礼拝メッセージ 2024年10月6日/小坂叡華主任牧師
「よくなりたいか」 ヨハネ5章1~9節
その日は祭りの日でした。大勢が喜々として神殿に向かっていくなか、イエス様はベテスダ(憐れみの家)の池に向かわれました。そこは救いのない場所です。五つの回廊には取り残された病人が大勢横たわっていました。「そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた」(5節)イエス様からその人をご覧になり近づいて「よくなりたいか」(6節)と語られました。しかし、答えは質問とは関係なく「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下って行きます」(7節)という愚痴、そして他人批判でした。
<的外れな言い訳>
彼は水がかき回されたとき一番に飛び込めば癒されるという自分の思いや方法に固執するあまり、「よくなりたい」という本当の目的を失っていました。
人生に言い訳が多く、うまくいかないことを人や環境のせいにしている人は、暗闇から新しい人生へと脱出することはできません。今ある不幸に留まり続けるばかりです。しかしイエス様は希望を持てないでいる人に対し、深い憐れみをもって「よくなりたいか」と問いかけて再び生きる希望を起こさせるのです。
<本当の願い>
この男は、孤独の闇の中で、自分自身の「本当の願い」を口にすることさえできない絶望へと追い込まれていました。イエス様はこの男の言い訳にまったく反応を示しません。それどころか「起きて、床を取り上げて、歩きなさい」(8節)と命じられたのです。なんと男はすぐに立ち上がって歩き出しました。すべてはイエス様の一方的な憐れみによるのです。イエス様はその深い憐れみで私たちを癒される救い主です。その言葉は奇跡を起こします。心が新しくされ、そこに神の栄光が現わされるのです。「起きて」の原語は「よみがえりなさい」という命令語です。この男に必要な事は人を頼らず、人のせいにせず、自分で決断し、踏み出す事でした。主のことばは、これまでの寝たきりの環境から人生を新しく始める勇気を与える言葉でした。
<3つの命令>
新共同訳には8節を具体的に説明しています。「起きて/起き上がりなさい。床を取り上げて/床を担いで。歩きなさい/歩き出した」
*起き上がり床を担ぐというのは、今まで自分を縛り付けていたものから解き放たれることです。寝床に縛り付けられて立ち上がることも出来ない絶望しきったこの男を、主イエスが立ち上がらせてくださった事は死人を復活させるような出来事なのです。
*床を担ぐ(かつぐ)という言葉に表されているように彼がそこに横たわって動けないでいた場所、彼が38年も長い間いた寝床は、むしろ居心地の良い逃げ場になっていたのです。イエス様はこれからは寝床をかたずけ、それにしがみつくのでなく、かつぎあげてそこから立ち去って行くのだ、置いたままではいけないと命じられたのです。
*歩き出すとは、そこを立ち退き、憐みの場所から離れて前進せよという愛の命令です。
私たちも一方的に選ばれました。そして主は私たちにも「よくなりたいか」と語りかけておられます。プライドに固執しないで「はい、よくなりたいです」と答えましょう。
「ほむべきかな。主。まことに主は私の願いの声を聞かれた。主は私の力、私の盾。私の心は主に拠り頼み、私は助けられた。それゆえ私の心はこおどりして喜び、私は歌をもって、主に感謝しよう」(詩篇28:6~7)
「よくなりたいか」 ヨハネ5章1~9節
その日は祭りの日でした。大勢が喜々として神殿に向かっていくなか、イエス様はベテスダ(憐れみの家)の池に向かわれました。そこは救いのない場所です。五つの回廊には取り残された病人が大勢横たわっていました。「そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた」(5節)イエス様からその人をご覧になり近づいて「よくなりたいか」(6節)と語られました。しかし、答えは質問とは関係なく「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下って行きます」(7節)という愚痴、そして他人批判でした。
<的外れな言い訳>
彼は水がかき回されたとき一番に飛び込めば癒されるという自分の思いや方法に固執するあまり、「よくなりたい」という本当の目的を失っていました。
人生に言い訳が多く、うまくいかないことを人や環境のせいにしている人は、暗闇から新しい人生へと脱出することはできません。今ある不幸に留まり続けるばかりです。しかしイエス様は希望を持てないでいる人に対し、深い憐れみをもって「よくなりたいか」と問いかけて再び生きる希望を起こさせるのです。
<本当の願い>
この男は、孤独の闇の中で、自分自身の「本当の願い」を口にすることさえできない絶望へと追い込まれていました。イエス様はこの男の言い訳にまったく反応を示しません。それどころか「起きて、床を取り上げて、歩きなさい」(8節)と命じられたのです。なんと男はすぐに立ち上がって歩き出しました。すべてはイエス様の一方的な憐れみによるのです。イエス様はその深い憐れみで私たちを癒される救い主です。その言葉は奇跡を起こします。心が新しくされ、そこに神の栄光が現わされるのです。「起きて」の原語は「よみがえりなさい」という命令語です。この男に必要な事は人を頼らず、人のせいにせず、自分で決断し、踏み出す事でした。主のことばは、これまでの寝たきりの環境から人生を新しく始める勇気を与える言葉でした。
<3つの命令>
新共同訳には8節を具体的に説明しています。「起きて/起き上がりなさい。床を取り上げて/床を担いで。歩きなさい/歩き出した」
*起き上がり床を担ぐというのは、今まで自分を縛り付けていたものから解き放たれることです。寝床に縛り付けられて立ち上がることも出来ない絶望しきったこの男を、主イエスが立ち上がらせてくださった事は死人を復活させるような出来事なのです。
*床を担ぐ(かつぐ)という言葉に表されているように彼がそこに横たわって動けないでいた場所、彼が38年も長い間いた寝床は、むしろ居心地の良い逃げ場になっていたのです。イエス様はこれからは寝床をかたずけ、それにしがみつくのでなく、かつぎあげてそこから立ち去って行くのだ、置いたままではいけないと命じられたのです。
*歩き出すとは、そこを立ち退き、憐みの場所から離れて前進せよという愛の命令です。
私たちも一方的に選ばれました。そして主は私たちにも「よくなりたいか」と語りかけておられます。プライドに固執しないで「はい、よくなりたいです」と答えましょう。
「ほむべきかな。主。まことに主は私の願いの声を聞かれた。主は私の力、私の盾。私の心は主に拠り頼み、私は助けられた。それゆえ私の心はこおどりして喜び、私は歌をもって、主に感謝しよう」(詩篇28:6~7)