礼拝メッセージ 2024年11月24日/秋山浩副牧師
「悲しむ者は幸い」
「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです」マタイ4章4節
文語体では「幸いなるかな、悲しむ者。その人は慰められん」と訳されています。「幸いなるかな」は「ああなんと祝福されていることよ」との感嘆を表わし、この意味はいつか幸せになるというような遠い未来のことではなく、今神が祝しておられる事実を示す言葉だそうです。つまり悲しんでいること自体が、すでに祝福の中にあるということになります。では私たちは何に悲しんでいるのでしょうか。
1)日々の生活で体験する悲しみ…人間関係で傷つき苦しみ悲しむことがあります。孤独の悲しみ、病の悲しみなど、様々な出来事が私たちの人生に悲しみをもたらせます。悲しみの中にある時に誰もが弱さを感じます。しかし聖書は「弱い時に強い」と教えているのです。なぜなら悲しみの時こそイエス様の十字架の愛が心に迫ってくるからです。「主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです」(へブル2:18)私たちの悲しみを誰が分かってくれるでしょか。しかし、イエス様は十字架で多くの苦しみを経験されたから、私たちの弱さを理解し助けてくださるのです。悲しみは信仰者にとってイエス様の愛がリアルに迫ってくるいわば恵みの時とも言えるのです。
2)この世の悪に対しての悲しみ…凶悪な犯罪や終わることのない戦争、環境破壊による災害が絶え間なく起きています。人間の欲望、独裁者の野望、人間の罪がこのような悲しみを引き起こしているのです。(ヤコブ4:1)クリスチャンはこの悲しみに対してどのように向き合っていけばよいのでしょうか。私たちには使命が委ねられています。それは人々の救いのためにとりなし祈ることです。また今こそ世の光として輝くべき時なのです。
3)自分の罪に対しての悲しみ…先程の人間がもつ悲しみは問題が解決すれば癒されます。しかし生まれながらの心の中にある罪による悲しみは、どうすることも出来ないのです。けれどもイエス・キリストが全人類の罪の身代わりとなって十字架でいのちを捨てられました。主の十字架の贖いによって私たちの罪は赦されたのです。
<その人は慰められるからです>
「慰める」はギリシャ語で<パラカレオー>という、「側にいて助ける」との意味の言葉です。「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです」(ヨハネ14:16)聖霊様が助け主として目には見えなくてもいつも私たちの側にいてくださるのです。ですから決して一人ではありません。このお方と共に地上の人生を歩めるということ自体が大きな慰めです。私たちは神からこのように慰められたから、今度はイエス様の救いを知らずに悲しみの中にいる人に神の慰めを伝える者とされたのです。(Ⅱコリント1:4~5)
クリスチャンになったら悲しみはなくなるということはありません。私たちは光の子とされたわけだから、以前より罪に対して敏感なり罪に対する悲しみが強くなったはずです。
しかし「幸いなるかな」私たちは悲しみの中にも、神に慰められ神の祝福をすでに受けていることを感謝しましょう。
「悲しむ者は幸い」
「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです」マタイ4章4節
文語体では「幸いなるかな、悲しむ者。その人は慰められん」と訳されています。「幸いなるかな」は「ああなんと祝福されていることよ」との感嘆を表わし、この意味はいつか幸せになるというような遠い未来のことではなく、今神が祝しておられる事実を示す言葉だそうです。つまり悲しんでいること自体が、すでに祝福の中にあるということになります。では私たちは何に悲しんでいるのでしょうか。
1)日々の生活で体験する悲しみ…人間関係で傷つき苦しみ悲しむことがあります。孤独の悲しみ、病の悲しみなど、様々な出来事が私たちの人生に悲しみをもたらせます。悲しみの中にある時に誰もが弱さを感じます。しかし聖書は「弱い時に強い」と教えているのです。なぜなら悲しみの時こそイエス様の十字架の愛が心に迫ってくるからです。「主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです」(へブル2:18)私たちの悲しみを誰が分かってくれるでしょか。しかし、イエス様は十字架で多くの苦しみを経験されたから、私たちの弱さを理解し助けてくださるのです。悲しみは信仰者にとってイエス様の愛がリアルに迫ってくるいわば恵みの時とも言えるのです。
2)この世の悪に対しての悲しみ…凶悪な犯罪や終わることのない戦争、環境破壊による災害が絶え間なく起きています。人間の欲望、独裁者の野望、人間の罪がこのような悲しみを引き起こしているのです。(ヤコブ4:1)クリスチャンはこの悲しみに対してどのように向き合っていけばよいのでしょうか。私たちには使命が委ねられています。それは人々の救いのためにとりなし祈ることです。また今こそ世の光として輝くべき時なのです。
3)自分の罪に対しての悲しみ…先程の人間がもつ悲しみは問題が解決すれば癒されます。しかし生まれながらの心の中にある罪による悲しみは、どうすることも出来ないのです。けれどもイエス・キリストが全人類の罪の身代わりとなって十字架でいのちを捨てられました。主の十字架の贖いによって私たちの罪は赦されたのです。
<その人は慰められるからです>
「慰める」はギリシャ語で<パラカレオー>という、「側にいて助ける」との意味の言葉です。「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです」(ヨハネ14:16)聖霊様が助け主として目には見えなくてもいつも私たちの側にいてくださるのです。ですから決して一人ではありません。このお方と共に地上の人生を歩めるということ自体が大きな慰めです。私たちは神からこのように慰められたから、今度はイエス様の救いを知らずに悲しみの中にいる人に神の慰めを伝える者とされたのです。(Ⅱコリント1:4~5)
クリスチャンになったら悲しみはなくなるということはありません。私たちは光の子とされたわけだから、以前より罪に対して敏感なり罪に対する悲しみが強くなったはずです。
しかし「幸いなるかな」私たちは悲しみの中にも、神に慰められ神の祝福をすでに受けていることを感謝しましょう。