Message メッセージ




  礼拝メッセージ 2024年10月13日/小坂叡華主任牧師

「土の器」  Ⅱコリント4章

神様は始めの人アダムを創造する時に土(ちり)から作られました。創世記2章です。
「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった」(7節)聖書には神を陶器師とし、人を陶器に例えて人と神のあるべき姿を示しています。エレミヤ書には「陶器師は、粘土で制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた」(18:4)と記されています。陶器師なる主は一人一人を違った器として造られ、こわした器を捨てるのでなく、主に喜ばれる役に立つ器に作り変えてくださるのです。

<土の器> 
「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです」(6~7節)
土の器とは、私たちです。クリスチャンは「土の器」をどのように理解しているでしょうか。謙遜なつもりで「私は金や銀の器でなく土の器に過ぎませんから、そのような務めにはふさわしくありません」という自己卑下かもしれません。確かに「土の器」はもろく、見栄えのしないものです。しかし、そんな者であっても「神が用いようとされる時は、必ず用いてくださる」という神への信頼、信仰が大切なのです。この信仰に生きるのは、自分の強い信仰で自分を変えるとか、自分を磨くのではなく、むしろ塵(ちり)に過ぎない者が《神に》捕らえられ、用いられ、神の憐れみの中でプライドが砕かれていく生活です。神が私たちを訓練し成長させてくださるのです。

<器の中の宝>
「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです」(8~10節)
土の器の中にある宝はイエスのいのち、復活のいのちです。闘いがあるから人は成長します。倒れた時にこそ内なる宝が判るのです。試練にさらされ、自分の醜さや弱さ罪深さを知らされ、深い挫折を味わう時、自分が「土の器」だと思い知らされます。そんな時、私たちの内にある宝が輝くのです。内にある宝が現れるのは、器が砕かれた時です。パウロが言うように、四方八方から苦しめられる時、窮する時、途方にくれた時、迫害された時、倒された時、、、その時に初めて内に持っている宝の真価が現れるのです。苦しめられても諦めない、途方に暮れてもまだ夢が消えない自分を発見するのです。
「この測り知れない力が神のものであって私たちから出たものでないことが明らかにされる」(7節)事を実感するのです。「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」(Ⅱコリント4:16~18)
土の器の中にある宝は目で見ることはできません。見えないこの宝は計り知れない力をもたらし永遠に続きます。私たちは自分自身ではなくこの宝を誇るのです。私たちは弱くもろい存在でも主に力があるからです。ハレルヤ! 


<< メッセージの一覧にもどる