を「希望」をもって待つというものでした。聖書はこれを「待ち望む」と記しています。この姿は今答えや将来が見えなくても待つことを可能にします。それは「信じる」ことを土台にしているからです。
「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。」(Ⅱテモテ4:7)
又、待ち望むのは主からの恵みを、ではなく主イエスご自身を求めるのです。
「主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない」(イザヤ40:31)アドベントの期間、主のご降誕を心から待ち望みましょう。