礼拝メッセージ 2024年11月17日/小坂叡華主任牧師
「時を知る/再臨の備え」
箴言には「全ての事に時がある」とありますが、時には<恵みの時と戒めの時>があります。恵みはうれしいけれども、戒めは聞きたくない、というのが人間の本来の性質なのです。しかし、聖書は「あなたがたは地の塩、世の光です」といいます。塩は戒めの部分であり、光は恵みの部分です。クリスチャンはこの世の中で塩気を発揮して世の腐敗を防ぐ役割を果たす必要があるのです。
聖書の預言でまだ成就されていないのがイエス様の再臨です。
<主の再臨の時とは>
「いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。そのように、これらのことのすべてを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。」(マタイ24:32-33)
いちじくの木はイスラエルを指します。イスラエルは世界の日時計と言われており、イスラエル情勢から主の時を悟ることができるからです。イエス様は「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。~中略~わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(ヨハネ14:1-3)と教えられたのです。
そして更に「この天地は滅び去りますしかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。ただし、その日その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」(マタイ24:35-36)と警告しています。主の再臨はどのように訪れるのでしょうか。聖書は「盗人のように」(Ⅱペテロ3:10)、「稲妻が閃くように」(マタイ24:27)、「思いがけない時に」(マタイ24:44)と教えています。
<再臨を迎える姿勢>
では、私たちはどのように歩んだら良いのでしょうか。この世と調子を合わせる生き方ではなく、慎み深く正しく敬虔な生活をしましょう。再臨の信仰を持たないクリスチャンの信仰生活はぼやけてしまいます。マタイ24章には「そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。」(40節)この違いは恵みだけの信仰を持っている人と恵みと戒めの信仰を持っている人の違いなのです。盗人が来ることをわかっていたら盗まれることが無いように、主の再臨のことをわかっていれば、取り残されることはないのです。イエス様の再臨は恐れではなく希望であり喜びの日です。私たちの救いの完成の時なのです。終わりの時代には「人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合う」とも書かれています。イエス様の「あなたがたは互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)という戒めをしっかりと守っていかなければなりません。再臨の希望と確信、聖い生活で待ち望む、忠実に務めを果たし、サタンに惑わされないように絶えず主を見上げて恵みの時と戒めの時をしっかり身に付けるのです。
<時を見分ける>
聖霊の力を神に求め、この悪い時代に神を恐れる生き方ができるよう求めましょう。ノアの時代、雨と洪水で汚れた人類を滅ぼされた後に「もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない」と約束され、契約のしるしとして虹を立てられました。(創世記9:11-13)しかし終りの世には「今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで保たれているのです」(Ⅱペテロ3:7)しかしその前に大いなるリバイバルが訪れるのです。イエス様と共に歩む信仰生活は感動と喜びに満ちています。その先にある信仰のゴールはもっと素晴らしいのです。試練があっても決して倒されることはありません。なぜなら主が必ず再臨されるからです。
「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます」(ヨハネ14:3)
「時を知る/再臨の備え」
箴言には「全ての事に時がある」とありますが、時には<恵みの時と戒めの時>があります。恵みはうれしいけれども、戒めは聞きたくない、というのが人間の本来の性質なのです。しかし、聖書は「あなたがたは地の塩、世の光です」といいます。塩は戒めの部分であり、光は恵みの部分です。クリスチャンはこの世の中で塩気を発揮して世の腐敗を防ぐ役割を果たす必要があるのです。
聖書の預言でまだ成就されていないのがイエス様の再臨です。
<主の再臨の時とは>
「いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。そのように、これらのことのすべてを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。」(マタイ24:32-33)
いちじくの木はイスラエルを指します。イスラエルは世界の日時計と言われており、イスラエル情勢から主の時を悟ることができるからです。イエス様は「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。~中略~わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(ヨハネ14:1-3)と教えられたのです。
そして更に「この天地は滅び去りますしかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。ただし、その日その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」(マタイ24:35-36)と警告しています。主の再臨はどのように訪れるのでしょうか。聖書は「盗人のように」(Ⅱペテロ3:10)、「稲妻が閃くように」(マタイ24:27)、「思いがけない時に」(マタイ24:44)と教えています。
<再臨を迎える姿勢>
では、私たちはどのように歩んだら良いのでしょうか。この世と調子を合わせる生き方ではなく、慎み深く正しく敬虔な生活をしましょう。再臨の信仰を持たないクリスチャンの信仰生活はぼやけてしまいます。マタイ24章には「そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。」(40節)この違いは恵みだけの信仰を持っている人と恵みと戒めの信仰を持っている人の違いなのです。盗人が来ることをわかっていたら盗まれることが無いように、主の再臨のことをわかっていれば、取り残されることはないのです。イエス様の再臨は恐れではなく希望であり喜びの日です。私たちの救いの完成の時なのです。終わりの時代には「人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合う」とも書かれています。イエス様の「あなたがたは互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)という戒めをしっかりと守っていかなければなりません。再臨の希望と確信、聖い生活で待ち望む、忠実に務めを果たし、サタンに惑わされないように絶えず主を見上げて恵みの時と戒めの時をしっかり身に付けるのです。
<時を見分ける>
聖霊の力を神に求め、この悪い時代に神を恐れる生き方ができるよう求めましょう。ノアの時代、雨と洪水で汚れた人類を滅ぼされた後に「もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない」と約束され、契約のしるしとして虹を立てられました。(創世記9:11-13)しかし終りの世には「今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで保たれているのです」(Ⅱペテロ3:7)しかしその前に大いなるリバイバルが訪れるのです。イエス様と共に歩む信仰生活は感動と喜びに満ちています。その先にある信仰のゴールはもっと素晴らしいのです。試練があっても決して倒されることはありません。なぜなら主が必ず再臨されるからです。
「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます」(ヨハネ14:3)